2022.7.10山田恵教師「弱さを誇る」

 皆さん、おはようございます。年に何回かの京阪奈、本当に皆さんに会えて、共に交わりの時、また、御言葉の時、賛美の時を持てることを本当に嬉しく思います。私たちは一つの教会です。また、目に見えないキリストの一つの体に属する、一人一人が尊い存在です。

今日のタイトル、「弱さを誇る」。私たちが成熟へ向かう者として、弱さというものを捉え直そうと思います。今まで私たちが弱さを覚える時、「私は弱いなあ!」と思う時、その思考を今日、シフトできたらと思っています。今それぞれの信仰の達し得ている部分があると思います。その中で私たちは、御言葉から、神の願われる弱さに対してしっかりと捉える秘訣、それを共有したいと思います。まずこの「弱さを誇る」ということは、パウロがよく言っていることなのです。一般的に「誇る」という時に、「あの人は自分の能力をすごく誇っているよねえ。」とか、「あの人はあの学歴があの人の誇りよねえ。」とか、言ったりすることがあると思います。でもその肉的なプライドとか、鼻を高くしたり自惚れたり、その誇る、自惚れるという意味ではなくて、名誉に思うこと、光栄に思うことなのです。「今回このような賞をいただいたことは、私にとって誇りです。」とか、また、その仕事に誇りを持っている人は、「私はこの会社の社員であることを誇りに思います。」とか、それは非常に名誉なことと思っているようなイメージです。私たちが自分の弱さを光栄に思う、名誉に思う時に、私たちは胸を張ることができます。大抵、弱っている時はどこを向いていますか?弱さに直面している時、私たちは大抵下を向きます。その時、間違いなく神様が見えなくなっています。主はどこにおられますか?天におられますけれども、それは物理的な天ではないです。けれども上というのは、やはり神の方向なのです。「天と地」、地は下です。私たちの肉は、この地上から出たものです。でも神の言葉はいつも上から来ます。これは霊の領域、信仰の領域を指します。ですから、私たちは物理的にも自分の顔を上にあげなければいけません。でも責めがある時、弱さを覚える時、非常に困難な時、自然と下を向きます。それは何かを見失っている状態です。パウロは「誇る」という言葉をよく使っています。「誇る者は主を誇れ」と書いています。また、「わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない」と。えっ、ちょっと待って!イエス様を誇りとするのはわかりますよ。だから十字架が誇りというのはわかります。でも、「弱さを誇る」というのは、何か矛盾していないですか?パウロは同じコリント人への手紙の中で、「誇る者は主を誇れ」と言いながら、そのすぐ後には、「わたしは自分の弱さを誇ろう」と、言っているのです。自分の弱さ、自分の弱点以外に何も誇りたくない、と。えっ、どっち?と思いますよね。それは、今日の見ていく御言葉の中で明確になっていきます。

コリント人への第二の手紙12章7節~10節「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」これが今日の重要な所です。この恵みというのは、人間の側の値打ちには関係がありません。また、善行の報酬でもありません。全く一方的な神様からのプレゼントです。その恵みはどこに来るのですか?私たちの弱い所にその恵みが来ます。そしてその恵みは…神様は何と言っていますか?その恵みは不十分ですか?「十分です」と、神様は言われました。この「十分」という意味は、一回神様がブァーとあなたの弱さに恵みを注ぎました。「一回注いだよ、もうそれでフル充電、OKだよ!」ではなくて、これは進行形なのです。ですから十分に、絶えず、注がれ、与えられ続けているという意味なのです。これは、あなたが今、危機に直面している非常な問題や、困難や、高い壁がそびえ立っているような、そういう事柄に対してあなたが勇敢に耐える力、それを与えるに「十分です」と、神様はおっしゃっているのです。