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2022年10月2日久松求牧師「私たちの特権」

 皆さん、グッドモーニング。主の御名をほめたたえます。皆さんのお手元に、月報がございます。この月報をいつも見て、神様の共同体の動きをいつも注視していただきたいと思います。これを置いたまま帰らないようにしてください。これを作るために、多くの人々の時間と犠牲が捧げられています。私たちはこれを見るとき、本当に感謝をもって、これを1か月間見ながら、持ち歩きながら、確認していきたいと思います。表紙を見ましたか?すごく鮮やかな表紙です。若者の集いと、教会学校のキャンプの写真があります。これを見て、ほっこりするというか、ちょっと笑みが出るというか、教会学校の子供たちも手を上げて、気持ちが良さそうです。やっぱり皆で集まると、本当に楽しいです。楽しい中に神様のご臨在を感じ、神の国の民としての共同意識が芽生えます。神の国の価値観が、彼らの中に植えつけられるということで、非常にこれは大事です。私たち一人ひとりは弱いですけれども、私たちが集まるとき、神様は私たちを強めてくださり、私たちを支えてくださり、私たちを励ましてくださいます。ですから、私たちがここに集まるとき、神様はいつも素晴らしいことをしてくださいます。

今日も皆さん、この宮にどういう心で来られたでしょうか?神様は、「あなたがもし、わたしをたずね求めるならば、わたしに会う。」と、おっしゃってくださいました。実際に肉眼で主を見ることは、私たちにはできませんが、私たちは信仰の目によって、主を見ているかのように礼拝することができています。そして主はそこにおられるのです。そうでなければ、皆さんどうですか?私たちの目はいつも開かれていたいです。真実なものに目を留めたいです。でも私たちのこの肉の目は、要らないものばかり見てしまいます。ですから私たちは今日、ここで声を上げて礼拝をしました。そしてある兄弟、ある姉妹は祈り、主の前に感謝を捧げました。その祈りは、皆さん!虚しいのでしょうか?神様に届いていないとでもお思いでしょうか?ですから今日、皆さんにチャレンジしたいと思います。まず最初に、(心に)刺さる人(応答する人)にチャレンジしたい。刺さらない人には刺さらないから。神様はあなたの声を聞きたいのです。大人たちが、リーダーさんたちが、神様に祈り、また、神様に歌わずして、どうやって若者たちがそれを見て、「あぁ、神様に祈ることは素晴らしい、こんなに霊的に益になることなのだ!」と感じることができるのですか?大人の皆さん。学んだ皆さん。イエス様がおっしゃいました。「わたしは、わたしの教会を建てる。」そして、「この岩の上に建てる人たちは、丈夫である」と言われました。御言葉に基づいて生きる人たちです。私たちはそういう民ではないでしょうか?神様の声を聞いて、この教会を建てられた久松長老ご夫妻の信仰によって、私たちは今ここにいます。礼拝の賛美は、あなたが気持ち良いときにだけ歌うのですか?あなたが何か感じたときにだけ歌うのですか?あなたが感謝したいときにだけ祈るのですか?あなたが恵まれていないと思うときにだけ、「恵んでください!」と祈るのですか?大人の皆さん、リーダーの皆さん、神様はいけにえを好まれるのです。でも、いけにえを好まれないとも言っています。神様が好まれるのは、自発的な信仰です。心です。思いです。感謝です。憐れみです。慈しむことです。愛です。慰めることです。ですから私たちは、ここに来るとき、いつも主の前に犠牲を携えて来なければなりません。神様は、あなたの声を聞きたいのです。上手に祈るとかは、どうでもいいのです。上手に歌うことも、どうでもいいのです。(心に)刺さる人には、刺さってください。神様はあなたの声を聞きたいのです。一言、ここにきて、「神様、感謝します。神様、今私は弱いです。でも、弱いときに私は強いです。神の力によって、主によって、イエス・キリストにあって。」それをあなたが告白するなら、あなたは信仰の人であり、あなたの人生は、失敗することは決してありません。勝利の主が共におられます。でもあなたがいつも自分の感覚、疲れている、眠たい、今日はそんな気にならない。そういう感覚で動いている人は、イエス様が言われたように「そういう人は、揺れ動く波のようだ。」と、いつも感覚で動いている。(心に)刺さる人には言いたい、「信仰によって」と、もしあなたが言うなら、ここに来て祈ってください。義人先生を困らせて、僕を困らせてください。「もう勘弁してください。もう次へ行きたいから。」と、言うまで。でも主の臨在が、聖霊様が、そうさせないかもしれない。聖霊の導きの礼拝でなければならない、と僕は思っているのです。もちろん、形は大事です。ですからリーダーさんたち、いつも捧げてください。捧げることを見て、彼らが捧げるように。犠牲ということを彼らが学ぶように。彼らに犠牲を学ばせたいなら、あなたが犠牲をしてください。あなたがそれを見せてください。

