2021.1.3 木村 由智 主任牧師 「行いの伴う伝道」 

 倉敷、岡山、愛媛、奈良の兄弟姉妹、又、YouTubeでご覧になっている兄弟姉妹、同労者会、ベースチーム会を代表して、新年のご挨拶を送らせていただきたいと思います。

新年あけましておめでとうございます。本年も主にあって宜しくお願い致します。昨年、色々な事があったけれども、又、新しい一年を与えられたという事ですけども、しかし私たちは、「本年も主にあって宜しくお願いします。」というのが、キリスト者としての大切な生き方だと思います。私たちは主がいらっしゃらなければ、何も成り立たないのです。主がいらっしゃる故に、「主にあって本年も宜しくお願いします。」と、そういう気持ちで私たちは進んで行きたいと願います。主がいらっしゃらなければ、この贖いの御業がなければ、私たちはこの救いと、又、私たちの内におられる聖霊なる神様の体験をする事ができません。でも主がいらっしゃる故に、私たちはこの様な素晴らしい恵みの中にいるという事を、もう一度覚えましょう。

 2021年の教会のテーマと御言葉を、皆さんとお読み致しましょう。まずテーマから、

「行いの伴う伝道」御言葉をお読みしましょう。ヨハネの第一の手紙3章18節「わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」

今年の御言葉がこの御言葉、テーマがこのテーマで、私たちは一年進んで参ります。簡単に2020年の神様が導かれた旅路を思い起こしたいと思います。2020年の3月22日に、ここで合同の礼拝が持たれ、壽藤先生ご家族を愛媛に遣わすという事が行われました。そして3名の献身者が与えられました。又、奈良伝道所の開所式が始まり、私たちの共同体が、倉敷、岡山、愛媛、奈良と進んで行きました。昨年、コロナ禍の為に、クライストチャーチの三大祭りを行う事ができませんでした。そういう状況の中で、4月からYouTube礼拝が始まりました。そして交代で礼拝に集うという、分散した形で私たちは礼拝を捧げる事となりました。同時に弟子養成学校が始まり、5月には愛媛教会の、ジーザスホームのマリヤ館が完成して、男女の受け入れが可能となったという事でした。6月は、神聖な一時停止という神様からの言葉が訪れて、私たちはそれを行って、皆さんがそれぞれに受けた恵みを月報に載せて下さったという事を覚えていらっしゃるでしょうか。そして7月からは変革の必須性を通して内面が更に主に取り扱われて、私たちが成熟に、更なる前進を、主にあって導かれました。8月は久しぶりに全体の夏期聖会を米子のコンベンションセンターで持つ事ができました。そこでは兄弟姉妹が変革の必須性から受けた恵みを分かち合って、非常に素晴らしい時を持つ事ができました。そして9月にはノックの日が訪れました。そして私たちは不朽の扉を叩き、主が来られる時を切に求めるという時を持ちました。これは全世界、同じ時に持たれました。又、9月には若者の集い、日曜学校のキャンプが導かれ、10月にはメンズリトリートが導かれて、11月にはまだ皆さんの記憶に新しい、40周年記念会が導かれました。本当に素晴らしい40年の歩みを、主が祝福して下さったという事を私たちは分かち合う事ができました。そして神の御国の建設構造が、12月まで導かれて、12月は各部会のクリスマスも、それぞれが行って下さった事を感謝致します。それぞれのこの一年間の歩みの中での働きに対して、皆さんが最大限の配慮をもって全ての働き、奉仕に従事して下さった事を本当に心から感謝しております。2021年もこのコロナ禍の中で、段々ひどくなっていっていますけども、でも我々もその中で、主にあって共に進んで参りましょう。

 今年はウッドロフ師から、「使徒的伝道の年」と言われています。ですから私たちは、行いの伴う伝道をもって人々を導き、人々を神の国の中に勝ち取っていかなければなりません。昨年は、「正確さの実践」という事でした。「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください。」イザヤ6章8節でした。昨年1年間で、私たちは神様が望んでおられるその正確さに近付く事ができた事を信じます。そして、「神様、わたしがおります。わたしをつかわしてください。」というその信仰をもって、神様の御前に私たちは一年の歩みをしてきました。今年は更に私たちは、その愛によって身体を完成していくという働きの中へ入って行きましょう。皆さんの行いが伴う伝道が、今年必要です。ただ単に口で語るだけではなく、実際的に行いをもって、あなたの中にある力や愛や恵みを現していきましょう。それによって人々を勝ち取っていきましょう。

