top of page
執筆者の写真kchristchurch

2021.6.6 久松 政一 使徒的長老「ゆるしは誰のため」

ゆるしは誰のためにあるのでしょうか?今日は少しギリシャ語を通して、深く聖書を知りたいと思います。皆さんも何度もイエス様が語っておられる言葉を読んだり、またそういうメッセージを聞いたりしておられますけれども、今日はもっと、それを深く掘り下げて本当にそれを皆さんのものにしていただきたいと思います。今日は3つ、ギリシャ語から「ゆるし」という言葉を見ていきたいと思います。

【1、aphesis 解放、自由、ゆるし】

第1番目、どのように読むのかはわかりませんが、ギリシャ語で、「aphesis」これは、「ゆるし」という言葉が使われています。そしてここには違う意味で、「解放」という意味もこのギリシャ語には含まれています。ですから「ゆるし」という言葉が聖書で使われているところもあれば、同じギリシャ語で、「解放」という意味で使われているところもあります。そして「自由」という言葉が使われているところもあります。ですからこのギリシャ語が使われているところを見てみますと、たくさん「ゆるし」というところが使われているだけでなく、「解放」というところにも使われ、「自由」というところにも使われていることがわかります。そしてその文章の前後を見て、聖書学者たちは、これが一番適当であろうというその言葉が、ある時は「解放」、ある時は「自由」、ある時は「ゆるし」という言葉で聖書に書かれています。私たちは聖書を読むときに、その「解放」という言葉と、「ゆるし」という言葉が、同じ原語からきているということはわからないです。そういう意味では、ギリシャ語を少し学ぶことは、非常に有益だと思いましたので、今日は、特にこの内容を語りたいと思っています。この「aphesis」は、本当にたくさん書かれています。30~40箇所、新約聖書の中に書かれています。そしてこの「ゆるす」ことは、自らが「解放」されることであると言うこともできます。「ゆるす」という言葉の他の意味は「解放」ですから、「ゆるす」ということの中に、「自らが解放される」という意味合いが含まれています。また「自由な心が与えられる」ということでもあります。ですから「ゆるす」ことは「解放」であり、あなたにとって「自由」を得ることでもあります。神様の側から見てみたいと思います。

へブル人への手紙9章22節「こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。」神様の側からは、このヘブル書9章22節に、「ゆるしを得るために血が流された。」と、書かれています。ですから、ゆるされるためには、尊い代価が払われている。私たちがただ、イエス・キリストを信じるという簡単なことではない。その背後には、神様の側からは、私たちがゆるしを得るためには血が流されている。すなわち、死という代償があるということです。これをなくして、私たちの「ゆるし」ということはありえないのです。すなわち死という代償が払われたのです。ですから私たちは、「ゆるし」という言葉の中に、神様の側から言えば、尊い御子イエスの血の代償が払われている。このことを深く理解するならば、我々がゆるされているということが、いかに尊くありがたいことかということがおわかりになると思います。また人の側から言いますと、使徒行伝2章38節「すると、ペテロが答えた、『悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。』」罪のゆるしを得るために、私たちの側からは洗礼を受ける。バプテスマを受けるということが、私たちの側から言えることであります。罪のゆるしを得るために、私たちはバプテスマを受けたのです。それはイエスと一つになるため。神様の側から言えば、イエス様は死という代償を払いました。私たちの側から言えば、キリストと共に死ぬ、というバプテスマを受けることになります。それによって私たちは、「ゆるし」ということを得ることができるのです。それゆえキリスト教では、イエス・キリストを信じた者は、必ずバプテスマを受けるのです。現在のキリスト教会では、イエス・キリストを信じることと、洗礼を受けることには非常に空間があります。しかし、2千年前では、イエス・キリストを信じるということは、洗礼を受けることと合体していたのです。ですから信じるということは、洗礼を受けて、キリストと共に死ぬというイエスと同じ経験をするということによって、ゆるされるということがなされていたのです。しかし今は、信じても洗礼とはほど遠く、信じても洗礼は受けないという方々もおられます。それはこの救いが本物ではないということです。信じることと洗礼は一つです。それがイエス・キリストがおられた時代の真理です。今が歪んでいるのです。

