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執筆者の写真クライストチャーチ倉敷

2020.3.1 木村 由智主任牧師「身分証明」

 今日もう一度、身分証明という事をもう少し皆さんにお語りする事が出来ればと思っておりますけども、今の状況を私たちが見る時に、これは私たちが成熟していく、又、終わりを見据えているという信仰の状態の中に今置かれているという事が明らかです。この、長老が作って下さったテキストの中でも、このハバクク書で神様が指を伸ばしてレーザーの様に疫病を送っておられると言っておられるように、今、まさにそういう時代の中に私たちは生きています。ここ数年間、日本も災害とか色んな事が続いて、今度は疫病によってこうなっていますが、その様な混乱の中で私たちはコルクの様に浮く者になる。恐れて退いて滅ぼされる者ではなくて、信仰によって生きていく者として、この時期を私たちは主にあって進んで行きましょう。ですから兄弟姉妹、落胆しないで下さい。いつも主と共に兄弟姉妹が歩んで行く信仰で、この時期を乗り越えていくという事が大切です。もっと色んな事が多分起こって来るでしょう。でも恐れ退かないで信仰によって皆さん進んで行きましょう。私たちがいかに素晴らしい身分を神様からいただいているかという事をもう一度深く心にとめて、この困難な時期の中にあって、私たちは正確さを持って歩んで行きましょう。

 神聖な一時停止という事が今神様によって導かれていますけれども、その中で私たちが霊によって誕生した者であるという事を皆さんはもう何度も長老からも聞いておられますし、そういう者として皆さんが歩んでおられるという事を信じております。霊から生まれた者をもう少し今日具体的に私たちが見る事が出来ればと思っています。最初に御言葉を見ていきましょう。マタイによる福音書13章10節~16節「それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか。」そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである。』しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。」私たちは見て、聞く事が出来ると言っているのです。皆さんは見て、聞いている人たちです。重要な真理を語られる時に、イエス様は譬を用いられたようです。それは私たちがどのように聞くかという事を教えていらっしゃるという事です。私も最近少しずつ言われた事が正しく出来るようになってきました。でも、言われた事をいつも自分で解釈して、違うものを出していたのです。それで、「ちゃんとやっているのに!」という態度をするのです。そういう人は修正するのが本当に大変です。私自身がそうだったからよく分かるのです。でも私たちは聞くという事は非常に大切な事なのです。あなた方の目は見ており、耳は聞いているから幸いであると今日、御言葉が言うように、我々は今、神様が成される事を見ています。そして神様からの言葉を聞いています。本当にそれだけで幸いなのです。皆さんこの現状を見てどう思いますか?恐れおののいている者ですか?いいえ、私たちはこの現状を見ても、主に心からの礼拝を捧げる事が出来る者です。今日も一緒に神様に礼拝を捧げたように、私たちはそういう者です。そして、どんな事を聞いても、私たちの心はいつも主に向かっています。私たちは主がされている事を見て、主がされている事を聞いて、それを受け取る事が出来る者であるという事を皆さんに今日はしっかり受け止めていただきたい。皆さんはそういう者です。そういう身分の者に変えられたのです。今までの肉の性質は、いつも自分の得する事、自分の思う事、自分の考える事で、どんなに素晴らしい事を聞いても入らなかったのです。でもそれをイエス様が私たちに入るようにして下さって、私たちの身分を、そういう神様から流れて来る真理を見て、聞く者にして下さったという事が今の我々です。ですから何も皆さん恐れる事はありません。神様から生まれた者は、神様のされている事を見て、神様からの言葉を聞く事ができます。あなたはそういう者です。その事をまず最初に皆さんに理解していただきたいと思います。 特に今日私が強調したい思いとして神様からいただいているのは、私たちが本当に聞くという姿勢を持つという事の大切さです。私たちはそういう身分の者に変えられて、神様からの言葉を聞く事が出来る者に変わっているという事を、皆さん受け止めましょう。

