今週のメッセージ
​・9月2週目 久松 義人牧師

~メッセージバックナンバー~

・9月1週目 木村 由智 主任牧師

今日も神様の御言葉から、恵みを受け、励まされ、人が造られた目的を知りたいと思います。
新約聖書のヨハネの第三の手紙2節「愛する者よ。あなたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている。」
このように聖書の言葉があります。神様は私たちがいつも恵まれているように、またすべての事に恵まれ、健やかであるように祈っていると、御言葉を通して語ってくださっています。これは私たちの存在である、霊、心、体、そのすべての事において恵まれていてほしいというのが神様の願いです。
私たちの心が健康であれば、体が健康であると信じます。霊、魂の領域において健全である、それは神様につながるということです。私たちを造られた神様は、イエスキリスト様を通してもう一度神様に戻るように、私たちの罪を赦してくださいました。罪は的外れです。それは私たちが神から離れた人生を送っているということです。そして神様に立ち返るなら、私たちのたましいがいつも恵まれ、すべての事に恵まれ、健やかであるようにと祈っている。これが神様の願いです。どうかイエスキリスト様を神様からのプレゼントとしてお受け取り下さい。このお方は私たちの代わりに、身代りとなって、十字架にかかって死んでくださいました。それはすべての人の罪を背負って死なれたということです。そして葬られました。しかし3日目に死を打ち破ってよみがえられた。これを信じる者は、同じように全く新しく造り変えられ、新しい命の中でキリスト様と共に生きていくということです。
外側の環境は変わりません。しかし私たちの内側が全く新たにされます。神様はそのように新たにされると言うことが、私たちにとって恵まれていることであると語っておられると信じます。どうかみなさん、このイエスキリスト様を信じて、あなたがいつも恵みを、神の恵みを受け取ることができるように私たちは祈っています。

・8月5週目 山田 恵 副牧師

ここクライストチャーチの働きの中の一つに、グレイスベビーホームという少人数の保育施設の運営があります。その園便りの毎月の冒頭に聖書の言葉を一つ紹介しています。
「神はいかなる患難の中にいる時にも、私たちを慰めてくださり、また私たち自身も神に慰めていただくその慰めを持って、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにしてくださるのである。」
神様は、どんな患難の中にいる時にも、私たちを慰め励ましてくださる。そのような神様。そしてそれで終りではない、私たち自身も、その受けた慰めと励ましを持って、あらゆる患難の中にある人々を励まし慰めることができるような者に変えてくださるということです。
この聖書という書物の最大の特徴は、すべてが神の言葉だということです。人間の知識や知恵、思想、価値観によって書かれた一般の書物とは違い、全てが神からのメッセージ、神の心、思い、計画です。今お読みした中に2つの約束があったことにお気づきでしょうか?今日ぜひこの2つとも皆さん自身のものと去れるように願っています。
1つ目は、受けることができるということです。例えば、事故にあった時、病気の時、適切な処置がおこなわれなかったら、もし放置されたままだったら、その状態から回復することはとても難しいです。心も同じです。励ましや深い慰めを受けたら、人々は強くなれます。前を向くことができます。希望を持つことができます。
けれどももっと幸いなことがあります。それは2つ目の約束、それは与える事ができるということです。あなたを通して、その受けた慰めや励ましが他の人に流れる、その人が今度は満たされるということです。考えてみてください。人の情けまた慰めというものが、到底及ばない、そのような苦悩の時が誰の人生にもあると思います。ただ神様の言葉だからこそ、その深くに留まるのです。そんな神様からの慰めの力をどうぞ皆さん自分の物としてください。そしてあなたはだれかを力づけることができる。そのような強さの場所で、人生を送ることができるのです。
人に本当に必要なものを与える事ができる。それが神様からの皆さんへの約束です。また願いです。

