2022.2.13 山田 恵 教師 「神の時」

 神様は、「神の時」を持っていらっしゃって、それを定めておられるということをお語りしたいと思います。この、「時」という言葉は、聖書の中にギリシャ語で書かれているのを、皆さんご存知だと思いますが、いくつかの言葉が使われています。を指す言葉として、「ホーラ」と、「クロノス」、そして「カイロス」というギリシャ語の言葉が使われています。ホーラというのは、具体的な、特定の、ピンポイントのを指す言葉で、これもたくさん出てくるのですが、たとえば、ヨハネによる福音書の中に、「過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、」というこの「時」は、ホーラが使われています。また、「人の子が栄光を受ける時がきた。」その時イエス様は、御自身が十字架にかかられることを、いろんな言葉でおっしゃいましたが、このヨハネによる福音書12章では、「人の子が栄光を受ける時がきた。」いよいよ、もうその「時」が来た。主は無残な殺され方をする時に、全人類の罪を負う時に、「栄光を受ける」というふうにおっしゃったのです。罪を全く知らない方が、罪そのものとなって呪われる、その「時」が来た。それをイエス様は、「栄光を受ける」というふうにおっしゃいました。それはなぜか?「ホーラ」ではあっても、主は「カイロス」に存在され、生き、動いておられたので、死という極限は「栄光」をもたらすものだと表明できたのです。

また、ヨハネによる福音書16章では、ホーラという言葉が使われるたとえとして、「女が子を産む場合は、その時がきたというので不安を感じるけれども、産んでしまえば、それは喜びになる。」ということをおっしゃいました。女が子を産む場合は、その時が来たというのがわかって不安になる。いよいよ、しるしがあったり、その前兆があったりします。一番わかりやすいのは陣痛ですけれども、女性は命を生み出す時に、時を知ります。それは、ホーラです。

 そして、「クロノス」という言葉は、過去、現在、未来、時が同じ速度で一方向に流れていく、その連続した時間のことを指す言葉です。日本語の聖書では、全部同じ「時」となっていますが、たとえば、ガラテヤ人への手紙4章では、「時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、」この、「時が満ちる」、あるいは別の所では、「幼い時から」とか、そういった時間のある程度の経過、それをクロノスという言葉で使っています。

 今日、強調したいのは、最後の「カイロス」という言葉です。この言葉の文字通りの意味は、人間が受け止める非常に主観的な、内面的な、心理的な時間の「時」のことです。たとえば、皆さん、ものすごく楽しい時間というのは、あっという間に過ぎ去るように感じませんか?同じ一日24時間でも。一年365日。一時間60分。これは、さっきのクロノスです。ちなみに、このクロノスという言葉から「クロック」、時計という言葉が生まれています。ですから、カチカチ、カチカチ刻むのが、クロノスです。これは、皆に平等ですけれど、でも人によってこの感じ方が違います。これは、このカイロスという言葉なのです。時間の感じ方は、それぞれです。今日のメッセージがものすごく長く感じる方と、あっという間に終わったと感じる方と、さまざまですが、どう感じるかは、皆さんにおまかせします。聖書では、「カイロス」という言葉は、非常に大切な、神の定めた徹底的な、そういう「時」に対して使われています。そこで御言葉を三つ出します。

 マルコによる福音書1章15節「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ。」この、「時」が満ちた、「カイロス」が満ちた。これはまさに、救いの幕開けです。イエス様は二回、現れなさいます。最初が初臨。クリスマスの出来事は初臨の時です。そしてもう一回が再臨の時。次の御言葉、13章31節~33節「天地は滅びるであろう、しかしわたしの言葉は滅びることがない。その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。」その時は、だれも知らない。「その時」とは、いつですか?父だけが知っておられる、カイロスの時です。これが、再臨です。「その時は、だれも知らない。」

