2019.8.4 久松 政一使徒的長老 「十字架」

 今日はイエス様の背負われた十字架を見てみたいと思います。

1、身代わり 十字架、それは身代わりです。私たちは十字架と言えば、それは身代わりを一つ目は意味します。キリストと言えば十字架です。ルカによる福音書23章32節、ここに書かれている御言葉は、キリスト様が真中に十字架に架けられて、両サイドに犯罪人が十字架に架かっている、その場所です。イエス様は十字架に架けられた時に、この一方の者が、「お前が神の子なら俺たちを救ってみろ、そうしたら俺はお前が神の子である事を信じてやる。」と、言いました。それに対してもう一方の罪人が、「お前は何て事を言うのだ、俺たちは悪い事をして、罪を犯したからその刑罰として十字架に架かっている。それは仕方ない事だ。でもこの真中におられる方は、一度も罪を犯した事のない方だ。」このように弁明しました。そしてそれからこの男はイエス様に対して、「イエス様、あなたがその御国に行かれる時には、私を覚えて下さい。」と、懇願しました。「御国に連れて行って下さい。」と、までも言えなかったのです。自分が犯罪人だから。だから、「わたしを思い出してください。」と、言っています。それに対してイエス様が十字架の上で7つの言葉をかけられた1つ、「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう。」と、イエス様が答えられました。私たちはこの事を通して、イエス様が私たちの身代わりである、それが十字架であるという事を私たちは知っています。

コリント人への第1の手紙1章18節「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」十字架の言葉は滅びに至る者には愚かです。信じる意味さえもないです。でも、もう一人の犯罪者にとっては、この十字架が神の力となって、人生の最後に彼は救われたのです。ですからその御言葉が言うように、十字架というのは、キリストを信じない者にとっては、バカバカしい話なのです。ですからこれは全く二つに分かれるという事を、十字架は表しています。身代わりの死であるという事を受け入れた者にとっては、これは神の力です。十字架は神の力です。私たちを救い出す力があります。けれどもキリストを信じない者にとっては、これはバカげた事で、くだらない事で、愚かな話で、全く耳を貸すに足らない言葉、それが十字架の言葉です。だから十字架はある人にとっては、それは全く愚かしい、あざ笑うような事です。「俺たちを救ってみろ!お前も十字架に架かっているじゃないか、十字架によって俺を救ってみろ!」と、、神様を完全にさげすみ、バカにする部類の人たちと、その十字架によって、身代わりの死によって自分の罪が許され、本当の幸いを得る人々と、二つに全く分かれるのが十字架です。真中はありません。救われているのだろうか?救われていないのだろうか?という領域はありません。どっちかです。十字架は、滅びる者か、救われる者か、それを判断するのが十字架です。だから私たちは、この身代わりという真理が、本当に入りました。

ヨハネの第一の手紙3章16節「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」神様は私たちのために命を捨てて下さった。という言葉の中に、身代わりの死が書かれています。あなたが死ななければならなかったのです。その意味です。「主は、わたしたちのために(身代わりに)いのちを捨てて下さった。」という意味です。あなたは死ぬ価値がありました。あなたは滅びる価値のある人です。それだけ罪を犯してきました。神様を無視して生きてきました。神様をさげすんできました。神様をバカにしてきました。だからあなたは死ぬ価値があります。けれどもそのあなたを愛するがゆえに、神様の愛は身代わりという死を通して、あなたに現わして下さったのです。全く価値の無いあなたが救われたのは、十字架です。身代わりというその意味が、十字架の中に含まれている事を皆さんはしっかりと覚えなければなりません。あなたが滅びるのだったのです。あなたは滅びてよかった人です。私もそうです。呪われてよい人です。そんな私を、あなたを、キリストが身代わりで死んで下さった。神の御子が、命の君が、虫けらのような私のために、身代わりとなって死んで下さった。それが十字架です。その愛を、あなたは1秒たりとも忘れてはいけない。忘れているでしょう。だから今日言っているのです。十字架を思いましょう。

