2021.4.4 久松 政一 使徒的長老 「生きた者」

 おはようございます。今日のタイトル、「生きた者」。これは根幹、土台です。私たちがイエス・キリストを信じていることの本当の素晴らしさを再確認し、そして深みを覚えていただくためのメッセージです。「生きた者」、これがあなたであり、私たちです。

創世記2章7節「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」私たちの先祖、一番最初に神様がお造りになった人、その御言葉が2章7節です。ここでまず一つ目は、「土のちりで人を造り」とあります。ですから私たち人間は土で造られた。今から中学生になったら、人の構造を学びます。けれども本質は土と同じもので造られたということを、たぶん理科で学んでいかれると思います。酸素、窒素、水素、カリウム、リン、ありとあらゆるものは、土の中に含まれています。それで私たちは造られている。この体は土である。ですから聖書は、「土から出たから、また土にかえる」と語られています。ですから私たちがなくなったら、昔は、その肉体そのままを土に埋めました。今は焼きますけれども、以前は、土の中に埋められたのです。そうすると何年か経つと、まず肉が土に同化していきます。それから後、何年かすると、骨も完全に土になっていきます。私たちは土から造られた。土のちりで人を造った時、人は動かなかった。なぜなら土ですから。これが私たちの始まりであり、神様はこのような形で人をお造りになったということを、皆さんはよく理解してもらわなければなりません。ですからこの土で造った体、これは本当の、本質的な私たちではありません。なぜなら土ですから。でも先ほどの御言葉を読むと、土のちりで人を造った後に、神はその人の鼻に「息を吹きいれられた。」と書いています。これは以前にも申しましたように、この息という言葉は、ヘブライ語で「プニューマ」、霊という意味で使われています。すなわち神様は御自身の霊を人の中に入れられた。そうする時、人は生きた者となった。ですから最初の人は、この息を吹き入れられた時に生きた者となった。これが、私たちであるということを理解しなければなりません。

 テサロニケ人への第一の手紙に、「あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って」とありますように、最初に造られた人間は、土で造った中で、神様は神の霊を彼の内に宿らせました。その時、生きた者となりました。動く者となりました。すなわち、考えることができる者となりました。でもその考え方は、神の霊によって生きた者となったのですから、神様の霊、すなわち神の言葉、神の考えが彼の内に入ったということです。彼の中には心がありました。その心は神様の霊に従っていました。神様の霊に従う心を持っていました。そして肉体がありました。けれどもご存知のように、創世記を見るとき、アダムが罪を犯したと書かれているように、それは心が神様の霊に、すなわち神の言葉に従わなくなったとき、罪となったということです。人は神様の霊によって生まれたのですから、神様の霊に従って生きるように造られたにもかかわらず、神の霊によって生きることをやめ、心のおもむくままに生きるとき、善悪を知る木の実を取って食べた時、そこから人は自分の考えで生きる者となった。神が生きた者として、神の霊によって生まれた者が神の霊に従わないで生きたならば、それはもう神様によって生きた者とはならなくなるのです。