 そのような意味で、我々の教会の最初は、学生の人たちが最初にイエス様を信じましたから、その時代はこんな教会堂もありませんし、ビルの一室を借りていた時代ですから、イエス様を信じたらその日に、大体5~6人くらいを高梁川まで車でお連れして、そして高梁川の中州くらいの所まで行って、春であろうが、夏であろうが、秋であろうが、冬であろうが、洗礼を授けたのです。ですからその当時は、信じることと洗礼は、1日の内に行われたことが多かったのです。でも今は、非常に長い期間をおきます。それはある意味、信じるということが本当に悟れていない人たち。ただ理解だけしているような人たち。「信じたら救われるのだ!」「天国に行けるのだ!」それくらいの本当に低いレベルの教えでしかなかったから、その信じた人たちも非常に軽い受け止め方でしかなかったのです。その意味で洗礼の教えをするということは大切なことだと思います。けれども原則は、信じたらすぐに洗礼を受けるということ、それは聖書が言っていることです。その意味において、罪のゆるしを私たち人の側から得るためにバプテスマを受ける。それによって私たちは「解放」されるのです。私たちの内面は、この世の中のありとあらゆるものによって汚染されているので、自分自身がそれに気づきもしない人たちが大部分なのです。どのように自分自身の考え方が汚れているのか、また愚かであるのか、またいろんな好み、そういったものによって本当の充実感が得られない。この世の中のありとあらゆるものは、皆、軽いものであって、一時的に素晴らしいと思ってのめり込むけれども、時間が経ったら、それは虚しいものになっていくものばかりです。永遠に充実したものなど、この世には何もないのです。それゆえに、私たちが本当のゆるしを頂いたら、その原語のもう一つの意味は「解放」される。ということは、私たちの圧迫や、また世の中のありとあらゆる煩いから解放されるということです。今、私たちは解放されているのです。そのことをこの「aphesis」の中にあるということを、あなたは信仰によって受け止めなければなりません。信じるなら、あなたのありとあらゆる問題も本当は解放されているのです。

 2つ目、私たちが罪のゆるしを得るために洗礼を受けたということは、「自由」が与えられたのです。本当の自由です。私たちは何かに束縛されるのです。世の中は、こうしなければいけない。ああしなければいけない。学校で勉強しなければいけない。どうして勉強するのか、何も答えを言ってくれない。本当の意味で、自由を与えられているということをキリスト者が知ったら、「ああ、罪がゆるされたということは、解放されたのだ!私の内側に、真の自由が与えられたのだ!」ありとあらゆることを自分勝手に何かやることが自由ではない。けれども心から、本当に喜びに満ち溢れる。喜びが溢れてくる。それは、キリストによるゆるしなのです。その意味において私たちは「aphesis」は「解放」であり、「自由」でもあるということを今日あなたは受け止めるべきです。素晴らしいですね。イエス様の罪のゆるしは、これが含まれているということを知りましょう。確かに世の中で圧迫があります。不条理があります。矛盾だらけです。本当にイライラするようなことが毎日起こります。この地上で平安を保つということなどできません。いつも嫌なことや、悲しいことや、そして苦しいことが待っています。けれどもあなたの内側に「ゆるし」が与えられたら、そういった外側からのあらゆる問題を「解放」してくれます。「自由」が与えられます。いや、与えられています。信じなさい。そう聖書は告げています。

【2、apoluō 解散する、離縁する、別れる】

 第2番目、「apoluō」これも「ゆるす」という言葉です。私は、これはすごいなと思いました。ギリシャ語の意味をいくつか挙げてみました。一つ目、ゆるすは、「解散する」という意味です。ゆるすということは、「離縁する」そして「別れる」。この「解散する」というのは、「集まっている人が別れ散る」という意味です。「離縁する」というのは二つあって、「夫婦の関係を断つ」ということと、もう一つは、「養子縁組を解消する」この二つが、「離縁する」という意味と言われています。そして、「別れる」という一般的な意味は、「一緒にいたものが、離ればなれになる」そういう意味合いがあります。さあ私たちは、この一つ目の「解散する」をどうとらえますか?あらゆる過去の出来事から、私たちは「別れ」なければなりません。「解散」しなければなりません。あなたの記憶の中にある、ありとあらゆる出来事の中で、いつもあなたを煩わせるもの。何かが起こったときに、過去の記憶の中で、それがあなたをいつも苦しめてくるもの。そういうものから「解散する」ということが、「ゆるす」という意味です。ですから私たちは、この「解散する」という意味は、「過去のあらゆる出来事から別れる」ということです。それがギリシャ語の中に含まれている以上、イエス・キリストのゆるしは、あなたの中で過去のありとあらゆる悲しみや、苦しみや、また現在も持っているそのどうしようもない思いから別れることができます。そう告げています。そして「離縁する」。これは、いろんな思い煩いや、また、ある人に対しての憎しみや、また自分自身がとらえられている強い関係を解消する。「離縁する」のです。その真理が含まれています。また「別れる」は、いろいろな思い込みや、あなたが妬んでいることや、また妬まれていることや、怒りや、憤りから私たちは離ればなれになったのです。私たちはそういう不必要なものから離れるのです。それがゆるしの中に含まれているということを理解するなら、私たちは「ゆるす」というギリシャ語の深みをあなたは今日、もっと覚えることになりませんか?神様の側から、この御言葉を見てみましょう。