 マタイによる福音書26章17節~19節〔さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか。」イエスは言われた、「市内にはいり、かねて話してある人の所に行って言いなさい、『先生が、わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと一緒に過越を守ろうと、言っておられます』」。弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。〕最後の晩餐の準備をする時に、主がおっしゃった言葉です。イエス様がおっしゃったのは、「わたしの時が近づいた」それは、十字架の死。御自身が生け贄になる時。その時が、カイロスが来た。それまでは、イエス様は「わたしの時は、まだきていない。」ということを繰り返し、ずっとおっしゃっていました。不思議なことに、「わたしの時は、まだきていない。」と言う時は、クロノスが使われているのです。ですから、このイエス様という御方は、地上を人間として歩みながら、その時々、私たちと全く同じように、時刻、あるいは、そのある期間とか、それを体験されながら、それを意識されながら、同じように歩まれました。でも違うことは、時が刻まれるその有限の世界に生きながら、父なる神が定めておられるカイロス、それがまずイエス様の中にあり、そこに向かって、言い換えれば、その定めの時というのは、御心がなる時のことです。それを意識して、そこに向かって歩まれました。人間は、どのようにこの時を、生きているのでしょうか?倉敷47万人、約21万世帯、21万の家庭がある中で、ほとんどの人は、ホーラクロノスの中で生きています。でも、私たち主を信じて神の霊を受けた者たちは、その領域と場所を超えた、カイロスの時、神の定めの時、神の御心がなる時、その中に生きている者です。人間というのは、神を知らないです。生まれた時から教会に来ていた子供たちは、幸いです。でも、ある程度大人になって、初めてイエス・キリストという方を知って、今ここにいらっしゃる兄弟姉妹は、どのくらいおられますか?以前の自分の価値観とか、何を基準にして生きていたかとか、罪にまみれて、大人になってから初めて知った者にとっては、この世の中の考えは、生まれた時から当たり前に身に沁みついていたものが、どういうものかということを、ある程度は体験してこられています。神を離れた人間の姿、ホーラクロノスの中に生きている人間は、どんな人間でしょうか?先日、虐待で亡くなった5歳の女の子のニュースを、皆さん御存知ですよね。多分、日常的にその事がなされていたのでしょう。でも発覚したのが去年の9月頃で、病院に運ばれた時には、布団にぐるぐる巻きにされて、もう脳死状態だったとニュースで聞きました。けれどもその内容を聞いたら、本当にもう、正気の沙汰とは思えないようなことです。でもそれは、今もこの瞬間に行われている氷山の一角にすぎないです。その人の生い立ちがどうであれ、神様は人を殺した者を赦しません。同じようにされなければならないのです。過去の神を知らなかった時の自分を思う時に、また、神を知った後も、正しく生きようと、もがきながら、なかなか成長できないことを思う時に、人間の本質的なものである時の中に、肉の限界の中に生きる、その本質を私たちは思います。人間は欲深く、嫉妬深い。嘘を言い、すぐ怒り、ヒステリックになり、簡単に人を裁き、なかなかゆるさない。すぐ愚痴を言い、文句を言い、また、暴言を吐き、悪意を持つ、ケチだし、ずる賢いし、すぐ心を閉ざす。不親切だし、人を見下すし、対抗意識を燃やすし、見栄を張るし、無視するし、プライドを持っているので、自分の否は認めないし、自分の利益だけは受けようとする。けれども、その反面、被害者意識が強いし、もう皆、多かれ少なかれ、何らかの要素を持っています。クリスチャンで危ないのは、私もですが、「自分が正しい!」と思うことが、一番の、人にとっての誘惑ではないでしょうか。「本当にお前は、自分が正しいと、当たり前のように思っているかもしれないけれど、違うぞ!」と、いつも言わないといけないと思います。「なんぼの者やねん!」と。限界の中に生きていて、一番限界を感じるのは肉体です。肉体の弱さも含め、このクロノスの中に生きているということは、その自分を、ずっーと、生涯、死ぬまで持って生きなければならないという、この惨めさです。そこから主は、贖い出してくださいました。