今日は、「私たちの特権」というテーマでお話ししたいと思います。山田先生が、「王」について、以前お話ししてくださいました。私たちは神の子である。「王様の子供」といったら、前回のメッセージからしたら、「うわー、すごいなあ!王様の子供だったら、すごい特権だなぁ。次は王になれる権利を持っている。」この「特権」という言葉は、「特別な権利」と書いて、「特権」です。これは、「ある身分」とか、「資格のある者だけが持っている権利」と、辞書に書いてあります。私は車を運転する資格を持っています。運転できる権利があります。でも他の人が、「先生、ちょっと車を貸してください。」と言って、私の車を運転することはできません。私は長老夫妻の家に、何も言わなくても入ることができるのです。なぜ?その家の息子だからです。もし他の人が入ってくるなら、それは住居侵入罪になるのです。刑法第130条に当てはまって捕まります。なぜならその家の息子ではないから。焼肉の「キング」に行ったことがありますか?そこでは、いろんなコースがあって、最初に決めるのですが、キングコースを頼んだら、キングカルビが食べられるのです。これはもうめちゃくちゃうまいのです。他に、プレミアムコースというのがあって、もう1000円くらい高いのです。プレミアムコースになると、「焼きしゃぶカルビ・おろしポン酢」が食べられます。うまそうでしょう!そしてプレミアムコースは、特選の厚切り牛タンも食べられるのです。でも、キングコースしか頼んでなかったら、キングコースのメニューしか食べられません。コースが違うから。キリストにある私たちの特権というものを、皆さんに知っていただきたい。特権です。特別な権利です。私たちに与えられている権利があるのです。

私たちが発する言葉、告白というのは、私たちが知っていることを証言するということです。時々嘘をついたり、知らなくても知っているようなふりをする人もいますけれど。逆に言うと、私たちは知らないことを証言することはできないです。知らないことを証しすることなどできないです。重要なのは、私たちがイエス・キリスト様について、個人的に何を知っているかということです。そして私たちがイエス・キリストにあって、どういう者であるか、何者かということが、私たちにとって重要だということです。「私たちがどういう者であるか」について、聖書に書かれています。私たちを導くための道しるべであります。「命」が書かれてあります。「イエス・キリスト」について書かれています。主役はイエス様です。新約聖書の中に、教会に宛てられた書簡があります。その中に、「彼にあって」また、「キリストにあって」、「この方にあって」というフレーズが、133個くらい書かれてあるそうです。それを皆さん見つけだして、あなたのメモ帳に抜粋して書いて、それを読み上げるだけで、それはあなたにとって、人生のエネルギーとなり、力となり、すべての物事の解決に至る素晴らしいものとなります。その中のいくつかを挙げてみると、コリント人への第二の手紙5章21節「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」彼にあって、私たちが神の義となるために、神は罪を知らないかたを罪とされた。彼にあって、私が義となるために。また、コロサイ人への手紙2章6節「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。」また、他の箇所、テサロニケ人への第一の手紙5章18節「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。」キリスト・イエスにあって、感謝しなさいと言っています。もう一つの箇所では、コリント人への第二の手紙5章17節「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」キリストにあって、主にあって、新しく造られた者である。そして、ガラテヤ人への手紙3章26節「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。」