2019.1.6 木村主任牧師 「互いに愛し合いなさい」

2019年も兄弟姉妹と共に主にあって迎える事ができた事を、もう一度主に感謝したいと思います。そして2018年は、本当に沢山の色んな出来事がありましたけれども、我々はそれを主にあって乗り越え、そしてこの2019年を迎える事ができた事を、本当に主に感謝したいと思います。どの様な事があっても、決して主から離れる事のない、それが私たちには本当に大切な事です。昨年は私たち、この倉敷地区は本当に心をさぐられる様な出来事がありましたけれども、それでも主に信頼して主と共にそれを乗り越えてきた事は、本当に私たちの力になったと信じています。それによって生み出された沢山の新しいものもある事を感謝したいと思います。私たちが新しいものを生み出して行こうとする時に、必ず何かが死なないといけないと思います。そして死ぬ事によって新しい命が誕生するという神様の原則を体験した2018年だったと思います。2019年は更に神様が加速し、更に私たちは正確性を持って、この2019年を完成して行きたいと、そういう風に願っています。今朝の礼拝の中でも、主の言葉、又、祈りがあったように、私たちは、昨年は、「私の愛の内にいなさい」という事で、神様の愛の中で私たちは過ごす事ができたと思います。ただそれは、私たち自身の感情や感覚的なものを、気持ち良くさせるというものではなかったと思います。その愛を私たちは沢山受けたと思います。それは苦しむ事によって受けた訳です。様々な試練に遭う事によって、私たちは愛されているという事を、より深く皆さんは経験されたと思います。その愛の中で、今年私たちは、「互いに愛し合いなさい」この御言葉によって、この2019年を私たちは進んで行きます。ヨハネによる福音書13章34節「互いに愛し合いなさい」皆さんには愛する力がある訳です。それは私たちが昨年、この愛の中にしっかりと留まったが故です。その事の故に私たちは愛する事ができるという事を覚えておかなければいけません。

 聖域・集合というテーマは、昨年同様、今年もそのテーマの下で進んで行きます。私たちが聖域として、又、集合を完成させる為に、我々は一つの集団の人として立たなければいけません。今日も最初に我々同労者が挨拶をしましたけれども、私たちは先生方の覆いと、その守りの中にあって、初めて我々は正しく機能する事ができるという事を、私たち自身も覚えなければなりません。それがなければ、自分の見えている範囲で事を行ってしまうという危険性に陥ってしまう訳です。でも覆いがあり、私たちが何をしようとしているかという明確さがある故に、そこに助言がある故に、私たちは正確性をもって神様の御心を完成して行く事ができる訳です。今年も兄弟姉妹、同労者である我々がその様な心をもって主の前に進んで行くという事は、兄弟姉妹もその様な心をもって主の前に進んでいただきたいのです。あなたに優れた能力が与えられていたとしても、私たちは共に建て上げて行かなければならないのです。共に進んで行かなければならないのです。その事を覚える時に私たちは自分の命、価値観を捨てて、キリストにあるその全ての達成、業、その姿勢、立ち位置を表して行かなければならないのです。キリストの身体の代表として、まだまだ沢山の、キリストの身体に繋がれなければならない人たちが沢山います。その人たちを私たちは愛して行かなければならないのです。今日は、この互いに愛し合うという事から、その愛がどういうものであるのかという事を少しお話したいと思います。キリストの身体を愛するという事を求められている時に、それが正確に何を意味するかを私たちは明らかにして行かなければなりません。ただ単にかわいそうとか、そういうこの世的な、感情的な、感覚的なものに絶対に兄弟姉妹、陥らないで下さい。神様の愛は、そういう類のものではない。その事を少し今日、見る事ができたらと思います。まず、4つの項目があります。これを皆さんで読んでみたいと思います。