ルカによる福音書8章5節~9節「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。ほかの種は岩の上に落ち、はえはしたが水気がないので枯れてしまった。ほかの種は、いばらの間に落ちたので、いばらも一緒に茂ってきて、それをふさいでしまった。ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ。」こう語られたのち、声をあげて「聞く耳のある者は聞くがよい」と言われた。弟子たちは、この譬はどういう意味でしょうか、とイエスに質問した。この8節の、「聞く耳のある者は聞くがよい。」その後に、「と、言われた」という言葉があります。これは実は別の聖書の訳で見る時に、「叫ばれた」と、訳されているそうです。この言葉が持っている意味は、まだ完了していないという言葉の意味であって、これは、「叫ぶ」あるいは、「呼びかける」「招く」という意味を持っているのです。ですから繰り返し、「叫び続けていた」あるいは、繰り返し、「呼びかけていた」という様な意味合いが、この言われたという言葉の中にあるのです。では具体的に何を呼びかけ、何を叫んでおられたのかと言ったら、「聞く耳のある者は聞きなさい」と、おっしゃっているのです。私たちは霊によって新たな誕生を迎えた霊的な者として、神様の言葉を注意深く聞いて下さい。今神様は、私たちに神聖な一時停止という事で、私たちが今まで以上により正確に、神様の心、思い、考え、言葉を受け取らないといけない時です。そうしてあなた自身が位置合わせをしていく。だからイエス様は叫んで言われた。繰り返し、「聞く耳のある者はききなさい」と、いうように、これはもう命令です。そのように訴え続けていかれた。「聞く耳のある者は聞きなさい」とは、どういう意味か。正確には、「聞き続けなさい」と、おっしゃっているのです。どんな事があっても、「聞き続けなさい」と、おっしゃっているのです。困難があっても「聞き続けなさい」いやな事があっても、「聞き続けなさい」神様はいつも語っていますからあなたは「聞き続けなさい」という風に言っておられるのです。別の訳では、「聞きなさい!」と、叫び続けたのです。それぐらい言われてやっと、聞こうかなというのが肉の性質かも知れません。でも私たちのアイデンティティーは、その肉が断たれて、霊による誕生を迎えて、神様が言われる事を聞き続ける事が出来る身分に変えられているのです。兄弟姉妹はそういう者です。「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉は、常にイエス様が繰り返し、繰り返し叫んだフレーズであったということです。そしてこの「聞く耳のある者は聞きなさい」の、「聞きなさい」というのは、「聞き続けなさい」という意味ですから、もっと分かりやすく言うと、「聞き方に注意しなさい」という事です。私も何か長老からお願いされた時に、「はい」と言って聞いて、その後でその言われた事を自分でまとめてみて、そして、「こういう形で進もうと思います。」と、それを見せて、「あっ、いいですね。先生、ここはこういう風に」という風にいつもしている。私自身も本当に神様から流れて来るものを正確に流したいという願いなのです。だから聞き続けるという事です。すっとうまく、その言われた事を悟る事の出来る人たちもいるでしょう。でも出来ない人は、本当に自分の出来なさを認めて、正確に受け止めたいという事を聞き続けなければいけません。それは、あなたを通して資源が流し出されて行くからです。

私の今の身分証明は、男であり、夫であり、父であり、そしてこの共同体の牧師であるという事ですけれども、まず男として神様が言われている事を私は正確に受け取りたいという強い願いが私の中にあります。そこに私の知恵が不十分であっても、私は知恵のある人を通してそれを受けて、それを正確に流して行こうという風に考えています。自分に何かが足りないと思うなら、持っている人から私たちは助けを得なければなりません。その様にしてあなた自身が組み立てられていって、その繰り返し、繰り返しの中で、あなたは正確なものを流し続ける事が出来る者に変わっていくのです。夫が妻と正確に話をしているか、それは、「おはようございます。妻様お元気でいらっしゃいますか?」そういう言い方ではなくて、「おはよう、食事ありがとう。」とか、普通の事が普通に言えるという事が正確な事なのです。普通の事が普通に話し合える関係が普通だという事です。本当にそういう事なのです。聞くという事は本当に大切なのです。聞かなければ行う事が出来ないのでしょう。今までは自分勝手に思ってやっていた。でもそれを神様は全部無しにして、今、神様から語られる言葉を聞いて、私たちが立ち上がっていっている、それが今私たちのこの共同体の中にも起こっているのです。ですから、「注意する」これも、現在形の命令です。「注意し、続けなさい」と、言っているのです。一回出来たら、「ああもう全部出来た!」と、思ってしまうでしょう。でもそれは注意し続けていかなければならないのです。聞き続けていく、注意し続けていくという事が、今、私たちに神様が求めておられる心の姿勢です。あなたが正確になりたい。あなたが神様から言われたものを具現化して、目に見える様に現わしていきたい、そういう願いを持つ所まで到達しますけども、実際、自分の考え方を捨てて、自分の思いを捨てて、神様が言う事を聞き続ける、注意し続けるという事を実践していらっしゃいますか?実践していきましょう。なぜなら私たちはそれが出来る者へと変えられているというのが私たちのアイデンティティーです。身分証明です。あなたはそういう者です。この世の色んなものを排除して、正確に神様からの言葉だけを聞き続け、注意し続ける事が出来るのはあなたです。それが今、この時代には特に必要です。私たちはそれを、本当に注意深くしていかなければなりません。