 愛するという事を一言で言うならば、「赦す」という事だと思います。愛するとは、又、私たちの内におられる聖霊の力によって愛する事です。皆さんの感情や、皆さんがこの地上で受けてきたものによって愛するという事は不可能です。私たちの内におられる聖霊によって私たちは愛していかなければなりません。マルチンルターという方を皆さん御存知だと思いますけども、マルチンルターがこの第一ヨハネ3章18節の御言葉を、このように言いました。「私たちはキリストを信じるようになった時には、又、良い行いについても、次のように学ぶようになります。あなたは信仰を通してキリストを理解し、キリストをいただきました。キリストを通してあなたは義なのです。ですからあなたは行って、神様や隣人を愛しなさい。神様に祈り、感謝し、神様を敬い、賛美し、その御名を告白しなさい。良い行いをし、隣人に仕えなさい。職務や地位に応じた義務を果たしなさい。恵みにより、キリストを通して人が、罪の赦しが受け入れられる時、これらの宣べた事は、信仰や真心から溢れ出てくる本物の良い行いなのです。」と、言いました。一言で言ったら、実践しなさいという事です。あなたがいただいたものを流して、分かち合って、そしてあなたがいただいている同じ恵みの中に人々を入れなさいという事です。この事を、この一年私たちは実践して、神様の国の素晴らしい栄光を現していきたいと思います。

ヨハネの第一の手紙3章11節~19節「わたしたちは互に愛し合うべきである。これが、あなたがたの初めから聞いていたおとずれである。カインのようになってはいけない。彼は悪しき者から出て、その兄弟を殺したのである。なぜ兄弟を殺したのか。彼のわざが悪く、その兄弟のわざは正しかったからである。兄弟たちよ、世があなたがたを憎んでも、驚くには及ばない。わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知っている。愛さない者は、死のうちにとどまっている。あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のために、いのちを捨てるべきである。世の富を持っていながら、兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者には、どうして神の愛が、彼のうちにあろうか。子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。それによって、わたしたちが真理から出たものであることがわかる。」

 ではまず、11節12節の御言葉を皆さんもう一度見てみましょう。私たちが互いに愛し合う事、これが神が私たちに求めておられる事であり、神様御自身も愛し合うという事を、まず最初に行っておられたという事が、この御言葉から読み取る事ができると思います。私たちが具体的に愛し合うという事は、カインの様になってはならないという事です。カインは自分の捧げものが受け入れられなかった事により、怒りと憎しみに満ちてアベルを殺してしまいました。カインは決して自分を省みる事をしませんでした。自分の過ちを認めず、正しい礼拝をしなければならない、正しい捧げものを捧げないといけないという事を知っていながら、行う事なく、自分の考えを貫いた結果、彼はこの様な殺人を犯してしまいました。私たちが愛し合う時に、あなたの考え方や、あなたの思いは神様の前に委ねなければなりません。私たちは愛を知っています。あなたがいただいた愛は、あなた自身が一番よく知っているでしょう。キリスト様があなたに代わって、何の条件も付けずに一方的に私たちを愛して、十字架の上に架かって下さったのです。その愛を受けていながら、愛する事の本質を知っていながら、その事を経験していながら、自分の思う通りにならない事に対して怒りと憤りを溢れさせて、そして正しい事をしている人を殺してしまう。こんな愚かな事はありません。私たちは愛を知っているならば、私たちはその愛を正しく行っていかなければなりません。ですから神様は、愛し合うという事は、カインの様になるなという事を言っておられます。それは自己中心です。知っていながら行わないという身勝手な生き方です。私たちは愛を知っています。どれだけ神様の愛が素晴らしいものであり、どれだけ神様の愛が深いものであり、この地上に無いものであるかという事を知っています。その事の故に私たちは礼拝をします。その事の故に私たちは奉仕もし、犠牲もし、このように集まり、神様を称えるという事をしていきます。兄弟姉妹、互いに愛し合わなければなりません。でもそこには、あなたの自己中心性の愛によって、あなたが満足するという、その考えや思いを否定していかなければなりません。ただ純粋に、キリスト様からいただいた愛をもって、私たちは互いに愛し合っていきましょう。