1.聖書的な愛は、世の感情的なものではありません。

2.愛は力があり、他の全てにまさる霊的原則です。

3.愛は地上の全ての霊的生活と活動に関しての土台です。

4.愛は永遠における命の基礎を形成します。

 これが、私たちがいただいている愛の性質です。もう皆さんは、エロス、フィレオ、

アガペという、そういう部分の愛については良く知っているでしょう。でもこの「聖書的な愛は、世の感情的なものではない」という事です。感情で愛する事は簡単です。好き、嫌い、という領域です。だから嫌いになったらもう終わってしまう訳です。でも聖書が言う愛は、そういう類のものではない。だから私たちが互いに愛し合うという事を今年実践して行く時に、まずあなたの感情的な部分を捨てなければいけません。その部分を本当にあなたは恥じ入らなければなりません。正確に愛したいならば、あなた自身の感情的なものによって愛するという事を、私は止めるという事を言わなければなりません。それによっては、何も生み出す事はできないからです。「愛は力があり、他の全てにまさる霊的な原則である」という事です。私たちがキリストの身体を愛していこうとする時に、この愛の質を分からないといけない。この愛は、他の全てにまさる霊的な原則なのだという事です。そして、「愛は地上の全ての霊的生活と活動に関しての土台です」と、この愛が私たちの全ての土台でなければならないという事です。「永遠における命の基礎を形成して行きます」という事です。では皆さんと、一箇所、聖書の言葉をお読みしたいのですけども、別の訳なので、今日は前に出る分を、皆さんでお読みしましょう。

第Ⅰコリント13章1節~3節「たとえわたしが、人の異言や御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいドラや、うるさいシンバルと同じです。また、たとえわたしが預言の賜物を持っており、また、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら何の値打ちもありません。わたしが持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また、わたしの身体をいけにえとして渡すなら、それを誇る事ができるかも知れません。しかし他人を愛さなければ何も得た事にはならないのです。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。しかし愛は永遠に絶えることがありません。というのは、わたしたちの知っているところは一部分で不完全であり、預言の賜物も、全体像の一部分しか現すことが出来ません。しかし完全なものが現れたら、これらの不完全なものは役にたたなくなるのです。わたしが子供であった時には、コングレスが子供であった時には子供として話し、考え、論じました。しかし大人になった時には、又は、わたしたちが成熟した時には、子供の事を止めました。今、わたしたちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には全てを完全にはっきりと見ることになります。今、わたしは一部しか知りませんが、その時にはわたしを完全に知っておられるのと同じように、わたしも全てを完全に知ることになります。ここで3つのことが永遠に残ります。信仰と希望と愛です。そしてその中で一番優れているのは愛です。」この様に書いてあります。これはもう皆さんがよく知っている、第1コリントの御言葉です。この事を私たちは実際的に行なっていくにあたって、私たちは皆、信仰を持っています。当然、希望も持っています。そして愛も持っています。そして一番優れて価値あるものは愛だという風に聖書は言っています。ですから聖書的な先程読んだ愛は、力があり、永遠であり、愛は人の霊から生まれて来るのです。それは世的、感情的でなく、魂の領域から生まれて来るものではありません。今日私が皆さんに一番強く理解していただきたい事は、愛は霊から誕生するという事です。肉的な感情的な魂の領域で愛するという事ではなく、私たちがこの2018年、神様の愛の中に留まったのは、神様の霊で私たちが愛するという事を体験する為です。神様の霊で私たちは愛さなければならないのです。感情的な、感覚的な、又、魂の領域、心の領域に於いては、共通する部分とか、尊敬する部分、そういったものがあるから愛する、愛さないというものが出て来ます。でも霊の領域では全く違います。私たちが愛するのは、霊の領域で愛さなければならないという事です。私たちは長老から、アイデンティティーという事を以前学びました。これは非常に大切だと、今回あらためて思ったのです。なぜなら私たちが霊で愛する為の基本的な事柄がここに書いてあるからです。私たちは久松先生が、1947年10月31日に肉体の誕生をしたという、こういうのを皆さん覚えていますか?これは非常に分かりやすく説明して下さいました。真理を私たちに証して下さいました。そして1972年12月24日に受洗した時に、霊の誕生を迎えたという事がここに書いてあります。その事を覚えていますか?皆さんも洗礼を受けた時に、新しく霊によって誕生した訳です。ですから私たちは霊によって誕生したから、私たちは全部が霊なのです。だから私たちは霊で愛する訳です。私たちの愛は、霊で愛さなければならないのです。あなたがまだまだ肉的な、感情的なもので、又、魂の領域で愛そうとしても、そこには必ず無理があります。又、愛する事はできません。それはただの好みです。でも私たちが霊によって誕生したという、そのアイデンティティーを正しく持つならば、私たちは霊によって愛する事ができるという事です。私たちが互いに愛して行くという領域は、その領域の事です。皆さんはどういう領域で愛していますか?どういう風な価値観で愛していますか?「私は霊によって誕生したから私は霊によって愛するのだ!」と、もう非常に簡単な事なのです。それによって私たちは愛し合って行かなければ、私たちはこの愛を完成し、全うさせる事はできないと思います。皆さんはどういう者ですか?皆さんは自分自身にいつも語っておられますか?私は霊的な存在である、私は霊的誕生を迎えた者であるという事を、皆さんは自分自身の中に、本当に打ち込んでいますか?それは本当に大切な事です。なぜなら私たちは肉体を持っているが故に、すぐに肉の方に流れて行こうとする。でもそうなっている時に、「それはこうですよ」と、言われた時に、多分ほとんどの人がいやな感じを受けてしまう。なぜなら自分の見えている部分でしか判断が出来ないからです。でも霊の領域というものは、ウッドロフ先生が何度もエリシャの話をされました。敵が攻めて、もうどうにもならない。エリシャに仕える若者も、その現実を見て驚きあわてふためいている。その時に神様からその霊の領域で聞いた言葉によって、彼は立って物事を見た時に、「我々と共におられる方は、彼らと共におる者よりも、もっと偉大な御方です。」という事が霊の領域で見える訳です。それは大切な事なのです。ある人は何かの部分が見えている。その人はそこで全体を見ようとするから、歪んだものの見方、歪んだ捉え方、歪んだ考え方、小さな考え方しか出来ないようになってくる訳です。その時に私たちは全体が見えている人から聞いた時に、それを自分の心に入れるのです。