9節で、「弟子たちはこの譬がどんな意味かをイエスにたずねた」と、言っています。それは、「自分が納得するまで、彼らはイエス様に向かってその譬えの真意を問い続けた」と、いうことです。傲慢な人は一回聞いたら、「分かった」と言って止めるのです。「これはどういう意味ですか?」と、あんまり来られたらうっとおしい時もあるのですけれども、でも、本当に分からなければ、私たちはその真意を問い続けるという姿勢がなければなりません。もう偉そうな人、愚かな人は、もう本当にそれを忘れてしまいます。でもこれは本当に大切な事です。弟子たちが、「この譬はどんな意味ですか?」と言うのは、彼らはただ単に挨拶として語ったのではない。「このイエス様が言っておられる真意を、私は本当につかみたい、知りたい!」という彼らの中に神様に対する飢え渇きがあったのです。これも完了形ですから、聞く耳のある者が聞き続ける。心にそれが届くまで、何度も繰り返し熱心にイエス様に向かってたずね続けて問い続けていく。そうするならば、イエス様が言わんとする譬えの真意を悟る事が出来る。あなたの中に無い考え方があなたの中に入って来た時に、あなたの許容量はすぐにそれをシャットアウトするでしょう。なぜなら考えたくないし、自分のやっている考え方で済ませたいからです。でも、身体を建て上げていく時には、私たちがそれを横に置いて、今言われている事を自分の考えの中に組み込んで、私は自分の心の葛藤を抑えて、この言われている事に従うという姿勢を持ちなさいと、おっしゃっているのです。これが出来たら、私たちは本当に素晴らしい共同体に更に発展していくでしょう。今、神様はそれをするように私たちに、「一時停止しなさい。」それは、働きをするなという事を言っておられるのではありません。次に、今まで私たちが経験も、見た事も、聞いた事も、考えた事もない様な事が起こる。それが、ペンテコステの日に起こった出来事です。彼らは何が起こるか分からない、ただ神からの言葉、「心を合わせて祈っていなさい。」という言葉を信じて彼らはやった時に、今まで経験した事のないような、神様からの恵みと真理が訪れたのです。私たちも今、それを得る時期に来ているのです。この、混乱し混沌とし、誰一人解決する事が出来ないこの状況の中で、私たちは神様から来る次のものを受け取って、これを打ち破っていく事ができる。これが私たちの身分証明です。あなたはそういう者です。ですからこれはイエス様の弟子たちに与えられている素晴らしい特権です。と同時に、私たちにも与えられている特権でもあります。ですから、まあ皆さん、自分で自分が見えたら一番いいのですが、見えないでしょう。だから、指摘されないといけないし、戒められないといけないのです。その時に、聞く事が出来る人は、本当に幸いなのです。でも、自分の凝り固まった考え方を保とうとしたり、拒絶しようとする事が、この肉の性質の中にはすぐ働いてしまいます。でも、私たちは幸いな事に、霊から誕生したという真理を神様からいただいているのですから、それらの事が出来ます。10節は、「あなたがたに神の国の奥義を知ることが許されている」と、書いてあるのです。これは私たちに今、本当に神の国の奥義、真理が私たちの中に今、来ています。それを私たちは知る事が許されているという事です。あなた方とは、イエス様の弟子の事です。私たちの事です。そして奥義というものは、一つではなくて複数です。神の国の数々の奥義、秘密を知る事が許されている。それが、私たちがいただいているアイデンティティーであり、身分証明です。一つだけではないです。もう数々の神様の真理、奥義、秘密、そういった事が、許されている。そして、この許されていると10節で訳されている言葉は、「与える」という意味が含まれているそうです。ですから、弟子にはその真理が与えられているという事を言っているのです。私たちには与えられていると言っているのです。既に神の国の奥義を知る事が許された事のゆえに、知る特権が与えられている故に、何度も繰り返し、許され、与えられ続けているという意味合いです。これは素晴らしい特権です。それゆえに私たちはイエス様にたずね、問いかけるならば、その秘密、奥義が開かれていくという事です。これが私たちの身分証明です。ですから私たちは皆、問い続けなければなりません。