ここも、その表現は、「彼にあって」、「キリストにあって」、「この方にあって」のどれかに当てはまります。皆さんがそのうち一つでも、神様の言葉を自ら見つけ出して、「僕は、イエス様にあって義となったのだ!」「キリストにあって、自分のものである!」と、告白し始めてください。「僕は神の義になったのだ!」「僕は神の子なのだ!」「僕は新しく造られた者なのだ!」と、あなたが告白し始めてください。時々私たちは隣の人に言うでしょう、どうぞ言ってください。「あなたは神の子です!」全然響かない。全然刺さらない(応答しない)。「ああ、そうですか!?」という感じです。でも、「僕は神の子だ!」と、あなたが告白し始めるなら、あなたは外側からの影響ではなく、あなたは内側から証言しているのです。あなたは人から定義された者ではない。若者の集いで集まって、話を聞きました。証を聞きました。今の等身大の自分について、「僕は、私は、まだ本当に弱い。教会にはいるけれども、本当に神様を求めているのか?と聞かれると、グレーな感じがする。まだそんな所にいない自分がある。でも、いつかは人のために役立ちたい。いつかは神様の働きのために役立ちたい!」素晴らしいです。それはいいと思います。不完全ですから。未完成ですから。私も同じ所を通ったのですから。でもそのままでいい訳ではない。そして彼らに言います。「あなたは神の子です!あなたは義です!あなたは素晴らしい人です!あなたは勇士です!勝利者です!」でも外側からの定義付けなので、彼らの内には刺さりません。もちろん素晴らしいとは思うのですよ、神の言葉ですから。励ましを受けます。でも、一瞬で消えます。でも一瞬で消えない方法は、あなたが自らそれを見つけ出し、それが自分の事であり、自分のものであるということを告白しなければ、あなたは一生変わらない。大人の方もそうです。信仰は、告白することです。そう学びました。思っているだけではいけない。聞いただけでもいけない。あなたが告白するのです。ですから、私たちは互いに励まし合うために、時々言っているではないですか、慰めるために。「あなたは神様の子供です!愛されていますよ!」人に言うことができても、自分に当てはめて告白をする人は少ないかもしれない。どうですか、皆さん?人には言うけれども、自分に当てはめて、一番大事な自分の証言がなされていない。内に入っていない。ものにしていない。そういうことが私たちの人生の中に、少なからずあるのではないでしょうか?御言葉は聞いているけれども、ただ流れていって、自分のものとされていないのではないでしょうか?もしあなたが、感覚的に弱り果てたり、疲れ果てているときに、「信仰の告白をしましょう!」と言われたら、どうですか?あなたは見失ってしまうのでしょうか?キリストの内にある、「イン・クライスト」である、キリストの内に歩んでいるにもかかわらず、あなたは、何か問題が起きたときに、見失ってしまうのでしょうか?「あれ!おかしいなぁ?私はキリストの内にあったはずなのになぁ。どこだ、ここは?私は誰だ?」あなたは過去の古い自分に、もう一度その場所に戻ってしまうのでしょうか?「キリストにある」あなたであるにもかかわらず。「あれ!これ以前の僕と変わらないなぁ。以前の私と何も変わっていないなぁ。」なぜキリストの中を歩んでいたにもかかわらず。キリストと共に歩み始めたはずなのに、あなたは見失ってしまうのでしょうか?あなたが告白しないからです。あなたが何者かを、あなたが告白しないからです。それが自分のことであることを。自分のものであることを、あなたが知らないからです。でも私たちは、決してそうであってはなりません。パウロは、「弱い時にこそ、わたしは強い。」と言っています。「ピンチの時こそチャンス!」と言っています。そんなに軽々しく言ってはいないです。パウロはゴミ箱に捨てられたのです。鞭を打たれて、ボコボコにされて、けなされて、ばい菌扱いされて、ゴミ箱のような場所に落とされて、彼はまた、ムクッと起き上がって、「よっしゃ、復讐だ、復讐するぞ!」って、言ったのですか?いいえ。僕だったら、「絶対、やられたらやり返す。倍返しだ!」でもパウロを見てください、ゴミ箱ですよ。彼の心の中は、「くそったれー!なんでこんなことが俺に起きるのだ!神様何やってんだ!神様いねぇのかよ!あいつら絶対にゆるさない。せっかく神様の命をいただくチャンスがあったのに、俺をこんなにしやがって!」違うのです。パウロは何もなかったように、埃を払って、「さあ、伝道!伝道!」考えられないです僕たちには。理性では考えられません。彼の内にあった証言は、何だったのでしょうか?