 皆さんに私は何度かこの話をしました。塩狩峠の映画を何度も皆さん見たでしょう。あれは身代わりの死です。彼が実際に、その身代わりをもって、キリストと同じように人々のために身代わりの死を遂げた事が、あの塩狩峠の中に表されている事実です。明治42年2月28日の夜、それは本当に寒い夜でした。そしてその塩狩峠の近隣は、もう何メートルもの雪です。そういう状況の中で列車が上って行った時に、一番最後の客車の連結が離れたのです。離れたら、上って行っている列車ですから、その列車だけまた、戻って来ます。そのもう少し戻って来た所が塩狩峠なのです。ここへ行ったら、もう列車が谷底へ落ちて行く事が、この長野政雄という青年は分かっていた。なぜなら彼は国鉄職員、旭川運輸事務所庶務主任でしたから。だからまだ国鉄でもなかった時代です。ましてはJRでもありません。そういう時代に、この事件が起こった訳です。だから彼は当然、鉄道員でしたから、その塩狩峠までこの列車が行ったら、全部その谷の中に落ちて行くと分かっていました。しかも乗っている客は百人ぐらいいたそうです。その百人を救うために、彼は必至で、外に付いている手動のブレーキで、何度も何度も試した。しかしそれは止まらなかったのです。彼の脳裏は走馬灯のように回った。なぜなら彼はその日、結納の日だったのです。すなわち肺結核で、もうその時代は薬も無かった時代でしたから、その妻とする彼女は、もう治らない病気にかかっていたにもかかわらず、奇跡的に何年も経って、やっとその人と婚約するその日、彼女を迎えに行くその列車の中で、この事件が起こる訳です。自分の幸せ、やっと待ちに待った結納の日、彼女の幸せな顔を見に行ける日、その日に客車が離れた。そしてこのまま行ったら、自分も死ぬし、この人たちも死んでしまう。そういう、脳裏にあらゆる思いが浮かんだと思います。そして何度もブレーキで止めようと思ったけれども、手動では止まらなかったのです。そして彼は最後に決断した。その雪深いその所に列車が下りて来る時、もう正に目の前に塩狩峠が見えた時、彼は決断した。自分の肉体を車両の下に敷いた。そしてガシャーン!骨が折れるような音がしたのでしょうか、もうその雪は鮮血に染まった。血だらけになった。彼が亡くなった事によって、百人の乗客が救われた。正にこれは身代わりの死です。これは事実、あった事です。ふところの中に彼はいつも遺言証を入れていたのです。長いのですけど、一番中心の言葉は、「苦楽生死等しく感謝」苦しい事も楽しい事も、生きる事も死ぬ事も、全部同じように感謝。御言葉と、コングレスと全く同じです。いつ死んでもいいです。苦しい事で亡くなっても、楽しい時でも、生きていてもいいし、死んでも構わない。全ての事に感謝しますという意味です。「苦楽生死等しく感謝、私は感謝して、全てを神に捧ぐ」というのが、遺言書の一文です。30歳です彼は。これからの幸せよりも、待ちに待った自分の幸せよりも、この遺言の通りに、彼は自分の命を捨てた。身代わりに。なぜなら彼は知っていた。永遠の命を持っている私は、いつ死んでも感謝だ。人はいつか死ぬ。けれども汚く生きる人生よりも、真実に生きる人生を彼は選んだ。正にこれは、キリストの身代わりです。私たちはこれが究極の姿勢でなければならない。私は今日、イエス様の十字架を語っているのではない。あなたの人生が十字架でなければならないと言っているのです。私たちの親分であるイエス様が、十字架に架かられて死んで下さったのに、あなたは自分のやりたい事をやって生きているのか、それだったら、あなたはキリスト者ではないでしょう。ですから彼にとっては、この地上での自分の幸せよりも、神様の御心の方を選んだのです。私たちの人生は、自分というものの幸せよりも、人の幸せを生きる事が、本当の自分の幸せだというのがキリスト者です。でも皆自分の幸せ。自分が気に入らない事が起こったらすぐふてくされる。圧力かける。バカにする。相手を攻撃する。それはあなたが自分の幸せを求めているからでしょう。そんな人生は十字架の人生ではないです。身代わり、それが十字架の意味です。私たちの究極は、永遠の命です。地上での幸せではありません。私たちはこの地上でどんなに幸せそうに生きても、自分の願い通りに生きても、あなたは必ず死ぬ。そしてその後に神様の前にあなたは必ず立つ。クリスチャンとして、もしあなたが立つなら、今のあなたの生き方では、あなたはイエス様から裁かれます。そしてまた、死んだ後に裁かれるだけでなくて、この地上で神様に喜ばれない生き方をしていたら、神様は御顔をもってあなたに向かわれます。神様の御顔があなたに向かう時、それは、一つは祝福の御顔になるけれども、あなたが神の御心に従わないで生きているなら、自分勝手な人生、自分の楽しみ、自分の幸い、自分の夢、自分のビジョン、自分の願い、それを求めているなら、あなたを矯正するために、厳しい裁きをします。それが御顔を向けるという事です。また、神の御手があなたに伸びる時、それは祝福の御手でもあるけれども、あなたを矯正するための、裁きの手でもあるのです。ですから聖書は御手という言葉、御顔という言葉があります。これは神様の偉大な力を表します。だから私は誰かのために自分の命を捧げる。これはコングレスの一番中心の教えです。代表行為、これは人のために、他のために生きるという事です。また、TFMという最後の成熟への追跡も、究極は己の死です。己の自我の死です。己の希望や、己の楽しみや、己の喜びや、自分が人から良く思われるような、そういう自分というものの死が、あなたに必要ですと、聖書が告げているのです。その時人のために生きるという世界が現れる訳です。人のためにあなたが何か犠牲をする事、それがあなたの本当の喜びです。それが究極のあなたの喜びです。罪を犯す前はそれが普通だった。罪を犯す以前の人間は、神を喜ばせる事がその人の幸せでした。けれども罪を犯してから、私たち人間は全部、自分の幸せ、自己中心という生き方が、全人類に広まったのです。それをもう一度贖うために、救い出すために、キリストは十字架に架かられた。すなわちあなたの身代わりとなられたのです。だからその愛を受けたら、私たちも身代わりのための生き方ができる。人のために生きる事、身代わり、自分が苦しんで相手が幸せになる事が、我々キリスト者の喜びです。十字架の意味を知りましょう。