 神様はあなたを窮地に追いやって、自分の肉の力ではもうどうする事も出来ない所にあなたを閉じ込めて、そこからあなたが本当に潰れて、神様だけを求めるようになるという事です。自分で何かが出来ている間は、本当の意味で私たちは従うという事が不十分なのかも知れません。だから神様は、徹底して私たちの肉の性質を打って、もうがんじがらめにして、もう全く価値が無いという状態にまで私たちを追い込んで、初めて、「神様、私はあなたを求めます。あなたからいただいている真理を大切にします。」という事が出来るようになっていくという事です。だから我々の口から、「この教会は冷たい。」とか、教会とは誰ですか?あなた自身です。「俺は冷たい。」と、言っているのと一緒です。そんな事はありえないのです。どれ程豊かな愛と哀れみと恵みが、私たちの中に注がれているかという事です。なぜ私たちはそこまでしてたずね、求めないといけないのでしょうか。私たちがそういう身分の者に変わったからです。だからウッドロフ師が、「自分を主張する事を止めなさい、それは違反行為だ」というような、非常にきつい表現をなさいました。なぜですか?私には神様の恵みによって、このクライスト・チャーチの主任牧師という権威が与えられました。でも私がそれを行使したいと

思った時に、神様がそれを留められた時に、私はその神様の留められたものに従っていかなければならないのです。イエス様も、パウロも、神様が留められた時に、それを捨てて神様がされる事に従った。でも私たちは、自分のランクとか、立場とか、ゆだねられているものだけに固執してしまって、神様が訪れた時に、神様自身がそれを留めておられる事も気付かずに、不遜な態度をとってしまったり、適当に聞いてしまったり、自分のお粗末な解釈の中に組み入れようとするという事を、私たちが止めるようにと言っている事が、私たちの身分証明が明らかにされているという事です。兄弟姉妹、私たちはそういう者です。あなたの身分は本当に素晴らしい身分です。罪許されて天国に行けるだけではなくて、本当に真理を問い続ける事が出来るような者に変えて下さって、そしてそれを聞いて行う事が出来るような者にまで変えて下さって、そしてどうしようもないあなたを通して神様は栄光を受けようとしておられる訳ですから、兄弟姉妹、本当に今私たちは自分をわきまえないといけません。神様が今、この時、次、どの様に動こうとされるか、私たちにはもう予測不可能な出来事が、次々と起こって来るでしょう。でもそれを見る時に、今、神が動いておられるという事を受け止めなければなりません。

 水曜日にひろ子先生がすすめをして下さって、その事をもう一度、水曜日来ていない方もいらっしゃると思いますし、私自身ももう一度この事を通して、本当に大切な真理を分かち合って下さったという事を皆さんともう一度分かち合いたいと思います。

マタイによる福音書4章1節~10節「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい。』イエスは答えて言われた、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである』と書いてある。」それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使いたちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから。」イエスは彼に言われた、『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある。」次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう。」するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。」この4章の前の3章の16節17節にはこう書いてあるのです。「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」これが、イエス様御自身の身分証明、アイデンティティーであったのです。その明確なアイデンティティーをいただいて、この4章に入っていく訳です。「御霊によって試みられるためである。」そしてここで、様々な試みにあわれていくのです。荒野という所は何も無い所です。そこで試みられた時に、あらためて明らかにされたのが、その人の本質だと思います。私たちのこの地上も、何も私たちを満たしてくれる物は無い場所です。その中で私たちが試みを受けても、私たちの明確な身分証明があれば、私たちは神からの言葉だけに信頼してそれを乗り越えた。イエス様はこの試みを受けられた時に、その時のための言葉をもって、それに答えられた。私たちも同じなのです。この時のための言葉によって、神からの言葉が今来ているのですから、それによって今を生き抜いていかなければならないという事です。「もしあなたが神の子であるなら、」「はい、私は神の子です。」皆さんそうです。「もし」は、ありません。神の子は、いつも聞く事が出来る者です。これは、肉を捨てるという事からそれが始まっていくという事を言っているのです。そしてそれがどれだけ困難であるか。この世を愛するならば、身分証明を皆さん失ってしまいます。この世にはあなたの身分を証明するものは何一つありません。神様からによって定義されなければ、私たちは本当の身分証明をいただく事はできません。

