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2022.6.12 木村由智主任牧師 「共に集う」

 今日は皆さんと共に、ヘブル人への手紙10章19節から25節を通して、共に集うことの恵みをいただきたいと思います。

 へブル人への手紙10章19節「兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、」「こういうわけで」というのは、どういうわけなのかというと、19節の前の部分を指す言葉なのです。10章4節「なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。」このようにして、以前に取り組んでいた出来事が、全く役に立たないもので、イエス・キリストの流された血によって、私たちは、罪が赦されて神様のもとに行くことができるようになったということです。「こういうわけで」というのは、今までのいろいろな背景について言っているのです。そして神の御子であるイエス・キリストという御方が、いかに優れた方であるかということについて、ここで語られています。ですから、それらの恵みをふまえて、ここの箇所は、どちらかというと勧告の言葉として書かれているということを、皆さんに覚えていただきたいと思います。19節に、「兄弟たちよ。こういうわけで、」とあるように、今までの話の流れがガラッと変わってくるのです。ここで、誰に対してこの19節は言っているかといったら、新しい契約にあずかる者たちに対して語っているということです。契約は、契約する者と契約させる側の二人の者が同意して契約が成立するのです。家を買う、車を買う、全部そうですけれども、その契約をしないと絶対に買うことはできません。この所で、イエス・キリストは「新しい契約を与える」と言われました。ここで聖書が言う契約という意味を皆さんに理解していただきたいと思います。それは、神が罪を赦して、心が神に向いている人々と交わりを回復するという約束です。ですから今までは、私たちは罪を犯して、神様との関係を持つことができませんでした。でも神様が、このイエス・キリストという御方を通して、私たちと「新しい契約を結ぶ」と約束されたのです。

 それは、10章4節に書かれていますが、「雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。」旧約時代、遥か昔、神様がこのようにしなさいと伝えていた時代は、動物の血を神様がいらっしゃる場所に携えていったのです。それは年に一度、大祭司という宗教家の中で一番立派な方が、その血を携えていったのです。それが受け入れられたら、「我々の罪は赦された!」と宣言するのですけれども、本当の意味で赦されることはなかったのです。時々は、その血が受け入れられなくて、携えていった大祭司が、その至聖所で神様に打たれて死ぬのです。その大祭司の足もとには鈴が付いています。その鈴の音が鳴り止んだら、彼は神様に打たれたと思われ、彼の足にくくり付けているロープを引っ張って、その大祭司を至聖所から引っ張り出さないといけないのです。例え受け入れられても、人々の心が一向に変わらないということが、何千年も続いてきたのです。そこで神様は、本当に人々が罪を犯すことなく神様との関係を回復するために、御自分の子供であるイエス・キリストという御方をこの地上に遣わされました。そしてイエス・キリストが、この新しい契約の仲介者となってくださったのです。これは、私たちが例えば2千万の家を買うとして、1千万の頭金があります。残りは1千万のローンを組みます。このように、「自分にはこれだけあります。」ということを証明しなければなりません。しかし、この新しい契約では、私たちは何も持たなくていいのです。行いもなくていいのです。無条件で、あなたが私(神様)を信じるなら、この契約の中に入ることができます。非常に簡単、かつ良い契約であったのです。ですからこの「わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、」と書かれているこの血とは、命を表しています。人が体を傷つけられた時に、血が流れてきて、そのまま放っておくなら、結局死んでしまいます。ゆえに、血は命を表すのです。ですから、イエス・キリストが十字架にかかって血を流されたということは、命をかけて私たちを愛されたということを表しているのです。

