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執筆者の写真クライストチャーチ倉敷

2019.6.23 木村 由智主任牧師 「正確性」


おはようございます。今朝は2019年の私たちの正確性というテーマで語らせていただきます。先ず最初に、出エジプト記25章8節~9節を読みましょう。出エジプト記25章8節~9節「また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。すべてあなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない。」ここで神様が型の通り、すなわち神様が言われた事の通りのものを造りなさいという風に言っておられます。これは、「私たちが神様が言われた事を行う為の能力、その為に必要なものは与えられています。」という事を

言っています。次に

エゼキエル書43章10節~11節「人の子よ、宮と、その外形と、設計とをイスラエルの家に示せ、彼らはその悪を恥じるであろう。彼らがその犯したすべての事を恥じたら、彼らに、この宮の建て方、設備、出口、入口、すべての形式、すべてのおきて、すべての規定を示せ、これを彼らの目の前に書き、彼らにそのすべての規定と、おきてとを守り行わせよ。」この御言葉を一言で言うと、「かっての自分から離れるという事を表して、そして完全な構造の教会を建て上げて行く、それを知る、それをのぞき込みなさい。」という風に言っています。神様がその型と設計図とをイスラエルの家に示して、彼らはその正確なものが表された時に、自分たちがいかに不正確であるかという事がよく分かったということです。そしてその不正確さから離れて、神様が示される正確なものを造っていく、そしてそれを見なさい、と言っておられます。

ヨブ記42章5節「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。」(新共同訳)という訳の方が皆さんにとって理解が強められると思いますので、ここも読んでみましょう。「あなたの事を耳にしてはおりました。しかし今この目であなたを仰ぎ見ます。」口語訳の方には、「しかし」という文章が無いのですけども、ウッドロフ先生がここで、「しかし今」というこの表現が非常に大切であるという風に言われました。それは、「耳にはしていたけれども、今この目で仰ぎ見ます。」これは私たちが移行して行く為に必要なプロセスである。神様にある何かを見ている表現である。ただ聞いているという事ではなくて、「見て、そして仰ぎ見ます。」神様の偉大さを理解したという事です。ですから私たちも今以上に、知っているという領域から、本当に経験しているという領域の中に移行して行かなければならないのです。知識とか、色んなもので、知っているという領域から、私たち自身が神様を経験するという領域の方に行く。だからこれは移行しているという事です。

 今3つの御言葉を読みましたけども、これは全て私たちがこの2019年に於いて、神様に対して正確に歩んで行く為の御言葉として、今日これが語られているという事を受け止めていただきたいと思います。神様は明確な形と明確な御自身の姿を、御自身が臨在するその幕屋を人々に提示しました。そしてその事細かい規定と寸法と全ての事を神様は伝えました。そしてそれらを聞いて受けた私たちがその通り、型の通りそれを造って行く、私たちがそれをするという事は、神様が言われている事が出来る為の能力が備えられているという事です。私たちは今、そういう恵の中にいます。私たちは神様が言われた事を行う事の出来る能力、必要なものが全て与えられているという立場、又、資源、考え方を持つ者とされています。エゼキエル書の御言葉では、その外の形と設計とをイスラエルに示しなさい。そうしたら彼らはその悪を恥じるであろう。いかに神様の正確性と、自分たちが不正確であったという事が、はっきりと表された訳です。彼らはそれを見て、神様が設計しておられる建て方、あるいは設備、出口、入り口、全ての形式、そして全てのおきて、全ての規定を見させるという事をさせたのです。それによって彼らが、自分たちがいかに、自分たちの内側の構造や考え方が歪んでいるか、それをどのようにして修正していくかというのは、神様を見てでしか、神様の資源によってでしかないという事をもう一度ここで明確に言った訳です。

ヨブ記に於いて、「しかし今、」というこの言葉を、今日皆さん、しっかり心に留めていただきたい。「この目であなたを仰ぎ見ます。」はっきりと神様に対する信仰と、神様そのものを知るという事をここで言っている訳です。その事の故に、古い自分から新しい自分に移行する事が出来るということを言っている訳です。