 13節にあるように、「世が私たちを憎んでも驚くな」と、神様は言っておられるのです。正しい事をしていると、正しくない人たちは私たちの正しさに対して、勝手に怒りや憤りをもって臨んでくるのです。それに私たちは応える必要はありません。私たちは正しい事をし続けていくのです。カインは一方的に正しさを憎みました。そしてその正しさを消去すれば、自分は生かされるという身勝手な考え方を持ちました。世の人達も同じです。でも私たちは気にする事はありません。それは神様がこの御言葉の中で言っておられるように、「驚くには及ばない。」それは当然なのです。なぜならそれによって私たちが愛し合っているという事を、世が認めるようになるためだと言っているのです。神様の素晴らしい愛をいただいているという事を、この私を通して人々が理解しているという風に、私たちは捉えなければなりません。正しい事をしていたら、もうとにかく正しくない人たちは言うのです。でも皆さん、「驚くな」と、聖書は言います。皆さん気にしないで下さい。あなたが福音を語って、拒絶されようが、何されようが気にしないで下さい。あなたは自分の務めを全うしたという事を、「主よ、私はもうこの事に対してはお委ね致します。」と、言えばよいのです。ですけども、恐れて躊躇したり、語る事や愛を表す事を怠る事のないように、私たちは励みたいと思います。

 14節~15節、兄弟を愛する、そこに私たちが永遠の命の中にいる事を知っていると言うのです。神様の愛によって愛するからこそ、私たちは永遠の命の中にいるのだという確信を持てると言っているのです。皆さん、兄弟を愛するというのは、当然神様を信じている私たち、皆さんの隣にいる人、前にいる人、後ろにいる人です。それと同時に、神様が造られた私たちの兄弟、すなわち神様に造られた事を十分に知らない人たちに、私たちは、愛するという行為をしていかなければなりません。その時に私たちが永遠の命の中にいるその喜びが、私たちの内から湧き上がってくるのです。「何も愛さない者は、永遠の命を持っていない。死の内に留まっている。」それは永遠の滅びをさす言葉だと思います。15節、これは最初のカインの所から神様は言っておられるのです。ですから私たちはカインのような者にならない為に、神様がこの御言葉を通して私たちに警告して下さっているのです。 「人殺しは全て、その内に永遠の命を留めてはいない。」私たちが互いを愛しているならば、又、キリストの身体を愛しているならば、あなたの中には永遠の命があります。永遠の命が、言い換えるならば、あなたを通して兄弟たちを愛する事ができるようにして下さっているのです。あなたの力ではないのです。私たちの内にある永遠の命が、人々を愛するように促し、それらのものが、私たちを行動へと移していっているのです。私たちはそういう者であるという事を知らなければなりません。自己中心が人を殺すのです。全ての行なわなければならない事を知っていながら、それをしないで、自分の方法や考えを貫く事が、カインの様な死をもたらすという事を皆さん覚えなければなりません。ですから私たちは正しい方法で、いつも神様の導きの中を歩んで行かなければなりません。

 16節~17節、私たちが得ているこの愛、「主は、わたしたちのために命を捨ててくださった。それによってわたしたちは愛ということを知った」のです。まずこの愛は、主がありきなのです。だから、「本年も主にあって」というのは、主がありきなのです。あなたがありきなのではないのです。主がありきなのです。主がいらっしゃらなければ私たちはここに座り、礼拝する事も、捧げる事も、仕える事もできなかった。でも主が私たちの為に命を捨てて下さった事の故に、私たちは愛を知りました。それはこの地上では得る事のできなかった愛です。その事の故に、私たちも又、兄弟の為に命を捨てるべきであると御言葉は勧めます。簡単に言うなら、愛は行いを伴うものだという事です。私たちに愛を与える為に、主御自身が自ら御自身の命を与えて、私たちを愛されたという模範を示されました。ですから私たちは、言い換えるならば、「この愛は私たちの命です」という事です。この命を得ている私たちは、「兄弟の為に命を捨てるべきである」と、聖書は語っています。では17節で、「命を捨てる」という事はどういう事かという事が、この御言葉を通して理解できると思います。それは簡単です。憐れみの心を持つという事です。私たちが兄弟の為に命を捨てて愛するというのは、憐れみの心を持ちなさいという事です。神様がどれだけあなたを憐れんで下さったかという事を分かっていらっしゃると思います。本当に自分は愚かだという事を、わきまえる事が私たちはできていると信じます。その事の故に、この愛の大きさを私たちは知るのです。その事の故に、この愛を知らない人たちに対して、この神さまの大きな憐れみの心を私たちは持つ事ができるのです。