 レビ記17章11節「肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。」ここで「血」について書いてあります。血を全部抜かれて生きている人はいないと思います。血がなくなると死んでしまいます。血は命を表しています。その命を、イエス・キリストが私たちのために与えてくださったのです。このレビ記の中で、「あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。」と神様はおっしゃっています。私たちの魂のために祭壇の上で血を流すということ、そして、私たちの魂をきよめたいという願いが神様にはあるということです。そして血は命であるから贖うことができるのです。贖うという言葉は、代価を払って買い戻すという意味です。自分のものであるのに、わざわざ代価を払ってもう一度買い戻すという意味があるのです。この前テレビを見ましたが、私と同世代の人が若い時に非常にいいバイクを持っていました。ところがある日、バイクを盗まれ、そのバイクがタイで売られていました。それでわざわざタイまで行っていろんなことをして、その自分のバイクをもう一度買い戻すのです。腹が立ちますよねえ、盗まれたバイクをもう一度自分で買い戻さないといけないのですから。でもイエス様が、私たちを贖ってくださったということは、私たちは元々神様に造られた人間ですから、神様は、もう一度買い戻したい、贖いたいのです。そのためにイエス・キリストという御方には、自分の血をもって私たちを贖う、すなわち買い戻したい、神様のもとに返したいという願いがあったということです。ですからこの十字架の上で流された血潮、これが私たちの土台になっているのです。ルカによる福音書22章20節「食事ののち、杯も同じ様にして言われた、『この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。』」この血をもって、「新しい契約を結ぶ」と約束してくださったのです。この命をもって私はあなたを贖い出す。命をもってあなたを神様のもとに返すということが、イエス・キリストが十字架の上でなされた働きであったということです。旧約時代というのは、一般のユダヤ人も、神様がおられる聖所や至聖所に入ることができなかったのです。祭司たちが入って、大祭司だけが一番奥の神様の臨在のある至聖所に入ることができましたが、祭司は仲介者として存在していました。ところが新約時代になって、イエス・キリストが血を流されたことによって、信じる者がすべて神様に近づくことができるという約束を与えてくださったのです。これは、万民祭司という真理を表します。すべての者が神様のもとに自由に出入りできるようになったのです。昔は、制限された人と制限された方法でしか、行けなかったのです。でもイエス・キリストが流された血、すなわち命をかけて御自分が犠牲されたことによって、そういう規定も全部を破棄してくださり、「信じます!」というその一言で神様のもとに自由に行けるようにしてくださったのです。これは本当に素晴らしい恵みです。ですから、このヘブル人への手紙10章19節で、「はばかることなく」というような言い方をしているのです。限定された人しか入れなくて、それにはいろいろな方法がありましたが、新しい道をキリストが開いてくださったのです。へブル人への手紙10章20節にあるように「わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができる」という約束を与えてくださったのです。旧約時代、聖所と至聖所を隔てていた垂れ幕というものがありましたが、その垂れ幕は、実はイエス・キリストの肉体そのものを象徴している形であったのです。この神殿の幕は、だいたい20mぐらいと言われています。そして厚さが10cmぐらいあるのです。片方を馬にくくり付けて、もう片方も別の馬にくくり付けて一斉に馬を走らせますが、それは、裂くことができないぐらい強い幕だったのです。ところが、イエス・キリストが十字架にかかったことによって、その幕が上から下に裂けたのです。人が裂く場合は、下からしか裂くことができません。それが、十字架で死んだ瞬間に、上からその幕が裂けたという奇跡が起こったのです。それゆえに、人々が自由にそこに出入りすることができるという事実をイエス・キリストが作ってくださったのです。あなたにどんな咎められることがあり、どんな失敗があったとしても、神はあなたを赦して、御自分のもとに来ることを許されたということです。私たちは失敗の多い者だと思います。その失敗を開き直って、「仕方ないか!」と思える人は、まだいいかも知れませんが、その失敗のゆえに悔んで、自分の持っている能力や力を発揮することができないまま、いじけて生きていく人たちもたくさんいます。でもキリストが裂かれたその幕によって、流された血によって、命をかけたことによって、私たちのその考え、心は、完全に新しく変えられるということです。それが聖書の約束です。