魂の領域で愛さないという風に言いました。でも聖書は、「聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれている」と言う御言葉を私たちに示して下さっています。それは私たち自身が、自分のその魂の領域を、聖霊によって治めなさいという事を言っておられる訳です。皆さんがその感情的な、感覚的な部分を聖霊によって治めて、「私はこの聖霊によって、私の心は、神様の愛を完成させて行く!」という熱心さを持ちなさい、という事をこの御言葉は言っている訳です。ただ私たちの心が満たされるという為に、神の愛が聖霊によって注がれたのではなくて、その聖霊によって注がれた愛によって、私たちは愛して行くのだという、その信仰を現しなさいという風に言っている訳です。だから神は聖霊を通して私たちに恵みを注いで下さっている訳です。だから私たちは、「注がれたその霊で愛します!」という事を言う訳です。いかがですか?皆さん、ご夫婦の方は大変ですか?愛するのは。やっぱり感覚的な、機嫌の良い時には聞けるけど、ちょっと機嫌の悪い時には、「何でそんな言い方するの!?」って、そういう風になってしまいがちです。でも私たちは、霊の領域で愛さなければならないのです。だから神様は私たちの心を治めるために、聖霊によって私たちの心に神の愛を注いで下さった訳です。これは私が霊で正しく愛する為に、神が私に注いで下さった神の霊なのだという受け取り方をしなければなりません。その愛によって私たちは今年、互いに愛し合っていくのです。そしてその愛は拡大して行きます。そして愛する対象がどんどんどんどん増え広がって行きます。そうなって行かなければなりません。なぜならそれだけのものを、私たちは正確にいただいているからです。ですから久松先生、ひろ子先生、我々を含めたチームが、今年皆さんに、見えていない部分を、「こうですよ。」と、言う時があるかも知れません。でもその時に心を開いて、聖霊によって、満たされて、「はい!」という心を持っていただきたいと思います。私自身も、又、同労者である副牧師も、先生たちから流れて来る事に対して、「はい!」という心で、それを完成して行こうという強い信仰を持っています。その確信に基づいて我々はここに立っている訳です。なぜならそれは、私たちの私利私欲を完成させる為ではなくて、キリストの身体を完成させるという、その神様の願いのみに私たちは心を置いているからです。何があっても神様が望んでおられる事を完成したいという、その信仰が私たちの中に無ければ結局、兄弟姉妹、あなたは自分のやりたい事をやって、神様を利用するにしか過ぎない者になってしまいます。私たちはそういう類のキリスト教ではありません。私たちは本当に神様の愛を正しく知っていく者です。「互いに愛し合いなさい」そこには大きな犠牲や、又、色々な要求が、神様から来るでしょう。でも私たちはそれに答えうる事が出来るように、大人として成熟して来ているという事も忘れてはいけません。もしあなたが、本当にそういう風に実践したいならば、あなたはその見えない領域の事に、自分が従うという事を決断して行かなければなりません。見えている人がいて、そしてイスラエルというあの大きな群集が神様によって導かれて行った訳です。最前線にいる人たちは、その指導者の傍にいて、その心をもって、そこから一番後ろにいる人たちにまで、その心を流して行ったのです。本当にそれが愛なのです。