 先ほど言いましたように、創世記2章7節に、神様は土から人を造りました。土というのをヘブライ語で調べると、土は「アダマ」。土から人を造った。それを「アダム」と言うそうです。ですから、「アダマ」から「アダム」を造ったと受け止めることができます。そして神様が人を造られた時に、先ほど言ったように、神の息を吹き入れられた時、初めて人は生きた者となった。ですからクリスチャンというのは、「生きた者」という名前で呼ばれてもよいです。私たちは今、「生きた者」です。そして人から、神様は男と女をお造りになりました。人から。ですから人の総称は、「アダム」です。そこから男、女をお造りになりました。ヘブル語で男のことを、「イーシュ」。そして女のことを男から造りましたから、「イッシャー」と言います。そしてこの男のへブル語の中に、男にだけあって、女にはない。でも女にだけあって、男にはない言葉が一つずつ含まれているのです。それは、「へー」と「ヨッド)という言葉で、この二つを合わせると、「ヤー」という言葉になります。この「ヤー」というのは、皆さんがよく、「ハレルヤー!」と言います。「ヤー」という言葉は、神様を表している縮めた言葉なのです。ですから賛美を主にするとき、「ハレルヤー!」と言います。男にあって女にないもの、女にあって男にないもの、その二つを合わせると神様を表すのです。「ヤー」とは、今は、聖書では「主」という言葉に訳されています。ですからこの「ヤー」という神様、この名前は、男の中にも神様がおられ、女の中にも神様がおられる。男と女を合わせると、神様がいらっしゃるということになるのです。これが結婚です。ですから男と女を合わせると、「人」になります。これを「アダム」と言います。男だけでは完成されないのです。女だけでも完成されないのです。男の中に神がおられ、女の中に神がおられる。男と女が一つになる時、それは、神様がおられる者になるのです。それを、「ひとつ」と言います。「ひとつになる」。そう聖書は告げています。ですから結婚というのは、男と女が分離した形。神様は本当は人を造られたのです。人から男と女を造ったのです。ですから、男と女の中に神様がおられることによって、実際に神様の栄光を現すために結婚というものがあるのです。ですからその結婚の中に、男にも神がおられ、女にも神がおられる、それが結婚。だからこの世の結婚とは全く違います。これは神様がお作りになった制度です。「人がひとりで生きるのはよくない。」そして神様は人を眠らせて、あばら骨から女を造られた。ですから男と女は、言い換えれば分身です。僕の分身は、ひろ子先生です。ですから彼女が考えることは、私が考えていることと同じです。ですから彼女が、「このようにしたい!」と言うとき、「そうだね!」って、私が言うべきです。「それは違うでしょう!」それはおかしいです、一つだから。そういうことを結婚という神様のシステムを通して、神様が一つであられることを表していくのが結婚です。ですから今の、この世の結婚観とは全く違います。この土台をしっかり持って、キリスト者は結婚ということの重要性を知らなければいけません。

 ここから、先ほど「ヤー」というのが、神様の名前を縮めた名前だと言いました。これは前にも言ったことがあると思います。神様のお名前は、ヘブライ語で4文字です。これは聖なる4文字と言われています。ラテン語で、この4文字を変えると「YHVH」という言葉になって、本当は発音してはならない言葉。ユダヤ人は、あまりにも聖なる御方のお名前ですから絶対に口に出してはいけない。モーセの十戒にあるように、「わたしの名を、みだりに唱えてはならない。」もし唱えて、それがみだりに唱えたことだったら、死ぬと言われた。それくらい清い方、聖なる方、恐れ多い方、だれも見たことがない方。その御方の名前は、ユダヤ人は絶対に言わない。でも、それをあえて言うなら、「ヤーウェ」このヘブライ語は子音なのです。それに母音を入れて、こういう言葉を作ったのです。「YeHoVaH」エホバ。新改訳以前の昔の口語訳だったら、それは、「エホバ」という言葉で使われていました。今の口語訳では、「主」です。またそれを、「アドナイ」という言葉で呼んでいます。今の聖書は「主」が使われています。結論として、この4つの聖なる文字は、ここから男と女をお造りになった。先ほど言ったように、男だけにあって、女にはない聖なる言葉と、女にだけあって男にはない文字、この二つを合わせて、「ヤー」。「ヤーウェ」を縮めて、「ヤー」。すなわちそれが、聖なる私たちの神の御名前です。神様が共におられる「人」を、お造りになった。神様がおられる結婚。神様の考え方で生きる結婚生活。もしそれをしないのなら、この世が唱えているような離婚、また結婚もしないで関係を持ってシングルマザーに。また男は権利を放棄してしまって、自己中心に一人で生きるような愚かな者がいっぱい出てくるのです。すなわちそれは、男と女のただの肉体関係だけの問題でこの世界は構成しているからです。その土台となる結婚の意味を何も理解もしていないし、わかってもいない。恐るべき御方が共におられることもわからない。そういう結婚は、本当の結婚とは言えません。私たちが本当に聖書観をもって、結婚というものがどれだけ聖なるものであるか。人をお造りになった神様は、人の中に神の霊を送られる。その神の霊の中にいた「人」から男と女を造られた。その男と女の中には神がおられて、この男と女が一体となる時、結婚する時、それは一つになり、神の栄光を現わす者となるという意味を表しています。このことを知ったうえで次の御言葉を見たいと思います。

