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執筆者の写真クライストチャーチ倉敷

2020.06.14 山田 恵 副牧師「神には計画がある」

 神様には計画があるという事を、たいていのキリスト者は認識していますし、又、神様の計画の中を進んでいると誰しもが思っていると思います。けれども実際の生活に於いて、例えば、あまり感謝ができない。あるいは、そんなに喜びが無い。又、ある人は、しょっちゅう不満が出て来る。不満をもらす。口に出さない。でも心にいつも不満を持っている。又は、なかなか成長しない。5年前、10年前と、何にも変わっていないような気がする。あるいは、将来に対する不安がある。「どうなるのだろうか?」又、色んな事で思い悩んでしまう。何かいつもずっと思い悩んでいる。神様の計画は、平安と希望と将来だという事は御言葉が宣言していますし、それは知っています。だけどどうして感謝ができないのでしょうか?なぜ将来、希望、平安、それが約束されているにもかかわらず、なんで不安なのでしょうか?今日は二つの事をお伝えして、その神様の大きな、本当に深い人知を遥かに超えた計画の中を、私たちがもっと喜びにあふれて、そして平安で、そして強く進んで行く事ができるように、二つの事をお勧めしたいと思います。

 まず、さっき言いました。どうして感謝や喜びが無かったり、ささいな事をいつまでも気にしてしまったり、何か教会生活がつまらない。これは魂の領域ですけども、そういう風に魂の領域、感情の領域で落ちてしまったり、離れかけたり、そういう兄弟姉妹も中にはいます。それはなぜでしょうか?それは一言で言うと、「それは信仰が弱いからです。」と、一言で言うとそうなのですけど、色々な要素が、複雑に絡み合っていると思います。信仰が弱いという事もそうなのですが、例えば非常に自己愛が強い、そういう兄弟姉妹もいると思います。多かれ少なかれ、私たちには皆、肉がありますから、肉がゼロの人間はいません。肉とは自己愛です。自分を愛する事です。それがすごく強い、だからいつも自意識過剰になる。ちょっとした事でピリピリする。人がどう見ているかが気になってしまう。人の評価が気になる。対抗意識がある。虚栄心がある。良く見せようとしてしまう。ちょっとの事ですぐ落ち込んでしまう。自己愛です。あるいは自己義が強い人もいるかも知れません。自己義が強いと、自分の正義というものが絶対的になってしまいます。すぐ人を裁きます。こうあるべきというものが強すぎたら、非常にしんどいです。私も本当にこうあるべきという思いが、本当に子供が小さい時から強かったと思います。「こうでないといけないでしょう!」というものが、本当にまずい事を沢山してしまいました。今も、いつも自分を吟味し、「あっ、又、自己義が強くなっているわ。」って、自分を戒めなかったら、本当にすぐ不正確になってしまいます。私はバカだから、いつも自分にそれを言い聞かせて、確認して、忘れないようにしていないと、すぐに何か自分が正しいかのように主張してしまう。そういう「愚か者だ、お前は!」と、言っていないと危ないです。あるいは救いの認識がすごく弱い人もいるでしょう。それが喜びや感謝を持つ事ができない要因の一つでもあると思います。救われたという事は、いったいどういう事なのか、自分が今救われているという事は、どういう立場と、どういう権利があるのかが明確でない。あるいは、聞いているのだけれども、悟りにまでいっていない。だから応用ができない。すぐ自分はだめだと劣等感でいっぱいになる。そうすると、何かができている人をうらやましく思ってしまったり、他の人が評価されたら、面白くなかったり、それを又、別の人に不満を漏らしてしまったり、それも救いのアイデンティティーの認識がまだ弱いという事になります。あるいは、自分の内側の問題、要因がすごく大きいと思うのですけど、あまりにも問題が大きすぎて、困難が大きすぎて、試練が激しすぎて、その人の信仰のキャパを超えてしまっている。信仰であったり、その人の霊的な処理能力というもの、思考というものが完全にキャパを超える様な問題の中に置かれてしまった時、とても感謝できない。喜びも持つ事ができない。もちろん喜びとか感謝というのは、感情からするものではありません。どんなに感情が面白くなかろうが、気分が落ち込んでいようが、私たちは信仰を用いて感謝を捧げるし、喜び、そして実際に成長していっている。それを体験するべきなのですが、なぜそれができないかというと、今言ったような事が、いろいろ絡み合っていると思います。もちろん自分がどうやったらいいか本当に、もう全く分らない。そういう時は、どうぞリーダーや指導者に伝えて下さい。一緒に考えます。祈ります。そして具体的な提案をします。お勧めをします。あるいは、気付きを与えます。そうやって具体的にまず何をしたらいいのかという事が見えるようになっていきます。でもそれを絶対放置してはいけない。誰にも何も言わないで、自分の中だけで消化して、何とか自分でやっていこうと思ったら、さっき言ったような、私たちの中の歪み、不正確、バランスの悪さ、その中でいくら考えても、何も変わりません。状態はもっと悪くなる可能性があります。個人の学びとかでは、色々な話をする中で、色々な話が出てきて、「あっ、今そうなのですね。」って、その事について、色々な話を聞いたりして、「それはこういう風に考えたらどうですか?」とか、「あっ、それはちょっと今、まずいですね。こういう風にした方がいいかも知れないですね。」とか、色々話せます。それは決して恥ずかしい事でもないし、「そんな事も分からないのか!」って、怒鳴られたらどうしようか、とか。誰が思いますか、そんな事を。皆弱さはあるのです。だけど、人に悪く見られたくないという思いから、誰にも何も言わないでおこう。こんな事もできない、知らないと思われたくないとか、そういう肉の考えが働くから、先に進めないのです。