 ヤコブ書2章14節~17節「わたしの兄弟たちよ、ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、あなたがたのうち、だれかが、『安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい。』と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。」皆さん、「ああ、可哀想だ!」だけではだめだという事です。ここにあるように、「信仰は行いを伴わなければ、それは死んだものである」とヤコブ書では語っています。自分には信仰がある。神様は素晴らしい御方だ。神様の愛をいただいている。私に憐れみの心がある。「ああ、あの人、本当に可哀想だ。」と言って何もしない。それだけでは実際的な事ではないという事です。もう本当に、「いやだー!」と思うような人にも、神様が、「この事をしなさい。」と、おっしゃったら、私たちは喜んでその事をしていく。それが、あなたが兄弟の為に命を捨てるべき事だという意味です。あなたが、「したくない。愛したくない。」と思う人が、本当に助けを求めて来て、聖霊が私たちの内側で、「何かをしてあげなさい。」「与えなさい。」「助けてあげなさい。」と言う時に、私たちがそれを行うならば、私たちは生きた者となり、永遠の命の喜びの中で、実質的な愛を表す者に変わっているという事です。皆さん、「いいえ私は誰一人、嫌だなあ、苦手だなあという人はいません。」と言う方はいらっしゃいますか?苦手な人もいるでしょう。身勝手な人もいるでしょう。でも聖霊が私たちの内に働くならば、私たちは行いを伴う信仰をもって、実践していかなければなりません。そうするならば、神が働いて下さって、その人を勝ち取る事ができるでしょう。その人が本当に変わっていくでしょう。それが唯一私たちが、人を変える方法だと思います。分かりやすい言葉で言うと、「あなたが仕えなさい」という事です。自分の価値観に死んで、仕えていきなさいという事です。「したくない。」「愛したくない。」「あの人、何で偉そうなんだ!」でも神様が、「何かをあげなさい。」「何かをしてあげなさい。」その時、「はい!」と言って、行っていきましょう。実践して下さい。行いを伴った事を、私たちは信仰を持ってやっていかなければなりません。「もししないならば、あなたは死んだ者である」と、この聖書の言葉は告げています。私たちは、「愛するならば、私たちの内に永遠の命があるという事を知らせる」と、第一ヨハネでは言っていました。ヤコブ書では厳しく、「行いを伴わなければ、死んだものと同様だ。」と言うのです。私たちは死んだ者ではありません。永遠の命の中で、私たちは生きている者です。兄弟姉妹、私たちは行いを実践していきましょう。その行いによって伝道して下さい。魂を勝ち取って下さい。それはあなたが愛を表し、あなたが受けている憐れみを、本当に実際的な行動をもって表わしていくだけなのです。その事ができるように、まず主が私の為に命を捨てて下さったのだという事を、いつも覚えて下さい。そうするならば、「私は永遠の命の中に生きているのだ!」という確信を、あなたは持つ事ができるでしょう。