 創世記5章2節「彼らを男と女とに創造された。彼らが創造された時、神は彼らを祝福して、その名をアダムと名づけられた。」アダムとは「人」です。ですから男と女という複数であるにもかかわらず、その名を「アダム」と名づけられた。ですからアダムという意味は、男と女が一つになっていることです。生きた者となった、その一番の根源は、神の霊が人の中に宿った時に生きた者となったのです。けれども心が中心の多くの今の人々は、皆、自分の考え方で生きています。私たちキリスト者は、アダムの最初の、罪を犯す以前の人に戻る時、私たちは神の霊によって一つになるのですから、神の考え方に男も女も従う。神の考え方で生きる。それが結婚の中心です。でもこの霊が死んでいるとするならば、霊が機能していないとするなら、人間の中心は心へ移るのです。その意味で、次の御言葉を見てみましょう。

 創世記2章17節 神様は人にこう言いました。「しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。「生きた者となった」と言われた神様が、「死ぬであろう」という言葉をここで初めてお使いになられた。ですから、この「死ぬであろう」という意味は、心が神の霊に従わないで心が独自で判断して物事を決める時、「あなたは死にます」と言っているのです。ですからエバは、最初の善悪を知る木の実を見て、「目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えた」賢くなると思ったから。そう考えた。これは神の霊という考え方ではなかった。自分の良し悪しで判断する、木の実を取るということは、神の霊に従わないで、自分の考えが第一で生きるということを表しています。すなわちそれは、不従順です。人は神によって造られ、神の霊によって生まれたにもかかわらず、その霊が死んでしまったならば、それはもう人ではありません。「きっと死ぬ」と言われたのは、この二人が、神の霊に従わないで心を中心に生きたからです。神の霊と言ったら、何かポワーンとした何か目に見えない、わかりにくいようなものと皆さん思わないでください。これを違う言葉で言ったら、神の考えです。神の霊というのは、神の考えです。神の考えは、神の言葉です。イエスはそうおっしゃいました、「わたしの語った言葉は霊である」と。ということは、神様の属性は言葉であり霊なのです。これが神の属性です。ですから神の考えである霊、神の考えに従わないのなら、人としてそれは機能しない。神が造った生きものではなくなるのです。それが今の世界の人々です。新約聖書で、先ほどの「死ぬ」という言葉が使われています。見てみましょう。

 エペソ人への手紙2章1節「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、」「先には」、すなわち、キリストを信じる以前のあなたは、死んでいた者だと神様はおっしゃっています。「あなたは機能していない。あなたは人ではない。」そう言っているのです。これは聖書の根幹であります。「あなたがたは、先には」すなわち以前には、「自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、」聖書のローマ人への手紙に、「正しい人はいない。ひとりもいない。」そう書いています。すべて、アダム以来、罪過と罪とによって、死んでいた者だったのです。生きた者ではない。生きた者として神様はお造りになられたにもかかわらず、死んでしまっていますよ。あなたは死んだ者です。聖書は明確に告げています。