2、贖い 十字架は贖いです。この贖いという字は、貝へんです。昔貝は、お金の通貨として使われていたのです。ちょっと前までは、金貨、銀貨、銅貨、が使われていました。その以前は貝が使われていたのです。これがお金の売り買いの価値だったのです。だからこれはお金を表します。お金で売り買いする事を贖いと言います。だからこの贖いという本当の意味を、今から見てみましょう。

ローマ人への手紙6章14節「なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。」今、私たちは十字架によって贖われたから罪に支配される事がない者です。その事を今日、あなたは心に深く刻んで下さい。もうあなたは罪に支配される事がないのです。多くのクリスチャンここにいるけど、それを知らないです。だから罪に支配されています。あなたは世の中の価値観で、ものすごく自分にとって良いと思っているものに、完全に支配されています。それは何ですか?お金です。あなたはお金に支配されています。完全に。罪の結果、人間は働かなくてはならなくなったのです。その中心は何ですか?生活です。生活に必要なのはお金です。お金があなたの支配者です。だからあなたは、罪に支配される事がない状態に、キリストの十字架によって贖われているにも関わらず、それを知らないから罪の支配の中にいるのです。兄弟姉妹、十字架を悟りましょう。もう一つ見ましょう。

15節「それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。」だから私たちは誰かの僕になって服従する。どっちかなのです。先ほど、イエス様と一緒に十字架につけられた犯罪人の一人は、罪に服従した僕となり、もう一人の犯罪人の方は、最後に恵の僕になったのです。だからここで、我々は何かに服従しなければならない被造物ですから。上がなければならない。あなたは誰があなたの主人ですか?罪があなたの主人ですか?それとも恵があなたの主人ですか?という事です。

