2022.1.2 木村由智主任牧師 「強くありなさい!」

 同労者会を代表して、新年のご挨拶を申し上げます。本年も主にあってよろしくお願いいたします。では、皆さんと今年の御言葉を見てまいりたいと思います。今年度は昨年と同じく「行いの伴う伝道」ヨハネ第一の手紙3章18節「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」昨年と同じテーマと御言葉ですけれども、「去年と同じか」というような捉え方をなさらないようにお願いしたいと思います。

 私たちは今、どのような時代の中を生きているかというと、私たちは終わりの時代を進んでいます。神様は今年、もう一度このテーマと御言葉の中に、私たちが、強く移行していくことを望んでおられると、受け止めております。ですから、私たちにとって、これは非常に重要な季節だということです。移行の時期の中に入っているということを覚えましょう。昨年のテーマと御言葉の中で、私たちはさらに、このテーマと御言葉の中で移行し続けていく、成就していく、完成していくということにもう少し心を向けていきたいと思います。

 2021年いろいろな経験を皆さんもなさったと思います。2021年の中で、いろいろな考え方や思いがあったと思います。また、2021年の中での我々に対しての神様の方法というものがありました。しかし、2022年には、その経験や思考や方法からさらに移行して、さらに神様がなさりたい事に、私たちは心と思いと考えを向けていくということに、進んでまいりたいと考えております。ですから皆さん、私たちはこのテーマと御言葉の中で、今年さらに移行し、前進し、強められていくということを主にあって求めてまいりたいと思います。

神様は、私たちの共同体の中に、「強くありなさい!」と、語っておられると信じます。この「強くありなさい!」前に出ているこの御言葉を、皆さんとお読みしたいと思います。神の言葉のどこを見ても、重要な神の働きをさせるよう、神が人々を召される時には、いつでも、「強くありなさい!」と、彼らを励まされます。私たちは、同じテーマと御言葉であったとしても、この2022年は、昨年とは全く違う、昨年の考え方や方法や思考とは全く違う形で、神様がこの2022年を導いていかれるということを、信仰によって受け止めてまいりましょう。その時に、神様は、私たちを召される時には、いつも、「強くありなさい!」と、私たちを励ましてくださるということです。具体的に、モーセからヨシュアに代わっていく時の御言葉を皆さんとお読みしたいと思います。


<モーセからヨシュアへ>

 申命記31章6節「あなたがたは強く、かつ勇ましくなければならない。彼らを恐れ、おののいてはならない。あなたの神、主があなたと共に行かれるからである。主は決してあなたを見放さず、またあなたを見捨てられないであろう。」モーセからヨシュアに代わったということは、一つの世代が代わったということでした。私たちは2021年から2022年に季節が変わったということを受け止めなければなりません。何が変わったのだろうか、いろいろな考えや思いがあっても、何も変わっていない。コロナはさらに新しい株ができて、私たちに、まだまだマスクや制限をかけて、何も変わらない。でも神様は、私たちが2022年を歩いていく中で、私たちに、「強く、かつ勇ましくなければならない。」と言われました。この世代がかわる時の移行の時に、変化が伴い、どうしても人間的な考えに陥りがちになります。ですから神様は、この偉大なモーセからヨシュアに移ったヨシュアのことを、モーセの従者、ヌンの子ヨシュアというふうに言います。ですから、いかにモーセが偉大な人物であったか。そこからヨシュアに代わっていく。2021年が、いかに私たちにとって困難な時であって、2022年はもうコロナが終わるかなぁ?どうなるかなぁ?もっと楽になるかなぁ?いいえ、もっと終わりの見えない状況が、私たちには続いていくでしょう。その時に、人間的な考えに陥らない。だから、「強くありなさい!」というのが、神様からの励ましの言葉です。次に、ダビデからソロモンへ移行する時です。