 箴言16章9節「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である。」人は皆、自分の道をいろいろ考えます。「こうしよう、ああしたい。」しかし、私たちの歩みを導く方がいらっしゃいます。この方が、あなたを造られた主だと、聖書が言っています。導くとは、私たちをデザインして造られた御方が、その時、その時に定めていらっしゃる要求と計画。それは、カイロスです。私たちはその中に、そこに向かって生きなければなりません。神様は、この私たちの限界というものをはるかに超越した御方です。それは概念として、頭ではわかっているのですが、この超越した御方が、私を愛しておられて、限界を超えた場所、限界を超えた霊的な場所で、「生きよ!」と、言っておられることをいつも忘れてはいけません。人知をはるかに超えたキリストの愛、その愛を知って、それに満ちるように、私たちのクロノスの限界を、はるかに超えたキリストの愛、その愛を知るように、そして、それに満たされるように。私たちは、それによって生きるように、立場をまず与えられました。先ほど述べた、人間の自己中心の、私たちが本来持っていたその性質が、まるっきり変えられた、その状態を「義認」、義と認められた。これは、今、私たちがその立場であるということと共に、今、義とされた立場だ。神の子とされたということ、それと同時に、終わりの時、再臨の時に、もうその罪によって裁かれない、有罪とされない、無罪であるということの保証なのですそれを、「義認」と言います。私たちはまず、何の行いもなしに、「義と認められました。あなたに罪はもうありません。」というこの立場、これを、しっかり自分が知っていなかったら、もう一つの「聖化」ということに対して、クリスチャン生活が苦しくなってしまうのです。自分がはっきりと、「義とされた」というこの救いのポジションが、はっきりしていなかったら、神が言われることに対して、もうそれを律法として捉えてしまいます。「こうしなければならない」、でも出来ない自分。「ゆるしなさい」、でもゆるせない自分。「礼拝に来なさい」、礼拝を守れない自分。「献金しましょう」、献金したくない自分。自分は何も変わっていないかのように。全くの行いなしに義とされた私たちは、そこから始めて、自分の限界を超えて、神様の時、カイロスの中で、段々と聖くされていく、聖化の過程を通っていくのです。今、その過程にあるのです。その中で、口先だけではなく、以前は、口先だけだったかもしれない。でも、段々と、行いと真実をもって愛し合うという、実際の行いをすることができるようになっていくのです。それを信仰によって、信じなければなりません。先週、長老がおっしゃった、「謙遜」ということもそうです。自分で頑張って、「謙遜になろう、謙遜な人間にならなければならない。」その努力は、以前に十分にしました。でも、成功しませんでした。クリスチャンになっても、そういう自分と毎日戦って、「信仰生活ってしんどいわぁ。もう、わかっているんだけどなぁ。できないのよー!」いいえ、あなたは以前のあなたではなくて、もう義とされたのです。もうはっきりと認められているのです。主が再び来られた時に、「あなたは、無罪」。立場は、そうです。もう自由人です。自由人は、もう限界の中にいない。自由人ですから。束縛と限界の中に身は置いているけれども、日が昇って暮れるまで、歩んでいるけれども、クロノスの世界に生きてはいますが、内側には、カイロスがあります。カイロスという神の時と定めの中、御心の中を歩んでおられます。私たちも、そうします。

