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2022.4.17 久松 義人牧師「恵みを重視する ~感謝は必然~」

 私の個人的な報告ですけれども、妻の利江子姉妹が火曜日に手術を受けまして、主の恵みと、神様に対する兄弟姉妹のお祈りで、主は彼女を守ってくださり、私たち家族を守ってくださり、無事に退院することができたことをご報告いたします。皆様のお祈りとサポートを、本当にありがとうございます。妻がいるということは、主にあって感謝です。一人で子供を育てている父子家庭、母子家庭の方は、本当に大変だろうなと思いました。やってみないとわからないというか、イエス様が私たちのつらさをわかるために、同じように地上で人生を歩んでくださったのは、本当にそういうことなのかなと思いました。私たちの苦しみとか、罪との葛藤とか、イエス様は全部通られて、体験されて、私たちのためにすべての模範を表してくださったということ、本当にいろんな体験をすることができて感謝です。

 皆さん、ニュースを見ておられたら、世界はさらに混沌を極めているのがわかると思います。それは明らかです。ロシアの戦争の話、ロシアの軍隊が行っていることや、また、ウクライナがやっていることや、またそれにヨーロッパの諸国も巻き込まれようとしています。アメリカも巻き込まれようとしている中で、地震のニュースを聞いて、また、コロナの新種を聞きます。この前オミクロンのことを言っていたのに、オミクロンは大丈夫だと人類が言い始めたら、神様はバベルを撃つように、常に手を動かし続けておられます。また、日本の付近でのミサイルの話を私たちは聞きます。しかし私たちは、今日も信仰をもって前進するにあたって、御言葉によって何を悟り歩んでいくべきでしょうか?イエス様のたとえ話を聞いて、私たちの信仰をどのように保つか、今日共に励まされたいと思います。よくご存知の御言葉を、今日共に読んでいきます。

 ルカによる福音書17章5節~10節、〔使徒たちは主に「わたしたちの信仰を増してください」と言った。そこで主が言われた、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いをするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい。」〕皆さんよくご存知の、なじみのある御言葉です。5節で、「使徒たちは」と書かれていますのは、大勢の群衆の中の、イエス様の多くの弟子たちのことを指しているのではないです。イエス様と寝食を共にした12人の密接に関係を持っている人たちです。この人たちが、イエス様に、「私たちの信仰を増してください」と、言いました。彼らの焦点は、目に見える数字や、大きさ、目に見える領域、そこに焦点が合っています。ですから量の話をしています。「大きくしてください、増してください」私たちがイエス様と弟子たちとのやりとりを見る時、いつも彼らは地上の目線でしたから、イエス様が神の国をもたらそうとしていることが悟れませんでした。神の国のたとえ話をいつも話しているのに、結局はそれらを、いつも自分の地上での原則、地上でのサクセスに結び付けようとしてイエス様の話を聞いています。けれども聖霊を受けた後、イエス様が甦られた後、彼らはそれを悟ることができました。けれども、ここではまだ悟っていないので、「増してください」と言っています。けれどもイエス様の正確な答えは、彼らの誤った認識に対して、信仰とは量ではありません。からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して、海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう。信仰はからし種、その中にあるクオリティー、資質の方が大事です。」とイエス様は言っておられます。その資質があるならば、からし種は大きな木に成長します。そのたとえ話を私たちは聞いています。「信仰の資質の方が大事です」と、イエス様は彼らに優しく教えて、その後、その信仰の資質を保つための秘訣を、7節からこのように語ってくださっています。このたとえ話では、8節に、主人と僕が出てきます。僕が仕事に行って、耕作か牧畜かをして戻ってきたときに、主人はその僕に、「すぐきて、食卓につきなさい」と言うだろうか。そうではなくて、「夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いをするあいだ」すなわちそれは主人です。「主人が飲み食いをするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい」と、主人は僕に告げます。そしてイエス様は、「僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。」いいえ。もし私たちが命じられたことを皆、した時、「わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません。」と言いなさい。この姿勢を保ちなさいと、イエス様は言われています。「わたしの信仰を大きくしてください」ではなくて、その信仰のクオリティーが、純粋な種として、将来実を結ぶための私たちの心の姿勢を教えてくださっています。ですから私たちに対して、神様がこの箇所で問いかけておられます。皆さんは主人でしょうか?もしくは僕でしょうか?イエス様はそれを問うておられます。皆さんは飲み食いを一番にして、給仕してもらう人でしょうか?それとも私は給仕し、仕える側でしょうか?皆さんがもし僕であり給仕する側であり、イエス様のたとえ話を聞いて、その立場、その信仰を保つための立場を持っているなら、次の質問は、皆さん主人に感謝してほしいですか?感謝の言葉を主人からいつも言ってもらいたいですか?私たちが誰かから何かを受けた時、その方に感謝を言うのは当然です。でもあなたが、何かを誰かに差し上げたとき、「ありがとう!」と、言ってほしいですか?感謝を望んで期待していますか?あなたはイエス様に、または誰かに、「感謝してください!」そういう姿勢でしょうか?そうではなくて、「わたしはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません」と、言うでしょうか?その姿勢を、信仰のクオリティーを保つようにと、イエス様は私たちに勧めています。