 エペソ人への手紙2章5節「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――」エペソ人への手紙は、パウロという素晴らしい器が書きました。神の霊によって書かれているのですから、これは神の考え、神の言葉です。ですからあなたがたの救われたのは、恵みによります。イエス様を信じることによって、あなたは救われました。それはあなたの功績ではない。あなたが正しい人だったから、あなたが素晴らしい人だったから神様があなたを選んだのではない。あなたはむしろ罪人だった。神様の目からは、あなたは死んでいた者でした。その死んでいた者をキリストと共に、十字架を信じることによって生かしてくださった。すなわち生きた者となったのです。ですから今キリスト者は「生きた者」となった。ただし、アダムとエバが罪を犯す以前は、心が神の霊に従って生きていました。キリスト者よ、あなたは今、心を神様の御言葉である神の霊によって、神の言葉によって生きていますか?神の考えに従っていますか?それともイエスを信じただけで、あとはこの世の価値観、この世の基準、この世のシステム、この世が言うところのありとあらゆるものに汚染されて、あなたの心は完全に神様の御言葉に従っているかどうか、わからないようなクリスチャンがいっぱいいるのではないですか。ここに信仰という言葉が必要なのです。神の御言葉を信じる信仰。ですから、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。」と、病を癒されるときにイエスがおっしゃったところがあります。あなたが神の言葉を信じたら、それがあなたの考えになるのです。だったら今、信仰が必要なのはあなたの心です。この世で受けた考え方を全部捨てて、あなたの心が神の霊に従って生きる者と変えられていくということが、ある教会では聖化という言葉を使いますし、我々コングレスの中にいる者にとっては、それは成熟という言葉を使うのです。信じていることと成熟することとには、ものすごく隔たりがあります。だからピンからキリまでキリスト者がいるのです。イエスを信じていながら、神の霊がもう一度よみがえったにもかかわらず。

