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2021.5.2 木村 由智 主任牧師 「キリスト者として生きる」

更新日:2021年6月7日

 倉敷、岡山、愛媛、京阪奈の兄弟姉妹、またYouTubeでご覧になっている兄弟姉妹、主にあって感謝いたします。皆さんと共に今朝も御言葉を見てまいりましょう。

 まず一つ目は、私たちが主の前に砕かれた心を持つということです。

 1、詩篇51篇16節、17節「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」ここにあるように、「あなたはいけにえを好まれません。」私たちは今日も賛美をもって、神様に霊のいけにえを捧げました。でも神様が求めておられるのは、「そのいけにえに砕かれた魂が伴っていなければいけません。」ということをおっしゃっておられます。神様は、砕けた悔いた心はかろしめられないという約束があります。この地上は、理不尽な事がたくさんあります。しかし、私たちは理不尽さを通して、神様の前に真実ないけにえを捧げるのは、私たちが砕かれた心を持つことです。これは非常に大切なことです。いくら私たちが素晴らしい真理を知っていて、どれだけ祈ることができて、どれだけ聖書を暗唱することができたとしても、私たち自身の魂が砕かれていないことは、神様の前には喜ばれるいけにえとして十分ではありません。私たちは神様によって砕かれた心を持つということを、もう一度確認しましょう。

 イザヤ書57章15節「いと高く、いと上なる者、とこしえに住む者、その名を聖ととなえられる者がこう言われる、『わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へりくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす。』」神様は当然、いと高く、いと上なる方であり、永遠にお住まいになられる方であり、その名は聖いお方である。その方が私たちに願っておられるのは、「心砕けて、へりくだる者」と共に住みたいということをおっしゃっておられます。そして「砕ける者の心をいかす」と言われます。この世では砕かれてしまうと、もう負けたかのように思ってしまいます。でも実際は、神様が本当に砕かれた人の心をもう一度生かしてくださる。砕かれることによって、理解できる事柄があるということです。でも私たちは砕かれるということを非常に嫌います。あまり嬉しくは思いません。しかし神様は、「心砕かれてへりくだる者と共に住む」とおっしゃっておられます。私たちが砕かれてへりくだるということが、主と共にいることなのだということを覚えましょう。知識をたくわえても、また経験をたくわえても、私たちが砕かれていない、へりくだっていないならば、それは虚しいものです。それは偽りです。そういったものを私たちの中から排除して、いつも私たちはへりくだり、また砕けた心をもって主の前に歩んでいくということを心がけていきましょう。

 イザヤ書66章2節「主は言われる、『わが手はすべてこれらの物を造った。これらの物はことごとくわたしのものである。しかし、わたしが顧みる人はこれである。すなわち、へりくだって心悔い、わが言葉に恐れおののく者である。』」神様は「全部を造った」とはっきりおっしゃったのです。「全部は私のものだ」とおっしゃった。そこで神様が顧みる人は、へりくだって、いつも心に悔いをもって生きている人なのです。そうでないと、神様の言葉に恐れおののくことはできないと言われています。「苦しみにあったことは良いことです。それを通してわたしはあなたのおきてに従うことができます。」神様の言葉に従うことができるために、私たちは砕かれないといけないということです。神様の言葉に恐れおののくために、私たちはへりくだって、砕かれた者でなければいけないのです。神様は、「全部は私のものだ。」でも神様が顧みられるのは、へりくだった人です、とおっしゃっておられます。私たちはそういう者であるということを信じましょう。そして自ら神様の前に、「私は神様がいらっしゃらなければ、愚かな者なのだ。」という悔いた心を持つということが大切だと思います。それがなければ、いくら私たちに知恵があり、また山を移すほどの信仰があったとしても、聖書ははっきりと、「愛がなければいっさいは無駄」とおっしゃいます。神様の愛は本当に素晴らしい愛です。私たちの中にある愛と呼ばれるものは、それはただの自己愛です。自分の都合のためにだけ良くしていく。でも神様はそういうことではなく、神様はここで、「これはわたしのものだ」とおっしゃったときに、「わたしが顧みる人はこれである。」と、能力がある人であるとか、何かに秀でている人だとはおっしゃっていない。むしろへりくだっている人だ。心を悔いている人だと神様がおっしゃっているのですから、私たちはこの言葉に恐れおののいて、自分をわきまえていくということに、心を留めたいと思います。