 では私たちはそれぞれの置かれた所で、それぞれ与えられた信仰と召しの中で、誰もが必要な事の一つとして、まず模範を見なければならないという事です。模範はイエス様です。イエス様はこの地上での神の現れです。イエス様はおっしゃいました。「私を見た者は父を見たのだ。」イエス様は実際に肉体を持って、2千年前、33年半、歩みをなさいましたが、30歳の時に公に御自身の使命を現されました。その3年半は、特に私たちがキリスト者としてどう生きたら良いのか、どういう考えをしたら良いのかの模範を全て現して下さいました。子供たちの書き方教室が始まりましたが、お手本があったら、本来あるべきバランスの良い形というものに近づく事ができます。何も見なかったら、一生同じ「字」です。私たちの内側も、お手本があったら、「あっ、こうしたら良いのか。こういう時はこう考えるのか」と、見えてきます。誰でもイエス様の目標を見る事ができます。要するにまねるという事です。神様の御心は、私たちが成熟する事です。成熟とはイエス様のように成る事です。

 そしてもう一点は、自分にとって何が重要なのか。自分は何を求めているのか。何を求めなければならないのかを明確にして、そして決意する事です。自分は一体何を求めているのか。何を求めなければならないのかを、明確にする事です。そして決意する事です。イエス様の模範を見る事、自分が求めるべきものを明確にする事です。今日、御言葉を見ますけども、それを通して、ただ問題を眺めているばかりの場所から、あなたは少し移動する事ができるでしょう。実行するなら、そして具体的な行動が見えてきて、あなた自身の成熟、TFM、それが進んで行く助けになるでしょう。又は実際のあなたの信仰の行動を通して、神様の力を体験するで

しょう。その体験というものは、私たちの内側を本当に調整してくれます。そしてもう一つ重要な事は、それはあなたの人生の事だけで終わらないという事です。それは必ず、この共同体の力になります。なぜなら私たちは皆、それぞれ節々が組み合わされ、連なり合っているからです。あなたの成長は、この共同体の力になります。神様はまず計画に関して、こう宣言されています。