 正確に私たちが事を行う為に必要な事は、以前の考え方や、以前の立ち位置や、絡み付いている様々なものから移行して行くという事だと思います。移って行かなければ、新しい領域の中で自分自身を神様の望んでいる通りに立て上げて行くという事は難しいと思います。今朝皆さんと共に正確に生きて行く為に、私たちはもう一度神様を見て、神様がおっしゃっている事柄を受け止めて、その言われた通りの事を行って行きたいという願いの中にまで皆さんが導かれて行く事を信じます。

 2019年の私たちの正確性というものは、このエゼキエルの原則の中から私たちは拾い上げていかなければなりません。この2019年に於いて、神様の新しい思いというものを知るという事です。去年は去年で良かったのですけども、今年は今年の神様の新しい思いと考えと、デザインと型が私たちに来ているという事、それをするには熟考する=念には念を入れて行うという事です。「これでいいかな?」と思っても、もう一度これでいいか自分で考えてみて、そして実際自分でやってみるという事です。念には念を入れて神様が言われた事を、「ああそうなんだ。」という程度の受け止め方ではなくて、念には念を入れて、自分はこれを正確に受け取って、正確に表す事が出来るかという事を深く考える事が必要なのだということです。私たちの性質には適当さがあっても、神様にはそういう適当さは無く、私たち一人一人に対しても、しっかりした考え方、思いを持って生きておられます。ですから私たち一人一人の罪を取り除く為に、十字架という道を通られた訳ですから、私たちはその正確性をしっかり今朝受け止めていきたいです。

 エゼキエルに示された設計、外形、形を神様が示した時に、「彼らはその悪を恥じるであろう」と言われたように、私たちが本物を見るという事は大切な事なのです。テレビでよく、空港の税関で偽物が沢山押収されて、廃棄処分になったという事を見ます。偽物があるという事は、本物があるという事です。この世のものは偽物だと思います。そういったものに惑わされないで、本物である神様を、いつも深く念入りに追及して、考えていかなければなりません。まず私たちは神様の思いを知るという事が大切です。神様が型を示した、神様がそのデザインを明らかにした時に、そこにある神様の思いを私たちは求めなければなりません。皆さんが何かをする時に、やはり目的や考えを持ってされるように、神様も移行される、又、事を新たにするという時に、神様自身の深い考えと思いがそこにある。それらは私たちが受け取って、神様の形をこの地上に表す為です。その為に私たちは正確でなければなりません。又、神様が満足される為に、私たちの構成、すなわち私たちを立て上げているものは、まだ不十分だなという事を認めなければなりません。そして神様が望んでおられるものを私の中に表したい、神様の望んでおられるものを私の中に立て上げたいという、そういう願い、そういう思い、信仰、そういったものが無ければなりません。皆さんの中にそういうものがあると信じます。そうして私たちは神様の思いを、この地上の神様を見る事の出来ない人たちに、私たちが表して行かなければならないです。

 では私たちは、神様がデザインし、形造られた通りの私と成っていかなければならない訳です。その為にまず一つは、皆さんの中に取り除くものがあれば、取り除くという事です。皆さん自分の中に、これは本当に不必要だという風に思うようなものがありますか?神様の言葉を聞いて、神様の思いをあなたが受けた時に、「これは、私は変わらなければならない。これは私は捨てなければならない。これを私は取り扱わなければならない。」という事を感じる事がありますか?それとも何も全く感じないですか?或いは感じようともしないですか?ただここに来ているのは、親に連れられて来ているとか、もう習慣上で来ているというぐらいの受け止め方ですか?あなたがここに来るというのは、神様の願いであり、神様の思いであり、これは間違いなく正確な事です。ここに来たなら、神様の願いを受けて、神様の思いを受けて、神様の形通りの人間に私は成って行くという、その信仰を私たちは持つべきだと思います。そうするならば、あなたは神様の望んでおられる通りの者に変わって行く事が出来ます。