もうヘロヘロになって、息も絶え絶えに、「何とか乗り越えています」の力ではない。非常に果敢に、勇敢に立ち向かう、忍耐できる。その力を与えるのに「十分」です、と言っています。パウロは、「肉体のとげ」と書いていました。いろんな説があるのですけれども、ある説によると、目が弱かったのではないかと言われていました。けれども、後で読みますが、パウロは非常な困難の連続でした。迫害と、瀕死の状態になるようなリンチに遭ったり、暴力を受けたり、そういったものの連続の中で、もしかしたら怪我の後遺症であるか、何か体が不自由なのか、絶えず痛みが伴い続けているのか、そういったものかもしれません。何かわからない。でも彼はそれを「肉体のとげ、サタンの使」と言いました。そして神様に、「神様、どうぞこのとげをわたしから取り去って下さい。」と、三度も主に祈りました。聖書でよく「三度」と出てきます。これは、今日願った、そして半年前も願った、三年前も願ったという三回という意味ではなくて、「何度も何度も」という意味なのです。ですからパウロの心の叫びはいつもあったのではないかと思います。皆さんもありますか?絶えず神様に、「主よ、どうぞこの痛み、悲しみ、この圧迫、これが少しでも軽くなりますように。どうぞこの悲しみを過ぎ去らせてください。」そのような状況にある方もおられるかもしれません。でも今日、神様は、その方を励ましたい。パウロは、そういった自分の戦いに耐えうる力が出ない状態、その力のなさ、無力さに対して、こう言っているのです。先ほど読んだ御言葉の別の訳では、「人間的な力において、わたしが本当に弱さを覚える時、その時こそわたしは本当に強い。なぜなら神の力はそこにあるから。だからわたしはこれらの中にあって、大いに喜ぼう」と言っているのです。別の訳では、「あまんじよう」と書いているのです。でも、「あまんじる」と言ったら、何か、しぶしぶ妥協するようなイメージですけれど、この原語では、「大いに喜ぼう」です。パウロは大いに喜べるような状況ではないです。皆さんよくご存知だと思います。パウロがどういう状況だったか、リビングバイブルで見てみます。

コリント人への第二の手紙11章23節~28節「投獄されたこともかなりの回数に及び、むち打たれたことは数えきれず、何度も死に直面しました。ユダヤ人から、恐ろしい三十九回のむち打ちの刑を受けたことが五度あります。それから、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったことが一度あります。幾度も長い苦しい旅をし、川がはんらんしたり、強盗に襲われたり、同国人からも外国人からも迫害されたりして、」皆さん、これをどうぞ現在のあなたの状況に置き換えてみてください。同国人からも、外国人からも、家族からも、同僚からも、ということも言えます。「何度も危険な目に会いました。町々では暴徒に取り囲まれ、荒野や嵐の海でやっと命びろいしたこともあります。クリスチャンだと自称しながら、実はそうでない人たちに苦しめられたこともあります。疲れ果て、苦しみ、たびたび眠れない夜を過ごしました。飢え渇き、食べ物もなく過ごしたこともしょっちゅうです。また服もなく、寒さに震えていたこともありました。こんなことのほかに、諸教会がどうなるかという心配を絶えずかかえています。」想像を絶する中で、パウロは何と言っていますか?「これらのことの中にあって、私は勝ちえて余りがある。」私が弱い時、本当にもう前が見えない、真っ暗な状況の中で、「私は本当に強いのだ!」と。なぜなら、ここにこそ、神の絶大な力が現れるから。だから大いに喜びます。