<ダビデからソロモンへ>

 歴代志上28章10節~11節「『それであなたは慎みなさい。主はあなたを選んで聖所とすべき家を建てさせようとされるのだから心を強くしてこれを行いなさい。』こうしてダビデは神殿の廊およびその家、その倉、その上の室、その内の室、贖罪所の室などの計画をその子ソロモンに授け、」これは、ダビデからソロモンという息子に移行していった時です。肉の関係によって移行していくのではない、ということです。肉の関係があるから、霊の関係もすべて流れるとは限らないということです。ですから、その時にも神様は、「心を強くしてこれを行いなさい。」その前にまず「あなたは慎みなさい。主はあなたを選んで聖所とすべき家を建てさせようとされるのだから心を強くしてこれを行いなさい。」私たちはこの世の人間的なしがらみ、そういったものから完全に解放されなければなりません。神様の召しが、私たちを終わりに向かわせられるということを、この2022年の中で、私たちは強く受け止めなければなりません。権勢でもない、能力でもない、神様の霊によってなされるということが、この2022年の中で、私たちの内側にそのことが起こってくることを信じます。ですから兄弟姉妹、テーマと御言葉が同じであっても、全く中身が変わっているということを受け止めましょう。それが今、私たちの中で非常に重要な事です。もう一つの例を見ましょう。


<主から働く者たちへ>

 ハガイ書2章4節「ゼルバベルよ、今、強くあれ。主の御告げ、ヨザダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。主の御告げ。仕事に取りかかれ。わたしはあなたがたと共にいるからだ、万軍の主の御告げ。」ここでは、主から、主の家に、働くすべての人たちに、語られました。この強さというものを、本当に私たちはしっかりと理解したいと思います。人間的な肉の性質の強さではなく、神様の恵みによって、どのような事態や、どのような状況の中に陥ったとしても、心を決して変えずに、神様に仕えていくということです。嫌なことがあれば気分が下がるというのは、世の中では普通のことです。しかし神様は、自分たちの神殿が崩壊され、自分たちが捕らわれの身である中でも、「主がなされたことを喜びなさい。」とおっしゃったのです。兄弟姉妹、今、私たちの目に見えるすべての出来事は、主のゆるしの中でなされています。そこで大切な事は、あなたがそれを喜ぶことができるか?という信仰です。そのことを神様は、この2022年、私たちに強く望んでおられるということを信じます。ですから、私たちは、この世の価値観、習慣から培われたその考え方、思い、そういったものを完全に排除して、神様の恵みの強さの中に入っていく年、移行していく年、それがこの2022年であるということを信じましょう。

 ヨハネによる福音書16章33節の中で、このように言われました。「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。」イエス様は、ご存知なのです。私たちの悩みはこの世しかない。この世の出来事が私たちを悩ませる。「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」と、言われました。イエス様は、この世の中にある事柄に翻弄されずに、私たちに、「強くあり続けなさい!」と、励ましてくださっています。思う通りにいかないこともたくさんあるでしょう。また、自分の思いや考えを、全く理解されないような時もあるでしょう。この世というものは、そういうことの繰り返しだと思います。しかし、その世にイエス様は勝たれた、と言われています。この世のもろもろの目に見える、感じる、聞く、見る、すべてのことに、本当に嫌な出来事に、すべて勝ちました。それは、その出来事を解決した、ということではなく、何一つ変わらないような状況の中にあっても、主の御前で、強くその信仰を保ち、神様の前に歩み続けた、ということです。気に入らないことがあれば、文句を言うのは簡単でしょう。でもそれは、文句を言ってはならない、ということではなくて、神様が私たちに「強くあり続けなさい!」ということは、「主を喜びなさい!」「感謝しなさい!」「その現状を受け止めなさい。」そして、「それでも心が汚されないで、神様の聖さを保ちなさい。」ということを、私たちに語ってくださっていると信じます。2022年は、そのような強さの中に、私たちは進まなければならない、ということを言っておられます。そこに移行することにより、行いの伴う伝道が成就していきます。必ずそのようになってまいります。あなたは、このテーマの言葉にあるように、言葉や口先で愛するのではなく、行いと真実をもって愛し合うことができるような者に変わるということが、今年、神様の御約束です。信仰によって、このことを受け止めてまいりましょう。この世は、あなたに挫折と失望と悲しみしか与えないでしょう。しかし私たちは、主にあって強くあり続けなければなりません。その信仰の中に移行し続けていかなければなりません。

