2022年3月20日久松 求牧師「染まる」

~ 礼拝メッセージ ~

「染まる」

●久松 求牧師●

 今日のテーマ、「染まる」。この「染まる」という言葉は、結構いろんな意味を含んでいるのです。ここにある、一枚の写真を見てください。羊ちゃん、かわいいでしょう。でも羊って、かなり性格が歪んでいるそうです。羊の性格って、穏やかで、優しくて、草を食べているイメージでしょう。けれども違うのです。羊は結構臆病なのです。羊って、やっぱり群れで一緒にいないと生きていけないのです。ここに映っている緑の帽子のお兄さん、この人は羊飼いです。羊を守ったり、羊の手入れをしたり、また、夏になると、毛がモフモフになって、もう自分では毛も刈ることができずに、病気になったらいけないから、きれいに羊飼いが毛を刈ってくれるのです。ですからこの羊たちは、羊飼いがいないと生活できないのです。草ばっかり食べて、草がなくなったら、また新たな地へと移動していくのです。この羊は、本当は臆病者なのです。何かあるとパニックになって、うわー!となってしまうのです。私たちのようです。私たちも威張って生きているけど、実は臆病者で、誰かがいないと生きていけない。そんなことってないですか?私も、後で自分の失態をいっぱいしゃべりますけれども、実は、この羊は貪欲なのだそうです。もう、よく食べる。ずっと食べているそうです。パクパク、パクパク。そして餌を与えたら、その与えた人に、いつも「食べさせてくれ、食べさせてくれ」と、来るのだそうです。あげても、あげても飽きない。貪欲です。私たちと似ていませんか?イエス様はいつもたとえ話をする時に、羊の話をするのです。

ヨハネによる福音書10章11節「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。」もちろん、この良い羊飼いというのは、イエス・キリスト様であります。しかし皆さん、考えてください。私たち、男性たちも羊飼いなのです。この羊飼いというのは、羊を飼う者のたとえとして言っていますけれども、これはリーダーのことを言っています。そのリーダーという言葉は、もちろん上に立つ者であるのですが、私も家庭の中では一人のリーダーです。父親として、また、夫として。しかし、皆さん見てください。私たちリーダーは羊飼いであるにもかかわらず…。良い羊飼いは、その羊のために命を捨てますけれども、一方悪い羊飼いもいるということなのです。悪い羊飼いというのは、自分の人生の幸せのため、自分のためだけに生きている羊飼いのことです。たくさんいるのです。私たち男性たちは、イエス様が言われたように、羊のために命を捨てることができる者でなければなりません。犠牲を、また命を捧げることをいとわない者にならなければなりません。イエス様は、「羊のために命を捨てる」と、おっしゃったのです。イエス様は私の羊飼いです。そのとおりです。今日、お二人の方がバブテスマ受けるのですけれども、この洗礼についてイエス様は、こうおっしゃっているのです。

マルコによる福音書16章16節「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」今日、お二人はイエス様を信じてバプテスマを受けられます。「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」皆さん、何から救われるのですか?聖書は、「罪の支払う報酬は死である。」と、言っています。その永遠の死、地獄の場所から救われると、聖書は、はっきりと言っているのです。罪の支払う報酬は永遠の死です。なぜなら、私たちは皆、罪人ですから。迷い出た小羊でありますから。救われる事、これ以上に勝るものってありますか?私たちは罪に定められていたのですけれども、私たちは信じることによって救われる、これ以上に勝るものはありません。なぜなら聖書は、はっきりこう言っています。マルコによる福音書8章36節「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。」言い換えるなら、人間はすべてのものを、この地上の生活の中、人生の中で手に入れたとしても。あなたにとってそれが最高の地位なのかもしれない、権威なのかもしれない。最高の財産を得ることかもしれない。名誉がいただけるものを手に入れたとしても、「命をなくしてしまうなら、それは何の意味があるのですか?」と、イエス様はおっしゃっています。皆さん、(永遠の)命に勝るものは何もありません。この命こそ、私たちが必ず手に入れなければならないものであることを、イエス様は、はっきりとおっしゃっています。