ちょっとこの譬えをしてみます。皆さん、馬力という言葉を知っていますか?一馬力がどのくらいか、調べてみました。75㎏の物を、1秒間に1m動かす、あるいは形を変える動力の単位だそうです。人間が瞬発力ではなく、継続して発揮できる馬力というのは、0.1だそうです。だから軽四自動車の500分の1。人間って弱いでしょう。これは物理的な話ですが、私たちの肉の力、頑張りというのは0.1です。クリスチャンでも、「はい、御心に従って頑張ります!忠実な信仰生活ができるように頑張っていきます!」大体、「頑張ります!」と、言ってしまいます。でも、もし主の恵みの力が注がれなかったら0.1です。この意味は、御心を正確に行えないという意味です。あなたの弱さに神の力が注がれて、十分、フル状態、100万馬力状態、その時に私たちは御心を正確に行っていると言えるのです。「私は頑張って10馬力ぐらいで行きます!」でも本当は、それでは不十分なのです。自分ではよくやっていると思うかもしれません。「私は一生懸命頑張って奉仕しています!」と、思うかもしれません。ある兄弟は、ある姉妹は、「ものすごく伝道を頑張っているのです。最近トラクトを1カ月に300枚配っているのです。一生懸命やっています。」それが何か、馬力を出していると思うかもしれません。でも違うのです。それはもちろん良いことです。素晴らしいことです。一生懸命コツコツと、丁寧に、忠実に、福音を語り、誰かをサポートし、奉仕をし、それは本当に素晴らしいことです。でも神様が、「あなたはよくやっているけれども、疲れていないかい?あなたは信仰生活に息切れしていないですか?私の力によって、あなたはその動力を発動させるべきです。」そうでなかったら信仰はいらないでしょう。もうただ地上で、キリスト教という宗教をして生きているだけです。でも神様は、あなたといつでもパートナーシップで進みたいのです。100万馬力で進みたいのです。100万馬力の意味は、全力という意味なのです。もうこれ以上ないくらいの、100%の状態なのです。でも人間の肉の力は0.1%、0.1の中で0.01になったり、疲れ果てたり、「もう今日礼拝へ行くのがしんどいわー!今週ずっと0.003だわー!」それは神様が望んでいる皆さんの本来の姿ではないのです。こう思うかもしれません。「パウロ先生は本当にご立派な方だし、使徒だし、聖書の書簡をたくさん書いた方だから、そんな強い信仰に立てたのでしょう。聖書に出てくるたくさんの人物たちは、皆立派だから、私なんてもうとてもじゃないです。パウロ先生もダビデも、もう雲の上の人です。」と、もし思っているなら、それは大きな誤解です。例えば、ダビデは詩篇でこういうふうに言っています。ダビデがどんな苦難の中を通ったか、皆さんご存知ですよね。絶えず家族の問題がありました。息子が反逆して、自分の命を狙ってきました。本来なら王としての資質もあり、人望もあり、力もあったのに、サウルという少し気がおかしくなってしまった王に仕えることを、ずっと忍耐しました。何日も何日も荒野をさまよって、そのダビデの悲しみ、これはもう想像を絶するものがあります。ダビデはこう歌っています。「わたしの不義はわたしの頭を超え、重荷のように重くて負うことができません。わたしの愚かによってわたしの傷は悪臭を放って、腐れただれています。わたしは折れて、かがんで、うなだれて、毎日悲しみの中を歩いています。わたしの腰はことごとく砕けて、もうわたしの内には全く良い所がありません。わたしは衰え果てて、打ちひしがれてい

ます。心の激しい裁きによって呻(うめ)き叫んでいます。」ダビデは詩篇のあちらこ

ちらで、このような叫びをずっと言っています。ダビデというと、「いつも、どんな時でも私は主をほめたたえる」という信仰のお手本みたいに思いますけど、皆さんも詩篇を読んで不思議に思ったことはないですか?何かちょっとダビデは女々しいのでは?何か、くよくよ、くよくよ愚痴を言って、弱音ばっかり吐いているような。でもこれは普通の私たちの姿です。とても自分の力で乗り越えられそうにない、「あれもした、これもした。」もうさんざん考えて夜も眠れないぐらい考えて、「あれが良かったのかなあ?これが悪かったのかなあ?こうした方が良かったのかなあ?あの時自分は、これで良かったのだろうか?間違っていたのではないだろうか?」いろんなことを思って、本当に心が疲れ果ててしまった。でもそれは人間の姿です。