ルカによる福音書6章37節 「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。」イエス様がおっしゃいました。「ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。」これは命令です。私たちが、イエス・キリスト様からゆるされたのであれば、「あの人をゆるします。」とか、そういう領域はもうないはずです。ある人は言うでしょう、「ゆるすことに努力しているのです。もうあの人のことを思っただけで、心が煮えたぎるようになるのです。でも私はクリスチャンですから、ゆるさなければいけないと思っているのです。」と、そのゆるしは人間のゆるしです。人間は人をゆるせません。人間は、人から受けた苦しみや悲しみをずっとたくわえているのです。そして何かがあったときに、全部言います。「何年前、あなたはこうした。何もあなたは変わっていないじゃない!私はゆるそうと努力したのに、あなたは今日もまた、こうしたでしょう!」もう、ありとあらゆるものを持ってきてぶつけます。人間のゆるしはゆるしではないです。貯蓄です。イエス様は、「ゆるしてやれ」と言ってらっしゃいます。神様の側は、「解散しなさい」あなたのその考え方を。ゆるせない過去のありとあらゆるもの、また現在も、まだまだ腹立たしいあの友達、あの親、あの兄弟。もう、そう思えば、本当にイライラしてくる。誰のためですか?イエス様がゆるされたのは。イエス様は、「解散しなさい」と言われています。「ゆるしてやれ」という意味と、「解散しなさい」ということは同じ原語です。「離縁しなさい」「別れなさい」「ゆるしてやりなさい」これが神の側からあなたに命令していることです。神様だけが、あなたにこれを命令することができる唯一のお方です。なぜなら、あなたはイエス・キリストを通してゆるされたのですから。ゆるす霊は、あなたのうちにあるのです。キリストを知らないなら、あなたは人をゆるせないでしょう。絶対に憎みます。必ず恨みます。ずっと持ち続けます。けれども、キリストを信じるということは、「ゆるされた」のです。ですからイエスは、あなたに「ゆるしてやれ」と、命令することのできるお方です。「離縁しなさい」「別れなさい」そうおっしゃっています。皆さん、本当に離縁しないでください。人の側からは、自分もゆるされるためです。ですから誰のためですか?と言ったら、「あなたのためです」「私のためです」皆さんは何度も経験されたでしょう。ゆるしがたいやつだけれども、仲裁の人が入ってくださって、「まあ、なんとか今回はゆるしましょう。もう腹が立つけれども。」そういうふうに思ったことも、何度もおありでしょう。でもそれはおかしいです。神様があなたをゆるしてくださったのに、ゆるしの霊が、すなわち「apoluō」というものが、このギリシャ語の霊が、あなたの中にあるのなら、人をゆるせないということはありえないです。それを、もしするのだったら、あなたは偽善者です。自分はゆるされていながら、人に対しては「まだまだゆるせない!」そうしたらイエス様はどうおっしゃいましたか?「私もあなたをゆるさない。」とおっしゃいました。ですからこれは、地上で勝負をかけないといけないのです。あなたが本当にゆるされているのなら、人をゆるすことは簡単です。キリストの霊があなたのうちにあるからです。そういう意味において「解散」、あらゆることから別れ散ることができるという意味の「解散」です。そしてまた、2番目の「離縁」は、とらわれている関係を解消する。本当に解消されたら、最初のギリシャ語にあるように自由です。私たちは何かにとらわれて解消されなかったら、いつも圧迫があるのではないですか。そこから自由になることが、どんなに幸せなことか。イエス・キリストは、そのために代償としてご自身を捧げられたのです。いい加減にキリストを信じているのなら、とんでもないことです。その意味において、私たちは、「解散」「離縁」「別れる」それは、全部ゆるすという原語から来ているということを覚えてください。