 今日、バプテスマという意味をお伝えしたいです。バプテスマとは、どんな意味なのでしょうか?これには、ギリシャ語で「浸す」「沈める」という意味があるのです。これは、「洗礼」という意味ではないのです。ある対象物を水の中に沈める行為を「バプテスマ」と言うのです。ある対象物を完全に水の中に沈めるというのが、バプテスマするという意味です。ある対象物が浸されて、全く別の物になる。聖書に、「バプテスマ」という言葉が出てきたら、「沈める」「浸す」という行為を、想像してほしいのです。完全に染まり、全く別のものに変わるのです。私たちの人生の中で、私たちはいつも何かに染まっているのです。染められているとでも言いましょうか。また、染まりに行っている。この染まるという意味には、いろんな意味があると言いましたけれども、塗料で染めることも、「染まる」と言います。夕日に染まる、恥ずかしさで頬を染める。しかし、今日の「染まる」という意味は、ある考えや思想などの影響を受ける。また、よくない習慣が身につく。要するに、何かの考え方や思想に染まって、自分の思いは違うのだけど、それに影響されてしまう。自分とは全く違う考えや思想によって、悪い影響を受けてしまう。こういう「染まる」という言葉に、ちょっと注目していただきたいのです。別の使い方で言うと、「風習に染まる」また、「社会に染まる」とか、いろいろあります。私の場合は、どちらかと言うと、「悪に染まる」という使い方が早かったかなと思います。私たちの人生というものは、いろいろなものに染まっています。昔、テレサテンさんの「時の流れに身をまかせ」という歌がヒットしました。ご存知ですか?その歌詞の中に、「あなたの色に染められ~」という所があります。それは、その人の価値観、思想や、考えに染められる、影響を受けるということです。この曲に、皆さん身を寄せて、「恋ってそうだわ!愛ってそうだわ!」って、なるのです。「染められたいわ、あなたの色に。」とんでもないです。「大丈夫ですか?その色に染められちゃって!」その染まるものは確かなものですか?私も不確かなものに染められました。そんな時期もありました。その人の考え方や、思想や、価値観に染まるということなのです。私の人生、どうしようもない、ろくなものじゃないです。そんなものに染まってきました。染められたのではない。自分から、入っていっているのです。自分がそれを手に入れたいから、それをつかもうと染まってきたのです。せっかく白だったのに、いろんな色が付いてしまっていたのです。バプテスマされるということは、全く別のものに変わるということです。イエス・キリストのバプテスマを私たちが受ける時、私たちは、全く新しくそこから生まれ変わることができると、聖書は、はっきりと言っています。私たちは様々な色に染められてきましたし、まだ若い人たち、これから君たちも染まるでしょう。いろんなものが欲しい。いろんな価値が素晴らしいと思う。しかし皆さん、よく考えてみてください。その対象物、バプテスマして染まるもの、浸すもの、それは、人であり、文化であり、風習であったとしても、それは本当に正しいものですか?真理ですか?あなたに命を与えるものでしょうか?あなたの心を喜ばせ、あなたの内側をいつも喜びと感謝に満たすものに、あなたは染まっているのですか?それとも、取るに足りないものを、私たちはいつも欲しがっていますか?私たちが食べる食物で、私たちの身体が造り上がるように、私たちが信じる、私たちが取り入れていく考え方、価値によっても、私たちの人間形成というものは出来上がっていくはずです。

私もいろんなものに染まりました。悪に手を染めました。ですからそのシミや傷を取るのにもがいていましたけれども、結局、自分ではそれらを取ることはできませんでした。しかし主は、十字架によって、私の汚れ、罪、それら全てのものを取り除き、この呪いの木に、身代わりに架かってくださいました。それを信じる私はバプテスマされて、新たな命をいただく時、神の子として、新たに生きることができるように変えられたのです。ですから今日、洗礼を受けられるお二人にとっては、本当に良き日であります。それは感情や感覚や、そういったものではありません。イエス・キリストは「信じてバプテスマされる者は救われる」と、言いました。それだけです。何が大事ですか?信じること、そして、バプテスマされること。それだけです。それは素晴らしいことです。皆さん、自分の染まっているものが、外側にも出てくるのです。その人の生き方や、生き様や、考え方、しぐさ、言葉使い。マイケル・ジャクソンに染まっている人は、自分の色ではない。マイケルの色です。マイケルのようになりたいし、マイケルの考え方、マイケルになりたい。それが見た目だけでわかります。「この人は何に染まっていますか?」と、言われたら、もうマイケルです。皆さん、自分の染まっているものが、外側にも出てくるのです。その人の生き方や、生き様や、考え方、しぐさ、言葉使い、もう彼の人生を模範として、この人は生きているのです。でも、先ほども言いました。本当にそれは、私たちを満たすものなのですか?信じるに値するほど価値のある人なのでしょうか?その人が真理ですか?命ですか?道なのですか?そんなことはありませんよね。皆さん、御言葉を読んでみましょう。