 この図は、テサロニケ人への第一の手紙5章23節の内容の図です。人は、霊と心と体、この3つによって構成されていると書かれています。アダムは、この心が霊に従わないで、心を中心に、善悪を知る木の実を自分で判断して取って食べた時、神様は、「きっと死ぬ」と言われました。何が?霊が死にました。すなわちこの霊という器官が、作動しなくなった。この器官は、神様とだけ交われる器官です。ですから、この霊が断絶して死んでしまったら、神様と人はもう交われません。神様の考え方が、この者にはもうありません。どのように生きたらよいのかわかりません。これは断絶してしまっています。神様は死ぬとおっしゃったから、もう神様の言葉を聞けないのです。だから多くの人たちは、神なんかいないと言います。それはその機能がもう動かない。彼らは心が中心で動いている。これを罪人と言うのです。ですから世界中の三分の二は罪人です。人ではない、生きた者ではない。彼らはおのれの心の思うがままで、この社会で培ったシステムに従って生きている生きものです。彼らがそのままで肉体が死んだら、永遠の滅びです。終わりです。もう二度と救われません。チャンスはこの地上でのみです。皆さんは、そこから選ばれた。ですからクリスチャン一世は、だいたい信仰を持って強く生きるけど、その子供二世は、親が行っているから行っているだけ。でもその期間を経て、あなたが社会人になったら、その責任はあなたにあります。もう親の責任ではないです。あなたがあなた自身、信じる神と共に生きて行かなければいけません。親がキリスト者だから関係ない。親がもう教会へ行かなくなったから、関係ない。親が行かなくなったとしても、あなたは神との関係を構築すべきです。私たちは神の霊に従って、「生きる者」になったから、アダムが罪を犯す以前の構造になったのです。今、私たちは霊に従って生きるのです。あなたの心の思うままに生きるのではない。あなたはこの地上で生まれてから、いろんな知識や、経験や、能力や、また制度や、ありとあらゆるものは心で学んできたけれども、それらを中心に生きてはいけない。それは汚れたものです。イエス様は33年のご生涯の内、30年間は、父ヨセフに従いました。本当にお仕えになられました。そして3年半は、彼は本当に世に対抗なさいました。ですからイエス様は、「わたしはすでに世に勝っている。」とおっしゃいました。世とは何ですか?システムです。この世の中の構造、これはみな、自己中心から成された構造です。ですから今、世界はもう中国とアメリカが権力争いで、また経済的な争いで、今はそれくらいで済んでいますけれども、76年前には、この日本は戦争をしていたのです。第二次世界大戦でアメリカに敗北したのです。それ以前はずっと戦争でした。殺し合い。これから物資の奪い合いになります。もう当然、戦争は起こるべくして起こります。自己中心の国ばかり。神の国はこの世にはありません。神の国はあなたの中にあるのです。それを信じている者だけが、神の国に行くことができるのです。それは信仰によらなければ、行くことができません。それは見えません。でも、「見えないものこそ真実だ」と聖書は告げています。ですから今、私たちは、この死んだ生きものたちを「生きた者」に変えるために、神は私たちを選んでくださったのですから、その選びを確かなものにしてください。あなたの救いが本当に確立していますか?ちょっとした問題や出来事で、またキリスト者同士でも、争い合うような出来事が起こったとき、あなたは神様に対する不信を持つような、愚かなキリスト者になってはいけません。誰がどのように言おうが、イエス・キリストは神です。私たちはその神の国に向かって進んでいます。ですから今日、私たちは「生きた者となった」ということと、結婚ということがいかに大切かということを、あなたは深く知っていただきたい。神が共におられる結婚をしたキリスト者よ、離れることなどできません。あなたの妻はあなたのものではないです。神が土で人を造り、その人から男と女とに神が造られた。神様が本当の父です。この御方に喜ばれる生き方をしないで、妻をあざけったり、妻に対して威圧をかけたり、全く無頓着なような夫は悔い改めなければなりません。神が共におられる結婚をしておきながら、神様があなたを見ていないとでも思っているのですか?見えない御方が見ておられるとするなら、あなたはこの地上で、一つになるという経験を夫と妻という関係を通して、実行していくために神は与えてくださったのではないですか?「いやー、私はあの人とはあまり好きで結婚したのではない。」とか、またある人は、「好きで結婚したけど、今はもう気分が悪いです。」とか、「もうあの人の顔を見たら腹が立つのです。」とか。あなたは自分で自分を責めているのです。そして最後に、キリストの裁きの座の前に立ったら、あなたは裁かれますよ。恐るべき御方がおられるのです。だから私たちは、こんな汚れた世の中で皆がおのれの好き勝手をしていたとしても、「正しい生き方をしよう!真実に歩もう!清い生き方をしよう!」と、神様は世界中の中から選んでくださったのではないですか。どうしてその立場に立たないのですか?また妻も、「ろくでもない夫なんよ。」とか、よく言うねえ。それ、皆、子供は見ているのですよ。子供は6年生までは、「お父さーん!お母さーん!」って言っているのに、中学生くらいになったら、「何だ、おりゃー!」「おりゃ、おりゃー!」という雰囲気になっていくのです。それはその家庭が神様の御言葉に従っていない、宗教をしているからです。その結果です。苦しんでいる兄弟姉妹いっぱいでしょう。私もその一人です。愛する兄弟姉妹、私たちは本当に、正しい結婚観を持ちましょう。神が共におられる結婚です。妻はあなたのものではない。夫はあなたのものではない。神のものです。あなたがどうにかできるようなものではない。今日は特に男性に言いたい。偉そうにしてはならない。腕力で女性に勝てると思って、本当にひどい言葉で威圧したり、「何でそんなことするのかー!」って、あなたが言えるのですか。言えるような立場じゃないでしょう。罪人だった者を、神様が救ってくださったのに。憐れんでくださったのに。兄弟姉妹、今日から本当に変わらなければなりません。私たちは真実に歩みましょう。教会と家の顔が違うようなクリスチャンになったら終わりです。神様どうぞ、すべての愛する兄弟姉妹が、神の御国へと入って行くことができますように、心から願います。

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