・8月4週目 久松 求牧師

今日は”命”についてお話ししたいと思います。聖書の中に書かれてある、命について今日、皆さんすこしでもと分かち合えたらと思います。
二つのいのちが存在します。一つはいつか死んで行く命、そしてもう一つは死ぬことのない命です。私達、人間の持っている命は、最初に行った一つ目のいつか死んで行く命なんですね。誰でもそのことは簡単にわかると思いますが、新約聖書のヨハネの福音書の中には24回も永遠の命について書かれています。永遠の命。つまり、それは死ぬことのない命のことについて書かれてあります。ここで、永遠と言う言葉は、辞書で調べてみると、“変わらない”、“無限である”、“存在し続ける事”。それは、私たちの脳や理性では考えることは出来ない事です。永遠のことなどないと潜在的に私たち人間は知っているからでしょうね。生れた
ときから、人はいつかは死と言う、逃れることができない、現実が待っていることを皆さん、私もあなたもご存じでしょう。それは、絶望であり、悲しみです。もう亡くなられた方と二度と会うことはできない。そのような悲しい現実があることも知っています。皆さんに質問したいです。あなたはは永遠を信じておられますか?私は永遠を信じています。
私たちは人はみな地球上のどこかでお生まれたと思います。
聖書のヨハネによる福音書3章13節にこう書かれています。

「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。」
人の子、それは誰のことを指しているのでしょうか?それは聖書の中心人物、イエス・キリストのことです。イエス・キリスト様は天から下って来たと、はっきりと書かかれてあるんですね。またイエス・キリストは「私は、命そのものだ」と「真理であり、命です」私は命そのものですと。イエスは上から来られた方なのですね。このような時代、このような時だからこそ、はっきりと言いたいです。
ヨハネによる福音書3章15節
「それは彼(イエス)を信じる者は、すべて永遠の命が与えられます」。
イエス・キリストを信じる者は永遠の命、それは初めに、お伝えしたとおり、死ぬことのない命、変わることのない命、それは無限に続くものであって、存在し続ける確かなものであると聖書ははっきりと告げています。
ですからあなたもこの命、イエス、ご自身を信じ、ぜひ受け取っていただきたいと、心から願っています。

 

・8月3週目木村 由智主任牧師

新約聖書ヨハネによる福音書13章34節から「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」
イエスキリスト様は新しい戒めを与える。それは互いに愛し合いなさいということです。私たちの関係と言うのは必ず誰かがいます。その互いと言うのは非常に大切です。しかし自分の意見、自分の主張とそういったものがあまりにも強すぎて、愛し合うと言うことができないようにしまっているのではないでしょうか。でもイエス様がここで、「あなた方を愛したように」と言う愛は、どのような愛なのかと言うのを私たちは知る必要があると思います。イエスキリスト様の愛は無条件の愛でした。でも私たちは、○○だから、こうだからという条件をたくさんつけてしまう要素があると思います。しかし、私たちは互いが必要であること、そしてこの地上で愛し合うと言うことを聖書は私たちに求めていると言う事を考える時に、私たち自身のこだわりや価値基準を置いて、相手を受け入れなければいけない、そういう部分がたくさんあると思います。私たちだけの価値基準が何もかもがうまくいくわけではありません。
それは私の範囲の中だけでしかありません。私たちがこの愛を知って、「ああ、私はこんなに愚かで、無知で、どうしようもない。でも神様はこの私を愛してくださっている。その愛で愛して行こう。」それがこの聖書の個所がいう意味です。どうか私たちも互いに愛し合うと言うことを心にとめて進んでまいりましょう。

​・8月1週目木村 由智主任牧師

今日は新約聖書のローマ人への手紙10章9-11節『すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。』

「人は心でまず信じると、そ宇した時に神様の正しさをいただくことができると、聖書は言っています。そしてそれを口で告白すると言うことが大切なことであると言っています。
私達の今の外側は私たちの心にあるものが表していると言えます。その人をみれば、どういう考え方をしているかを明らかだと思います。
しかしいくら外側を良く見せようとしても、内側を人は自分で変えることは出来ないということです。今日皆さんに、心でイエスキリスト様を信じて神様の正しさを受け入れると言うこと。そしてそれを口で告白して救をいただくと言うことを得ていただきたいと思います。でも私たちはそうしても弱さを覚えてしまいます。
聖書の他の個所では「御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。」御霊、すなわち神様の霊が私達を助けてくださると風に言っています。ですから、あなたが心で信じて告白した時に、神様の霊が私たちの中に宿り、そしてあなたを助けてくださいます。これが聖書からのすばらしい約束の言葉です。
どうかイエスキリスト様を信じてあなたも神の国にお入りください。