 マタイによる福音書27章50節~52節「イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。」ここにあるように、イエス・キリストが大声を出して、「完成した!」と叫んだ時に、何が完成したのかというと、自分の命を与えて、「すべての人の罪が赦された」。そのことが、「完了した!」と大声で叫ばれたのです。そして幕が裂けて、神様との関係が回復しました。なぜなら、私たちは神様に造られた者だから、その造られた者が造り主との関係を回復していく、それがイエス・キリストの務めでした。ところが、その関係を回復できなかったのは、私たちの罪が原因でした。罪が生じたことによって我々の中に入ってきたものとは、自己中心です。自分さえ良ければよいという考え方が入ってきました。それによって自分の思う通りにいかないと、私たちは時々癇癪(かんしゃく)を起こしたり、頑なになったり、非常に厄介な存在です。一見して優しそうで柔らかそうでも、実はそうでもない。それは結局、すべてが自己中心だということです。この罪から、自己中心から神様は私たちを贖うために、キリストを遣わしてくださったのです。ですから、はばかることなく聖所に入ることができ、「わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道を」というのがそのことです。イエス・キリストが命をかけて死なれたことによって、永遠の命に至る道が開かれたのです。皆さんは今、この肉体を持って生きています。それが普通のことだと思います。でもこの肉体はいずれ滅びるということを、皆が知っています。若いから死なないということではありません。ある日突然、事故に遭ったり、病にかかったりして命を落とすという人たちもたくさんいらっしゃいます。私たちのこの肉体には限界があること、終わりがあることを認めなければなりません。しかし私たちはそのことよりも、今の方が大切で、今の喜びや、今の満足、そういったものに自分の価値を置いてしまうのです。死んだ後どこに行くのか、そういったことを一切考えません。聖書には、永遠の命と永遠の滅びがはっきりと記されています。私たちには、永遠の命に入る道がイエス・キリストによって開かれたのです。でも多くの人たちはこのことを知りません。そんなおとぎ話のようなことが本当にあるのだろうか?でも実際、この聖書に書かれています。それをただ信じるだけで、あなたには永遠の命が与えられるのです。永遠の滅びから、永遠の命に行かなければなりません。

 ですからイエス・キリストという御方は、御自身のことを「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。「私が道です。この道に従ってきなさい。私が真理です。私が真に正しい者です、そして命です」と言われました。血を流して、命をかけて私たちのことを愛されました。だから私たちは、はばかることなく聖所に入れるのです。すなわち、はばかることなく、何の咎めもなく、神様に近づくことができるのです。この「はばかる」という言葉ですが、他の聖書の訳では、「大胆に」という言葉が使われています。この「大胆に」という言葉が、非常に私たちに益をもたらします。皆さんが今日、法廷にいて被告となっているとして、でも実際自分は、完全に無実だということを知っているので、法廷に呼ばれても確信を持って宣言することができます。その時に使う言葉が、「大胆に」という言葉なのです。ですから我々は、何の咎めもなく、はばかることなく大胆に、「私は神を信じたから、私には永遠に至る道が準備されている。永遠の滅びは私には関係のないものになってしまった。」と言うことができるのです。私たちが神様の臨在の前に出る時、すなわち今日も賛美を捧げましたが、その賛美を捧げる時に、いかに大きな犠牲が払われているかということを知らなければなりません。知れば知るほど私たちは、神様を愛するようになっていくのです。今は何も特別に問題はない。夫婦も仲が良い。子供も順調に育っている。仕事も問題ない。自分が買いたいと思う物は無理せずに買えるぐらいの力が付いた。でもそれによって、永遠の命に入るという約束が与えられていますか?家を買おうとしたり、車を買おうとした時に、「この車を買えば、あなたの罪は赦されて永遠の命に入れます。」などという車がありますか?そんな車はないです。家を買うにも、服を買うのにも、「命」と書いてあるから、私は永遠の命の中に入れる。そんなTシャツがあったら便利ですよね。でもそんなものは世の中にはないのです。私は別に不自由していないし、苦労もしていない。この地上で何も問題がない。でも問題がないことによってあなたが永遠の命の中に入るという約束は、はっきりとなされていません。聖書が言う、イエス・キリストを通る。イエス・キリストを信じる。これだけなのです。決して難しいことではありません。「悔い改める」という言葉の原語は、「向きを変える」ということです。イエス・キリストを信じるということは、「自分の人生を正確に送っていくことができる」ということなのです。これは決して宗教でもなく、ただ単にこの現状維持から救われるための、問題のある人たちだけの集まりでもありません。すべての人にこの事は必要です。