 モーセからヨシュア、ダビデからソロモン、そして主から働く者たちへ、ただこの御言葉を見て、「強くあれ!」という言葉だけを引き出すのは簡単です。しかしこれらの御言葉の背景にある出来事を考える時に、とてもではないけれども、私たちには耐えきれないような状況がたくさんあったのです。このゼルバベルも、ハガイ書も同じです。皆、この我々の霊的な先祖は、捕らわれの身の中にありながら、なんら自由も与えられない中においても、主を喜び、強くあり続けたということです。

 昨年、私たちにはコングレスからの解放ということがありました。「コングレスから解放されて、私たちは何を頼りにすればいいのか?」とか、いろいろな思いを持たれた方も、たくさんいらっしゃるかもしれません。しかし、私たちはキリストを頭として、もう一度、神様の前に新たな歩みをしていく、ということに導かれたのです。そのコングレスから外されたことに対する悲しみに浸る時間もありません。私たちは前に進んでいかなければなりません。終わりを迎えていかなければならないのです。私たちは強く進み続けていかなければなりません。どのようなことがあっても、私たちは神様が言われる、この励ましを受け止めて進んでまいりましょう。

 強いという言葉は、ヘブル語で、「チャザク」と言うそうです。「強い」と言ったら、「何があっても貫き通す」というふうに使いますけども、ここでは、「貫き通せない」という表現です。「貫き通す」と言ったら、「端から端まで、表から裏まで突き通す」ということですけれども、「絶対にそれをさせない強さがある」ということです。この、へブル語の「強い」という意味は、そういう意味なのです。絶対に刺し通すことができない強さを持っている、ということなのです。そして、固く揺るがない。堅固である。しっかりしていて、容易には破ることができない、その固さがあるということです。推し進めること、さし迫っている状態、急を要するような困難や事態が、間近に迫る。しかしそこから、進んで行く強さがあるということが、この「強い」ということです。もう何かあったら、「もうだめだ!」と、すぐに私たちは考えてしまうかもしれません。あなたのこれからの人生を決めるような出来事で、あなたが、願っている通りにいかないようになってしまうと、もう私たちは何もかも捨てたくなるような気持になるかもしれません。でもそのような時こそ、神様は、「進みなさい!」と、おっしゃるのです。そのような時こそ、「神様に感謝を捧げなさい。」とおっしゃるのです。何事も、私たちの望む通りにいくことが、この地上ではベストです。でも神様は、それをおゆるしにはならないのです。そこで私たちの本質が、明らかになってくるのです。「神様、感謝いたします!」という信仰に立つか、あるいは、「なぜ、こんなことが私に起こらなければならないのだろうか?」私たちが移行していく立ち位置は、「神様、感謝します!」という立ち位置です。その強さの中に移行していかなければなりません。そして、勇気を持つ。物事を恐れず、心が強いということです。肉体の強さではなくて、内面的な強さということを、神様はおっしゃっているということです。そして持続可能な力の中で働くこと。まだ見えない将来にわたって、同じ状況、環境を維持し、今と同じ営みを永続的に続けていくことが可能であるという、そのような強さがあるということです。一番これが、私たちの中で持たなければならない強さではないでしょうか。肉の性質では、やはり、持続可能というのは難しい、どうしても自分の思い通りに動かしたいという、その欲求にかられて、それを押し通してしまいます。でも私たちは、そういったものを捨てていく強さ、ただ神様だけに信頼し、神様だけを喜ぶ力の中で、今も、未来も、ずっと進んでいかなければならない、ということをおっしゃっているのです。兄弟姉妹、持続可能な力の中で働きましょう。そのような力の中に、私は移行していくという信仰をもって、今年一年取り組んでまいりましょう。そして私たちは、本当に行いが伴う伝道を、神様の前に進めていきましょう。