【3、aphiēmi 置き去りにする、見逃す、免じる】

第3番目、「人をゆるす」ということを強調しましたけれども、「人の過ちをゆるす」という言葉で、この「ゆるし」が使われている原語はこれです。「aphiēmi」人の過ちのゆるしで、よく用いられています。この原語は、「置き去りにする」「見逃す」「免じる」この意味があるのです。それとどうして「ゆるし」がつながるのだろう?霊的に悟ることができる人はすぐわかります。「置き去りにする」というのは、一般的にその場に残したまま、行ってしまう。そして、「先に進む」という意味があるそうです。「見逃す」というのは、見ていながらとがめない。見てはいるのですけども、「だめでしょ、それは!」と言わない。自分が見逃してもらえたらありがたいと思うけれども、自分は見逃さない。そういう人、いっぱいいるでしょう。手をあげてくださいと言ったら、多くの人が手をあげるに違いない。でも嘘をつく人もいます。もしくは、それさえわからない人もいます。これが一番怖い。神様の前に立って、皆さん裁判を受けるのです。ですからイエス様は、先にあなたに忠告しているのです。「ゆるしてやれ」。「免じる」というのは、「負担や義務を免除する」という意味です。この1番目の「置き去りにする」というのは、あらゆるものにとらわれていないで、「先に進む」「置き去りにする」という意味です。私たちは置き去りにできないです。何か言いたい。何かひとこと言わないと気がすまない。言えなくても、心の中でものすごく憤りを持っている人もいます。それを「置き去りにしなさい。」「先に進みなさい。」それが、「ゆるし」という意味です。また、ひどいことを見聞きしても、非難しない。「見逃す」ゆるしというのは、そういうことなのです。見ていながらとがめない、責めない、相手を非難しない。これが、「ゆるす」という意味です。また「免じる」。負担や義務を免除するのですから、人にされてきたすべての負債や不満を、「免除します!」。今まで、「あんなこと言われた。」「こんなことされた。」「私はこういうふうに願ってやってあげたのに、ひどいことをされてきた。」それを全部、「免除します!」。私は神様の前に、本当にひどいことばかりやってきたと思います。私が思っている何十倍、何百倍も私は神様にひどいことをしてきました。それをイエス様は免じてくださった。何も言わないで。むしろ十字架にかかって、「あなたをゆるした」と、おっしゃった。その「ゆるし」の意味が含まれているのに、聖書の中でたとえ話しにあるように、あなたはどんなに小さなことでもゆるせないのですか?あなたの目には、ものすごい塵がありながら、人のちょっとしたこともゆるせないのですか?あなたはイエスの「ゆるし」を受けているのですか?その意味がわかっているのですか?私のうちにキリストのゆるしがあるなら、嫌なことがあったとしても、「免除します」「ゆるします」なぜならキリストの霊が私のうちにあるからです。

