top of page
執筆者の写真クライストチャーチ倉敷

2020.1.5 木村 由智主任牧師「正確さの実践」

新年あけましておめでとうございます。去年は皆さんにとって、どういう1年だったでしょうか。非常に恵まれた1年だったでしょうか。コングレスにおいてGDOという非常に素晴らしい神様の働きを私たちは体験して、一つであるという事の重要性と素晴らしさを体験されたと思います。今年もその恵みの中で私たちは一つとなって進んでまいりたいと思います。クライスト・チャーチの2020年のテーマは、「正確さの実践」です。今年の共同体のテーマの御言葉は、イザヤ書6章8節 わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか。」その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください。」この最後の部分が、今年クライスト・チャーチに与えられた神様からの言葉です。この御言葉と、このテーマにそって、この一年間共に主のために働いてまいりましょう。

 このイザヤ書の御言葉の背景は、神様が主権者であるという事をはっきりと認識する事ができて、そのきよい神様の前に、自らが全く汚れて愚かであるという事を悟ったところです。さらにその全く汚れて愚かな者をきよめて下さったという経験をイザヤはしたのです。そして彼は神からの言葉を聞いたというのがこの御言葉の背景です。私たちも今年、「正確さの実践」というテーマの中で進んで行くにあたって、私たちもイザヤと同じように、神様の前に私自身が全く汚れて愚かであるという事を私たちが悟るという事は、非常に大切な事だと思います。そしてその弱さ、汚れを取り除いていただいて、私たちは完全にきよめられた、言い換えると、贖われた者として、私たちは神からの言葉を聞くという事が、今年非常に大切な事です。そういう背景の中で私たちは神様に向かって行く、そう願っています。

 では、私たちは何に対して正確でなければならないのかという事が非常に大切になってきます。神からの言葉に対して正確であるという事。神からの言葉は、「正確さ」という神からの言葉が来たのです。ここで皆さんによく聞いて欲しいのは、神の言葉というよりも神からの言葉、「正確さ」というのは神からの言葉、という事を皆さんに理解し、受け取っていただきたいのです。神の言葉といえば御言葉かというように、すぐに私たちは結び付けてしまう。でもここで今日、私が皆さんに語る神からの言葉は、「正確さ」という事なのです。これを皆さんがしっかりつかんで、皆さん御自身が正確に神様の前を歩んで行く一年にしたいという事で、そのためにこの御言葉が、私たちは今年「正確さの実践」として行われていくという事です。神からの言葉に対して正確であり続けるために、私たちは昨年、「位置合わせをしましょう」という事を言ってきました。あなたが立っている位置、あるいは、あなたが思っている考えや、あなたの心の態度が、神様の心の位置と正確でないならば、私たちがいただいている神からの言葉、「正確さ」という事を行っていくという事は難しいという事です。ですから例えば、昨年色んなメッセージを私たちは聞きました。コングレスからいただいた、資源となるメッセージを聞いた中で、「あなたの足の靴を脱ぎなさい。」こういう風におっしゃった時に、それを私自身が考える時に、「私自身のプライドを、ここで取り去らなければならないのだ。」という風に、私自身が受け取りました。皆さんもそれぞれ何か違う形で、神様から何かを受けられたと思います。このたとえで、私がプライドを持っているという事において、正確に神様の言葉を行う事ができない。あるいは、正確さを保つ事ができなくなっているという事です。ですから何度も神様が私たちに、そのように語って下さるのは、私たちが正確にこの地上で神様の御性質を表していくためであるという事です。皆さんの立っている立ち位置を、どういう風に感じるかというのはそれぞれあると思います。私が今日言いたい立ち位置というのは、あなたのその心の状態は、神様の心に本当に近づこうとしているかという事です。神様が事を始められる時には、いつも心から始められると言われています。聖書の中に、「わたしの心だ、きよくなりなさい。」と、イエス・キリスト様がおっしゃった。すなわち神様の心は、私たちをきよめたいと願っているという事です。ですから私たちがいつも意識しないといけないのは、神様は始める時に、心から始められるという事を皆さんよく認識していただきたいのです。その事のゆえに、あなたの心はどういう心ですか?という事を言っているのです。あなたはいつも心を守って、神様が心から始めたように、あなた自身も心から何事も始めていくというようになっていかないといけないのです。それが、「正確さ」という事です。ですから神様がされたと同じように私たちもそれをしていく、そのために正確さが私たちには必要なのだという事を言っているのです。ですからそれらの妨げるものを取り除いて、私たちは位置合わせを行い、いつも神様の心に自分を寄せていくという事が大切です。神からの言葉に、それが正確になる事であるという事です。いつも神からの言葉に対して、皆さんは喜びがありますか?「正確さ」と言われて、何か自分の中に不正確なものを見い出したり、自分の自己中心的な考えを見い出す事があった時に、あなたはそれを喜んで捨てて、私は神様の心に合わせようという、そういう考え方、思いが、私たちの中にあるでしょうか?どんな状況が私たちを取り囲んでいても、正確さが私たちの内側に、必ず感謝と喜びをもたらす事ができるという事を、私たちは受け取らなければなりません。正確であるがゆえに、この地上の色々な出来事が起こったとしても、それらのものに私たちの心が動いたり、私たちの心が傷付いたり、私たちの心が嘆いたりするような事は決してありません。神様はそうおっしゃっているのです。もしそうなっているならば、私たちは位置合わせをして、正確さを回復していかなければなりません。今年、私たちは正確さを実践していくのです。神からの言葉である正確さを実践していくのです。ですから兄弟姉妹、神からの言葉、「正確さ」というものをつかんでいただきたいと思います。そうか、それでは聖書を一生懸命読もうか。それは決して間違いではありません。聖書の御言葉に触れる事は大切な事です。でも、今、神から来ている言葉は、私たちのコングレスの共同体の中に、「正確さ」ですよと、神様がおっしゃっているのです。それを皆さん、それぞれが、それぞれの立ち位置の中で考えて下さい。結婚している人は妻との関係、夫との関係が正確ですか?それを自分自身に問うてみて下さい。「私はより正確に、この関係を行って行きたい。」という事を私たちは持たなければなりません。