だから兄弟姉妹、誰一人この共同体の中から漏れる事がない、その事を私たちは願っています。そしてこの共同体の中に、神様に選ばれている人たちが、本当に増え広がって行く、その事を私は信じています。昨年のクリスマスで、ひろ子先生から、愛媛でも近くの方が礼拝に来られたとか、又、シニアでもトラクトを見て4人の方が来たとか、岡山でもトラクトを見て来た。トラクトを見て電話してきた変な人もいました。でも神様が私たちの共同体の中に、どんな事があっても魂を加えて、そして前に進ませようとしておられるという事を感じます。兄弟姉妹、感じておられますか?それを取らなければなりません。あなたが見えていなくても、神様がそうされているという確信に基づいて、あなたがそれを取るならば、その通りになって行く訳です。今年私たちは、本当にその愛で愛し合っていきましょう。皆さん、見えない事を言われた時に、絶対に憤ったり、難しい顔をしないで下さい。大切な事です。「あっ、そうですか、はい!」って、言いましょう。それをするならば、自然とほころびます。自然とあなたの霊の中に愛がわき上がって来ます。それを流して行きましょう!私たちは霊で愛するのです。魂の領域で愛さないのです。魂の領域も大切です。神様はその魂の領域が大切だという事をご存知だから、聖霊によって神の愛を注いだと言っておられる訳です。それによって私は魂の領域を守るのです。私には神の愛が注がれている、それは霊的なものなのだ。霊的に誕生して初めていただいた愛なのだ。そうでしょう!この世の中に、神様の愛を見出す事が出来ますか?出来ません。神様はエレミヤにも、遠くから彼に現れて、「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。」と、言いました。全く別の次元から、   それは霊の領域から来なければならないものだという事です。だから肉で誕生し、霊によって誕生した者だけがそれを受け取る事ができるのです。兄弟姉妹、それを私たちは人々に与えて行かなければなりません。それによって愛して行かなければなりません。もう愛するのに困難を覚える人が沢山いるでしょう。でも、「私は霊によって愛します!」と、やったら、スカーン!と、開かれる訳です。だからそれをやって下さい。霊によって私たちは愛し合って行きましょう!今年は、本当に私たちは愛し合って行きましょう!愛されているからこそ出来ているのです。それを忘れてはいけません。兄弟姉妹、絶対に忘れてはいけません。愛されているが故に、私たちは務めを委ねられて、神様からこの働きが出来ているにしか過ぎないのです。あなたは神様から愛をいただいたが故に、この地上で正しく立つ事が出来ているのです。そうしたら、その霊であなたは愛さなければなりません。ただそれだけです。皆さん、私たちはこの愛によって拡大して行かなければなりません。キリストの身体を完成に向かわせて行かなければなりません。誰がこんな事を考えていますか?自分の教会さえ良ければという考え方は、本当に死ななければなりません。自分さえ良ければという感情に、その為に神様の愛を利用するという事は止めなければなりません。私たちはそれに死に切って、神様は良しとして、私たちを全ての代表として受け入れて下さった訳です。ですから受け入れられた私たちが、その愛を現していなかったら、彼らはその愛を知る事はできません。私たちにはそれが委ねられています。兄弟姉妹、霊によって愛して下さい。霊によって愛するとはどういう事かということを考えて下さい。そしてそれを私は実践して行きたいという事を、あなた自身の心の中に、熱心にその心を燃え立たして下さい。そうしなければ、私たちはいつもあきらめて、又、嫌な事があって、続けようとしても続けられないという、その中で悶々として、結局、ぐるぐるぐるぐる回ってしまう、そんな1年にしてはならないです。この2019年、私たちはそういう風な者でありたいと思います。