ある一人の男がいました。彼は小さき者でした。しかしながら神に選ばれ、彼は勇士となり、ついに一つの王国を治める王となった一人の男性、それはダビデです。ダビデが自分の王様、サウルに仕えていた頃を、皆さん御存知ですか?ダビデは本当に神に愛され、人に愛され、家来からも慕われていたのです。最初は王様も、そのダビデを愛していました。「すごい、こいつがいれば、なんでもできる。」だけれども、いつの間にか妬ましくなり、羨ましくなり、怒りと妬みとで、王様はついにダビデを殺そうとします。不思議ですねえ、人の心というものは。妬む事って、本当に嫌ですねぇ。ダビデは、その王様から逃げることとなります。彼は命からがら、敵地に逃げ込みました。彼は何もかも捨てて逃げました。彼は勇士だったので、彼が武器を持つと、すべての敵が滅ぼされるくらい、彼について行けば勝利者です。神がいつも共にいてくださったのです。すべての勝利を、彼は手にしていました。彼は勇士であったにもかかわらず、勇士とはほど遠い人格を演じました。サムエル記上21章13節「人々の前で、わざと挙動を変え、捕えられて気が変になったふりをし、門のとびらを打ちたたき、よだれを流して、ひげに伝わらせた。」皆さん、ダビデですよ。彼は自分が命を狙われたときに、頭がおかしい人のように演じたのです。「こいつがあの勇士ダビデなのか!?こんな奴を俺の所に連れてきたのか!」詩篇34篇に、ダビデがその時に歌った歌を記載しています。この時の歌を見たら、ダビデはなんと神様に愛され、また、神様を愛し、自分が神様と共に歩んでいるということを、知っていたのかなと思うような御言葉です。詩篇34篇(ダビデがアビメレクの前で狂ったさまをよそおい、追われて出ていったときの歌)彼は主演男優賞を取るくらいの演技をしたでしょう。よだれをたらして、狂ったように見せて。その1節がこれです。「わたしは常に主をほめまつる。そのさんびはわたしの口に絶えない。」自分の愛する王様に仕えている主君に命を狙われて、よだれをたらしながら、敵に命を懇願しながら、命からがら逃げているダビデが歌った歌が、「私はどんなときも神様を賛美します。そしてその賛美、神をたたえる歌は、私の口から消えることはありません。」ダビデの内にある証言は、これです。では、詩篇34篇2節~5節を読んでみましょう。「わが魂は主によって誇る。苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう。わたしと共に主をあがめよ、われらは共にみ名をほめたたえよう。わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない。」ダビデは、「主に求めたら、主は私に答えてくださった。」こんなときに、そう感じることができるでしょうか?彼は逃げています。彼は追われています。「神様はもう、私の側にいないのですか?神様は私を助け出すと言ってくださったのに、私はもう神に見捨てられたのですか?なんと酷いことが、私の内に起きているのでしょう!」彼は逃げながら、これを歌っています。6節~9節「この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。主の使は主を恐れる者のまわりに陣をしいて彼らを助けられる。主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。」皆さん、乏しいことがないような状況でしょうか?でも彼は言っています。「主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがない」彼は乏しい状況でしょう。誰も助けてくれない。自分に味方してくれる人は誰もいない。その中で彼はこの歌を歌っているのです。まったく真逆の状況です。34篇だけを見ると、「あぁ、これはダビデが、牧草地の、星空の下で歌った歌なのかな?」と、思いますけれど、ここに書いてあるように、彼は追われている状況で、これを歌っているということです。10節~14節を、お読みしましょう。「若きししは乏しくなって飢えることがある。しかし主を求める者は良き物に欠けることはない。