ダビデも何ら変わらないです。ヨナを見てください。神様に召されて、「ニネベへ行ってこい!」と言われて、ヨナは次々いろんなことが起こる中で、「もう神様、もう私は無理です。もう私は弱り果てて、もう死にそうです。もう生きるより死んだ方がましです。」と、ヨナは言っているではないですか。アブラハムも悲しみの中を通りました。モーセもとんでもなく苦悩しました。預言者エレミヤも涙の人です。泣いて、泣いて、ドブの中に閉じ込められながら、今、日本に住んでいる私たちには想像すらできない所を通った人物ばかりです。皆、神様に叫んでいるのです。「主よ、なぜですか?」ダビデも言いました。「敵がわたしを苦しめるのはわかります。それはいいのです。でもわたしの親しい仲間が、わたしを殺そうとしています。わたしの部下が、一緒にやっていこうとするこのチームが、わたしを責めて来ます。本当に信頼していた人が去っていく。本当に愛し合っていた人が、自分を裏切る。」何度も何度も、そういう目に遭って、その中でダビデは呻き(うめき)ながら、それでもいつも最後には、「神はわが助け、主はわたしの望み」必ずダビデは、苦悩の叫びをしながらも、なお、「わたしは主を待ち望む」と、上を見るのです。なぜ?さっき読んだ、パウロも困難の連続、リンチの連続の中で、なぜそれが言えたのでしょうか?それは、「わたしの弱さの中に完全に働かれる方」が、どういう御方かを彼らはつかんでいたからです。ではその御方が、どういう御方だったか見てみましょう。

へブル人への手紙12章3節~5節「あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、『わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。』」その後に、「主は愛する者を訓練し」とあります。私たちに対する神の勧めは、罪人らの、反逆者の、すなわちイエス様を信じない人たちの侮り、攻撃を耐え忍んだ御方のことを思いみるべきである。考えてみなさい。なぜ?あなたが力を失って、落胆して、疲れ果てて、勢いがなくならないように、そのためにこの御方のことを考えてみてごらんなさい、と言っています。イエス様は十字架にかかられる前、ゲッセマネの園で、父にどう祈られましたか?「父よ、わたしはあまりにも深い悲しみ、苦悩に押しつぶされそうです。悲しみのあまり、わたしは死ぬほどです。」と祈られました。

へブル人への手紙4章15節~16節「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」この御方は私たちの弱さを、あなたの弱さを思いやることのできないような方ではない。この御方は、罪は犯されなかったけれども、他のすべてのことについて、困難、苦難、患難、試練、痛み、悲しみ、同じ体験をされました。イザヤ書には、「この御方は病を知っていた」と、書いています。イエス様は病気をしたのですか?そんな聖書の記事は見ないですけど。肉体を持っている限り、怪我もしたでしょう。大工仕事をしていましたから。大怪我を負ったかもしれません。肉体があるということは、胃腸の調子も悪くなることもあったでしょう。頭も痛いこともあったでしょう。足がつることもあったでしょう。正座をしたら、足もしびれたでしょう。皆、同じです。イエス様は、この地上においては、涙と叫びとをもって、父なる神に祈りました。何度も涙を流し、渇きを覚え、疲れ果てました。朝早くから、夜遅くまで、たくさん歩き、移動し、時には食べる物もなく、枕する所もないくらい。今で言ったら過重労働です。睡眠時間は、2~3時間だったかもしれません。この御方は、人からののしられました。皆さん、誰かからののしられたことがありますか?皆さん、仕事をしたり、いろんなことの中で、人から拒絶されること、また、軽蔑されること、誤解されること、一生懸命やっても何の感謝もされないこと、いっぱいあると思います。イエス様は、全部それを受けました。理解されませんでした。