 ダビデが神様の前に油注ぎを受けたときに、お父さんがお兄さんたちを連れてきて、「一番上はペリシテ人と戦いに行って訓練された者だから、神様がお選びになられるのはこういう人だろう。」というように思ったのです。でも神様は全部退けて、最後に、「いや、もうひとりいるだろう。それは羊を飼っています。」と、ダビデのことを言ったのです。「人は外の顔形を見るけれども、神様は心を見る」とおっしゃったように、神様はダビデの中には砕かれた心を見ていたのでしょう。兄たちは戦場で王のために働いて役に立っている。ところがダビデは羊を飼って、言葉も通じない羊を飼いならして、おさめて、その枠の中に入れてという訓練の中で、自分の考えの至らなさや、自分の力不足や、そういったものを感じながらも、一生懸命その委ねられた務めに従事していたのです。そういうところから、彼は非常に心が砕かれ、へりくだっていたということが推測できると思います。神様はそういう人を探しておられたのです。そして、「この人だ!」と。人間的に見たら、能力が十分ではない。でもこの地上のいろいろな出来事に対しても、心を砕いて、そのことに対して仕えている。「彼をわたしは選んだ。」とおっしゃったのです。私たちの選びも同じです。神様の愛はそういう愛です。皆さんに何かが秀でていようがなかろうが、関係なく神様は、「わたしがあなたを造りました。あなたはわたしのものです。」とすべての人に言っておられるのです。でも神様が顧みてくださる人は、そのように心が砕かれている人です。これは基本的な神様の真理でありますけれども、私たちはそのことを求めていきましょう。

ミカ書6章8節「人よ、彼はさきによい事のなんであるかをあなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。」神様が私たちに求められていることは、「ただ神様の正しさを行い、そしていつくしみを愛しなさい。」これは全部神様のご性質です。そして最後に、「あなた自身がへりくだって、あなたの神と共に歩むことです。」絶対に偉そうであってはならないです。私たちはへりくだって、神様の前を歩んでいかなければなりません。まず一つ目の私たちの基本的な信仰姿勢は、「へりくだる」ということです。神様の前に兄弟姉妹、へりくだって歩んでいきましょう。あなたが理不尽だと感じたとしても、それはあなたを砕くために神様がご用意してくださった良いものであるという受け止め方で、この地上のさまざまな出来事を受け止めていくことができれば、私たちは成長できると信じます。次に、「私たちの力の源はどこにあるのか?」当然、砕かれた心を持っているところから、私たちの働きが始まっていくのです。でも皆さん、砕かれるまで働きをしてはいけないとか、私は砕かれているだろうか?とか、そういったことばかりに関心を寄せないで、私は何かあったときに本当に砕かれて、何かを神様が起こしてくださるときに、「あっ、これは神様が私と正しく歩みたいために起こしてくださっていることなのだ。そのことのゆえに、神様感謝します。」という心を持って進んでいただければと思います。

 マタイによる福音書6章21節「あなたの宝のある所には、心もあるからである。」私たちの宝としている所に心があるとイエス様はおっしゃったのです。皆さんの宝は何でしょうか?私たちが宝としているものというのは、価値のあるものと考えることができます。価値あるということを考えるときに、たとえばパウロのように、「べニヤミン族の生まれである。八日目に割礼を受けた。律法の点では落ち度のない者であり...」と、彼の生い立ちのことを言っています。彼は非常に、それにプライドを持っていて、それ自身を愛していたと思います。ですから自分はできているという立ち位置が彼にはあったと思います。ではそういうものがない人はだめなのかというと、そういうことではありません。パウロは自分に与えられていた背景を愛していたことのゆえに、彼はそれが糞土のように捨てないといけないものなのだということに到達できなかったのです。そしてキリストを知ったときに、これを私は愛していたけれど、これは愛するに値しないものなのだということに気づいたときに、このような価値は捨てるべきだと彼は到達することができたのです。私たちは何を愛しているのでしょうか?何を宝としているのでしょうか?

 私自身、家内とのやりとりの中で感じたのは、私が5、6歳の頃に父親が亡くなり、その時点で私自身の精神的な年齢が止まってしまっていると言われ、そのことについて考えたときに、そのような考えがなかったので、何を言っているのか、さっぱり私にはわかりませんでした。でもそのことのゆえに、私は悲しみや、痛みや、苦しみの中に自分自身をずっと押し込めて生きてきていたので、それ以上のものをこの地上で求めるのです。喜びとか、快感とか、スリルとか。それによって自分の悲しみ、痛み、苦しみをいつも制御していたということに、やっと振り返ることができるようになったのです。ですから幼いままで、体も知性も発達してきました。でもどこか、バランスの悪さが私自身の中にありました。それがまた幼いわけですから、非常に純粋に見えるのです。それで人から、「純粋だ。素晴らしい!」と評価されたら、「自分は純粋なのだ。評価された!」というところに、また軸足を置くのです。でもそれは誤った価値基準からきているものだということに気づかなかったのです。自分自身では、それを愛しているとは思わなかった。むしろ、悲しみ、痛み、苦しみだと思っていた。でもそこから離れることをしない自分自身が、それを愛しているということにつながるのだということに気づいたのです。皆さん、いろんな人がいる中で、生い立ちや、背景や、全く違いますけれども、私たちはそれらのものを価値ありとしてはならないということです。良いことだけを宝だと考えがちですけれども、私たちが受けたさまざまな仕打ちや、そういったものがあなたの中で怒りのエネルギーとなって、あなたがこの地上で何かをやり遂げようとしているならば、それは誤った、偽りの考え方であるということです。パウロはそれに気づきました。捕らえられて、かたくなになって、神に対して不信仰を抱くということになってしまっているということです。