 ローマ人への手紙6章1節~4節「では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。」私たちが神の恵み、赦しを受けるためには、罪を犯し続けなければ、神の恵みに触れられないのだろうか?感じることができないのだろうか?罪を犯すことによってのみ、恵みというものを知ることができるのだろうか?いいえ、「断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかる」イエス・キリストと同じように、「バプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」死人の中からイエスが甦られたように、今日、洗礼を受けられるお二人も、「新しいいのちに生きるためである。」と、書かれています。古い命があるのです。過去の私たちが、汚れてきた、それらのシミ、傷、シワ、いろいろな苦しみ、それらを全て、新しい命に生きるために、イエスは私たちの身代わりとなられました。ですから、今日から新しい命で生きましょう。そしてまた、私たち洗礼を受けた者たちは、何度も罪を犯すべきではありません。キリストと共に甦らされて、新しい命を得たのですから、私たちも新しい命に生きなければなりません。新しい命に、毎日、毎分、毎秒、生きなければなりません。

「染まって生きる」という言葉を、他の言葉で言い換えるならば、「依存している」ということです。依存しているものが、私たちの人生の中に、たくさんあるということです。人は依存しやすいものです。先ほどのテレサテンの歌も、依存を表しています。人に依存しているのです。人は本当に罪深いものです。欲というものがある限り、私たちは罪を犯し続けます。欲があるから、罪を犯すのです。その罪の結果は死です。聖書はそう、はっきり書いています。ですから私たちは、新しい命に生きる必要性があります。彼が身代わりになって与えてくださった、その命、真の命であるイエス様がはっきり言いました、「わたしは真理であり命です。」と。私たちがキリストに浸され、キリストと共に沈められ、そしてキリストと共に甦る時、新しい命を受けたのです。

 ローマ人への手紙13章11節~14節「なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない。」日が近づいています。闇の業を行うことをやめ、イエス・キリストを着なさい、と言っています。イエス・キリストを着るということは、どういうことでしょうか?それは、イエス・キリストの教え、神の御言葉を守り、そして行いなさいということです。神が私たちに託してくださった神の言葉、聖書の言葉を守り、行うことです。キリスト教の学校を出たから、私たちはイエス・キリストを着ているとは言えません。知識があるからといって、神の御許(みもと)に行くことができるかどうかはわかりません。なぜならイエス様は、この聖書の中で、「わたしはあなたを知らない。」という言葉を言われていますが、そういう人もいるということです。「私は神を信じています。良いこともやってきたのです。」でも、「あなたを知らない」と、神様がおっしゃったなら、もう終わりです。ですから皆さん、闇の業を捨てて、イエス・キリストの言葉を信じて行いましょう!新しい人を今日、着ることができるお二人に、本当に心からお祝いを申し上げます。なぜなら自分の力で変えることは、私にもできなかったのですから。私のシミ、汚れ、自分で染まってきたもの、それらのものを自分で変えることは決してできません。私の罪を拭ってくださる御方は、イエス様だけなのです。この方によらなければ、救いはないのです。この方こそが、真理であり、命なのです。その方にたどり着くことができた皆さんにとっては、本当に特権であり、神の恵みであり、素晴らしいことであることを今日も覚えてください。皆、真っ黒でした。でもバプテスマされて、水から上がってきた時は、真っ白です。イエス様は、真っ白です。しかし私のために、ドブのような汚い掃き溜めに、イエス様は入ってくださったのです。入りたいですか、こんな汚れた所に。私のために、十字架を背負ってくださった御方、「このかたによる以外に救いはない。」と、聖書は書いています。バカみたいな話、でも私は信じます。私は「命の冠」、この「冠」を離しません。そして皆さん、いつか共に天で会い、私たちは主と共に、その日が来ることを喜び、楽しみとしましょう。