 へブル人への手紙10章21節~22節「さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。」ここに書かれているように、「神の家を治める」この神の家というのは、教会を表すものであって、これは普遍的教会。先ほど見たマタイによる福音書27章で、神殿の幕が上から下まで裂けて、地震があって、岩が裂けて、死んだ人が甦ったとありました。この神の家は、先にイエス様を信じた人、すでに召された人たち、そして今ある私たち、そして将来救われてくる人たち、その人たちのことを含んだ「神の家」という意味です。これを「普遍的教会」と言います。死んだ信者とまだ生きている信者を含んだ概念です。この普遍的教会の中で、我々のことを「キリストの花嫁」と表現しています。キリストを頭として、花婿と花嫁の関係です。これは、切っても切り離すことのできない関係であるという意味です。「心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって」「まごころをもって」とは、どういうふうに皆さんは考えますか?マタイによる福音書15章8節~9節「この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる。」心から、私たちは真実に言わなければならないのです。本当にまごころを込めてというのは、私たちにとって難しいことなのです。なぜなら私たちの内側には、人を満たすだけのものはないですから。神様を迎え入れると、神様がいらっしゃるから、真実が私たちの中に芽生えてくるのです。その神様に対する信仰をもって言う言葉は、まごころをもって真実を語るということです。ですからまごころとは、受けた恵みを正しく管理し、それを汚されないようにすることです。このマタイによる福音書で、ユダヤ人たちのことをイエス様は偽善者と言っています。「神様に選ばれた!」と言っているけれども、口先だけで「神様は素晴らしい!」と言っています。けれどもいつも心の中には貪欲さと、自分だけが満たされたいという思いしかないということを言っているのです。ですから私たちの中に神様がいらっしゃると、私たちはまごころから人を愛していくことができ、神様を愛することができるように変わっていくということを覚えましょう。

 へブル人への手紙10章22節に、「信仰の確信に満たされ」、その信仰の確信は、最初に読んだへブル人への手紙10章19節~21節のイエス・キリストの命によって、贖われたということに対して信仰を持ちなさい!と言っているのです。へブル人への手紙10章23節~25節「また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、愛と善行とを励むように互に努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。」まず最初に、「信仰の確信に満たされ」なさい。そして23節では、「望みを持ちなさい」ということが語られています。そして24節では、「愛」ということが語られています。これは、「信仰・希望・愛」ということです。

 この望みについて、同じへブル人への手紙の6章17節~20節を開いて見ましょう。〔そこで、神は、約束のものを受け継ぐ人々に、ご計画の不変であることを、いっそうはっきり示そうと思われ、誓いによって保証されたのである。それは、偽ることのあり得ない神に立てられた二つの不変の事がらによって、前におかれている望みを捕えようとして世をのがれてきたわたしたちが、力強い励ましを受けるためである。この望みは、わたしたちにとって、いわば、たましいを安全にし不動にする錨であり、かつ「幕の内」にはいり行かせるものである。その幕の内に、イエスは、永遠にメルキゼデクに等しい大祭司として、わたしたちのためにさきがけとなって、はいられたのである。〕ここにあるように、今読んだ所に二つの不変の事柄というのが出てきました。不変というのは、絶対に変わらないということです。その二つの不変の事柄は、「約束と誓い」ということです。神様は約束されたことを絶対に変えることのない御方です。「そのことは、変わらない」と誓いました。皆さんはいかがですか?約束してもできないと思ったら、「やっぱり無理だった。」と言うでしょう。世の中には、非常に生まれながらの性質の強い人たち、やり遂げるという力の強い人たちもたくさんいます。でもやり過ぎると、その人自身が神様のようになってしまうのです。「自分はできる!」誰の意見も、誰の助言も耳を傾けないようになってしまうのです。ですから弱さを抱えている方がまだ幸いです。神様に頼ろうという思いが、自然に出てくるからです。このヘブル書6章で読んだように、「この望みは、わたしたちにとって、いわば、たましいを安全にし不動にする錨であり」この錨というのは、船が停泊する時に錨を下ろす、その錨です。ということは、私たち自身は、神様を信じることによって二度と動くことのないような者に変わっているということなのです。船がその場所から動かないようにするために錨を下ろす、そのように、私たちも神様という錨をもってその場所から二度と動くことのないようにされた者です。ですから困難が来ても、そこから逃げたり、諦めたり、落ち込んだり、嘆いたりせずに、それに正面から向き合うことができるのです。解決できるかどうかはわかりません。でもその事柄に対して、向き合うことができる強さを、神様は私たちの内に与えてくださっています。キリストを信じることによって、あなたの中には、動くことのないその神様の恵みがあるということを覚えてください。これが神様の約束です。そしてそれが神様の誓いです。