 取り除くもの、それは私たちの構造の背後です。あなた自身を動かしている価値観や考え方です。あなたが自ら動こうとする理由は何でしょうか?あなたが人に言いにくい事を言ってあげたり、人を助けたり、又、人の徳を高めるような事を言ったり、行ったりするその目的、考えは何でしょうか?あなた自身が良く見られたいか、或いは何も考えずに、そうやればいいという考え方でやっているのか。これをする事によって、神様が現れるという考え方の構造があって、私たちはそれをしているのか?そういったものをしっかり考えて、自分の価値基準、自分自身を動かしている、なぜ自分はいつもこうしてしまうのだろう。当たり前のようにしている事が、本当に神様の価値基準から流れて来ているものなのだろうか?そういった事を考えるという事は本当に大切だと思います。そして本当に自分が不必要な事をしている。自分が本当に人から常に見られているという事を意識してやっている行動なのか、或いは神様を意識した中からこれが私の中に自然と出て来ているものなのかという事を、私たちは認識しなければならないと思います。私もよく注意される時に、その事が全然見えていなくて、分かっていない時に、いつも言い訳するのは、「分からない。」分からないという事は、言い換えたら、知りたくないという事なのです。知ろうとしないという事なのです。それを知ってしまえば、変わらなければならない。それを理解すれば、自分が犠牲をしていかなければならないというものを、無意識に自分たち自身の中に持っている訳です。でも神様がその言葉を通して、私自身の心の中にあるものを見せて下さった時に、私は本当にそれを恥じなければならないのです。神様の願っている形の中に私は入って行きたいという事を、そこで持たない限り、私はその様に成る事は出来ない。兄弟姉妹、私たちはそういう経験をいくらかするでしょう。親との関係、或いは友達との関係、仕事での関係の中で、もう聞かされたくないし、「そんな事分かっているわ!」というような事を言われたり。でも神様は何かないと、私たちの中にいつも変わろうとする意識が失われて行くという事をよく御存知なのです。ですからいつも私たちには、何か必ず事が起こります。

 このエゼキエルの御言葉の中で、神様ははっきりとした設計図を示されました。11節に、「彼らがその犯したすべての事を恥じたら、建て方、設備、出口、入り口、すべての形式、おきて、」なぜですか?それはその建物が、正確に機能していく為に、神様は全部の建て方や、設備や、色んな場所を定められた訳です。その定められた通りに、私たちがそれを受け止めるならば、私たちは機能的な人間となって、神の国で正確に物事を行う事ができるように成って行くという事です。このように見取り図を正確に受け取る為に、私たちがしなければならない事は、現実に対して忠実であるという事です。現実逃避をしてはいけないという事です。いやだから逃げたいとか、いやだからこれは後にしたいとか、という現実逃避をしてはいけない。今は神様が言われているその事を受け取って、それに力を入れていくという事が大切です。そうするならば、あなたは必ず神の国の中で機能性を持った人間として歩んで行く事が出来るでしょう。

 正確性という意味を、皆さんその為には理解しなくてはなりません。正確性は何を意味するか?それは許しと関係の再構築であるという事です。正確性のその言葉の持つ意味は、許しを私たちにもたらします。神様が私たちに正確にやって欲しい為に、私たちにその悪を恥じさせて、自分の犯した全ての事を恥じさせて、関係をもう一度再構築させて下さるという事です。もし皆さんが正確性を持ちたいというように願うなら、あなたは神の許しを受け取る事が出来ます。そしてあなたは神様との関係を、もう一度再構築させる事が出来るようになっていきます。このウッドロフ先生のDVDを見て、「今、2万の教会がコングレスの中に入って来ている。そこに機能していない教会があるのを知っている。」という風に聞く時に、私たちはそれをどういう風に聞きますか?文字通りそれは、最近コングレスに入って来た、真理を充分に知らない教会という風に取りますか?或いは、このコングレスの恵の中にいて、まだまだ正確に神様の言葉を受け取っていない教会、すなわち自分自身があるという風に受け止める事が出来ますか?私たちは常に神様の前に自身を確認していかなければなりません。そのようにして、「ああ、最近入って来た、真理を充分に知らない教会に対して言っておられるという捉え方であるならば、私たちはもう完全に成熟しているという、そういう本当に考え方の中に陥ってしまいます。私たちは完成を目指して進んで行っている。それは責めたりするのではなくて、正確に調整する為にそのような事が言われているという事です。皆さん本当によく考えて欲しいのです。「私は正確に神様の言葉を受け取って、正確にこの神様が望んでいるものを立て上げていくだけの心を持っているだろうか?自分がもう、信仰年月も長くなってきた、色んな奉仕も出来るようになってきた、社会的にも地位が上がってきた。持ち物に於いてもそんなに悪くない物を持っている。でもそういったものが私たちを、神の国の完成だと置き換える事は出来ません。この地上でそんなに豊でなくても、そんなに物を持っていなくても、私たちは霊の領域で正確なものを立て上げていくという事が求められている訳です。ですから目に見える、そういった物に価値基準を絶対に置かないという事が、常に自分の中で確認されておかなければなりません。なぜなら目に見える物によって揺り動かされてしまうからです。皆さんが正確に、神様が望んでいる型の通りに行くには、正確に自分自身を調整して下さいという事です。