 そしてそれらは、私たちが神様と近い関係を表す表現です。神様といつも近くにいるという関係を表しています。そしてその近い関係というのは、きよい関係であるという事です。きよさのゆえに、神様は私たちに賜物と技術を与えられるのです。きよさゆえです。私たちに賜物や技術が与えられているでしょう。でもそれは、あなたが贖われて、神様のきよさをいただいて、完全にきよめられた者としたから、神様がその賜物をお与えになったのです。でもその賜物と技術を私たちは正しく扱い、奉仕していくという事において、神からの言葉である正確さをもって、それを調整していかなければなりません。ゆえに絶対に自分を主張しないという事です。自分を主張しない目的は、一体性を生み出すためであり、働きで互いに攻撃し合うという事のないように、私たちはしていかなければなりません。不正確であるがゆえに、自分の賜物を誇示したり、自分の技術を見せびらかしたりする、そういう本当にこの世の中と変わらないようなシステムが私たちの中にあるならば、私たちはそれを位置合わせし、正確さを回復していかなければなりません。絶対に張り合ってはいけません。でも結婚している人、妻と夫と張り合う時は、ロキソニンテープか、サロンパスを張り合うようにしましょう。それ以外は、張り合ってはいけないのです。態度で張り合ったり、言葉で威圧したり、そういう事は本当に、傲慢で愚かな事なのです。だから張り合う時はテープだけと覚えて下さい。偉そうな言葉使い、偉そうな態度。ちょっと言われたら、カチーンと切れるような事は絶対にしないというところから始めていかないといけないです。12月の第5週目の日曜日に、皆さんDVDを見られました。ウッドロフ先生が男性の人に言いました。自分の奥さんに、ニッと笑いなさいと。やっぱり、ニッと笑ったら、顔がニコッとなるでしょう。本当にそういった事は大切なのです。そういったところから私たちは正確さをもって、今年のぞんでいかないといけないです。だからそれは単に夫婦の関係だけではなくて、教会に来た時に、挨拶した時に、目を見てニッと笑いましょう。ですから私たち、特に「男性は、怒ったり争ったりしないで、きよい手を上げなさい」と、聖書の御言葉にあるように、絶対的な神様への従順を表すという事です。それを私たちは行い続けていかなければならないです。絶対に張り合ったりしないで下さい。何か意見された時にも、黙って聞くという事をしていきましょう。