イザヤ書46章10節「わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、『わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる』と。よくご存じの御言葉だと思います。神様はおっしゃいます。「わたしの計りごとは必ず成ります。」私たちの計画は必ず成りますか?ほとんどその通りにはならない。自分の願い、自分の計画、子供は親が思うようには育ちません。けれども、神様の願われるように育てようと皆、取り組んでいます。そしてその通り、純粋に育っている子供たちも沢山います。だけど私たちの単なる人間的な、あるいは自分のプライドや見栄から出るような、そういった計画、それらは、神様は皆ことごとく破棄されます。神様の計りごとだけが必ず成り、その目的を神様はことごとく成し遂げます。そのパートナーとして私たちは皆召されました。あなたと一緒に我が目的をことごとくやりたい。成し遂げたい。それが皆さんが救われた目的です。目的の為の計画です。神様には目的があるし、その為の計画が完全にプランニングされています。それをまず頭に入れます。ではイエス様の頭の中がどうだったか、それを見ます。これは重要です。

ヨハネによる福音書5章30節「わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである。」これを詳訳聖書から、少し分かりやすく書き出してみました。これをより具体的に書くと、こうです。これはイエス様がおっしゃっておられる事なのですが、この、「私を」というのを、自分だと思って読みましょう。「わたしは、自分自身からは意のままに、独立してでは何もすることができない。ただ神に教えられたまま、命を受けたままをできる。」これは、イエス様が地上を歩まれた生涯の、最初から最後まで根底に流れていたお考えです。「わたしは自分自身からは、私の意のままに、私のしたいままに、父から離れて、私独自では何一つする事ができない。何も言う事もできない。一つの奇跡もする事ができません。ただ、父なる神に教えられたまま、御心、上からの命を受けたままをできます。」「命じられた通りに決定し、聞く通りに裁く。それは義にかなっている。」父に命じられた通りに、「イエスよ、今、このように語りなさい。」「はい、父よ。」命じられた通りに決定し、上からの声を聞く通りに。上からの声はいつも父の声で響いていました。それ以外は、全部シャットアウトしました。自分の中から起こって来る願い、考え、全部シャットアウトしました。父の声だけ。イエス様はロボットではありませんから、感情もありますし、痛みも感じます。蚊に刺されたらかゆいし、疲れるし、眠いし、お腹空くし、一緒です全部。聞く通りに裁きます。それは義にかなっている。それは100%正確です。完全なバランスです。完全なパートナーシップの中にいます。なぜなら私は自分の意思を考慮せず、自分の喜びとする事、自分の目的、意図に沿う事をしたいと願わず、遣わされた父の御心、お喜びになる事だけをしようと願うから、だから義にかなっているのです。人間はこれの180度逆をしたいです。肉は自分の喜びとする事をしたいし、自分の目的のために動きたいし、自分の意図したように物事がなっていく事を願う。でもそういう私たちがいた世界は闇です。何の希望もない。平安も将来もない場所でした。そこから私たちは、ここに移されました。

 イエス様はものすごく沢山の奇跡をされました。死人を甦らせたり、悪霊を追い出したり、病を治したり、ある時は多くいる人の中で、この人だけを治しました。イエス様は30歳までは、ユダヤの一大工の息子として育ちました。という事は、その大工のスキルはあったと思いますし、長男としての経験はあったと思います。弟や妹の面倒を見ながら、ヨセフとマリヤから良い教えは聞いていたと思います。だけどイエス様が願った事は、親の教えや、そこにプラスした自分の良いと思う事や、今までの大工経験からつちかった、こういう時はこうした方が良いとか、それらに頼る事はしませんでした。だから今、例えば10人ここに病んでいる人がいます。イエス様は、10人皆すぐに癒す事が出来ます。でもその時、「この人だけにしなさい」と、父の思いが来た時、父の御心がそうであった時、父母の教え、今まで30年間自分が経験した良いと思う考えでは、10人皆苦しんでいますから、10人やっぱり助けたい。そういう願いはあったと思います。でもしませんでした。父がしなさいと言われた時には、5千人に食事を、奇跡を通して与えられました。