 エゼキエル書36章26節「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。」このエゼキエルの背景は、イスラエルは捕囚の中で、捕らえられて、自由がなく、束縛されている中で、神様が彼らに言った。それは彼らが囚われていることによって、かたくなになってしまって、神様に対する不信仰を起こしていたことのゆえに、エゼキエルを通してイスラエルの人々に言われた言葉です、「新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、」すなわち肉体から、「石の心」すなわちかたくなな心です。もう冷たく、かたくなになってしまった心。私は本当にそういう心だったと思いました。この世で生まれた悲しみ、痛み、苦しみによって、冷たい、かたくなな心になってしまっていたのです。神様はそれを取り除いて、「肉の心を与える」ここで言う、「肉の心」というのは、血の通った、温かく、柔らかな、柔和な心を与えるという意味です。ですから彼らは捕囚になって、冷たくかたくなになって、「神様がいるのか!?」というように、固まってしまったのです。でも神様はそれを取り除いて、「肉の心を与える。」本当に血の通った、温かく、柔和な心をイスラエルの人たちに与えると約束されたのです。これは同時に、今日のこの地上の枠の中にとどめられている我々に対しても、神様が語っておられる言葉だと思います。今日皆さんの中に、コロナ禍の状況で、恐れがきて、心がなえてしまうかもしれません。でも我々は信仰を持って進んでいきましょう。もう一度皆さんの心が、恐れや不安になって、かたくなになっているならば、それを取り除いていただいて、神様から柔らかい心を与えられましょう。柔和な心を与えられましょう。「あなたは冷たい。」と言われたことがありました、それは私自身が、この地上の苦しみを愛していたところから起こった心の状態だということです。

 キリストの十字架によって、私たちの過去は完全に赦されました。過去は新しくされました。何も恨む必要はありません。どんな人生を歩んできたとしても、あなたが神様につながったら、神様が私たちの肉のうちから、石のかたくなな心を取り除いて、血の通った温かい柔和な心を与えてくださるのです。ですから神様につながり続けるということは大切です。神様はご自身の名前のために働かれるとイザヤ書にあります。「わたしはわたしの名のためにこれをする。」とおっしゃられる。私たちに何かをされるのは、神様のためにされているのだ。それを通して神様のご性質を受けて、その苦しみや悲しみの中でも何もないかのように喜び楽しんで神様の前に立っている。それは砕かれないとできないことだと思います。知識をどれだけ積もうが、経験をどれだけ積もうが、私の中にそのような心がなければならないということです。ですから彼らに、「神の御名を求めなさい。」とエゼキエルがもう一度言ったように、私たちもいつも神様を求めるということをしていかなければなりません。祈ることです。そして御言葉を読むことです。この普通のことを、私たちは忠実にやっていかなければなりません。

 一つ目が、「砕かれた心」そして二つ目は、「私たちの力の源はどこから来ますか?」ということです。そして三つ目が、「神様の訓練」です。

へブル書12章5節~11節「また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、『わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである』。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」