信仰生活を私たちは今日も送っています。今日から一週間がまた始まります。信仰生活の中で、鍵となる原則がここに書かれています。「信仰を増やしたい!」そういった姿勢ではなくて、「信仰の資質を聖く保ちなさい」と、イエス様は私たちに勧めています。誤った認識で弟子たちは、「信仰を大きくして、大きな信仰をもって、量をもって誰かに印象づけたい!誰かに仕えてもらいたい!」イエス様は私に言います、「あなたは僕です」皆さん、ここにいる全員に、「あなたは僕です」と、イエス様は語っておられます。皆さん、私の主人は、主イエス・キリストです。「誰かに印象づけて、誰かに仕えてもらいたい!」ではなくて、私の主人はイエス・キリストです。そして私は給仕される側ではなくて、給仕する側です。仕える側です。弟子たちは大きな事をしたい。何か大きな量を、目に見える領域で、地理的にどこかへ行けば、何かをすれば。弟子たちの考えと同じ領域が、私たちにもあると思います。でもそうではない。場所ではない。何か大きな事をすることでもなくて、私たちの内側の姿勢です。それが皆さんの信仰のクオリティーを決定します。信仰を大きくして目立ちたい。注目されたい。そこから、仕えて賞賛を望まない姿勢。それが私たちの信仰の資質の鍵です。見えない所で、私の妻のため、また、私の家族、私の子供たちのために、たくさんのフォローと贈り物と、また手紙やケアを捧げてくださった兄弟姉妹がおられます。本当に私は感謝です。その方々は別に賞賛されることはありませんけれども、私は本当に感謝して、皆さんの美しい心を見て、「本当に私は醜いなあ!」私よりもよっぽど美しい心を持って私の家族のために、いろんな捧げものをしてくださったことを、私は感謝しています。そして同時に、前も言ったのですけれども、どうしても日本文化が私の心の蔵の中に入り過ぎているので、「返さないかん!」って思ってしまうのです。何かこう、引け目というか、それも多分、私の、それをする事で相手に印象づけたいという思いがあるのかもしれない。感謝を見せようとしているのかもしれない。私たちの心の姿勢を、本当に探りたいです。本当に心の中に何があるのか?主人になりたいというのではなく、僕であることを忘れないようにしましょう。立ち位置を確認しましょう。私は僕で、イエス様が私のマスターです。私たちの信仰生活の鍵、私たちの信仰を保つ、聖い、純粋な、クオリティーのある信仰を保つ鍵は、私たちが僕の姿勢を保つことです。