・7月4週目久松 求牧師

今日はダビデと言う人についてお話をしたいと思います。ダビデはイスラエルと言う国の王様で神様にも多くの人にも愛されました。神様は彼に全ての良きものを与えられ、彼の王国は栄え、非常に力強い者となりました。しかし彼はある日、自分の部下の妻に目を奪われてしまい、遂には戦でその部下を殺させ、その妻を自分のものとしてしまいました。
非常に悪い事であり、非常に大きな罪を神の前にも犯しました。ある時、神の使いがやって来て、ダビデ王に言いました。
「王よあなたはなぜ、神の言葉を軽く見て、神の前に悪を行ったのでしょうか?」なぜ不正を行ったのですか?なぜ違反を犯したんでしょうか?
「私達人間は皆神の目から見ると罪人だ」と聖書は書いています。神の目から見る時、完全な人はこの地上に誰もいません。
しかしどうでしょう。私たち人は自分の非、過ち、失敗を認めないといけない時、その瞬間が来た時、私が悪かった、良くなかったと認めることができるでしょうか?
私自身を見ても、自己中心的で、自分の非をすぐに認めることができない、そのようなものだと思います。言い訳を探し、ごまかし、嘘をつき、認めない部分、どなたにもあると思います。ダビデはこの時、「私は神の前に罪を犯しました。ごめんなさい。」そう語っています。彼は言い訳をせず、認めました。
テレビをつければ国の中で権力を持っている人々が明るみには出てはいないですけども、たくさんの不正を行っています。また明るみに出た時にすら、彼らは嘘で固め、ごまかし、自分の非を認めません。ダビデが神にも人々にも愛された理由がこの所にもあるんですね。彼は王ですから、ごまかすことも、なかったことにもできました。しかし彼は自分の非を認めました。
ペテロ第一の手紙には
「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。」
へりくだるとはどういう心の状態でしょうか?考えてみてください。自分の非を認めて許される方が、自分の非を認めず、自分を主張し、義を通し、自分は悪くない、あの人が悪い、恨まれ、拒まれ、心がむなしくなるより、よっぽどましですね。神の恵みがあなたの心の深みに届きますようにと願います。

 

・7月3週目木村 由智主任牧師

エレミヤ書13:23「エチオピヤびとは/その皮膚を変えることができようか。ひょうはその斑点を変えることができようか。もしそれができるならば、悪に慣れたあなたがたも、善を行うことができる。」
エチオピヤ人は肌がかっ色な人々ですが、その人たちが美白や良い洗剤など使っても、それを変えることは出来ません。ひょうがその斑点を取ることは無理です。
もしそれができたなら、私達は正しいことができますよと聖書は言っています。私たちの中に正しいことをしたい、でも実際はそれを行う力がないと言うのが私たちの現実だと思います。「ああ、これは良いことだ」、「正しいことだ」と思っていても私たちにはそれをする力がないからです。だから人は何か技術を発展させたり、何かスキルを、また自分の学歴や発展させようとする。それによって何かができると、とってしまいます。しかしここで言っているのは、根本的に不可能なことを言っています。それができるのは、私達が罪を赦されなければならない。そして聖書は私たちに贖(あがない)いという言葉を使います。
それは代価を払って私たちを買い戻すということです。そこにはイエスキリストと言う方の一人の命があるわけです。キリスト様が私たちに変わって十字架にかかって、そのいのちを私たちの代わりに投げ出してくださった。それによって私たちは赦された、罪が取り除かれた、贖(あがな)われた。
この状態こそが私たちが正しく行うことができる状態です。いくら学歴を積もうが、スキルをあげようが、免許をたくさん持とうが、それは不可能です。
ただ一つイエスキリストを信じる以外に私たちの罪が赦されることはありません。その罪が赦されることによって、本来、神によって造られた者としての関係が回復し、善を行うものになることができる。このことを聖書は勧めています。今日これをご覧になっている皆さんもイエスキリスト様を個人的な救い主としてお受け取り下さい。そして罪全てを贖(あがな)うことができるお方として、この方との関係を回復してください。