 箴言24章10節「 もしあなたが悩みの日に気をくじくならば、あなたの力は弱い。」これは、私たちが落ち込んで、本当に気分がすぐれない時に、この御言葉によって励まされる、ということも大切な事ではありますけれども、この御言葉が言わんとする意味は、別訳の聖書で読むと、もっとはっきりとしてきます。それは、新共同訳 箴言24章10節~12節 「 苦難の襲うとき気力を失い、力を出し惜しみ 、死に捕えられた人を救い出さず、殺されそうになっている人を助けず、『できなかったのだ』などと言っても、心を調べる方は見抜いておられる。魂を見守る方はご存じだ。人の行いに応じて報いを返される。」これは、完全に私たちが、他の人たちを救いの中に導く時の御言葉だということです。苦難の襲う時、気力を失って、その神様の恵みの力を出し惜しみして、その人にこの良き福音を届けることができずに、殺されそうになっている人を助けることができないのだ、とあなたが言うならば、それが本当かどうかを神様は見抜かれる。これはただ単に、私たちの感情や気分を高めるためだけの御言葉ではなく、この御言葉は、この恵みをいただいている私たちが、どのような苦難が襲い、気力が失われそうになったとしても、この神様の恵みの力を出し続けて、まだ神様のことを知らない、この恵みにあずからない人たちに、「それを流し出しなさい!」とおっしゃっているということなのです。自分が落ち込んだ時に、あなたが神の言葉によって励まされるのは必要な事です。でも神様が本当に願っておられるのは、私たちには十分な恵みと力が与えられているはずです、ということをおっしゃりたいのです。その恵みと力の中で、あなたは苦難が襲い、気力がなくなった時においても、「その恵みの力を出し続けなさい!」と、神様はおっしゃっているのです。行いの伴う伝道は、このような信仰姿勢がないと、私たちは、続けていくことが難しいかもしれません。自分の生活で精一杯だ。でも私たちは、この神様の恵みの中で、自分たちの生活、それ以上に魂の救いというその思いの中に、私たちがそれだけの恵みを得て、神様から救われているということを、思い起こさなければなりません。それが、この行いと真実をもって愛し合うということに繋がっていくからです。兄弟姉妹、この同じテーマで2年目を迎える私たちは、その神様がおっしゃる真の強さと意味の中に、進んでまいりましょう。あなたが神様に、信頼するならば、神様は決してあなたを見捨てられません。あなたが信仰を持つなら、神様はあなたを助けてくださいます。

 では具体的に、強さの中に移行するという御言葉を見てまいりましょう。使徒行伝2章42節「そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。」46節~47節「そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころとをもって、食事を共にし、神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は、救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。」ここでまず、私たちが強く移行の季節の中を歩むための一番目は、「使徒たちの教を守り、」ということです。当時の使徒たちが教えていたのは、キリストの生涯、そしてキリストの教え、キリストの救いについての教えがなされていたのです。使徒たちが覚えている限りのキリスト様の言葉、行いを、救われてきた人々に教え、その教えが繰り返されていたということです。そしてその教えが、人々の考え、思い、心にとどめられ、伝承され、信仰の基礎となっていったということが、この事なのです。これは非常に大切な事です。使徒たちが覚えている限りのキリストの言葉、行いを、救われてきた人々、この当時、この日は、3千人が救われてきたのです。3千人にバプテスマを施したのです。私たち同労者会は5人ですから、一人、600人ぐらいを洗礼する訳です。本当に、すごい喜びがあったと思います。彼らがキリストの教えに関する事、また、そこには、戒めも含まれています。そのことのゆえに、彼らは集会を非常に重んじていたということです。皆さん、「使徒たちの教を守り、」というのは、「使徒的恵みを人が語る言葉だ。」それも間違いではありません。しかし、ここで今日、皆さんに私がお伝えしたいのは、この使徒たちが、キリストの生涯、教え、救いについての教えをなしていて、使徒たちが、覚えている限りのキリストの言葉、行いを、救われてきた人たちに教えていった。この初代教会が誕生した時には、伝染病とか、いろいろなものはありませんでした。今、私たちに、2020年から2022年の約3年にわたって、神様は、コロナというウイルスをこの地上に送ってくださいました。それは全世界、同じ状況です。そのことによって、私たちは、礼拝スタイルを変化させるということを余儀なくされました。今日も、半分の人たちが来てくださっています。しかし我々は、来ない時にはYouTubeで見る。まだ完全にコロナが収束した訳でもなく、でも、彼らが、非常に集会を重んじていたように、兄弟姉妹、我々は礼拝を重んじなければなりません。どのようなスタイルであろうが、どのような方法であろうが、礼拝を絶対に軽んじてはならないということです。この初代教会の人たちは、この教えが、この本当に素晴らしいキリストの生涯、キリストの生き様を、彼らの内側に刷り込まれるほど、学び、学び、学んでいって、人々が、本当に変えられていったということです。当時はこんな立派な会堂もなかったでしょう。神殿のある一部分の場所で、人々が集まっていたというふうに書いてあります。私たちは来た時から、暑い時は冷房も効き、寒い時は暖房も入り、立派な奏楽者もいて、そのまま私たちは自由に礼拝の中に入っていくことができる、それは非常に素晴らしいことです。でもYouTubeで見る時に、家で礼拝するということで、礼拝に対する心までが、そこで変わってしまうことのないように、兄弟姉妹、私たちはこの使徒たちの教えをしっかりと守りたいと思います。礼拝は本当に、私たちにとって大切な集会です。これを、私たちは本当に大切にしたいです。何もかもが、もう当たり前だ、というような気持ちになって、感謝が溢れてこないような状況に陥らないようにしましょう。このようにして、交代で来て、同じように主を礼拝することができます。YouTubeを通してでも、主を礼拝し、主の言葉を聞き、神様の身体の一部として生かされている、ということに感謝を捧げましょう。礼拝がなくなってしまうというのは、私たちのこの力の源がなくなってしまう、ということと同じくらい、これは大切なものです。礼拝を重んじましょう。