最後に、互いに愛し合うとは、ここを読んでみましょう。「キリストと彼の教会の中にある永遠で親密な命を与える関係。」これは、キリストという頭が、身体に繋がっている様に、自分の考えに繋がるのを止めるという事です。「永遠で親密な命を与える関係」が、私たちの中には構築されたのです。この命が私たちの中から流し出されて行くのが愛です。だから私たちは、それをよりいっそう求めて行かなければなりません。

ウッドロフ先生が、昨年最後のメッセージで、「正確に」という事を言われました。でも私は本当に、「あなた自身を恥なさい。」という事を言われた時に、まだまだ自分は分かっているとか、何でだろうという思いや感覚を持っているという事を、本当に恥じなければならないと思いました。そうしなければ、見えない領域のものが私の中には流れ込んで来ないからです。皆さんがもし、正確にしたいならば、まずあなた自身の感情的、感覚的魂の領域を徹底してあなたは死に切るという事です。そして霊の領域に生きるという決断をして行かなければなりません。そうすると私たちとキリストの関係は、永遠で親密な命を与える豊かな関係になって行きます。その命が愛として流し出されて行く訳です。それをやって行きましょう。今年はその年です。昨年は本当に皆さん、愛の中でゆったりしましたね。いかがですか?この神様の愛は永遠に続くのです。永遠に私たちに、いつも喜びと、力と、感謝と、恵みを現してくれるのです。どんな事があっても、私たちは何も無かった様に生きて行ける事が出来る力が、私たちに与えられていると聖書は言っています。昨年はそういう事の、本当に一段階を越えたと思います。2019年、もっと色んな事が起こって来るでしょう。でも私たちは神様にあって霊の領域の中を進んで行く事が出来るから感謝です。そして又愛し合う事が出来るのです。私たちのこの愛を見て、多くの人たちが必ずこの中に来る事を私は信じています。兄弟姉妹も信じて下さい。倉敷、岡山、愛媛、必ず神様が望んでおられる形に成って行きます。

ウッドロフ先生がいつも言われるように、やったのは聖徒たちです。CLCでもない、地方コーディネーターでもない、その地方教会の聖徒たちが、祈りと、神様を求める、その事をしたが故に、これが完成したのだ。ならば私たちはしなければなりません。今年も私たちは、どんな事があっても、「あの人何かあったのに、何も無い様な顔をしている!」くらいの生き方が、主にあっての生き方です。それを兄弟姉妹、今年やって行きましょう!

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