正しいことしかしていなかったのに、不当に扱われました。そして裏切りに遭いました。愛する人を失いました。暴力を受けました。むち打たれました。私たちの、あなたの全ての弱さ、痛み、それ以上を、全部イエス様は受けられたのです。そこを通られたのです。その御方がおっしゃったのです。「わたしの恵みはあなたに十分です。あなたの弱い所にこそその力は完全に現れるからです」と。だから私たちは弱さを誇れるのです。弱さを誇らないといけないのです。ですから、私たちが主を誇るということと、弱さを誇るということは、イコールなのです。「でもイエス様は罪を犯されなかったのでしょ。だったら私たちのこの罪の性質、肉から出る者の苦しみという所を、イエス様は通っていないじゃないですか。」そう思われるかもしれません。でも皆さん、考えてみてください。イエス様から罪は出ませんでした。罪を犯されませんでした。でも罪の結果、罪の刑罰は何ですか?「死」です。刑罰を受けられたのです。罪は犯されませんでした。でもその結果は、イエス様ただ一人が、受けられました。私たちと同じ体験を全部した後、結果だけはイエス様が全部かぶったのです。こんな損な人生ありますか?地上的に言えば、何一つ受けなかったのです。ですから私たちも生きている間、あまりいいものを受けなかったとしても、永遠の都では、イエス様と共に最高のものを受ける約束が、聖書に書かれています。それが、私たちの望みなのです。だからこの地上で感謝されないことや、理解されないことや、誤解されることや、痛みを伴うことや、祈っても祈っても、願いが叶わないようなこととか、「神様、なぜ沈黙されるのですか?神様、答えがないのですけど。」と、言いたくなるような時でさえ、神様は答えをもう与えておられます。神様が待っているのは、あなたがその弱さを認めて誇ることです。その意味は、「どうせ私は弱いのだから」と、なげやりになることではない。その弱さに打ちひしがれることでもないし、その弱さを開き直って努力しないことでもない。誇るという意味は、どういうことですか?私が自分のプライドを捨てて、心を貧しくする時に、「私は0.1です。いや、0.001です。力がないです。何か自分は、5万馬力あるように振る舞っていますけれど、本当はないのです。」その時に、100万馬力の神の力が、そこに現れるのです、と言っています。イエス様が、私たちのただ助け手として傍にいて、「困った時に主は助けてくださる。私が悲しむ時に主は励ましてくださる。」という私たち人間サイドの都合に合わせて、困った時の神頼み的に助け舟を出してくれるような、そういう捉え方ではだめなのです。私たちが成熟を目指すならば、もっと積極的な信仰を働かせなければなりません。弱さに対して、捉え方を変えなければなりません。子供が公園で遊んでいる時に、親がすぐ傍にいたら、安心して一生懸命遊びます。小さい子と手をつないでいる時、どんなに車がたくさん通っている所でも、お母さんが車道側を歩いて、しっかりと子供の手をつないでいたら、子供は安心です。小学生ぐらいの子供がお父さんと遊びに行って、ちょっと高い崖の上に行こうとする時、「僕の力はちょっとしかない。でもお父さんと一緒なら、僕はできる。僕は越えられる。僕は登れる。僕は飛べる。」もし疑っていたらどうですか?なんで私たちは、大人になると怖いのでしょう。私たちが神様に自分を委ねる時、「飛んでおいで、大丈夫、私を頼ってごらん。」でも私たちが神様から目を離して、自分の問題、自分の感情、自分に一生懸命の時に、全然信頼していないのです。「お父さんが一緒だからできるよ、行こう!あそこに行ってみよう!」と言っても、「僕、無理!」お父さんに信頼していなかったら、そうなりますよね。子供が公園で遊んでいても、もし親を見失ったら、ふと気づいたら、「えっ!お父さんがいない。お母さんもいない。どこ?!」一人だ、と思った途端に、子供は「ウワー!」と泣きます。不安になります。私たちも、もし、100万馬力の力を私の弱い所に注いでくださる神様に目を向けないで、自分の力で何とかやろうと思っているならば、泣いている子供のようです。