 2022年、日本はコロナが少し落ち着いてきました。でも皆さん、コロナが悪いとか、コロナが憎いなどというようなことを、決しておっしゃらないでください。これは神様のゆるしの中でなされていることです。「主よ、このコロナのゆえに、私の不信仰さをあぶり出してくださり感謝いたします。もう一度、このコロナ禍の中で、私は真実な礼拝を主にお捧げいたします。」これが、私たちの中で確立すると、私たちの行いは変わっていきます。その行いには、確信が満ちています。その行いには、人の魂を神の下に導く、その恵みが働くと信じます。初代教会が、使徒たちの教えを守って成長していったように、まず、礼拝を重んじましょう。そして、什一献金、捧げもの、これも非常に大切なことです。仕えること、奉仕、そして愛すること、受け入れること、憐れむこと、ゆるすこと、それらをさらなる強さの中で、私たちは移行していかなければなりません。コロナが決して悪いのではありません。状況が変化したとしても、我々の信仰までも動くようなことがあってはならないからです。2022年は、そういう年であり、多くの魂が、神様の前に勝ち取られることを信じます。そのために強さの中に移行していきましょう。

 もう一つ、この「使徒たちの教えを守り、」の中で、今日皆さんに、強調してお伝えしたい。神様の主権というものが、どういうものか?それは什一献金です。現在の善悪を知る木の実、それは什一献金です。まず一つ目、霊的世界における神様の主権は、イエス・キリスト様です。初代教会が、このイエス・キリスト様の教え、言葉、ありとあらゆるもの、覚えている限りのものを彼らは思い起こして、それらを人々に伝えていった時に、3千人もの人々が救われてきたのです。いかにこのイエス様の教えが、素晴らしいものであるかということが、この初代教会において、明確に明らかにされている訳です。その教えを私たちは忠実に守りたいと思います。それが祝福です。霊的世界における神様の主権は、イエス・キリスト様です。アダムが受けた呪いは、善悪を知る木の実を食べて、神様の主権を侵害したのです。しかし、第二のアダムであるイエス・キリスト様が、それを完全に贖って、私たちを、もう一度この霊的な存在として回復してくださいました。