・7月2週目 久松 義人牧師

言葉はとても大事です。ヨハネの福音書にはこう書いてあります。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。」
神様はご自身のことをこのように描写しています。神様は言葉なる神です。私たちに理解できる言葉を持って、聖書という言葉を私達に授けてくださいました。
聖書の中にこのような言葉があります。
エレミヤ書31:3
「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた。」
神様は限りなき愛を持ってあなたを愛している。神様は絶えずあなたに真実を尽くして来た。そのように言葉なる神であられる聖書の神様、イエス・キリスト様はわたしたちに告げています。皆さんもこの聖書の言葉を神様ご自身からの言葉として皆さんの内に入れていただけたらと思います。

・7月1週目 木村 由智主任牧師

今日も聖書の言葉を通して、励ましと慰めと、癒しをいただきたいと思います。
旧約聖書のエレミヤ書17章9,10節
「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」
心は何よりも偽るものだと書いてあります。人の心は見えませんね。顔は笑っていても心では何を考えているかわかりません。それが人間の姿だと思います。聖書ははっきりと定義しています。それは悪に染まっている。私たちが本当に正しく歩んでいくために、心を正さなければならない。だから、神様は私たちの心を探って、私たちの思いを試みると言われています。それは私たちに起る人生の様々な出来事を通して、心が正しいか正しくないか、心が神に向かっているか、向かっていないかを知られるためです。そして私たちは自分の歩んできた人生についてすべての行いのみを持って報いをなされるということです。ですから、今日、あなたはどのような人生を歩んでおられますか。どのような心で毎日を過ごしておられますか。イエスキリスト様を信じるならば、イエス様は私たちの心を癒し、その汚れている心を許すと言われています。ですから、あなたもイエス様を心から受け入れられて、正しい心をいただいて、この地上を歩んでいかれることをお勧めします。
どうかイエス様を心からお受け取り下さい。

・6月4週目 久松 求牧師

聖書の初めに書かれている書物、創世記から少しお話をしたいと思います。世界は神様によって創造されたとはっきりと書かれてあります。
興味を持たれた方は是非聖書を開いてみてください。すばらしい真実と出会うと思います。その中のノアという人物、ノアの箱舟のストーリーをご存じでしょうか。
その生きていた時代は非常に悪かったと書かれてあります。人の心が悪かった。本当に、耳、目をふさぎたいような多くの悪い事件が起きていました。
神は人を造られたことを悔やまれたと書いています。今の時代、華やかに見えます。外側ではまだ何か素晴らしい人生を歩んでいるように思えますが、裏では恐ろしい事件が起きています。人の心は悪で満ちています。人は本当に愚かです。しかしノアは神の前に正しい人であることと認められたと聖書にあります。
正しい人とは一体どのような人でしょうか。神は造られた全ての人を、本当に恐ろしく怖い方法でこの地上から絶やそうと決心されました。
しかし正しい人の後その家族のみ神は助け出されました。どのような方法でしょうか。ノアは神の命令されたように大きな箱舟を、毎日途方もない年月をかけ、忠実に正確に疑うことなく作り始めました。友人、知人、親族は、彼をバカにしました。「そんな大きな箱舟をどうするんだ」と。
しかし黙々と作り続け、そして突然その日はやってきました。箱舟の扉は閉ざされ、そして神は四十日四十夜雨が降り続け、この地は水で覆われ、地に住む全ての生き物、人々は息絶え助かったのは、ノアとその家族と、箱舟に入れられた動物だけでした。なぜ助かったのでしょうか。神はノアは正しい人だと認めた。
私達は、人に認められるため様々な仮面をかぶり、心に嘘をつき、欺き、人を傷つけ生きています。悪口を言います。いつも心がよい状態ではありません。
人は皆、罪人です。聖書の他の個所では、“正しい人はいない。一人もいない”と書いてあります。こうも言っています。人は外側を見ます。それは顔や形、あなたの外側を人はいつも見ています。しかし神である私は心、内側を見ると書いてあります。ですから大事なのは外側ではないのです。あなたの能力、出身地、国、肌の色、学歴、生い立ちそのようなものよりも、内側、優しさ、あわれみ、喜び、平和、善意、忠実、寛容、他者のために本当に優しさを見せる、その心の方が神によっぽど喜ばれるのです。ですから、神の愛に触れる時のみ、人は正しく生きることができるのです。まだ救いの箱舟は閉ざされていません。ぜひ教会にお越し下さい。聖書の神の言葉に触れて、あなたの人生が素晴らしい者となるように願っています。

