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2020.8.2 久松 政一使徒的長老「変革の必須性」

更新日:2020年10月4日

 おはようございます。倉敷のYouTubeで見ていらっしゃる兄弟姉妹、また岡山で見ておられる兄弟姉妹、また愛媛で見ておられる兄弟姉妹、そして奈良で見ておられる兄弟姉妹、私たちはキリストにある仲間です。私たちは主にあって一つでございます。御言葉をお読みします。ハバクク書3章17節~19節「いちじくの木は花咲かず、ぶどうの木は実らず、オリブの木の産はむなしくなり、田畑は食物を生ぜず、おりには羊が絶え、牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救の神によって喜ぶ。主なる神はわたしの力であって、わたしの足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる。」これは最後の成熟への追跡の、ハバクク書における成熟を語った所です。私たちは今、世界がこのような状況の中にあっても私たちは喜びます。主にあって私は喜びます。雌じかというのは、ぴょんぴょん跳ねるのです。それは喜びを表しているのです。最悪の状態、状況の中で、「私は主にあって喜びます!」これがキリスト者です。なぜなら私たちの命は神にかかっているからです。永遠の命を持っている者は何も恐れません。これが真の信仰者です。幸いですね。いついかなる状況の中にあっても、喜びを得る事ができる。我が内にキリストありて私は生きるなり、感謝でございます。

皆さんは、一番最初にウッドロフ師が「神の恵み」という定義を語られた事を覚えておられますか?神の恵みとは、「神のみこころを行う力」これが神の恵みであるという、この定義を皆さん覚えていますか?イエス様は、「わたしの食物は、父のみこころを行う事である。」それがイエスの力です。私たちの恵みは神のみこころを行う力、その恵みがあなたにある事を、多くのキリスト者は理解していません。ですからスコットウェブスター師も、神の恵みについて少し語られた所があります。そしてスティーブショルツ先生は第2回目のセッションでは、神の恵みの本質という事について語っておられます。神の恵みとは、神様のみこころを行う力があなたに今あるという事です。知っていましたか?神の恵みのゆえに、あなたは今そこにいるのです。神の恵みのゆえに、あなたは力があるのです。神の恵みなくして、キリスト者は一秒たりとも生きる事はできません。神の恵み、それはあなたに神のみこころを行う力があるという事です。信仰のレベルは皆ちがうけれども、全ての人に平等に与えられるのは、神の恵みです。あなたの内に神の恵みがあるから打ち勝つ事ができるし、勝利する事ができるし、喜ぶ事ができるし、どんな問題の中にあっても、雌じかのようにとび跳ねて喜ぶ事ができる、その力をあなたは持っているのです。知っていましたか?信じていますか?そのように行動に移していますか?9つぐらい、スティーブショルツ先生が第2セッションの中で語られましたけれども、今日は、「神の恵みの本質、御性質」について語ります。恵みというのは一言で言ったら神様です。だから我々のコングレスは、使徒的恵みです。使徒的恵みは、神様の恵みという事です。上から流れて来る恵みによって構成されている群れ、それがコングレスです。だから、神様の恵みの本質、ご性質を私たちは学びました。DVDを見ました。全部を今日語れませんが、その中で二つ今日語りたいと思います。まず、包括的という所を皆さんは学ばれたと思います。神の恵みは包括的である。この包括的という意味は、幅広く全体を含んでいるという意味です。という事は、あなたがイエス・キリストを信じる前から聖書は明確に、「損を算出する」の次の、「出発点を再定義する」は、神様は初めから私たちを、天地が造られる前から選んでおられたと書かれているという事は、あなたがイエスを信じる以前から、当然神の恵みがあなたと共にあったという事です。そして包括的という意味は、あなたが生まれた時から、いいえ天地が造られる前から、具体的に言うなら、母の胎にいる時から神様の恵みはあなたと共にあるのです。生まれた時から神様はあなたの中に神の恵みをもってあなたを導いておられた事をあなたは知らなければいけません。「ああ私は本当に辛い人生を送った。いやな事が何度もあった。神様なんかいないのではないか。」多くの人たちは独特の解釈をしますけども、それらのものは聖書と全く相反します。聖書の神は、「恵みは包括的である。」全体を恵みは含んでいるのですから、あなたの一挙手一投足、すなわち生まれた時から神の恵みはあなたと共にあったのです。あなたが知らなかっただけです。そしてイエス・キリストを信じて、あなたが信仰生活を教会で送ってこられる中で、今回この素晴らしい神の御言葉の真理が開かれました。そしてその中に、恵みというその性質は包括的である。すなわち全体を含んでいる。あなたの人生の全てに恵みは含まれているのです。幼い時から、今日に至るまでです。