17節「しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、罪から解放され、義の僕となった。」伝えられた教えの基準、それは十字架を信じたからです。あなたを罪からゆるして下さったのは、身代わりの死を遂げたイエス様の十字架によってあなたは恵の僕になったのです。

19~23節「わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげてきよくならねばならない。あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」

7章14節「わたしは肉につける者であって、(わたしは自己中心な者であって)罪の下に売られているのである。」だから私たちは罪の下に売られているのです。アダムは初めは神様の前に義とされていました。けれどもサタンの誘惑によって彼は罪を犯しましたから、彼は罪の中に入りました。そこから全人類が罪の下にいます。ですからこの世界中の全ての人は、この罪という御方の下に支配されているのです。だから正しい事をしようと思ってもできないのが私たち人間なのです。それをパウロ先生はこう言っています。「ああわたしは、なんというみじめな人間なのだろう。自分がしようと思っている事ができないで、してはいけないと思っている事をしてしまう。自分でありながら自分でない。」自分がしてはいけないと思う事は本当はしないです。でもしてしまう。言ってはいけないと思っている事を言ってしまう。「バカ!」言ったらその人との関係がだめになる事が分かっている。だから言ってはいけない、言ってはいけない、「バカ!」そして人間関係が壊れる。自分は言ってはいけないと思っている事を言ってしまう。私ではない人間が、もう一人自分の中にいるみたいだ。優しくしてあげないといけないと思っているのに、汚い言葉を言ってしまう。「ああ、私は自分で自分がコントロールできない。自分は何て愚かで惨めな人間だろう。私はいったいどうしたらいいのだろう。」と、パウロはローマ人への手紙7章で、ずーっとその事について書いています。それは罪に売られているからです。罪の支配の中に人がいるから正しい事ができません。今までは、あなたも私も罪という御方の僕だった。イエスを信じる前までは。だからどんなに正しい事をしようとしても、罪の僕だから、罪様という御方の言う事を聞かねばならない。だから憎んだり、ねたんだり、自己中心で人を裁いたり、いつでも自分を正しいとして、そのような生き方を私たちはしてきました。2番目の十字架、それは贖い。贖いという言葉は、買い戻すです。売り買いのお金で、あなたを罪からイエスは十字架を通して買い戻して下さったのです。それが贖いという言葉の意味です。私たちは何もしていない。十字架を信じただけです。それで私たちは買い戻されたのです。買い戻しの代価は十字架です。神の御子が、あなたのような罪人のために十字架に架かって死んで下さったのです。あなたのような汚い罪人のために。私のような醜い罪人のために。十字架を通して、イエスは私たちを罪から買い戻して下さったのです。その尊い代価が払われているのです。誰も払う事ができない、尊い代価が払われているのです。それが十字架です。罪の無い御子が、罪あるあなたのために買い戻してくれた。それが十字架です。神様の愛を感じますか?自己弁明は誰だってできます。そして比較社会の中で生きていますから、人と比べていくらでも自分の方が正しい、自分の方があなたよりも少しは偉い、勉強もできる、お金が沢山ある。バカげた話です。そんなものは何の価値もない。神様は罪のない御方です。その御方があなたのために十字架を通してあなたを罪から買い戻して下さった。だからあなたは神様の御前に義とされたのです。正しくされたのです。無代価で永遠の命が与えられたのです。でも本当は尊い十字架という代価が払われているのです。払い切れないような代価をイエスはあなたのために払って下さった。それが十字架の意味です。深く覚えて下さい。それまではあなたは罪という主人の奴隷だった。やったらいかん、やったらいかんと言いながら酒を飲む。こんなに酒を飲んだら妻に悪いなあと思いながら、ぐでんぐでんになる。自分の体をコントロールもできないで、酒の支配の中に溺れる。それは罪の奴隷です。ギャンブルばかりしていたら生活がなりゆかないなあ、妻に悪いなあ、夫に悪いなあ、子供たちに悪いなあ。こんなゲームばっかりしてお金をつぎ込んでいたら自分はだめになるなあと思っていながら止められない。罪の奴隷です。あなたの霊の内に、あなたは変わろうと思いますか?十字架の意味を悟っていますか?