 18節~19節、この18節が、私たち共同体への言葉ですけども、私たちがいただいている真理の中から生み出された者として、世に証していくには、私たちは言葉や口先だけで愛するのではないという事です。言葉で言うのは簡単です。口先で言うのは簡単です。「大丈夫?」と言って、何もしなかったら駄目なのです。この人の為にこういう必要があるという事を、聖霊によって私たちは促されていきます。あなたがいつも、「神様、どの様に私はすれば良いでしょうか?」という、本当に謙遜な霊を持っているならば、神様はあなたに、「あなたはこれをしなさい。こうしなさい。あの人の所へ行きなさい。」という事を、必ず告げて下さいます。「行いと真実とをもって愛し合いなさい。」言葉や口先は本当に簡単です。世はそれだけです。どれだけうまく言うかという事に非常に力やエネルギーを注ぎます。又、そういうセミナーがあります。でも私たちはそうではありません。そこには行いと真実が伴っている事が、愛なのだという事を御言葉は告げています。今年一年、私たちは徹底してそれを行っていきたいと思います。そして私たちが真理から出た者であるという事を、世に証していかなければなりません。あなたがその様な証をすればするほど、あなたは世から疎まれる存在になっていくでしょう。でもそうなった時に、あなたは驚かないで、「私は主が望んでおられる、御言葉が言っている通りの事を行っている事を感謝します。」と、言わなければなりません。驚かれたり、嫌な思いをして、落ち込んだり、泣いたり、わめいたり、感情を表したりするよりも、「ああ、私は主の愛の内で、正しい事を行っているのだという確信に変わっていかなければなりません。兄弟姉妹、どんどん私たちは、働きに出て行きましょう。多くの人を勝ち取りましょう。それが私たちの、この2021年の務めです。その務めをいただいた者は、マルチンルターが言ったように、「その義務を果たしなさい」と言われたように、私たちも、それぞれがそれぞれの場所で、その務めを果たしていかなければなりません。愛する時に、真理から出た正しい者である事を証する事ができます。それが私たちです。私たちはその様な愛をもって、今年、行いの伴う伝道をして参りましょう。その人に真実な愛があるかどうかは、言葉にではなく、行動によって証明されるという事です。兄弟姉妹、私たちの中に真実な愛があるかどうかは、どれだけ愛について語ったとしても、行動によってそれが証明されていきます。行動して下さい。行動して、神様の愛を本当に与えて、人々を神の国に勝ち取って下さい。このヨハネは、優しい言葉や、励ましの言葉を、決して否定しているのではありません。私たちが真に、この御言葉を正しく行う為に、この様な言葉を使って、彼は私たちに宣べ伝えているのです。なぜなら私たちは永遠の命の中にいるからです。この命が豊か過ぎて、教会が豊か過ぎて、持ち物や食べ物が豊か過ぎて、あなたが本当に怠惰な者になったり、霊的なものから疎くなったり、人間的な欲の中に留まるような事が決してあってはならない為に、ヨハネはあえてこの様な言葉をもって、私たちを奮い立たせようとしているという事です。兄弟姉妹、カインの様になってはいけません。自己中心になってはいけません。成すべき事を知っていながら、自分の欲に負けてしまったカインの様な生き方をしないように、ヨハネはこの様な言葉をもって、私たちに強く神様の愛の素晴らしさを伝えておられるのです。兄弟姉妹、受け取って下さい。「それは人殺しですよ。」その様に言いました、ヨハネの福音書の中では。それぐらい、「愛さないならば、人殺しです。」と言うのです。「全て兄弟を憎む者は人殺しです。その人の中には永遠の命は留まりません。」と言うのです。もしあなたが、何かの事があって、あなた自身の感情や、感覚的なものが、本当に、恨みや、嫌なものに変わった時に、あなたはそれを捨てなければなりません。その恨みや憤りにあなた自身を委ねてはいけません。いつも自分を制しなければなりません。神様が与えて下さっている霊は、そういう正しい霊です。「力と愛と慎みの霊」です。ですから私たちは正しく行う事ができます。信じましょう。そして私たちが覚えるべき事は、「行為は言葉よりも雄弁である」という真理を使わなければなりません。私たちの行為、行動は、私たちの語る言葉よりも、それは雄弁である。これほどはっきりとした真理はありません。言うだけで何も行わない。それではいけないという事です。それ以上に私たちの行為は、その言葉よりも雄弁であり、真理を証しているという所に繋がっていくからです。神様があなたの心に何かしらの思いや、考えを与えられた時に、あなたは行動して下さい。あの人の所に行って、食事でもして、お茶でもして、買い物にでも行って、本当に心をほぐして、キリストを知ってもらいたい。だからあの人の為に、自分は行きたくないけれども、行って時間を捧げよう。行って話をしよう。正直に、イエス様の素晴らしさをダイレクトに伝えてみよう。その行為が、私たちが真理の中に生きているという事を明らかにしていきます。私たちはその力が与えられています。皆さん、行って下さい。主にあって行って下さい。主が主体です。「よっしゃー、行くでー!」と、あなたが行って、とんでもない目に遭ったら、「全然だめだったなー!」と、そんな事を言わないようにして下さい。「主にあって」という事が、何事にも私たちには大切です。ですから、「主にあって本年も宜しくお願いします。」と言うのは、そういう事です。主がいらっしゃらなければ、私たちの一年は、何も無い一年です。去年はコロナで大変だったけれども、年が明けたから、「おめでとう!」って、習慣的になっています。でも私たちが「おめでとう!」と言うのは、本当に「素晴らしい!」という事です。「去年が本当に素晴らしかった。今年も引き続いて素晴らしい!」そういう風に言わなければいけません。毎日毎日、コロナの感染者数を見たら、「どうなるのかなあ?」と、思いますけども、私たちは主にあって大丈夫です。あなたの自信ではありません。「主にあって、私たちは行う事ができます!」これが私たちの宣言です。今年私たちは、この御言葉にのっとって進んで参りましょう!ではもう一度最後に、教会のテーマと御言葉を前に出して、それを皆さんでお読みして、今日の御言葉の時を終わらせていただきたいと思います。「行いの伴う伝道」皆さん、あなたのやる事全ては、行いが伴わなければなりません。では御言葉をお読みしましょう。「わたしたちは、言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」第一ヨハネ3章18節、素晴らしい御言葉ですね。兄弟姉妹、主にあって、このテーマと御言葉を実践して参りましょう!

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