コリント人への第一の手紙15章9節~11節「実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。」これはすごい言葉です。パウロは、「私は使徒たちの中で、誰よりも多く神様の働きをしてきた。」自惚れて言っているのではないのは、その後の言葉で分かります。「しかしそれは、わたし自身ではなく、」私がその働きを行ったのではなくて、もちろん実際には彼が行ったのですが、実際に彼はあらゆる福音を伝える事によって、本当にひどい目に、あらゆる町々で苦しみを受けました。彼がやりました。彼が人生を歩みました。「わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みがそうさせたのである。」だから、神の恵みであるご性質がわたしの中にあったから、わたしはそれを行う事ができたのであって、中心はわたし自身ではなくて、神の恵みであると言っているのです。あなたはこのみ言葉を知っていますか?あなたの人生において、良い事も、あなたにとって悪いと思われる事も、全部、包括的にそれは神の恵みです。しかし皆さんの捉えどころがあまりにも貧弱なゆえに、あなたはその起こった出来事を否定的に捉えたり、また卑屈に捉えたり、また批判的に捉えたり、相手を責める道具としたり、また自己中心の考えで人を裁いたり、ありとあらゆる事において自分を義としてきた。そういう考え方があなたの中に沢山含まれている。でも、聖書は明確に告げます。神の恵みの本質、ご性質の一つは、包括的である。あなたの全ての人生において恵みは含まれていた。これを受けとめますか?「私の両親があんな両親でなかったらよかった。」と、今でも思っているとか。でも、あなたの両親がいなかったら、あなたはここにはいない。神はあなたの人生のストーリーを全部ご計画の中に置いておられ、神の恵みはいつもあなたと共にあった事さえ、私たちが知らなかっただけです。今それを本当に悟って、あなたの一つ一つ、幼い時からの今までの出来事において、「あーあれも神の恵みだったのだ。あーあの厳しい状況の中に置かれた事も、今日に至るための、私に対する神の恵みであった!」あなたは、あなたの考えを今、修正しなければいけません。不完全な親ばかりですよ、私も含めて。でもその全てを神様は包括しておられます。その中であなたを生まれさせ、環境や状態が非常に厳しい人もいたかも知れない。でも全てそれは、神様の恵み、ご性質です。なぜなら恵みは包括的だからです。「彼らの中の誰よりも働いてきた。」これはスキルです。能力です。パウロにおいては、もうすぐれた能力と知識をもって、それをいったん全部捨てて、キリストによって変えられた後、それを用いて、彼はありとあらゆる事をキリストのために働いてきたのです。しかし、それは私ではない。自己の義ではない。自分が働いたのではない。神の恵みが包括的に私と共におられたから、私はそれをする事ができたにすぎないのだと言っています。これが神様の私たちに対するあなたが解釈して欲しい考え方です。あなたは今までその考えが歪んでいました。それは、そういう捉え方で神様はあなたにその出来事を行わせたのではない。あなたの目の前にその出来事が起こったのは、神の恵みを知るためです。パウロはどんなに苦しい所を通りましたか?患難、苦難、迫害、ムチを受けた事は三度もあった。皆さん、ローマのムチはすごいです。百たたきというのが、日本の刑の中にも昔ありましたけど、ガラス破片が付いた、その丸い玉を一番先に付けて、ムチでもう背中が血だらけになるぐらい、それを三度も私は経験した。それも私の中にある神の恵みだ。私自身がそこを通る時、卑屈になったり、神様に対して文句を言ったり、非難したり、この世を呪ったり、今の状況、環境を否定したり、また恐れたり、不安になったりするような解釈ではなく、「神の恵みが私と共にあった」と、あなたは今日、修正しなければいけません。その時あなたの内側から、本当に雌じかのように、「ああ神様はいつも私と共に、恵みの中にいてくださった。」神の恵みのご性質、それは、恵み。それは私と共にいつもあった。この事が悟れる事が今日できたら、あなたの今までの卑屈な考えや、批判的な、また相手に対してねたみや、憎しみや、また自分がされた事や、そういう事は全部、喜びに変わる材料になるはずですが、いかがですか?変わりなさい、皆さん。今日決心しなさい。「あれは神の恵みでした。全てが神の恵みでした。何も悪いものは私にはなかったです。神様ありがとうございます。」と、あなたは喜びにあふれる事でしょう。