3、罪のゆるし 罪をゆるして下さるのが十字架です。あなたはあなたで自分を救い出せません。誰かが救って下さらなければならないのです。イエス様は十字架であなたの罪をゆるして下さったのです。その1点のために、神が御子として、肉体まで持って、宿ってこの地上に来て下さった。神様は霊ですから肉体をお持ちになりません。持つ必要もありません。神様は御言葉ですから、「光あれ!」と言われたら、光が出てくるし、「この世界よ出て来い!」と言ったら、山々を造る事もできるし、言葉一つで神は何でもできなさる方で、形ある物を神様は作り上げるために、神様は御自分が形ある人間になる必要はないのです。永遠の御方ですから霊です、彼は。彼は目に見えません。それが神です。目に見える神は偽りの神です。そんな物は神じゃない。燃やしてしまったら無くなるような物は神じゃないのです。だから神様は何でもできなさる。その御方がわざわざ大工の子としてこの地上の小さな貧弱なイスラエルという国に御生まれになって、しかもエルサレムの中心の町に生まれるのではなくて、ナザレという超田舎に御生まれになったのです。イエス様はガリラヤで御生まれになった。ガリラヤ弁を使われる、ド田舎の子。しかも大工の子。神の御子がそういう形をとらなかったら、私たちはイエス様が神様である事が見えなかった。イエス様が霊で来られたら、見えない。本当に私たちを救って下さったのか、どうしたら分かるのですか?この人間の肉体を持っている私たちにとっては、同じ人間になって、そして十字架に架からなかったら、本当にイエス・キリストが、私たちの身代わりに贖い、買い戻して下さったという事がどうして見えますか?だからイエスは来られたのです。そして最後に罪をゆるすために十字架に架かられた。だから十字架=あなたの罪のゆるしです。あなたは今日深く思いなさい。それによって救われたのです。私のような汚い、こんな醜い、本当に心がいつも自己中心で、いつも人を裁いて、相手が悪いと言っているような、こんな私のために、誰が死んでくれますか?大金持ちがいて、その大金持ちに沢山の借金をしている人が一人いて、それはあなたです。あなたは神様の前に負債だらけです。ゆるしてもらわなければならないようなものばかりです。そういう借金まみれのような私たちに対して、その大金持ちは、今日がその清算日だと言ってやってきて、全部返せと言った。その時、「私には今まだお金がございません、まだ負債が一杯あるのですけども、必ず返しますから。」返せないそんなもの。私たちは神様の前に自分の罪をゆるしてもらえない。十字架が無ければ。だからイエス様はそうなさったのです。でも最初にこの男に金持ちが言った事は、「全部返せ。」神様は本当は、「正しく生きよ!」と、私たちにおっしゃっているのです。でもできないのですあなたは。だから十字架が必要なのです。この男は、「もうゆるして下さい、ゆるして下さい、」「いや、ゆるさない。お前の子供も皆売って、お金に換えて来い。」金持ちは厳しく言った。でもそれは当たり前の話。借りたのだから返さなければならないです。返せないのです私たちは、神様の前に。だから神様は、もう懇願しているその男の姿を見て、かわいそうに思って、「もう全部帳消しにしてあげよう。」その意味は何ですか?「私があなたのその罪の代価を全部払って、ゆるしてあげるために十字架に架かりますよ。」と言って下さっている、その意味です。彼はものすごく喜んだ。「ゆるされた、幸せになった!」でもこのようなクリスチャンいるのです。自分がイエス様を信じて幸せになっている、永遠の命をもらっている。でも帰り道に、たった百万円しか貸してなかった友達に、「お前百万円貸していたではないか、返せ!」「ゆるしてくれ、ちょっと待ってくれ!」「いやゆるさん!」牢獄へ叩き込んでおく。そしてそれを見ていた近隣の人たちが、「あいつはもう何兆円というお金を、あの大金持ち様から許してもらったのに、たった百万円の借金をしている友達を牢獄にぶち込んだ。そんなひどい奴はいるか。これはあの大金持ち様に言わないといけない。」と言って、それを訴えた。「大金持ち様、さっきあなたがおゆるしになったあの男、途中でこんな事が起こったのですよ。」「呼んで来い!」金持ちが言いました。「もうお前は二度と出られない牢獄に叩き込む。」それは滅びです。それがこの話の譬えです。私たちはクリスチャンになっているのに人をゆるさない。クリスチャンであるのに自己中心。それはあなたが十字架の、罪のゆるしという事の意味が分からないからです。あなたはゆるされた者です。だからあなた以外の人から、あなたがひどい目に遭った時、あなたがする態度は、ゆるす事です。