パリサイ人や律法学者と色々な話をした時に、全部父から来た事を語られました。あの事を言いたい。でも、一切自分のお考えでは何もしませんでした。つばで泥団子を作った時も、父がせよと言われたからしました。罪の女に対して戒めた時も、地面に何かを書いておられました。それも全てイエス様は、いつも父から来た事だけをしました。天からの指示、知恵が来るまで、語る事もしませんでした。イエス様はずっと継続して、上とアクセスしていました。御自身の優秀な知性であったり、色んな能力であったり、そういったものは積極的に手放されました。ですからこの地上でも、こだわりが無い人は捨てやすいです。色んな物事に関して。こだわりが強かったら捨てられないです。私たち自身にこだわりがあったら、やっかいです。お手本を見る時、いかに自分が癖字か分かります。お手本はイエス様です。ですからそのお手本が私たちのアイデンティティーになるべきです。なぜならイエス様はこの地上での神の現れだからです。神様は皆さんを造る時に、「我々のかたちに似せて造ろう」と、造られました。これが父のかたち、それがあなたのかたちであるべきです。この模範に私たちが近づけば近づくほど、私たちは成熟しているという事になります。

 その神様とのパートナーシップの中で、神様が皆さんに言われる事は、「私はあなたが死ぬ事を望んでいます。」イエス様がそうしました。死というのは、本当に強いキャンセルです。完全な放棄です。皆さんそれぞれ自分の能力があると思います。経験値や、自分はこれぐらいの事を受け入れる事ができる。そういった許容力だったり、それらに頼る事を一切やめる。手放すという事です。「いやあ、そうできたらいいと思うのですけど。」でももう模範がすでに、私の横に置かれています。書き方のお手本が、もう横に置かれています。「私は一生癖字でいいのです。字だったらいい、読めたらいい。」全然OKです。だけど神様の願いは、このお手本に近づいて欲しい。これを目指して欲しい。そのために、今あなたをここに置いています。そのために、今あなたに色んな問題を私は許可しています。それを通して、そこでふてくされたり、ひねくれたり、あきらめたり、投げ出したりではなくて、喜びと感謝と強さの中で進んで行くために、お手本を見て欲しい。書き方教室に登録して欲しい。イエス様は、こうもおっしゃいました。ヨハネによる福音書13章7節「イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう。」今は分からなくても、まあいいでしょう。でも、今あなたに起こっている事がどういう事なのか、神の計画が実はどういうものなのか、後で分かるようになります。という事は、ちゃんと私には計画があって、その中に、今、真っただ中にあなたはいるのです。今は分からないかもしれない。でも、後になったら分かるようになります。これは、最後の晩餐で十字架に架かられる前、最後の食事をして、さあ、もうすぐユダが裏切るぞ。悪魔はシュッと彼の中へ入りました。その時に、食事が終わって、イエス様はおもむろに立ち上がって、そして上着を脱いで、手ぬぐいを取って、腰に巻いて、そして弟子の所へ行って、弟子の足を一人一人、たらいに水を汲んで、入れて、弟子の足を洗われました。ペテロの所に来た時に、ペテロは、「うちの先生は何をされているのだろうか?俺らの汚い足を洗われる?先生には何かお考えがあってなされているのかな?」ペテロは激情型ですから、「主よ、おやめ下さい。私はしていただかなくてもけっこうです。」拒絶しました。その時にイエス様がおっしゃった事です。イエス様は、「そうかペテロ、私が洗わなかったら、お前と私とは何の関係もないよ、何の繋がりもないよ。」って言ったら、「ええ!?先生と私が無関係になるのですか?それは大変だ!だったらイエス様、足だけでなくて、頭も体も腕も全部洗って下さい、お願いします!もっともっとあなたとの繋がりが強くなるように。」「ペテロ、もう全部洗ったのだったら、頭の先から全部綺麗でしょ。清められているからもう洗う必要ないよ。でも足はいつも汚れる所です。」ペテロにはその時は分かりませんでした。でも、これからイエス様が十字架に架かられるのです。今日、神様は皆さんに言われます。今あなたには、その置かれた状況、環境、困難、様々な事が全部分からないかもしれないが、後で分かるようになります。究極的には、この朽ちる身体を脱いで、朽ちない身体に変えられて、イエス様と顔と顔を合わせる時、全てが私たちには明らかになります。又、神の御心を歩む中で、私たちは1年前のあの出来事が、今日、これに繋がっていたのかという事が分かる事もあります。そういう体験を、皆さん多かれ少なかれされていますよね。だから私たちは自分の今の願い、考えに死ぬ、自己の死という場所に自分を連れて行かなければならないのです。これはウッドロフ先生がおっしゃった事ですけど、私はちょっとイメージをしてみました。ここが私の死に場所ですという場所に、私が自分の考えに凝り固まって、思い悩んでいるその自分を、自分の力で何とかしようと、あれこれ考えたりする。その時に、「イエス様のパターンに私は生きよう!」私の模範は、私のお手本は、考え方はイエス様です。イエス様は一切、自分の考えはありませんでした。能力や経験に頼りませんでした。だから私もこの肉の自分を引き連れて、自分の死に場所に行きます。そうするとこの場所は、別の新しい命が、流れ始めます。ウッドロフ先生は、そのようにおっしゃいました。新しい別の、新しい命が流れ始めます。私はその流れの中で生きます。その時、問題は何も変わってなくても、私の中に喜びと感謝がやって来ます。上手な先生のお手本に、ちょっと近づきます。私は今日も自分を連れて、自分の死に場所に来て、そして自分を殺します。又、私に新しい命が流れて来ます。確かに問題はまだ解決はしていませんけども、私はそれを全て、普通に、感謝します。私はこれを求めます。ここに私は行きます。それが成長です。