子らよ、来てわたしに聞け、わたしは主を恐るべきことをあなたがたに教えよう。さいわいを見ようとして、いのちを慕い、ながらえることを好む人はだれか。あなたの舌をおさえて悪を言わせず、あなたのくちびるをおさえて偽りを言わすな。悪を離れて善をおこない、やわらぎを求めて、これを努めよ。」ダビデが自分の王に手をかけなかったエピソードを、皆さん聞かれたことがあると思いますけれど、彼は自分の命を狙う王に手をかけることはしませんでした。神が選ばれた人に手をかけてはならないと恐れていました。つまりそれは、その上におられる神様を、いつもダビデは意識していたのです。ですからダビデは、こんな状況の中でも言っています。「悪を行うな!偽りを言うな!悪いことに手を染めるな!」そんな状況だったら、悪いことに手を染めたくなりますよね。悪いことであっても、もう理性が働かず、やってしまいそうになりますよね。でもダビデはその中でも、「悪を離れて善をおこなえ」と言っています。ダビデが神に愛された理由がここにあります。どんな状況でも、どんな状態であっても、彼は決して自分の、神様からいただいた権利を手放すことはありませんでした。「あなたの言葉に注意しなさい」と、ダビデは言っています。「自分の言葉に注意しなさい。」リビングバイブル訳では、「誰とでも仲良くしなさい」と言っています。「平和を保ちなさい」と、言っています。あなたが悪い状況になったとき、あなたの口から出てくる言葉は、どんな言葉ですか?「くそ!つまらんなぁ!」「腹立つなぁ!」「うまくいかねえなぁ!」「ああ、むかつくなぁ!」不平と不満ばっかりですか?ダビデは、「それを言うな!」と言っています。命が狙われているときに、「誰とでも仲良くしなさい。」と言っています。19節をお読みしましょう。「正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。」正しい事をしても、災いがあるということを、皆さん覚えてください。正しい事をしたからといって、報われる訳ではありません。災いは必ずあると言っています。むしろ正しい事をしたほうが、災いが多いと言っています。しかしダビデは、「主は必ず彼を助け出される。」と言っています。彼は神様に信頼しています。私たちには、神の子としての特権が与えられています。特別な権利です。私自身は本当に弱い。あなたもそうでしょう。あなたは弱いです。この中に強い人など誰もいません。神はその弱さを見て、憐れんでくださいます。私のために、私よりも低くなられました。こんな私のために。私たちの問題や心配について、私たちは押しつぶされてしまうような者です。それは本当です。しかし私たちは、その自らの弱さの中で、力を求め、神の言葉に目を向ける。これが大事なのです。自分の弱さや、問題や、失敗に、押しつぶされている中で、私たちに大切なのは、その中でも、力を求めることです。神の言葉に目を向けることです。詩篇119篇130節「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。」「神様のみ言葉が開かれると、光を放つ」と書いています。私たちが弱さの中で、力を求めて神の御言葉に目を向けると、「光を放って、無学な者に知恵を与える。」「神様、私は無学です。私は何も知りません。私は、また、失敗するところでした。また、自分の肉の弱さに埋没するところでした。」ですから神の子である私たちは、神の言葉に目を向けましょう。「神の言葉に目を向けるときに、光が差し込む」と書いています。いいですよね、光が差し込む場所は。暗闇なんて嫌ですよね。神は私たちに、「共にいる」と、おっしゃいました。「私はあなたと共にいる。」でも私たちの、神に喜ばれない応答、告白というのは、恐れです。「神様怖いです。」「私にはできません。」「私はできません。」それは神様を悲しませる言葉です。あなたの告白は、神を喜ばす。「共にいる」と、言ったときに、「神様、あなたが私と共におられます。」それがあなたの証言でなければいけません。あなたに問題が起きるとき、弱さの中にいるとき、あなたの口から、「神は私と共におられます。」もし、リーダーの方が「あなたの問題のために祈ります。」