 今日、二つ目の鍵を、恵みを忘れないための御言葉を読みましょう。よくご存知です。ルカによる福音書17章11節~19節、〔イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。そして、ある村にはいられると、重い皮膚病にかかった十人の人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。 イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ。」〕皆さんよくご存知で、何度も聞いていると思います。でも、もう一度今日は、イエス様がこの地上に奇跡をもって介入され、御業をなされたこと。この中で二つの側面を私たちは学ぶことができます。イエス様を主として認識し認める人と、イエス様を主として認識し、認めることをしない人。その二つの種類の人たちに分かれています。もう一つの側面は、イエス様を主として認識した後、恵みを忘れてしまう人です。この二つの側面を主は私たちに教えてくださっています。13節を見てみましょう。重い皮膚病というのは、ハンセン病のことです。若い人たちのために説明しますけれども、今では治療が可能ですが、昔は不治の病として、彼らは今のコロナと同じように、これに感染すると隔離され、一人で家族から離れて住まないといけませんでした。社会的にほぼ死んだ状態です。世捨て人のような状態です。人生においてこれ程困難な状態はないでしょう。そういう病の人々が、十人おられました。彼らはその人生の危機に直面した時に声を張り上げて、大層大きな声を張り上げたことでしょう。なぜなら彼らは遠くの方に立っていましたから。彼らは隔離されているので、イエス様の所、また、群衆の所へ近寄って来てはいけません。ユダヤの法律で決まっています。彼らは近くに来ることができない時に、必死にもがいて、希望を、望みを、自分の危機を脱するために、この救い主に、全力で大声を上げて呼びかけています。「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と、言った。イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところにいって、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。行くことによって信仰が起動化し、神様の言葉が実現すると彼らは信じたので、彼らの信仰の行動が媒介となってその癒しが成就しました。それは神様の御心でした。イエス様は十人全員にこの言葉を語られましたけれども、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきたのは、サマリヤ人の一人だけでした。イエス様は、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか」と言われました。この九人の方々にとっては、人生の大変な状態に直面した時、あらゆる選択肢、あらゆる手段、あらゆる方法を用いて、自分の危機が回避できるようになるための一つの手段としてイエス様を選びました。そしてその危機が回避された時、イエス様を認めないで、自分の危機を脱することができた途端に、イエス様を主として認めることをしませんでした。すなわち彼らにとってイエス様は、神々の中の一人でした。あらゆる種類の偶像と、自分のメソッド(技法)と、医療と、全部の種類の中からの一つとしてイエス様を選んだだけです。だから彼らはイエス様を主として認めずに、帰ってきませんでした。すなわちご利益(りやく)のような宗教です。ご利益を求めて様々な神社に行って、様々な祈願を日本の方々はされます。どこかの神々しい力にあやかりたいと言って、(神社へ)行きます。この人々にとって、イエス様はそうでした。けれども一人のサマリヤ人は、神をほめたたえながら帰ってきて、イエス様を主として認めました。そして19節は、イエス様の答えです。「あなたの信仰があなたを救ったのだ。」今日は、信仰のクオリティーについて話をしています。あなたのクオリティーのある信仰が、あなたを救いました。そこで、「あなたのハンセン病は、あなたの信仰によっていやされたのだ」とイエス様は言っていません。「救われた」と言っています。「あなたの人生の危機を脱しましたよ」と言っていません。あなたは「救われた」あなたは永遠へと今、入ってきた。あなたは神の国に突入した。なぜですか?すなわち「私を主として認める信仰が、あなたにそれをもたらしたのだ」とイエス様は言っています。「あなたの信仰があなたを救ったのだ」ハンセン病のことではないです。この僕の姿勢を、サマリヤ人は持っています。イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これは、主人と僕の関係です。ひれ伏す僕と、賞賛される主人の関係です。その立ち位置を持っている、その信仰を持っているサマリヤ人は、あなたは救われています。あなたは救われている。なぜですか?私を主として認めているからです。でも、きよめられた他の九人にも、同様にイエス様は言葉を投げかけました。「祭司のところに行きなさい。」すなわちイエス様は、十人全員を選んで、チャンスを下さいました。この一人は答えました。個人的なイエス様との深い関係に入ることが、永遠の入口です。これはエレミヤの信仰と一緒です。エレミヤは人生の大半を井戸の泥の中で過ごしながら、王様から、「預言をしてくれ。お前の言葉が必要だから」と、ロープで上に吊るし上げられて預言をして、また、泥の中に戻って、その人生の、ずっと困難の中でも、「主はわたしをわたしの母の胎に形づくる前に、わたしを知っていた」という主との関係を忘れませんでした。一人だけがそれに応答しました。けれども兄弟姉妹、私たちは皆、その一人と同じようにイエス様にご利益ではなく、主を主として認めて信仰を持たれたと信じます。