神様の言葉、すなわち「正確さは天から来た資源です」と、言われました。天から来た資源という事は、この地上には存在しないものであるという事は明らかなのです。この地上にある資源は、私たちを正しくこの地上で満たす事はできないものばかりです。天から来るものだけが、私たちを正しくしていくのです。だから皆さん、「正確さ」という言葉が来ているという事、これを皆さん資源として受け取って下さい。私は神からの言葉であるこの正確さをもって、今年一年神様の前に正確に歩んで行くという事の信仰が必要です。「正確さは、我々がこの地上で活動するための形です。」と、いうように言われました。正確さこそが、この地上で私たちが活動していくために必要なものです。私たちがこの地上で正確さをもって歩く時に、この地上がどれだけ私たちを汚染させようとしていたとしても、私たちはそんなものには汚染されないで、正確に歩んで行く事ができます。だから皆さん、しっかり神からの言葉を今年つかんで下さい。「正確さ」という言葉をつかんで下さい。

 そして、神からの言葉である「正確さ」は、この地上で神様が好まれる事を行うための力だと言っています。あなたがこの地上で、この不正確さの中で正確さをもって歩んで行く時に、それは神様が喜ばれるのです。皆さん今年一年私たちは、本当に正確さを実践して、神様を喜ばせたいと思います。あなたが喜ぶのではないのです。神様がお喜びになるという事を、私たちは求めていかないといけないです。そしてその神からの言葉である正確さを、私たちは実用化していきましょうという事も去年ずっと聞いてきました。実用化というのは、考えや理論的な何かを、この地上で実際に現実化していく事です。あなたの中に「正確さ」という言葉が来て、あなたの中に何かしらの思いが来た時に、先程言った、ニッと笑いましょうというのも、これは実用化なのです。あなたがどんなブラックな会社で、どんな扱いをされていても、あなたの中にある正確さがいつも内側から外側に向かって、ニッと笑っていたら、それだけでも素晴らしい神様の力をあなたは現わしています。そして実用化するという事は、アイデアだけで留まる事なく、現実へと行動させていくという事です。その正確さをあなたは、いつも喜んで感謝して、こんな扱いを受けても私の心は傷付いたり、悩んだり、あきらめたりしないで、私は神様と共に進んで行く事ができるという事を、あなたがその職場で、家庭で表す事ができるならば、それは非常に素晴らしいものに変わっていきます。人々はあなたの中にある神様を見る事ができるでしょう。人々はあなたの中にある神様を求める事ができるでしょう。人々はその神様を知りたいと思うようになっていきます。ですから私たちはそれをしていきましょう。心の中の考え方を、他の人にも理解できるものであり、そしてそれをまた、人々が受け取る事ができるものである。私たちの中にある、神からの言葉である「正確さ」を、私たちが実用化したいという願いを持つ時に、それは他の人にも理解できるようになる。そして他の人がそれを受け取る事ができて、あなたが生きていると同じように、その人も生きる事ができるようになっていくというものです。どれだけこれが大切で、力あるものかという事が、皆さん分かりますか?神からの言葉に力がある訳です。今、「正確さ」という事が私たちの中に来て、私たちの共同体も本当に正確さを追い求めて、皆さんが正確に神様の前を歩んでいるという事を感じ、また見る事ができます。そのまま私たちはそれを続けていきましょう。さらにそれが広がりを見せて、この2020年、神様の素晴らしい働きと業が起こされてくる事を信じます。皆さん、受け取りましょう。「正確さ」です。神からの言葉は「正確さ」です。あなたの中にある正確さを、本当に調整していって下さい。位置合わせしていって下さい。神様の心に寄り添うという信仰を働かせて下さい。