と言ったときに、「ありがとうございます。しかし、神様が僕と共にいます。」それが彼の証言でなければなりません。神に喜ばれる応答は、それです。「私はあなたを支える。」と、御言葉に書いてあるにもかかわらず、神に喜ばれない応答は、「私は弱いです。あなたが支えてくださっているけれど、神様、私は変わらず弱いのです。」あなたがそう言うならば、あなたは弱いです。「あなたの言った言葉が、その通りになるように。」と、イエス様が言われるのです。私たちは、間違った事を言うのをやめて、正しい告白をしようではありませんか。「間違った事を言うのをやめなさい」と、主はおっしゃっています。間違った事がいっぱいあるのです。私の人生の中に、私の引き出しの中に。でも、それをやめて、光が差し込む御言葉に目を向けて、あなたが力を求めて、御言葉を求めるなら、先ほどの詩篇に書いてあるように、知恵を与えてくださいます。目が開かれます。ですから私たちは間違った事を言うのをやめて、正しい事を告白しましょう。「神が共におられる」と言うなら、あなたの人生に、「私の内に神がおられる。神が私を支えてくださる」と、実際に言うのです。「どんなことがあっても、神が僕を支えてくださる」と証言するならば、それは私の力であり、これが、私たちの神の子としての特権です。素晴らしいではないですか?それをあなたが持っているのです。特別な権利を。この地上の人は誰も持っていないです。ですから皆さん、間違った事を言うのをやめて、今日から正しい告白をしてください。正しい告白です。間違った告白はしないように、人を傷つけるようなことを言わないように。妻を傷つけたり、夫を傷つけたり、子供を傷つけたりする間違った発言をしないように。主イエス・キリストの名によって、疑いや、恐れを拒絶するなら、それらはあなたから離れ去っていくと言われています。あなたが告白するならば、です。条件が付いています。焼肉でも条件が付いているのですから、神の子としての条件は、もっといっぱいあるはずです。でも簡単です。あなたがイエス・キリストの名によって、疑いや恐れを拒絶するだけです。なんと簡単なことでしょう。だけどあなたは、あなたの人生にそれを適用できないのでしょ、あなたが肉の人だから。ですから今日、私たちは「イエス・キリストにあって」、「彼にあって」、「主にあって」、彼の内を歩んでいることを、神の子としての特別な権利を与えられているということを、再認識してほしいのです。ですから、「あなたは素晴らしい!」と言うときに、本当に素晴らしい人なのです。それはもう、それぞれを分析して、あんな所がある、こんな所があると言ってたら、もう切りがないです。でも、イエス・キリストによって、神の特別な権利を得て、「神の子である。神の国民である。祭司であり、素晴らしい者です!」と言われたときに、あなたは、「アーメン!そうです!」と、言ってください。お父さんに「なんてお前は不従順な子だ!」と言われたときに、「僕は神の子です!お父さん。」お母さんに、「あなたは絶対に片付けせんねぇ!きれいにしなさい!」と、言われたときに、「私は神の子です、お母さん。」と、言ってあげてください。その後に片付けてください。やるべき事はしてください。あなたたちは否定されているのではない。あなたの人格を否定してはいない。「あなたがダメだ。」とは言っていない。「掃除しなさい。」と言っている。「勉強しなさい。」と、言っているだけです。でもそれ以上に、あなたたちは、神の子であることに間違いありません。もし疑いや、恐れを拒絶しないなら、それらはあなたの内に入ってきて、あなたを盗み、打ち負かします。あなたの人生は、滅ぼされます。恐れと不安と悩みにさいなまれて、あなたの人生は打ち負かされます。ですから私たちは、イエス・キリストの名によって神の子としての特権である御言葉を告白し、あなたの人生に当てはめてください。『私は今日も強い!キリストにあって。私自身は弱い、まったく価値のない者です。でも、イエス・キリストにあって価値ある者です。キリストにあって、私たちは家族です!』

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