 二つ目は、物質世界における神様の主権は、什一献金であるということです。マラキ書3章6節~10節に書いてあります、また見ておいてください。イスラエルの民が受けた呪いというものが書かれています。それは、什一を盗んで神様の主権を侵害したというものです。私たちがこの十分の一ということを考える時に、神様の主権に従えば、その次には、必ず祝福があるということを覚えなければなりません。マラキ書は、旧約時代、律法時代ではないのか?という考え方を持たれるかもしれません。しかし、什一に関しては、律法の430年前に、アブラハムが信仰によって、メルキゼデクに捧げていたということが、聖書の中に書かれています。律法以前の問題です。ですからそれは、しなければならないというものではありません。兄弟姉妹の信仰のゆえに申し上げます。それは、神様への捧げものです。信仰の父であるアブラハムが、メルキゼデクに十分の一を捧げて受けた祝福は、アブラハムの子孫であるクリスチャンが、主イエス様に捧げて受ける祝福でもあります。具体的な祝福は、「神が、私たちの盾となってくださいました。」というものです。アブラハムもそういうふうに言っています。あらゆる敵から、サタンから私たちを打ち勝たせてくださる盾となったということです。私たちが信仰生活の中で、つまずいたり、憤ったり、怒ったり、不信仰に陥ったりするのは、サタンと近い関係になってしまうからです。近い関係と言ったら失礼ですが、結局、サタンに惑わされて、神様の真理を行うことができなくなってしまう。頭では真理を知っているけれども、心ではサタンに従ってしまっている、ということにならないように、私たちは強くならなければなりません。そのような強さの中に移行していかなければなりません。真理は行うためにあります。真理は知っているためのものではなく、真理は、行うために私たちが神様からいただいた恵みです。それを私たちは実行していきましょう。使徒たちの教えは、非常に素晴らしい教えです。この什一の祝福は、大いなる報いである。富と繁栄の報いであるということです。富と繁栄と聞くと、私たちはすぐに、物質的なことに、思いと、考えとに、心が行きます。でもこれは、霊的な祝福です。コリント人への第二の手紙6章9節~10節「人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。」これが、神様から来る富と繁栄の報いです。残念ですか?財産が増えないから、貯金が増えないから、自分の生活が良くならないから。でも、それ以上にあなたは、「人には認められていないが、神が認め。死にかかっているようであるが、生きている。」素晴らしいですねえ。「懲らしめられても殺されず、」本当に、これはすごいと思います。私たちは、すぐに心の中で人を呪ったりしますが、神様は殺さずに、変わることを信じておられます。「悲しんでいるようで、常に喜んでおり、」兄弟姉妹、喜んでいますか?主を喜ぶことは私たちの力です。信仰によって喜びましょう!信仰によってしか、喜ぶことはできないのです。肉では喜べません。肉では、腹立たしい思いや、ムカつきしか起こってきません。でも、信仰によって喜んで、サタンがあなたの肉の中に蒔こうとする種を、喜びをもって排除していきましょう。そのようなものを、心に入れないようにしましょう。「いつも私は喜びます!いつも感謝します!」それが行いに現れてくるように、信仰をもって進んでいきましょう。それが、我々信仰者の生き方です。

 そして三つ目には、「天の窓が開かれ、溢れる恵みが注がれる。」と書いてあります。この地上には存在しない、天の領域から来る、永遠の領域から来る朽ちない恵みです。全体会の時に、テキストを通して、この前読みました。エペソ人への手紙1章3節~5節「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」これが、天の窓が開かれて注がれる恵みです。天の窓が開かれて、チャリーン、チャリーン、チャリーンというものを期待していましたか?それ以上のものが降ってきているということです。これを皆さん、今日、信仰によって受け止めていただきたいです。天から来る恵み。天上で霊のもろもろの祝福をもって、私たちを祝福してくださっています。それが、私たちがこの使徒たちの教えを守り、すなわち、イエス様も、このことは最後に見ますけれども、什一のことに関しても、触れておられます。律法学者たちに、「あなたたちは什一をするけれども、憐れみはしない、でもこれもしなければならない。」そして、「天の窓が開かれ、溢れる恵みが注がれて、地の産物は守られて、豊かな実を結ぶ。」という約束があります。それは、マラキ書3章11節「わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。また、あなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑に落すことのないようにしようと、万軍の主は言われる。」私たちが、この使徒たちの教えを忠実に守るならば、これだけの祝福が、私たちに与えられているということを覚えましょう。どれだけ困っても、皆さんの中で、お昼ご飯に食べるものがないという方はいらっしゃらないと思います。私たちの考え方を、本当に変えていかなければならないと思います。強さの中に移行していく、それは本当に大切なことです。神様は私たちの食物も、必ず守ってくださっています。だから、「何も思い煩うな!」というふうにおっしゃるのです。2021年のあなたは、もうすでに終わりました。2022年の中に、あなたは、新しいあなたとして今、生きています。それが、今、語っている御言葉そのもののあなたです。そのことを信仰によって受け止めてください。そして、マラキ書3章12節に、「こうして万国の人は、あなたがたを祝福された者ととなえるであろう。」(人々が)となえるのですよ!「ああ、祝福されている」と、軽いものではない。本当にこの人たちは祝福されている。そして、この後の節が素晴らしいです。「あなたがたは楽しい地となるからであると、万軍の主は言われる。」楽しい地になるのです。あなたの内側に、楽しい神様の地があります。これを別の訳で見ると、「諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。」と、書いてあるのです。「『あなたたちが喜びの国となるからだ。』と、万軍の主は言われる。」兄弟姉妹、諸国の民、すなわちキリストを信じない人々は皆、私たちを幸せな者と呼ぶ。そして、「あなたたちは喜びの国だ。」というふうに宣言する。これが私たちです。信仰によって受け止めましょう。これが兄弟姉妹、あなたです。どんな問題が頭をよぎろうが、どう言おうが、見た感じ、また同じことをしていると感じようが、その思いをあなたの中から消去してください。それはもう古いものとして、後ろに忘れて、前に向かって、その強さの中に、そんなものに私は翻弄されないという強さの中に、2022年進んでいかなければなりません。そうしないと、一致を保つことは難しいです。神の栄光をあらわすことも難しいです。そのような歩みにしてまいりましょう。