 では、その後私たちはこのイエス様のなされた奇跡から、別の側面を、先ほど言いました。イエス様を主として認識した後、恵みを忘れない立場を私たちは固持しましょう。地上の目に見える災い、危機を脱するために、あなたはイエス様に従ったのではありません。私はその理由でイエス様に従ったのではありません。そうであるならば、本当に残念なことに、この九人の方々は皮膚病をいやされて、地上の生活に入っていきました。この後イエス様は17章の後に、終わりの時代の人々の特徴を語ります。その特徴は、食い、飲み、めとりです。この九人は、食い、飲み、めとりの地上の領域に隔離されていた所から、いやされたことで戻っていくことができました。するとイエス様を忘れました。私たちの焦点は、イエス様から受けられるご利益ではなくて、「イエス様が私の主であり、私は僕です。」ひれ伏して、神をたたえながら戻ってくるサマリヤ人の信仰の姿勢を保ちましょう。受けた恵みを最重要視しましょう。忘れないようにしましょう。主人がどなたですか?私は本当にイエス様がいないと醜いです。でもあなたは、私を神の子と呼んでくださいます。けれども私は僕です。受けるに値しない者です。十字架を忘れません。十字架の慈しみ、恵み、憐れみを忘れません。若い人たち、あなたの人生は虚しいように感じていますか?あなたが一生懸命仕事をして、収入を得て、そして地上で、手で触れて感じることができる楽しみや喜びを、ちょっと触って、でも危ないから、永遠の命から遠ざかることはできないから、ちょっと…。この九人の人と、一人の人との狭間で揺れていますか?イエス様の恵みを忘れましたか?皆さんがいくら年を取ろうが、主の恵みを覚えていましょう。神様との個人的関係、主が主人であり、私たちは僕です。ひれ伏して感謝する。そしてそのようなクオリティーを持った、その信仰が私たちを救います。