 2番目、預言的という言葉が、ショルツ先生のお話の中でありました。神の恵みの本質は、預言的である。これは、神が真に語られた内容を、預言的にひもとく事です。預言的に行われた出来事。これも、恵みという事も、包括的という事も同じですけども、あなたの人生の中で、神様は預言的に色んな事を語っておられたのです。でもそれがあなたにとって、あなたの価値観にとって、良い事と、悪い事、善悪で皆物事をあなたは判断してきたのです。皆さん、あなたの幼い時、小学生の時、思い返して下さい。中学校の時にあった出来事、高校の時代にあった事、大学に行ってからの事、職場で起こった出来事、その全ての事を、間違った解釈から解放されて、神の恵みにより正しい解釈を、今日しましょう。ヨセフの物語を、その時話をされました。皆さんヨセフの人生で、もし彼が神と共になかったなら、彼は不平と不満ばかりを言っていたら、彼はどんな風に受け止めたのでしょうか。最初から彼は、少し高慢でした。12人の兄弟がいる中の、11番目の子供でした。はじめから父親が独特の考え方を持っていました。これは、あなたもそうです。あなたも父親であるなら、本当に不完全です。このヤコブも、4人も妻を持ち、その中で、自分が一番愛する人は、ラケルという妻だった。そのラケルから生まれた長男が、ヨセフでした。そして2番目にラケルから生まれたのが、べニアミンでした。だから自分の愛妻から生まれたヨセフとべニアミンは、他の10人の子供たちよりも、心から愛した。肉の愛で。ここからもう不完全さが始まっているのです。ヤコブがどれだけおかしな解釈をした父親かという事がわかります。それを受けて、息子ヨセフも、他の兄さんたちよりも、自分はお父さんから愛されている事を高慢に思っていたと思います。長袖の衣を着せてもらったのはヨセフだけです。子供に差別していないと親が言っていても、兄弟が4,5人いたら、「お父さんはあの次男にいつもおいしい物を食べさせて、ぼくには食べさせてくれない。」というような捉え方を今も持っている人、いっぱいいるでしょう。家の父親はひどかった。家の母親はひどかった。妹だけに、兄ちゃんだけに、なになにしてあげて、私には冷たかった。そういう解釈が、もういっぱいです。ヨセフもそんな事とは知らないで、兄さんたちにねたみをかいました。でも、「お父さん、どうして僕だけにこの長袖の衣をくれるのですか?兄さんたちにもあげて欲しいなあ。」という愛の心はないです。だから彼も本当に解釈がおかしな所がいっぱいあるのです。でも、神様のご計画の夢を見て、その夢を兄さんたちに話した後、もっと兄さんたちは腹立たしく思うようになりました。まだこのヨセフ物語を読んでいない方は、ぜひ読んでください。そしてある時、「あいつを殺してしまおう!」ドタンという羊を飼う場所に行っていた兄さんたち。そこにお弁当を持って行ったヨセフを、皆は殺してしまおうと思いました。ただ、ルベンという長男だけが、「ヨセフを殺してしまったら、お父さんが悲しむから、ちょっとだけ悪い事をして、戻したらいいじゃないか。」と思って、殺させないで穴に落としました。大きな深い穴に落として、その時ヨセフは、「何でこんな事を兄さんたちはするのだ!」と、ものすごく腹立たしく思いました。そしてちょうどその時、ミデアン人の隊商が通る時に、この兄弟たちは言いました。「おう、こいつを穴から出して、エジプトに売ってしまおう!」そして彼は売られてしまいました。この物語はずっと続きます。いつもひどい事件に彼は遭います。彼がもし30歳になった時にエジプトの首相になっていなくて、あなたのように普通の生活を送っていたとしたら、彼は兄さんたちを本当に憎んで人生を歩んでいたかも知れません。私は今日、あなたに言いたい。あなたの親も不完全、またあなたも親になって不完全、それもこれも皆、神様の包括的な恵みの中で、あなたを今日あるを得させるために導いてきた道です。そして今日、この1か月半の間に、神様は私たちの思考を変えたい。あなたの間違った解釈を変えて、本当に喜びにあふれて欲しい。聖い者になってほしい。真実な者になってほしい。イエス様のように正しい事を行いながら、ひどい目にあった33年のご生涯は、我々の模範です。またパウロも模範です。私たちもそのような歩みをする生き方を、今からするべきです。神様は良い方であって、あなたに悪い事を一度もした事はない。あなたにとってあの出来事、あの問題、また自分の両親の問題、また自分の兄弟での出来事、また友人知人があなたにひどい事をした出来事、色んな事があなたの思いの中に、走馬灯のように、「あれもされた、これもされた。」そのような考え方は、あなたをもっともっと苦しめます。そしてあなたはキリスト者でありながら、何も成熟ができないで、ただただ人生を終えてしまい、神の御国には行くけれども、本当に充実した人生を送れないままで終わってしまう可能性は十分です。だから私たちは、ヨセフが言ったこの言葉が、セッションにも書かれていると思いますけども、ここを私は読んで、皆さんとディスカッションをしたいと思っています。