「私たちは神様の子供だ!」「あなたは神の子とされました!」と言いますし、皆さんもそう信じていらっしゃるでしょう。子であるならば、神様は私たちを訓練される。むち打たれる。「受けいれるすべての子を、むち打たれる。」私はむち打たれたことがないので、子供にむちを打つというのは、本当に嫌な感じです。でもそれを訓練としてしなかったら、整えられないようになってしまうのです。ですから、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。」「主に責められるときとは、どんなときかなぁ?」と思いますけれども。皆さんがこの地上で受ける、あなたの感情や感覚にそぐわないことです。「それが来たときに、あなたは弱ってはならない。」と神様はおっしゃいます。なぜなら神様がそれを与えるということは、あなたのことを愛しているからだということです。「受けいれるすべての子を、むち打たれる。」のですから、「訓練として耐え忍びなさい。」子どもとして扱っておられるのです。良いものばかり与えられるのではないです。悪いときには、正しく成長していくために、むちを打ってくださる。それが本当に愛の証拠だということです。「子供にむちを打っておしりを叩きなさい。」と言ったら、「子供がかわいそうだ、だからできない。しない。」と言うなら、子供たちは過ちを犯したときに、矯正されることはありません。どんな考えも、自分の考えは正しいと思って進んでいくでしょう。しかしそれは間違っているということを教えてむち打つときに、子供たちは矯正されて、訓練された者として正しく歩んでいくことができるでしょう。「もし訓練が与えられなければ、実の子ではない。」と、聖書は言うのです。こんなつらいことはないです。肉親の父は、自分の考えに従って訓練を与えるけれども、霊の父は、すなわち神様は、「わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。」神様と同じようなきよさを現わすために神様は訓練されます。だからそれを喜びなさい。「当座は、喜ばしいものとは思われず」「もう本当にこんなことが、自分の人生の中に起こらなければならないのか!?」と思うようなことがあっても、「訓練として耐え忍びなさい」と、神様はおっしゃるのです。「それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。」恨むことも簡単です。裁くことも簡単です。でも最終的に、これは神様から与えられたものとして、受け取っていくということが、真の強さにつながっていきます。神の子としての純粋さにつながっていきます。ですから、「あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。」と、そのあと続くのです。具体的にどうしたらいいのか、もう「なえた」ということは、もう何もすることが嫌になっている状態を、「もう一度仕事をするように、あなたの手を強めなさい。」弱っているひざ、「本当にもう歩けない、疲れてもう何もする気力がない。」という、「その気持ちを正しなさい。まっすぐにしなさい。足のなえている者が踏み外すことなく、癒されるように、まっすぐな道をつくりなさい。」と、弱っているあなたに、「立ち上がって、他の人のために道をつくりなさい。」と、神様はおっしゃるのです。私たちは自分のことが精一杯です。それが自己愛です。神様の愛は、「自分がどうであっても犠牲をしなさい。」というのが神様の愛です。その愛が私たちの中に聖霊によって豊かに注がれています。それを受け取りましょう。そうして私たちは神様の子としてこの地上で歩んでいくということをするときに、人々が私たちのことを認め、私たちの神につながることを信じます。ですから兄弟姉妹、私たちはこの2021年、神様に訓練されて、多くの魂を収穫する者になっていきましょう。そのための訓練です。これを軽んじないようにしていきましょう。先ほども言いましたが、ダビデは羊を飼いながら、実際こちらでは兄たちが戦争に行っている。自分は兄たちに食べ物を持っていって、帰ってきて羊を飼って、という、ただその訓練の中で、私たちはすぐに比べます。「あの人はあんな働きをして、自分もしたいなぁ。かっこいいなぁ!」と思ってしまう。でも自分に与えられた務めを忠実にやっている、その心を神様は見て喜ばれるのです。それが砕かれているということなのです。人と比較しないのです。与えられた能力の違い、自分は与えられていないものを求めたりしないで、自分はこういう者だということをわきまえて、神様の前を歩もうとする者を神様は絶対に軽んじないということを覚えましょう。

 コリント人への第二の手紙5章17節「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」この御言葉のとおりです。私はこの御言葉を説明することはできました。でも、この御言葉そのものに生きるということにおいては、不十分だったということを感じます。「新しく造られた」「古いものは過ぎ去った」全部を神様が過ぎ去らせてくださいました。あなたのどうぬぐっても、ぬぐいきれない過去を、全部神様は清算してくださいました。あなたに代わって、全部を新しくしてくださいました。私たちは全く新しく造られた者として今、この地上を歩んでいます。人があなたの過去を知っていて、「あなたはこういう者だ!」と言われたとしても、「その通りです。でも今は、私は新しく造り変えられました!」これが私たちの信仰でなければなりません。兄弟姉妹、私たちは新しく造られた者です。これは内側のことです。自分では変えることのできない、悲しみ、痛み、苦しみの中から、私たち自身をとどめていた、そこの領域を全く新しくして、全く何もないようにしてくださるのです。そして神様の性質を私の中に入れてくださるのです。皆さん、新しくされたということは、この神様の愛が皆さんの中に豊かに注がれています。これこそが、皆さんを変える唯一の愛です。この愛を知るまでは、私たちの愛はエロスとフィレオしかなかったのです。だから私たちの感情のおもむくまま、気持ちのおもむくまま、波長が合うときだけ愛するようなことをして、少しでもその歯車が狂うと愛せなくなってしまう。愛せないどころか、憎んでしまうようになる。ダビデの子供が、自分の姉妹である女性に恋焦がれて得たいと思って、ついに彼は彼女を得ました。性的な関係を持ちました。持ってしまうと、その肉的な欲求が満たされると、彼女を嫌うようになりました。それが、私たちが持っている愛です。でも神様の愛は、私たちを無条件で赦し、受け入れます。そしてその無条件の愛は、唯一私たちを変えることができる力です。この愛をしっかり私たちは受け止めて、神様の前に砕かれていく者であり、神様の前に新しくされていきましょう!

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