イエス様をたとえとして、それを私たちは見る事ができます。イエス・キリスト様は、正確さをどのように実践していかれたかという事を見る時に、ヨハネによる福音書1章1節、14節の聖書の言葉、皆さん覚えておられるでしょうか。1節は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」というところです。「言とは神である。」これが概念です。そしてそれは、触れる事も見る事もできるものではないけれども、それは現実であり事実であるという事を、この御言葉が現わしているのです。14節「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」この御言葉は、私たちが理性でも理解できると思います。この背景は、ベツレヘムで生まれ、ナザレで育って、この地上で生活をされた一人の男性、すなわちイエス・キリスト様の事を言っているのです。ここで、大切な言葉は、「宿った」という言葉です。「宿る」というのは、「天幕を張る」という意味がありますから、上から来たものが、私たちの内側にのぞみ、それが「宿った」という事を言っているのです。私たちはよく、「神さまの臨在が私たちの内にあるように」と、祈りますが、すなわち幕屋ですから、そこは神様が存在しておられる場所であるという事です。「言葉は肉体となって、わたしたちの内側に宿った」と、言っているのです。皆さん、私たちはイエス様がそのようになったように、私たちも神からの言葉が私たちの中で肉体となり、すなわち目に見える形になって現わされていくように、私たちは正確に歩んで行かなければならないという事です。言葉は肉体となって、神が私たちに語る上からの言葉は、この地上で全き肉とならなければならない。それは完全に現わされて、人々がそれを観察する事ができて、この地上で私たちがそれを機能していく事ができるようになると言われているのです。「正確さ」という言葉が、我々の中に宿らなければならないのです。神からの言葉である「正確さ」という言葉が、あなたの内側に宿らなければならないのです。その「正確さ」という神から来た言葉が、あなたの心、思い、考え、夫婦生活、子供との関係、この社会との関係を全て正確にしていく事ができる力です。この神からの言葉の正確さというものを、あなた自身の内に宿して下さい。神様の計画が人間の行動にまで及んでいかなければならないという事です。正確さという言葉が我々の内に宿った時に、それは神様の計画が、私たちの行動にまで及んでいくのです。そして神からの言葉は、肉、すなわち目に見える形になって、必ず現れて来る。あなたの正確さという、その内側に宿ったものは、必ずあなたの内側から外側に現れて来るという事を約束しておられるのです。私たちはその約束を成就していく事ができるのです。神様の天の願いと計画は、地上で今、我々の行動に変換されていかなければならないのです。皆さんの生活の中で、この正確さが、変換されていかなければならないのです。人々がそれに触れて、見て、感じて、良いものとして人々の内側にも宿るようなものに変換されていかなければならない。今年はそういう年です。皆さんの中にその正確さが、そのようになって発展していくのです。

 そして、「わたしたちはその栄光を見た。」という、14節の中に言葉がありましたけれども、それはこの地上に建てられた、その現わされたパターン。上から来たものが、この地上に明らかにされたという事において、私たちはその方の栄光を見たという事を

言うのです。皆さんがよく、「神様の栄光を現したい。」という言葉を使ったり、「神様の栄光が現わされますように。」という様な表現を使うのは、それは実際この地上に、あなたという建物を通して、その内側から表示された、上から来たパターンが、神様の本質と特質を現して、人々に伝えていっているという事です。だからこの世の考えや、この世の法則に巻き込まれたり、取り込まれたりしてはいけないという事です。よく、「長い者に巻かれろ、そうしておいたらいいのだ。」もうあきらめて、妥協した様な生活を送る考え方が蔓延していますけども、決して私たちはそのようにはならない。上から来ている神からの言葉、正確さは私たちの中に必ず神様の御性質を生み出して、人々にそれを明らかにしていくのです。それが皆さんの中にあるのです。それを皆さんは現わしていきましょう。どこから現しますか?ニッと笑うところから現わしましょう。家に帰ったらサロンパスを貼ってあげて下さい。そこから現します。本当に生活の領域から私たちはそれをしていかないといけないのです。何か賜物を使うとか、そういう事も大切です。でも、私たちのこの地上の生活そのものの中から私たちはそれをやっていかなければならないのです。