 では、神様の言葉に対する正しい理解という事を、皆さんにお伝えしたいと思います。神様の言葉に対する正しい理解、それはまず一つ目は、天からの資源であるという事です。本当にこれは自分にとって、神様の領域から来ている資源として、皆さん受け取っていますか?あなたの中で、天から来ている、神様から来ている資源として、それをこの肉の中に入れようとした時に、それに対する反発や、或いは受け入れたくないという願いとか、思いとか、葛藤とか、そういったものがありませんか?これは完全に天から来た、神様の領域から来た資源として、兄弟姉妹、もう一度今朝、受け止めるという事を心がけていただきたいと思います。神様の言葉は天からの資源です。この地上には存在しない資源です。神様からしか来ないものです。「それを私は受け取ります!」という事を、もう一度今朝確認したいと思います。そして神様の言葉は、神によって承認された我々人間の活動の為のデザインや形であるという事です。神様の言葉は、神様が承認して、これをやるならば、あなたたちの活動と、あなたたちの形は、神の国を表す事が出来るという事なのです。神様の言葉を、私たちは正確に受け取っていますか?神様によって承認された者だと。無意識で、自分が承認するかしないかという事を決めないで下さい。神の言葉が来たならば、あなたはそれを受けるという信仰を働かせるなら、神様が承認された者として、あなたはそれを受け取らなければなりません。あなたの肉の願いや、思いとは程遠い、又、反発するようなものであったとしても、私たちがこの地上で活動して行く為の形であり、デザインであるのが神の言葉であるという認識をしなければなりません。この世の価値基準でもなく、この世の教えでもなく、この世の躾でもなく、この世の経験でもなく、神の言葉によって私たちはこの地上で活動していくという事が、私たちの意識の中で明確でなければなりません。そういう思いを皆さん、お持ちでしょうか?持っていて下さっていると信じます。

 地上に対して神様が好まれる事の伝達、神様が行いたい方法を、神様の言葉によって私たちに伝えられているという事です。皆さんが神の言葉を、或いは思いや、イメージや、具体的に何かをつかんだ時に、どういう風にされますか?私は最近、一つの事を神様から思いをいただいた時に、それをすぐに、ぱっと言ってしまったという事があったのです。でもそれを伝えた相手は、「全然意味が分からない」と言って、でも私の中で、「神様から聞いた事なんだ!」という風な言い方で、その反応に対してそれをねじ伏せようとするような言動があったという事に気付いたのです。