マタイによる福音書6章12節 「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」神様は私たちに、「負債のある者をゆるしました」だから人の側から言えば、「わたしたちの負債をもゆるしてください」そう書いています。これは御言葉です。これが私たちの価値観です。神の御言葉は、あなたの人生の価値観です。この世の価値観は、あなたの中にはいっさいありません。世の中で培ってきた知識や経験や、大学で得た知識は、なんの役にも立ちません。むしろそれが問題です。大学に行って知識を得て、そしてその知識を用いるとき、人のために使っている知識ですか?それとも己を良く見せるための知識ですか?これによって「損を算出する」の逆になります。あなたが能力や知識を得るということは、ものすごく危険なのです。偉そうにするから。うぬぼれるから。人を見下げるから。この能力を、本当に人のために使っている人というのは、ごくわずかな人たちです。それはきよい人たち。それは本当に、御言葉に従っている賢い人たちです。ノエル・ウッドロフ師の側近くらいの方々は、それをしています。私たちが知識や能力や、この地上で、あらゆるそういったプロフェッショナルなものを持ったら、多分あなたはうぬぼれます。それだったら持たないほうがいいです。それは本当に優れた人たち、きよい一群の群れです。そこにあなたは到達できるのですか?その信仰があるのなら、しなさい。それはものすごく有益でしょう。でも9割以上の人は、それにとらわれています。本当に、そのプライド、能力を、人のために、自分を完全に捨てて、その人と同等になって、むしろ低くなって、その能力を用いている人は、本当に少ない。「いいえ、私なんかそんな。」と言いながら、自分がやっていることにプライドを持っている。そして、「ありがとうございます。」と、感謝を言わなかったら、「あの人は私がこんなにやっているのに、感謝もなにも言ってこない」。それだったらもう、やめたほうがいい。イエス様に裁かれます。そういう意味で、私たちはこのイエス様の御言葉、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」というその言葉は「aphiēmi」という言語です。人の過ちのゆるしです。人のためにゆるすということは、「他のために生きる」ということです。こう見ていくと、この「ゆるし」ということの中に、コングレスの最後の成熟への追跡の4つ目を思い出します。「後ろのものを忘れ、前のものに向かって体を伸ばす」という行為は、信仰の努力がなかったらできないことです、と学びました。「後ろのものを忘れ」すなわち私たちは、もうこの瞬間、瞬間、過去になっていっているのです。それは記憶の蓄積だと言いました。私たちの人生は、過去によって形成されているのです。未来はまだ来ていません。ですからあなたが今ここで聞いていることは、もう過去になっていっているのです。その過去に起こった、あなたのすべての出来事、それがあなたの記憶の蓄積です。記憶というのは、何層にもわたって蓄積されている土の層のようです。あなたの一番奥の底辺には、ものすごくどす黒い蓄積されたものがありませんか?何十年にもわたって蓄積されてきた、あなたの独特の記憶の蓄積、それがあなたを襲っていくのです。それを全部ゆるしなさい。そして前のものに向かいなさい。ということは、上を目指すということです。私たちは霊の人です。地上の人ではない。私たちは永遠という霊の中で生きているのです。この肉体はもうすぐ消えます。けれどもあなたのうちにある神の霊は、永遠という喜びの中で、永遠に神と共に住まうのです。その目的のゆえに、私たちが記憶の蓄積をしてきた過去の出来事、良いことも悪いことも、皆、後ろに捨てなさい。そして上を目指しなさい。地上での蓄積をためることをやめなさい。それが4つ目の、ウッドロフ師が主から与えられた教えです。「ゆるし」、深いですね。あなたはその「ゆるし」を頂いているのです。だからあなたはもう解放されているし、また「解散」することができるし、「離縁」することもできるし、「置き去り」にすることもできるし、「見逃す」こともできるし、「免じる」こともできるのです。その「ゆるし」です。それは神からの「ゆるし」です。私たちの教会は、コングレスです。コングレスは教団ではありません。これはネットワークです。このコングレスの教えが素晴らしいと思った、自主的にそこに入りたいと思う教会によって、作られている世界のネットワークです。それは今の真理です。内側の変革です。でも救いの真理もイエス様のもの。バプテスマの真理もイエス様のもの。聖霊のバプテスマもイエス様のもの。レストレーションの真理もイエス様のもの。内側の変革もイエス様のものです。私たちはコングレスという名前がついていますが、神様の真理の中に今いるということです。その中にいるのなら、私たちは「罪のゆるし」というこの真理を深く留めて、あなたは決して人を裁いたり、ゆるせないような状態にならないようにしてください。ゆるしの真理がわかるなら、あなたは解放されます。喜びに溢れます。あなたの中に暗いものがあるなら、それは「ゆるし」が定かではありません。もう一度イエス様に祈りましょう。そして主がどんなに尊い犠牲を払ってくださったかを知っていただきたい。そしてその恵みを頂いてください。ゆるされた者はもう喜びです。もう何も神様に責められない。神様は裁かれない。人がどう思おうが、どうってことない。神様が私をゆるしてくださった!もう飛び上がりたいくらいです。そのような「ゆるし」です。

閲覧数:66回

最新記事

すべて表示

2022.11.6木村由智牧師「神様が回復したい関係」

今日は、「神様が回復したい関係」というテーマで、聖書を見ていきたいと思います。「神様が回復したい関係」とは、どういうものなのか?私たちは正しいアイデンティティーを回復することが必要です。ある所から少し抜粋したものですけれども、ある精神分析学者が定義した言葉を、皆さんと少し分...

2022年10月2日久松求牧師「私たちの特権」

皆さん、グッドモーニング。主の御名をほめたたえます。皆さんのお手元に、月報がございます。この月報をいつも見て、神様の共同体の動きをいつも注視していただきたいと思います。これを置いたまま帰らないようにしてください。これを作るために、多くの人々の時間と犠牲が捧げられています。私...

2022年7月31日(日)壽藤考志牧師「恵みを流し出す人となる」

皆さん、おはようございます。お久しぶりです。2020年の3月29日が、ここでの最後の礼拝だったと思います。あれからもう2年と4ヶ月ぐらい経ちますけれど、またここに立つことができて、こうして皆さんの顔を見ることもでき、また共に礼拝ができる恵みを心から感謝します。愛媛県は3つの...

Comments


bottom of page