 次に、「見た」という表現が、14節の中にあるのですけども、それは、「注意して見る」という意味で、地上に現わされた物の中に、神様の本質が反映されていなければいけません、という事を言っているのです。だから私たちがこの地上で、例えば仕事をする態度の中に、神様の本質が反映されているという事です。そして私は思うのですけども、例えば夫や妻がしんどい時に、「大丈夫ですか?」と、ねぎらう言葉。そして、手を置く。あるいは祈る。そういった事が、私たちの中で自然に現わされてくるという事が、大切な事です。その様な事は聞くけれども、実際何もしない。私も以前勤めている時に、職場の人が、「木村さん目が痛い。」と言うので、「分かりました。イエス様、この人の目を癒して下さい。」と、祈ったのです。そうしたら、びっくりしたというようにされて、でも私はそれに対して何も思わないようにしました。自分が今、そうしてあげたいという、その内側の衝動にかられた行動をしただけなのだという事です。その相手の反応に対して、恥ずかしいとか、間違った事をしたという事を、あなたは思わなくていいのです。あなたが本当に神様の愛によって動かされた思いが来た時に、それを世が受け入れなくても、あなたは正しい事をしたのです。その信仰は必要です。そうやって私たちは実際に正確さを実践していかなければならないのです。こんな事をしたら恥ずかしいとか、それ自体が不正確な考え方です。

 あなたがしてあげたいと思った事を、素直にする事ができる事が大切なのです。その実践を今年徹底して私たちはやっていきましょう。そして私たちは贖いにより、永遠の命をいただいているのです。永遠の命をいただいたと言ったら、何十年前は、天国に行けるという事だけしか考え方がなかったです。でも今、私たちがこの永遠の命に生きるというのは、「この地上においても、完全に朽ちない者とされたのですよ」と、言っているのです。贖われたという事は、罪の中にいた者を、もう一度代価を払って買い戻したという事は、もうこの領域の人とは、全く別次元の人間にされたのだ。誰も汚す事ができない。誰も傷付ける事もできない。誰もこの人の命を奪う事のできない者にされたという事が、私たちの本質です。贖われているのですから。誰もあなたの命を取る事はできないのです。この肉体の命は朽ちていく、でもあなたの本質を誰も奪う事はできない。なぜなら神があなたの本質を守っておられるからです。そしてその永久の命は、私たちをこの地上において、朽ちない者にしたという事の宣言です。そして何もあなたは影響を受けない者として変えられましたという事を宣言しているのです。なのにいつも自分の足りなさ、弱さを覚えて、浮き沈みする事のないように、今年は正確さを実践していきましょう。どんな事があっても、この贖いと永遠の命の中に私は生かされているという真理を、正確に行っていって下さい。世の人たちは、それが必要です。もう何かしたら、それによってその人がレッテルを貼られて、その人の基準が決められて、「お前はこういう人間だ!」としか言わないのがこの世でしょう。でも神様は、そういう価値基準であなたを愛したのではないです。神様は御自分がお創りになった者として、あなたの事を愛されたのです。あなたが神の心から遠く離れているから、もう一度あなたをこの地上の汚れから贖い出して、その心の近くにまで寄せる事ができたのです。私たちはその近くに今、寄ってよい関係の者とされています。誰も贖われたあなたを傷付けたり、ばかにしたり、命を奪う事はできません。この地上がどれだけあなたの事を非難したとしても、あなたはそれによって何も影響を受ける事のない者に変えられています。その正確性を、私たちはやっていかなければなりません。なぜ神様は私たちを贖って、永遠の命を与えられたのか?それは終わりに向けて、私たちが完成に向けて、私たち自身がその様な歩みをして、建て上げていくためです。そのために神様はこの事をして下さったのです。