神様を信頼せずに、もたれかかることができない。任せることができない、疑いを持った状態です。神様はあなたに圧倒的な勝利者になってほしいのです。いろんな問題の中にあって、なお「私はこれらに勝ち得て余りある!」と、あなたに言ってほしいのです。それが成熟した信仰者の姿勢です。私たちはこれを目指しています。道徳的に完全無欠な人間になることを神様は望んでいるのではないし、できません。不可能です。なぜなら肉があるから。「私が完全であるように、あなたがたも完全になりなさい」という意味は、「完全無欠な欠点のない人間になれ!」って言っているのではないのです。「品行方正に一生涯送れ!」って言っているのではないのです。そんなことは一人もできません。皆、弱さがあるのです。そうではなくて、私たちの姿勢において、神の基準に到達するように目指す、天に体を伸ばす。これを私たちが持ち続けること。それが、神が望まれる基準なのです。私たちは何か、パーフェクトな、到達した状態を、神様は私にいつも要求されているかのように思ってしまいます。だから御言葉とギャップを感じてしまうのです。「そんなに私は立派じゃない。こんな聖書に出てくる人みたいに立ち上がれない。」いつまで経ってもそのギャップに苦しむ。いいえ、あなたは0.1で大丈夫です。問題は、その弱さを誇らない所に問題があるのです。人間の脳は、不安とか恐れに支配されると、その不安とか恐れがもっと活性化するそうです。その脳の働きが。私たちはその弱さによって、自分自身を蝕(むしば)まれてはいけないのです。あなたの思いを支配されてはいけないのです。自分の弱さの内にこそ、神の絶大な力が働くのです。そこにこそ、完全な神の栄光と、力と、強さが現れると信じるなら、それは今日からあなたのものです。どういう種類の問題が、今あなたに降りかかっているかは、問題ではないのです。その問題の中で、あなたがどのような姿勢であるかが問題です。正しい姿勢でいるなら、神の助けをあなたは自分のものとして、その問題が小さくなっていくのをあなたは見るでしょう。実際は何も変わっていなかったとしても。高い壁が立ちはだかっているのを何とか超えようとするからしんどいのです。私たちがこの正しいポジションに行くなら、この壁が小さくなるのです。「自分の力で何とか飛び越えるぞ!」確かに聖書には、「私たちの足は、雌鹿のように高い所を飛び越えることができる。鷲のように翼をはって高く飛ぶことができる。」これは私たちが神の力によって、強さの中を進んでいくイメージです。でも実際は、あなたの前に何も立ちはだかっていないのです。だから障害物もなく、高い所を飛べます。その足の強さも、翼の強さも、これは神からの力です。私たちが一生懸命強くするのではないのです。その問題は、もはやあなたの前に小さなものになっています。皆さん、0.1から100万に行きますか?それは、上からしか来ません。自分で、必死で頑張るのはもうやめますか?必死で頑張って、めちゃめちゃ疲れるけど、大してあまり変わっていないのではないですか?どんな問題が来ても、私たちのパターンはいつも同じです。弱さを誇るのです。「ああ、弱さがあって良かった!」だって、そこに神の力が来るから。でも体験するかしないかは、私たちの神への信仰にかかっています。「私は弱い、でも主は強い。」でも、肉の弱さはそのままでいいという意味ではないのです。変わり続けなければなりません。困難の中で、私たちは自分の心を貧しくしていましょう。人に誇るものは何もありません。弱さは誇るものです。それは主を誇っていることです。皆さん、いろんな事が世界中で起こり、また、明日何が起こるかわかりません。来年、どうなっているかはわかりません。でも私たちは、絶えず圧倒的な勝利者です。そのポジションから動かないでください。感謝します。すべての栄光を主にお返しします。

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