 二番目の「信徒の交わりをなし、」これは、キリストとの交わり、人との交わり、すなわち、協力していくということです。霊的な、物質的な分かち合い、交わりのことを私たちは、コイノニアグループと言います。言語では、コイノニーヤ。それは、コイノスという言葉から発生している。コイノスというのは、「共通の」という言葉だそうです。すなわち、イエスを信じる、恵みにあずかっている者たちという、共通の、霊的な信仰による交わりが、コイノニアであるということです。単なる社交ではなかった。その本質的なものを分かち合うような関係であった、ということです。そこでは、神様の恵みをたたえ、互いを励ますことを目的とし、そのような霊的な交わりから、彼らは、共に食事をし、持ち物を共にするということが、発展していきました。それが、使徒行伝2章45節です。持ち物を売って、全財産を持ってきて必要な人に分けたというところにまで、この交わりが、そこまでの力をもって、発展していったということです。私たちのコイノニアで、「ああいうことをしましょう!こういうことをしましょう!」そういうことじゃない。そのコイノニアの本質的な交わりに触れて、憐れみをもって、必要な人の所に行って、必要なものを満たすことができるように変わっていった、ということなのです。これが、初代教会に表わされた素晴らしい恵みです。我々は、ここに移行していかなければなりません。ただ単に初代教会の真似をして、また人々を救うために、「リバイバルは目前だ!」とか、「ワーワー!ヤー!」という声を上げるのではなくて、これを本当に、信仰によって受け止めて、実践していきましょう。「コイノニアで何かしましょう。」いや、あなたが、コイノニアの中で得た、霊的なものを通して行いましょう。その分かち合うことは、自発的な喜びと感謝の心から出た、愛の行いとしての助け合いだということです。こんな強さの共同体の中に、私たちはあずかっていきたいと思います。

 三番目、「パンをさき、」今日も聖餐式がありますけれども、我々の代わりに死なれたキリストの死を記念するためです。これを食べる時に、「古い私は死んだ!」という信仰に立つことができる、一つの儀式です。そしてパンをいただき、「私は新しくされました!」という信仰に立つことができる、素晴らしい儀式の時です。「月一回の、ただの聖餐式か!」そのような冷めた心ではなく、「主よ、あなたが私の代わりに死なれ、私の古い性質は死にました!」という信仰を確認する時です。信仰をもって、今日も臨んでいきましょう。

 そして、四番目「祈りをしていた。」これは、基本的には、主の祈りを彼らは捧げていたと言われています。そして、「主・イエスよ、来てください」と、黙示録22章20節の御言葉、これが、私たちの祈りであることを信じます。これを私たちの信仰の4本の柱として、固く建てていかなければなりません。この4本の柱が、私たちを強くしていきます。そしてこの強さの中に私たちは移行していきます。