創世記45章4節~8節を、皆さん一緒に読んでみましょう。この場面は、エジプトの首相になったヨセフと、その兄さんたちが出会う場面です。兄さんたちはヨセフが首相になった事も知らない。エジプトに17歳の時に売ってしまって13年経っているのですから、兄さんたちは、もう死んだものと思っているでしょう。けれどもそのエジプトの首相であるヨセフが、兄さんたちに言った言葉が、この

節~8節までの言葉です。「ヨセフは兄弟たちに言った、『わたしに近寄ってください。』彼らが近寄ったので彼は言った、『わたしはあなたがたの弟ヨセフです。あなたがたがエジプトに売った者です。しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。この二年の間、国中に飢饉があったが、なお五年の間は耕すことも刈り入れることもないでしょう。神は、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。」最終的な答えが8節です。「それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく、神です。神はわたしをパロの父とし、その全家の主とし、またエジプト全国のつかさとされました。」ヨセフは言います。「わたしをこのエジプトにつかわしたのはあなたがたがわたしをエジプトに売ったのではなくて、それをなさったのは神です。」あなたはあなたの人生を、イエス・キリストに全くゆだねていますか?

これから起ころうとする出来事に、全て神の恵みが共にあり、包括的であり、預言的であるのです。神様はあなたを預言的に導いておられるのです。だから預言的な事は、あなたの理解では超えてしまうような問題の方が多いのです。「そんな事が私の身にどうして起こりますか?」と言うぐらい、預言者が語る事は、皆理解できない事なのです。でも恵みは預言的なのです。だからあなたの人生において、マイナスと思われる所を通る時、あなたは神の恵みが十分だという事を知らなければいけない。それだけではなく、神の預言に私は導かれている。神は私に一番良い事をなさっている。私の解釈を変えなければならない。あなたが今までに一番ひどい目に遭わされた人、それは神様です。その人ではない。というのが御言葉です。なぜそれを信じないですか。これは絵に描いた餅ですか?これはただのお話ですか?これは私たちの人生ではないですか。スティーブショルツ先生が9つも語られた中から私は今日、「神の恵みの性質は、包括的であり預言的である」という事を、分かりやすく語りました。兄弟姉妹、あなたの解釈を変えなさい。今日あなたは自分の口で「私にこの父母を与えて下さったのは神です。神様ありがとうございます。」あなたの父母がどういう父母かは問題ではない。それを与えられた神に、あなたは神の恵みを感謝するべきです。兄弟姉妹、この解釈が変わらないなら、あなたは生涯変わらないです。変わらないという事は、あなたの持っている卑屈や、本当に否定的な、いつも物事をマイナス面で捉える思想をあなたが持っているかぎり、あなたの子供にも、あなたの親族にも、あなたの友人にも、知人にも、あなたが語る言葉の中に含まれているマイナス面が影響を与えていくのです。何と恐ろしい事か。私たちは今こそ告白しましょう、「私の解釈は間違っていました。神様、私は今日から神の恵みによってこれを変えます。宣言します!」このように告白しましょう。

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