ローマ人への手紙11章36節「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように。」すべての物事は神様から出る。すなわち神にあなたは起源を持っています。これは私たちの出発点の再定義の事です。神から私たちは出ました。神に起源を持つあなたは霊です。そして「神によって成り」というのは、神様に全ての物事は集中し、神様によって生存し、生き動き、その歩みが成され、そして全ては神に帰する。神において、全ては完了します。神に集結するように、方向づけられています。それが計画です。神においてあなたは完成するように、そこに向かうように、集結するように、あなたの人生はそのように方向づけられています。それが定めです。それが神の計画です。だったら私たちはあれこれあれこれ考えたり愚痴を言ったり、文句を言ったりではなくて、全ての事に感謝できるのではないですか。私たちは朽ちる者です。最近私もこの事をつくづく思います。私は朽ちる者だ。朽ち果てる者だ。完全に朽ち果てる者だ。全ては変わっていく。全ては消えていく。全てはこの地上では虚しいです。でも私たちは永遠の故郷、そこに帰ります。朽ちないものを着ます。先週久松長老が、「永遠の命」を、語って下さいました。永遠の命とは、永遠の希望です。永遠の愛です。朽ちないものを着る時が来ます。皆さん神様は私たちの力を遥かに超えて動いておられます。信じますか?遥かに超えています。だったらこの方に委ねたらいい。委ねるというのは、何もしない事ではなくて、イエス様のように積極的に御心を行う事です。それが委ねるという事です。時の流れのままに、何とかなるだろうというのが、委ねるではありません。委ねるとは、積極的な姿勢です。神様はおっしゃいました。「国々の計りごと、くわだて、それは虚しく、わたしは民の全てのくわだてを無効にする。」神の御心でない計画、それは全て無効にする。その構造を破壊する。あなたの間違った計画、構造を神様は破壊したい。私の歪んだ、間違った、変な癖字、を破壊したい。神様は、「お手本のように書きなさい。お手本を見なさい。」手本がなくて、神様が、「あなた一人で考えて、頑張って、イエス様のように成りなさい。」と言われたら、それは困ります。「お手本ありませーん!」って、なります。できる限り分かりやすくお伝えしたつもりです。皆さん言って下さい、「神には計画がある。」それは、あなたの考え、力を遥かに超えた計画です。良い計画です。だから、イエス様のように歩みましょう。それは全体の力です。そしてその助けはいつも来ます。パートナーシップがいつもあります。あなたの隣にいつも主はおられます。あなたの内に、父なる神と子なるキリスト様の霊、聖霊様がおられます。そこは聖い場所です。聖い場所からいつも出発しましょう。そこにいらない自分の考えを入れるのはもうやめましょう。この場所に来ましょう。自分の死に場所です。新しい命が流れ始める場所です。今日もそこから、今日する事をやりましょう!

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