・6月3週目木村 由智主任牧師

コロナウイルスが落ち着いて来ましたけれど、皆さんの生活はいかがでしょうか?まだまだ不安や恐れなどあるかもしれませんね。でも神様からの言葉よって励ましをを得ましょう。
ヨハネによる福音書3:16

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
この所からお勧めしたいのは、永遠の命ということです。永遠ということを考えてみたいと思います。今生きている時間は制限がありますね。肉体にも制限があると思います。しかし制限をうけない、永遠という世界があるならば、そこがどんな所かと思うと思います。聖書は永遠のいのちを得るためであると語っています。
私たちが持っている命は肉体が終ればなくなってしまうと考えられる方もおられると思います。しかし聖書はこれを授けた神様のもとにもう一度帰ると言っていますね。皆さんに恐れや不安を感じるのは、私たちの中に制限があるからだと思います。しかし御子イエスキリストを信じるなら永遠のいのちを与えられる。
この地上の営みを終えても私たちには永遠の命が与えられ、霊的な存在として神様とともに永遠の時を過ごすことができる。これが聖書が約束している永遠の命です。
今このような状況の中で先行きが見えない、何も見えなくても私たちには永遠のいのちが約束されている。これを得ることほど幸いな人生はないと思います。どうぞこの聖書の言葉を心にとめて、あなたも永遠のいのちをお受け取り下さい。

 

・6月2週目久松義人牧師

家族でペットを飼おうという話になっており、いろいろ調べて、猫を見つけたのですが、それを妻に知らせると、「猫アレルギーよ」と突っ込まれてしまいました。

そのような中で子供の頃、飼っていた猫の事を、そしてその命がなくなった時の事を思い出しました。その時、すごく泣きました。ペットを飼っていても命がなくなるという事を、朽ちていく命のはかなさ、一時的な深い悲しみがあるなと考えた時、動物の命でさえ私たちは心が痛むわけですから、このような情勢の中で、死というものを身近に感じられる時代で、私たちはどのように生きて言ったらいいのかと思うことがあると思います。
伝道の書「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」
このように聖書の言葉に書かれています。神様は人の心の中に永遠を思う心を置かれたと書いています。それゆえ、私たちは永遠というものを恋焦がれるというか、歌謡曲などに永遠や永久にという表現が出て来ますね。人間は心の中で永遠というもの想像してそれがあるのかと探し求める、そういう性質が必ずあります。それは神様がその永遠を私たちの心の中に置かれたからです。はっきり言える事は永遠を置かれた神様は永遠であると私たちは聖書を通して信じています。
それゆえ永遠を見出したいなら永久の朽ちないものを望み願うならば聖書の中にその答えがはっきり書かれています。
皆さんに、ぜひそのことを心に入れていただけたらと、心からそのことをお勧めします。

 

6月1週目木村主任牧師

イザヤ43:4「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの、わたしはあなたを愛するがゆえに、あなたの代りに人を与え、あなたの命の代りに民を与える。」
これは神がイスラエルの人たちに向けて言われた言葉です。今日を生きる私たちの存在を神様が重んじられていると受け止めたいです。
このコロナの情勢の中で不安や恐れがあり、また能力などあるかないかで自分を決めつけてしまっていませんか?能力があるかないかに関わらず、神様はあなたが「わが目に尊く重んぜられるもの」であると語っておられます。この競争社会で生きていく中で、大切なのは自分のアイデンティティがどういうものであるかということです。自分が神に愛されて、必要とされている存在だと知ることが一番大切です。あなたは神様にとって大切な存在であることを忘れないでください。能力の有無にかかわらず、神様から尊い者として、重んぜられていることを受け止めてください。この状況の中で、恐れや不安があると思いますが、神様の言葉によって励ましを受けていただきたいです。
そうすることによって、この地上であなたに価値があるということ、能力によらず、神様があなたを愛してくださっていることを受け止めていただきたいと思います。

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