テモテへの第二の手紙3章1節~5節 今の時代、こういう時代の時には、この世の人々は、自分を愛する者が出てきます。世の中、自分を愛する事ばかりです。終わりの時代というのは、こういう人々が一杯出てくるのです。「金を愛する者、大ぼら吹き、高慢な者、自分が偉いと思って自惚れて、ちょっとでも自分の自惚れている事を非難されたり、自分の弱い弱点を突かれたら、ものすごい怒って人を責める人たち。これが大言壮語する人です。高慢、神様をバカにする人、親に逆らう人、恩を知らない者、神様の清さを汚す人たち、無情な者、情けがない、もう金だけ。顔の美しさ、スタイルの素晴らしさ、そういう自分を表すためにはお金をいくらでも使うけれども、人の困っている事には情けも何も無いような人々が今一杯です。あなたは違いますか?優和しない、絶対折れない、もう自分の我を押し通す人、「お前が間違っている!」徹底的に自分を守る人、優和しない人一杯います。そしる人、いつも人をバカにして、人をさげすんで、それがその人の幸せ。そういう人一杯います。無節制な人、コントロールができない人、もうすぐに酒に溺れる人。ギャンブルにのめり込んでいく人。これは完全に罪の支配に売られている人たちです。粗暴な者、もうちょっとした事で荒々しい、もうその人の傍に行きたくない。そういう人、一杯います。良い事をする人たちをバカにする人、人を助けて何になるのだという人たち一杯います。善をする事が好きでない人、悪い事が好きな人、一杯います。これはどんな時代ですか?苦難の時代。今の時代です。これらをゆるして下さった。罪のゆるしが十字架です。十字架、それは身代わりの死です。十字架それはあなたを罪から買い戻す業です。十字架それはあなたの罪をゆるす業です。これが私たちの主イエス・キリストの十字架です。そして私はあなたにチャレンジしたい。あなたも身代わりの死を喜びとする人生、すなわち人のために生きる事があなたの幸せであって下さい。自分の事しか考えない人間はクリスチャンとして本当に恥ずべき者です。御国に行けるかどうか私は知らない。私はイエス様を信じた人が、皆神の国に行って欲しい。同じ人間として。でも神様が、「お前はノーだ!」と言われたら、本当にクリスチャン生活を正しくやっているかどうか、それを決めなさるのはイエス様です。兄弟姉妹、教会にずっと来ていて、教会で葬儀をしてもらったから神の国に行けるというその保証は無いです。あなたがこの地上で、どういう価値観で生きるか、どのように神様の御教えを正しく生きるか、それにかかっているのです。もちろん失敗はあるし、だめな部分はあるし、でも悔い改めてすぐまた新しく、「私は変わらなければならない」として、前に向かって正しい生き方をしようと努力していくなら、その人は必ず御国に行けるでしょう。間違いないでしょう。でもクリスチャンという名ばかりで、教会に来て、献金さえしておけばいい。それは無理です。だから神様は今日、皆さんにもう一度十字架の意味を知ってもらいたかった。どんなに神様は私たちを愛して下さっているか。それは十字架にかかっています。神様の愛は、十字架に架かってまであなたを愛された愛。実際に神様は死ぬ事のない御方ですけども、実際にあなたのために死んで下さったのです。経験して下さったのです。罪を犯した者だけが死ぬのに、イエス様は罪が無いのに死んで下さったのです。その愛、それが十字架です。その愛に生きましょう。

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