イザヤ書6章8節「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください。」兄弟姉妹、これが、クライスト・チャーチの今年度の御言葉です。これを私たちは正確に神様の前に行っていきましょう。そしてあなた自身が、「わたしをおつかわしください。」と、いう者になっていきましょう。これは、恐れや足りなさを吹き払って、この地上のシステムに影響を受けないで、それらのものを断ち切って私たちは進んで行く、信仰によって進んで行くのです。何か力を入れるという事ではなくて、信仰とは従う事です。神からの言葉に従う事です。それが信仰です。あなたがジムに行って身体を鍛える、それは少しの益があるかも知れない。でも、そういう事ではなくて、信仰とは従う事です。神からの言葉に従う事です。それができるならば、私たちはこの事を言う事ができるでしょう。あなたは自分がどれだけ信仰があると思っていらっしゃいますか?それはあなたが何かできているからじゃないですか?信仰というものは、従うのです。自分の好き嫌いではなくて、従う事ができる事だという事です。今は、私たちは自分の肉の努力を止めて、従う時だと神様は私たちに語っておられます。永遠の価値が人の上に留まりました。それがイエス・キリスト様の事をあらわす言葉です。永遠という価値が、イエス・キリスト様の上には置かれています。そのお方が、我々の中心におられるのです。イエス・キリスト様が、あなたの中心におられるのです。あなたはイエス・キリスト様のような心を持つ者になっているのです。好き嫌い、この表現、あの表現という、そういう低い次元の事柄ではなくて、あなたは神からの言葉に従うという事が、あなた自身の信仰です。神の言葉は、「正確さ」です。私たちは決して御言葉を軽んじているのではありません。でも今、神が語られている言葉、神から来ている言葉を私たちは受け取らなければ、何もする事ができません。私たちが遣わされるのは、地上の行動の中に、天の文化、上からの文化、上からの文明が、現されるためです。あなたがイエス様と言うならば、あなたがあなた自身の家庭や職場で、天の文化と文明を現して下さい。人の事を言う必要はありません。あなた自身が、あなた自身の事をやって下さい。「あの人はどうなのですか?この人はどうなのですか?」「あなたは私に従って来なさい。」と、イエス様が言われました。人の事を言わずに、あなたが従いなさいと、神様は言っておられるのです。今までの自分の考え方を捨てて、「神様に従います。」それが信仰です。「わたしをおつかわしください。」と、言う事ができるのは、正確なものを見て、自分を恥じる事です。エゼキエル書で、イスラエルの人たちに神様が、「聖所を見せなさい。正確なものを見せなさい。そしてその時に彼らは悪を恥じるでしょう。」と、言ったように、私たちは正確さを持つ時に、自分がどれだけ愚かで自己中心的な者であるかという事を恥じなければ、あなたの中に正確さは一層力を増して発展していく事はありません。あなたが正確さというものを本当につかみたいならば、自分がどれだけ愚かで、不正確で、本当に恥じないといけない者なのかという事を悟って下さい。正しい恥じは、新しい探求を生み出し、より正確さをもって私たちは終わりに向かう事ができます。

今年、私たちは正確さの実践、そして、「神様、わたしがここにおります。わたしをつかわしてください。」昨年の私たちの活動は、本当に素晴らしいクリスマス・カンタータでした。沢山の人たちが来てくださいました。私たちは人々を集合させる力があるという事です。この集合した人々を収穫していくのが今年です。私たちの共同体は今年、そういう働きと発展をなしていくという共同体です。皆さん、その信仰がありますか?そのためには、あなた自身が正確さをもって神様に従うという事です。あなたが矯正される時に、それを喜んで受けて、何と自分は愚かで、本当に恥ずべき者なのだという事をあなたが認めたら、あなたは正確です。そして、「私は神から来た言葉に従います。」という事が言えるでしょう。それが大切な事です。今年、私たちはそれを実践していきましょう。

閲覧数:18回

最新記事

すべて表示

2022.11.6木村由智牧師「神様が回復したい関係」

今日は、「神様が回復したい関係」というテーマで、聖書を見ていきたいと思います。「神様が回復したい関係」とは、どういうものなのか?私たちは正しいアイデンティティーを回復することが必要です。ある所から少し抜粋したものですけれども、ある精神分析学者が定義した言葉を、皆さんと少し分...

2022年10月2日久松求牧師「私たちの特権」

皆さん、グッドモーニング。主の御名をほめたたえます。皆さんのお手元に、月報がございます。この月報をいつも見て、神様の共同体の動きをいつも注視していただきたいと思います。これを置いたまま帰らないようにしてください。これを作るために、多くの人々の時間と犠牲が捧げられています。私...

2022年7月31日(日)壽藤考志牧師「恵みを流し出す人となる」

皆さん、おはようございます。お久しぶりです。2020年の3月29日が、ここでの最後の礼拝だったと思います。あれからもう2年と4ヶ月ぐらい経ちますけれど、またここに立つことができて、こうして皆さんの顔を見ることもでき、また共に礼拝ができる恵みを心から感謝します。愛媛県は3つの...

Comments


bottom of page