そしてこの共同体が生まれたその最初は、久松長老が、18日間の韓国での断食により、「倉敷」という言葉を神様からいただいて、ここが始まっていきました。これが私たちの共同体の身分証明です。これは、肉に対して死ぬ備えを先生はしてこられたという事です。私たちも同じ様に、肉に対して死ぬ備え、断食を忘れてはならないという事です。本当に大切な事です。自分の肉に死にたいのなら、断食しましょう。神様が無理やりあなたに断食を強いる前に、自ら断食を喜ぶ者になりたいです。この共同体にはそういう身分証明があるのです。肉を断ち切って、神様からの言葉だけに従ったという先生の信仰が、この共同体の身分証明であり、この共同体の土台なのです。私たちはそこも、しっかりと受け止めなければなりません。自分で肉が強いと思うなら、断食をおすすめします。肉からは肉しか生まれません。あなたが本当に肉を捨てたいと思うならば、断食をしてみましょう。霊によって生きたい。霊の事を理解したいと願うならば、断食をおすすめいたします。そのようにして、私たちは自分が素晴らしいと決して思ってはなりません。どこまで行っても愚かなのだ。御霊に導かれる生活の積み重ね、それが、一人一人が神様の前に出るという事です。あなたは困っていますか?自分では解決出来ない状況の中にいますか?断食して下さい。そして肉を断ち切って、神様からの言葉を受け取って下さい。その時の神様の言葉が、イエス様が受けられた様に、あなたにも与えられます。その言葉によってあなたは生きた者となっていく事が出来ます。その言葉によってあなたが立ち上がる事が出来ます。ですから大事な事を決めるその時に、あなたは自分の肉を切って神に聞くという事を行っていくという事をおすすめいたします。本当に私たちは今、コングレスを通して神様からの資源を受けて、知性や頭はもう本当に大きくなっているかも知れません。それが現実のものとなるその一つの方法は、断食をしていくという事です。肉からは肉しか生まれません。霊からは霊しか生まれません。私たちは霊を生み出す者になりたい。そういう願いを皆さん持っておられると思います。あなたは今、困難な状況の中にいますか?困っていますか?神様の前にヘリ下って出て下さい。あなたに与えられている権利を主張しないで、今、その権威さえも神様がとどめようとされているならば、あなたは聞く姿勢を持たなければなりません。その肉をそぎ取られなければなりません。そして従うという決心をしていかなければなりません。それをするなら、あなたの妻や子供たちは、主の真理と恵みに満たされた、素晴らしいものを味わい知るでしょう。それを知るならば、カレブの様に、「40年間その味を忘れる事がなかった。」私たちも今、この恵みの素晴らしさを味わって、元には戻れません。これがどんな事があっても忘れる事の出来ない味であるという事が今の私たちの現在の状況です。この状況は私たちの口にとって甘いものです。本当に食べやすいものです。それが私たちです。その事を明確にしたいと思うなら、肉を断つという事も私たちは取り組んでいかなければなりません。そうやって私たちはいつも、霊的な者として自分を保つという事にも注意を払っていきましょう。それによって私たちは完成を目指す事が出来る訳です。自分の意思を通す事を止めましょう。神様が今ストップされているという事を感じるならば、私のやりたい計画、委ねられた権威の中でのそのやり方全部を置いて、神様あなたが次に生み出そうとされる為に、私はあなたに心を合わせます。私はあなたに従って行きます。そういう者としてもう一度私たちは、新たにこの今の状況の中、進んでまいりましょう。

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