 この初代教会があらわしている、今お読みした使徒行伝の中で、この4つの事を読みました。使徒たちの教えを守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈りをしていた。こういうのが、口語訳の訳です。別の訳では、これらのことを熱心にしていたという言葉が付きます。そして、46節には、「ひたすら」という言葉が出てくるのですが、この、熱心と、ひたすらという言葉が、同じ元の言葉から出ているということです。この元の言葉は、いろんなふうに訳すことができるそうですけれども、熱心、これは「専念する」とか、「続行していく」とか、あるいは、「固着」(身に付いて離れない)、あるものは、「かじり付く」という意味まであるそうです。それだけ強い意味を持っている。ですから初代教会は、この礼拝に対して、固着し、それをただ、ある時だけ熱心に守って、何か問題が起こったら、「うわー!コロナが蔓延してきた。皆さん声を上げましょう!」ではなくて、常に彼らは熱心にどのような状況であったとしても、礼拝を熱心に守り、イエス様が教えた什一や、捧げものや、愛すること、受け入れること、ゆるすこと、癒すこと、すべてのことを彼らは熱心に守っていた。この4つの事を熱心にしていたということです。そういったことを、私たちは行ってまいりましょう。礼拝には、私たちを神様に固着させる素晴らしい恵みがあると信じます。だから礼拝は大切なのです。あなたが神様に、本当に繋がって、離れないようにしていくその恵みが、礼拝を通して、流されていくからです。そしてあなたの具体的な行いが、あなた自身の信仰を強くしていきます。どんなふうに見られているか、どんなふうに言われているか、それによってあなたの心が、上がったり、下がったりするよりも、あなたは信仰をもって進むべきです。どのようなことがあっても、信仰をもって進むべきです。その信仰を、神様が良しとしてくださるなら、あなたは信仰によって変えられたという結果を得ることができるでしょう。この初代教会の歩みの強さの中に、私たちは移行していきましょう。彼らは具体的な行いの伴う伝道をして、実践的な愛を表していました。私たちもそのようなことを、この2022年の中で行ってまいります。

 エペソ人への手紙3章16節「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、」父なる神が、その栄光の富によって、御霊によって、力をもって、私たちの内なる人を強くしてくださる。これが私たちに与えられている恵みです。この恵みからずれないように、ぶれないように、離れないようにしましょう。

 詩篇29篇4節「主の声は、力強く、」5節「主の声は、杉の木を引き裂く。」8節「主の声は、荒野をゆすぶり、」11節「主は、ご自身の民に力をお与えになる。」4節5節、と、どれだけ主の声が力強いかということを表す表現です。そして11節は、何よりも私たちへの励ましです。「主は、ご自身の民に力をお与えになる。」兄弟姉妹、主からの力を受け取りましょう。自分の頑張りはもう捨てましょう。自分の思考を捨てましょう。経験も捨てましょう。2021年のものは、全部捨てましょう。2022年新しい年、新しい主の恵みの中、主の力の中に、私たちは移行していかなければなりません。それが私たちの強さです。主を喜びましょう。喜べない時こそ、主を喜びましょう。それが私たちの恵みです。

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皆さん、おはようございます。お久しぶりです。2020年の3月29日が、ここでの最後の礼拝だったと思います。あれからもう2年と4ヶ月ぐらい経ちますけれど、またここに立つことができて、こうして皆さんの顔を見ることもでき、また共に礼拝ができる恵みを心から感謝します。愛媛県は3つの地域に分かれていて、ここから(倉敷から)一番近い東側を「東予」と言います。中心部の県庁所在地の松山があるあたりは「中予」と言い

今日から皆さん、合同礼拝です。コロナ以前の、一つになって、もう一度集うことができる神様の恵みを心から感謝いたします。隣に座っておられる仲間と顔を合わせることができることを、皆さん喜んでおられると思います。伝道礼拝の祝福を本当に感謝します。神様が私たちの共同体の中に置いてくださっている賜物を通して、共同体全体が祝福を受けたと信じます。 地上がいつも作り出してくる構図から、私たちは脱出したいと願います

今回、クライストチャーチの素晴らしい聖会にお招きいただき、本当に心から感謝いたします。私にとって、久松先生ご夫妻、そして木村先生や、また他のスタッフの先生方、いつも月報を送っていただいているのですけれども、本当によくしていらっしゃるなと、家内といつも覚えております。以前、寿藤先生の息子さんが、具合が悪いということをお聞きしまして、早天で祈ったことがあります。いろんな恵みがありますけれども、愛がある