 ルカによる福音書16章1節~13節、〔イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。 そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。〕これも皆さんよくご存知です。このたとえ話は、イエス様が私たちに神の国を教えてくださるときに、よくたとえ話をされますけれども、その多くの場合、出てくる主人や、出てくる僕の人たち、登場する人々は、おおむね神様と私たちの、神の国の民の環境を表していることが多いです。イエス御自身と、私たち神に仕える民のことがたとえ話として出てくることが多いです。けれどもここはそうではありません。この主人は神様のことを指していません。この家令は私たちのことを指していません。この家令は、まあ言ったら横領です。主人のお金を用いて、自分の親しい同僚に借りをつくっている。実際にこの家令が、お金を受け取っているのではありませんけれども、彼はこの油を、今ちょうどロシアの油やガスの問題があります。この時代も油は燃料です。灯油100缶の借りを50缶にしてあげると言われたら、ありがたいです。麦100石を80石にしてあげる。会社の主人のお金を、財産を横領して、恩を売っています。そして彼が首になった時、労働しなくてもよいようにと、彼は利口にやっています。イエス様は私たちにこのたとえ話を通して、地上の主人はこういった利口な、クレバーな(賢い)人に対してほめています。でもイエス様は私たちにはっきりと、この世の子らは、地上の人々、先ほどの九人の人々、イエス様を主として認めたくない人々、地上の飲み、食いに焦点がいく人々は、その人たちが生きている時代においては、光の子、私たちよりも利口です。では、私たちは地上で生きながら、食い、飲み、めとりもしないといけない。信仰の資質を聖く保ちながらも、食い、飲み、めとりの生活をするための金銭を、私たちは管理しなくてはなりません。そのためにイエス様は、このことを教えてくださっています。9~10節に、目に見える富のことを、イエス様は不正の富と言っておられます。ですから「目に見える金銭、そういった小さなことも忠実でありなさい」と、私たちに勧めています。ですから私たちは、私たちの受けている収入を管理して、忠実に仕えます。忠実に什一献金を、主人であるイエス様に返します。目に見える領域でいい加減であるならば、真の富をあなたに与えられるでしょうか?真の富は神様の御性質です。その一番最初は、私たちに不朽の命をくださったことです。でも真の富は、私たちがこの地上で生きている間、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制。この神の御性質を私たちが受けたいならば、私たちは目に見える領域も、きちんとやっていきます。兄弟姉妹、地上の食い、飲み、めとりに焦点を置いて歩まないように、素晴らしい質を、聖さを保ちましょう。あなたの主人が世の中の悪魔ならば、あなたは地上で楽しんで自分の身を汚し、この地上のあなたの鼓動が止まる時まで喜ぶことができます。彼らはその時代で生きている間は、彼らは光の子よりも利口に歩み、楽しいように華やかに見える。私たちはそこから出ました。九人の所には戻りません。ですから忠実に金銭を管理しましょう。そうであるならば、私たちはイエス様の神の真の富を得ることができます。聖霊をいただくことができます。そしてイエス様はいつも教えてくださる。どの僕でも、二人の主人に兼ね仕えることはできません。お金、すなわち金銭、地上の食い、飲み、めとりに仕えながら、イエス様に仕えることはできません。イエス様がそう言っています。真の富は地上のお金ではないです。神の御性質です。その筆頭として永遠の命をまず受けています。そして地上でなおも生きながら、イエス様の性質、聖霊の性質で私たちは生きることができます。もしあなたの信仰が僕の立場なら、もし私の信仰が僕のクオリティーを持っているなら。でもそうでない人たちはどう答えたか?14節、「欲の深いパリサイ人たちが、すべてこれらの言葉を聞いて、イエスをあざ笑った。」これは地上に焦点を置いている人たちです。この人たちはご利益を得るために、ユダヤ教の神様を信じています。ですからご利益が一番大事なのに、ご利益の肝心な部分の金銭のことをイエス様に言われて、あざ笑います。しかし兄弟姉妹、私たちはそのような領域ではなく、ローマ人への手紙1章21節~22節、「なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、」これは九人の人々です。イエス様は十人全員を召しました。ここにいる全員をイエス様は呼びました。「ハイ!」私は答えました。皆さん全員に対して、「エレミヤよ!」と、私たちは呼ばれています。そして神の恵みを、十字架を知りながら、その後も「感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、」あなたの心が今日、虚しいなら、若い人、御言葉によって励まされてください。そうでないと、あなたがいくら欲しいものや、あなたの好む男性女性を得ようが、あなたの心は虚しいままです。それが、イエス様が私たちに御言葉を通して教えてくださっていることです。食い、飲み、めとりのその時代に生きていくためだけの領域に生きないように。

 エペソ人への手紙2章3節~10節「また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物です。この恵みを忘れません。誰も誇ることがないためです。私たちが誇るのは、我らの主人、イエス様だけです。そして私たちはその僕の立場をとって、聖い資質の信仰を持ち、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られました。「不正の富を用いてでも友達を作りなさい」と、イエス様が光の子である私たちに勧めています。目に見える金銭を用いてでも、私たちは地上の友達を作り、彼らがこの十人の内の一人となるように、救いへと導きます。そうであるならば、その一人の人が救われたならば、私たちが不正の富がなくなって、すなわち地上の人生にピリオドを打つ時、あなたのその一人の友も永遠の住まいであなたを迎え、あなたも彼を迎え、私たちは永遠を過ごします。その信仰を持ちましょう。信仰は量ではない。誰かに印象づけるのではない。見てもらうのではなく、僕の立ち位置です。御言葉によって、イエス様が今日も私たちの内におられ、この教会は前進できることを信じます。1週間、神の良い作品として、私たちは良い行いを行っていきましょう。あなたの友が、十人の内の一人となるように、神様が召しておられる人を招いていきましょう。

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