 そしてもう一度、へブル人への手紙の10章24節に、「愛と善行を励みなさい」と言っています。なぜなら終わりの時代が来ると、「愛が冷える」と聖書は言っています。愛が冷えるというのは、どういうことでしょうか?自分のことだけに考えが偏ってしまうということです。だから私たちに25節で、「互いに集まることをやめないで」と勧めているのです。「集会をやめることはしないで」と勧めるのは、そういう意味です。「互いに励まし」なさい。「励ます」という言葉の原語は、神様が共にいて、変わることのない方が共にいて、あなたを最後まで支え続け、助け続けていく。これが、この「励ます」という言葉の意味です。その力をいただいている私たちも、共に集まる時に互いを励まさなければなりません。教会に来ている時は、本当に嬉しそうな顔をしているけれども、家の中で嫌なことがあったり、親から理不尽な扱いを受けたり、悩むようなことが多かったり、親には中々相談できないことがあったり、でも神様は、「集会をやめることはしないで互いに励まし」なさい、とおっしゃっています。ここには、あなたのことを理解してくれる仲間や友がいるから、信頼して心を開いて励ましを受けてください。ここだけが、あなたをそのまま受け入れてくれる場所です。「かの日が近づいているのを見て」すなわち、終わりの日が来るのを見て、「ますます、そうしようではないか。」やがてキリストが教会のために戻ってきてくださいます。私たちがこの世にいて、励ましを受けて生きることができるのは、キリストが戻ってきてくださるという期待があるからです。この期待の中で、私たちは共に集まるということを行い続けていきましょう。私たちは成熟しながら、伝道しながら、終わりを迎えていく教会となっていきましょう。皆さん、イエス・キリストが私たちのために開いてくださった新しい道を進んでいきましょう。あなたが信頼すべき御方はイエス・キリストだけです。その信頼すべきイエス・キリストを信じる者同士が、さらに良い関係の中で励まし、終わりが来るまで支え合い、助け合っていくということが大事です。何か相談ができないようなことがあったら、我々同労者の先生、指導者の方に、遠慮なく、いつでも言ってください。近い関係の中で、言ったら怒られてしまうとか、そういうふうに思う時があったら、遠慮なく私たちに言ってきてください。私たちはいつでも心を開いて、皆さんのその気持ちを受け止めて、共に終わりが来るまで進んでいこうという思いでお聞きします。それを誰に言うこともしません。心に収めて、あなたがその扱いや経験によって傷ついたり、無意識に力が入ってしまっているそれらの思いが癒され、あなたの肉体が健全であるように、私たちは常にそのことを求めています。そのように祈っていきます。ですから兄弟姉妹、私たちは集会をやめることをしないで、互いに励まして、再び来られるイエス様に期待を持って、この地上を生きていきましょう。いろんなことがあります。聖書ははっきり言っています。「戦争の噂を聞くでしょう。でもそれは終わりではない。それは終わりに向かっての始まりである。」それは終わりが来るための始まりであるということです。ですけれども、私たちは恐れることなく、神様に対する信頼を持って、信仰を持ち続けて進んでいきましょう。

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