 パウロは獄中から、テモテに対してこの手紙を書いています。パウロは一度、ローマの牢屋に二年ぐらい捕らえられて、そこから一回出たのですけれども、今度は皇帝ネロの迫害によって、いわば主謀者のような形で捕らえられるのです。そして自分が死刑にされることを知って遺言を書くのです。皇帝ネロは自分で町に火を放って、ローマの大火と言われた紀元64年、その町をもう一回、自分の荘厳な町に造り替えるために、その町を燃やして、自分に嫌疑がかけられてきたので、その罪を、最近起こった訳のわからないキリスト信者とかいう者たち、この者たちに罪をかぶせようと思って、彼は自分に向けられた疑いの目を彼らに向けさせた。そして自分の庭に柱を立てて、クリスチャンたちをそこにくくりつけて、生きたまま火あぶりにして、その松明(たいまつ)を見て、自分は戦車でその庭を走り回って、お酒を飲みながら、裸で乱痴気騒ぎをしながら、クリスチャンたちのその叫びを、燃えるその火の人柱を見て楽しんだような人物です。彼らを指導していたのはパウロです。このパウロがつながれています。この状況の中でパウロは、最期の言葉、遺言を語っています。今、東からは、ユダヤ人たちの迫害、西からは、キリスト者と呼ばれた共同体の中にはびこる、間違った教え、そちらに逸れていく人たち。アジアの人たちは、もう皆散ってしまった。たった一人で地下に閉じ込められて、パウロは、Ⅱテモテ4章6節~8節「わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。」「わたしが世を去るべき時はきた。」この「時」は、「カイロス」が使われています。「わたしは、すでに自分自身を犠牲としてささげている。」まさに今、ささげようとしています。これは、供えのささげものという意味なのです。それは生け贄の動物をほふって、その血を注ぐ意味なのです。自分自身がまさにこの後、斬首刑にされる。パウロ自身が、その血をささげようとしています。その時が来ました。使徒パウロは、ここで、カイロスを使っています。「私が世を去るべき時がきた」。ただ、もうすぐ死刑になるのだ。その時間が、その日がもう近づいていると、以前はそういうふうに読んでいました。でも、カイロスという言葉をここで使っているということは、パウロはわかっていた。それが神の御心の成就の時だと。だから私は、悔いはない。「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、」何か、自分が立派だと言っているようですけれど、詳しい聖書で見たら、「良い戦いを」という意味なのです。「俺は立派だ!」という意味ではなくて、素晴らしい戦い、御心の中にある戦いを戦い抜いて、走るべき行程を、カイロスの中を、走り尽くした。信仰を守り通した。だから義の冠、それは主の報いです。勝利者にのみ与えられる報いです。ですから、それはパウロの勝利の宣言なのです。それ故に、黙示録は、勝利の宣言で満ちています。首を切られて、その後、私は主とお出会いする。過去の先達者たち、先輩のキリスト者たち、信仰者たちと共に、勝利の凱旋行進をする。その確信に満ちていたから。これは、カイロスなのです。神の御心の中、その完成を目指して走りました。私たちは、クロノスだけで生きてはならないです。

 神様はイスラエルの民を、何度も何度も、危機から脱出させました。紅海を渡った時も、ヨルダンを渡った時も、また、エリコの城壁を越えた時も、時が来たら声を上げた。時が来たら海が分かれた。神はいつも、その時、カイロスを用意されておられます。それが、「御心の中を歩む」ということなのです。それを知らなかったら、全くそれに意識がなかったら、ただ、カチカチカチカチ、何時になったから、来月のこれがこうで、次のスケジュールがこうで、今度のイベントがこうで。ただ時間の中だけを、もがきながら生きるのがキリスト者ではありません。カイロスの中に生きているから、希望があるのではないですか?この刻まれる時の中だけに生きるなら、虚しいだけです。イエス様を信じていたとしても、先ほど言った、己への自己愛で苦しむばかりです。神は、イスラエルの民、共同体に対して、この定めの時を、計画をもって導かれると同時に、皆さん御一人御一人の人生にも、「その時」を用意しておられるのです。ですから最近長老も、語ってくださいました。「それは神です」、というのはまさに、カイロスが私たちの人生の中にあるから。全部の事は、主がなされ、主が導かれ、主が定め、主が私たちを正しく真実に生きるようにと、聖霊を送られたのです。あなたの励まし主、あなたの弁護者、聖霊がおられます。皆さん、時を超えた場所、そこで今日も生きましょう。この偉大な、人知をはるかに超えた神様の愛の中に生かされていることを、今日も互いに喜びましょう。

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