 イザヤ書55章10節~11節「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果たす。」「神様の口から出た言葉は、むなしく神様の元には戻らない。それは神様が望む事をすべて成し遂げ、私が与えた使命を必ず果たしていく」(新共同訳)私たち、それを受け取った者が、それを実用化していくという事が、このようにして成っていくという事です。この世の中の言葉や、色んな本や、そういったものは、私たちの思いを刺激したり、感動を与える事はあります。でも私たちの霊の中で、神様の思いとして受け取るという領域にまで、この世の言葉や、この世の教えは到達する事は出来ません。まして我々の行動を変えるような動機付けを与えるような事はできません。確かにこの世にはハウツー本と言って、こうしたらこう出来るという、外側を変えたらあなたは成功しますよという本はあります。でも神様の言葉だけが私たちの内側に届いて、私たちの内側の本質を全く新しくして、そしてそこから出る新しい行動を生み出す事が出来る言葉です。ですから神様の言葉を、皆さん正確に受け取って欲しいのです。なぜならこれは天からの資源です。この地上には無い、別の領域の資源です。これしか私たちがこの地上で神様を表す方法はないのです。これを私たちは受けなければ、私たちは神を表す事は出来ません。神の言葉は、私たちの心に入り、困難な環境が我々に抵抗しようとして来ても、私たちを前に進ませる事の出来る力が、神の言葉です。この世の言葉は気持ちを柔らかくしたり、感情を抑えるという事に於いては、非常に効果があるでしょう。でも、本質的に全てのものを受け止めても、決してその立っている歩みや、立ち位置が揺り動かされる事がなく、正しく立ち続ける事が出来る力は、神の言葉しかありません。神様が今私たちに願っておられるのは、今日この言葉を通して、あなたの中にある不正確な神様に対する受け止め方、信仰、それを調整して欲しい、正確にして欲しいという事を願っておられます。私にはそんな力は無いとか、信仰が無いというような事を決して、それは神様の前に言ってはならない事です。神様を信じるならば、あなたには神様がそれだけのものを与える事が出来る、その権威を神様はお与えになりました。決して人間的な能力や難しさによって、軽はずみに言葉を発しないようにして下さい。「無理だ、だめだ!」そういった事を絶対に神様の前に言わない。神様に信頼して、「私はやり遂げる事が出来る!」という、そういう考え方を持たなければなりません。もう私たちの力で出来る事というのは限られています。でも、神様に出来ない事はない。私たちの霊的な先祖は、世の価値観とは異なる何かを信じました。しかしそれによって人々は、その人たちを「傲慢だ、貴様は何様なのだ!」というように扱いました。例えばノアは神様の声を聞いて箱舟を造りました。人々は彼をあざけりました。「なぜお前だけ神様の声が聞こえるのか!」ののしったでしょう。その当時雨が降るとか、洪水とか、そういう言葉や、そういう経験はノアの時代に無かった。「なぜそんな事が起こるという事がお前には分かるのか!」それは彼は神様の声を聞いていました。でもその神様の声を妨げる外的な要因を全て断ち切って彼は事をやり遂げました。皆さんにも色々な情報や、色んな思いや、色んな考えが、色んなものを通して入って来るでしょう。でもそれらのものを断ち切って、神様の言葉、その外から来るものに心をひかれるという構造を自分の中に見出して、それを恥じて、神様から来るものによって、自分の内側が正確に立て上げられていくという事を、もう一度今朝、皆さん求めるという事をしていただきたい。

 この神様の言葉によって、私は正確に、この2019年を立て上げていきたいという

信仰が必要だと思います。それは夫婦の関係からです。そして親子の関係もそうです。全て個人の領域から始まって行かなければなりません。そして家族の領域、そして共同体の領域にまでそれは及んで行かなければなりません。皆さん、神様の言葉を本当に大切に受け取って下さい。この資源だけがあなたを変える事が出来るものです。この資源だけが、神様の御心を私たちを通してこの地上に見せる事が出来る唯一の方法です。神様の願っているデザインや型を、人々に表す事が出来るのは、この神の言葉です。私たちはそれを正確に受け取りましょう。あなた自身の好まない事や、嫌な事や、それらによって神様の言葉があなたの一番中心の核の部分に到達出来ないような事が起こらないようにして下さい。それらのものがいつもあなたの核の中心に来るように、様々なものを取り除いて下さい。聖書の中に、「人は全て聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅くあるべきである。」と、あります。聞く事に対しては、本当に早く神様の言葉を聞く、でも、私は本当に自分自身が、今まで聞いたらすぐにしゃべりたくなる。なぜ「聞くに早く、語るに遅く、」それはその事を本当に自分の中でよく念入りに考える為です。軽はずみに言ってしまって、何の考えもなく、資源が来たけども、その資源をどういう風に、これを発達させていったら良いかという事を、考える間もなくポーンと言ってしまう。だから関係が悪くなってしまったり、「声を聞いたのに何で出来ないのだろう?」というような愚かさの中に自分たちが落ち入ってしまわない為です。兄弟姉妹、聞いた事をしっかりあなたの心の中で考えて下さい。なぜ神様は私にこれを語られるのだろうか?これが私にとって不正確であったから、これを取り除く為であり、これを変える為なのか。そういう事を本当に考えて下さい。そして事を行っていって下さい。それが今、私たちに必要な事だと思います。この事を実用化しましょう。そして心がけていきましょう!

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