この身体は朽ち果てていきます。皆さん、何かに抵抗して生きているのです。でも本当に染まらなければならないのは、神の教えです。神の教えとは、戒めでもあります。「わたしがあなたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と、これは戒めです。でも皆さん、愛し合っていますか?世界はどうですか?テレビをつけたら…。愛し合っていますか?良い羊飼いのように、トップ、リーダーが、羊のために命を捨てますか?いいえ、「お前たち、死んでこい、殺してこい、争い合ってこい。」これが世界です。それが私たちの本性なのです。ロシアで起きていることではないのです。私たち人間の欲深い罪が、この世界を生み出しているのです。ですから私たちは争うことなく、先ほどの御言葉にも書いているではないですか。そして私たちは光の武具を身に着ける。光の武具とは何ですか?イエス・キリストの御言葉です。愛です。平和です。私たちは平和を愛しましょう。あなたの家庭で起きている問題、いろいろなことがあったとしても、あなたは、愛する人になってください。あなたは平和を愛して、子供たちに声をかけてあげてください。妻がつらいのなら、妻に声をかけて寄り添ってあげてください。夫が疲れているのなら、クックパッドを、ちょっと開いて、美味しい料理を夫のために頑張ってあげてください。愛するということは、十字架です。「あなたが素晴らしいから、私はあなたが好きです。」ではありません。この場所で約束したでしょう!「病める時も、苦しい時も、悲しい時も、どんな時でもあなたを愛する」と。結婚の時に約束したでしょう。それなのになぜ争い合っているのですか?なんで離婚するのですか?なんで妻のせいだと言うのですか?なぜ夫のせいだと言うのですか?あなたに愛がないからでしょう。どんな時でもあなたを愛するというのは、どういうことですか?考えてください。子どもが良い子だから愛するのですか?いいえ、悪い時であろうと、過去の自分、目が(悪に)行っちゃっているあの時でさえも、父と母は愛してくれました。手に負えない、もう自分たちの言うことも聞かない、全然どうしたらいいかわからない。でも愛してくれました。この愛がなかったら、愛せないです。私もそうです。愛するとは…?皆さん、考えてください。イエス・キリストの愛がなければ、全ては無意味です。今日もイエス・キリストの愛をいただきましょう。天から来る神の愛だけが、この世界に、本当の意味での平和を与えることができるのです。人々は妬み、争い、殺し合います。比べています。小さな家でも、争いがあります。小さなコミュニティーの中でも、いつも争い合っています。兄弟喧嘩も、今日も相変わらず起きています。争いはいつも…いいえ、ロシアで起きていることではありません。いつもあなたの近くで起きているのです。だから私たちは、今日も不確かである自分を認めて、確かである御方に染まってまいりたいと思います。この御方に染まるならば、あなたの人生は、100%間違いありません。でも、テレサテンの「あなたの色に染められ~」の人生は、揺れ動く波のようです。「砂の上に家を建てた人と同じようです。」と、聖書は書いています。土台がしっかりしていないから。「わたしは真理であり命です。」と、言っておられる方がおられるのです。この御方に頼らなければ、どうするのですか?

今日もイエス・キリストの御名をほめたたえます。私に染み付いてきたもの、それら全てのものを、毎日毎日、はがしていかなければなりません。だって自分で染まったのですから。でも、皆言うのです、「染められちゃったよー!」って。「本当にあいつのせいで、俺の人生はダメになった!」いや違います。あなたが染められたのです、自ら進んで。だってあなたがその場所に行き、あなたがそれを価値あるものと思って手を出しているのですから、言い訳は聞かないです。ですから、それら全ての汚れたものを、私たちはキリストによって毎日はがしていくのです。皆さん、それが執行事項です。それがパウロの言う、へゲモンの意味する、みなすということです。これはもう私には要りません。私は価値があると思っていたけれども、もう要らないです。捨てます。どれだけ楽ですか。私は学歴が一番と思っていたけれど、もうそれも捨てます。学歴よりも大事なものがあります。本当にそう思っているのですか?でも息子には、いい大学に行ってほしい。いい会社に入ってほしい。大丈夫ですか?一番大事なのは、(神の)命です。そこから私たちの全てのエネルギーは、流れて来ますから。今日もイエス・キリストの御名をほめたたえます。新しい命であるイエス・キリストをほめたたえます。私たちは今日、もう一度皆さんと岡山にいる兄弟姉妹、また、YouTubeを見ておられる兄弟姉妹と共に、イエス・キリストを着ることができていることを神様に感謝します。神は私たちを愛し、私たちのために祈り、今日も私たちを祝福してくださっています。ですから私たちも感謝しようではありませんか。隣にいる兄弟姉妹がここにいることを感謝しようではありませんか。毎日起きている出来事を見れば、目を塞ぎたくなる程、悲しいです。でも、現実に起きているのです。私たちは、その人たちのために祈ろうではありませんか。「みこころが天で行われているように地でも行われますように。」神様の御心は天で100%行われています。そこには争いも、妬みも、何もありません。それが起きているのは、この地上だけです。「神の御国がこの地上にも来ますように。私たちが本当に変えられますように。イエス様、助けてください。」心からそう願っています。それは宗教ではなく、良いお話でもありません。「神様あなたの真理が、私の人生の中に現れますように!染まってきた全てのものを、今、イエス・キリストと共に葬りそして新しい人、イエス・キリストと共に甦らされたことを宣言します!」そして新しい人なるイエス・キリストを、私たちは着ているのですから、もう私たちは罪に縛られることはありません。素晴らしい主の御名を心からほめたたえます。

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