2021.9.5木村由智主任牧師「任命式」

 皆様おはようございます。今朝は任命式ということで、久しぶりに久松先生、ひろ子先生、また、同労者の先生、壽藤先生は愛媛からYouTubeで共にこの恵みにあずかってらっしゃいます。一同に集まることができたことを感謝したいと思います。このコロナ禍の中で、神様がこのようにして私たちの共同体の中に、神様の思いを今、成就してくださるということは、本当に素晴らしいことだと思います。我々が、確かに上の領域からの永遠の枠の中で、神様の導きの中、私たちが神様の御心を行っていくという確信に立つことができると思います。この地上は分断されて、何も機能しなくなっています。でもキリストの身体は機能し、成熟し続けていっているということを我々は受け取らなければならないと思います。ですから主に期待して進んで参りましょう。そこには、私たちの信仰が必要です。それが何よりも必要です。では、皆さんと、いくつかの御言葉を見たいと思います。

エペソ人への手紙4章11節~13節 今日、改めて任命式ということもあり、私たちは五役者ということを見て、その五役者が私たちになされること、そして具体的に聖徒たちがどのように成熟していけばよいかということを共に見ていきたいと思います。4章11節~13節 「そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」これは私たちが何度も聞かされ、私たちが信じている御言葉です。しかしながら、いろいろな教会を巡っていくときに、完全な聖書が確立したので、五役者はいないというような教会もあるようです。でも私たちは、この五役者の回復、具体的に、ウッドロフ先生が使徒として立ってくださって、また私たちの共同体でも、久松長老が使徒的な働き、使徒としての恵みをいただいて、そしてひろ子先生は教師として、ずっと仕えてこられ、そこに私たちがコングレスというこの使徒的ネットワークに属することによって、預言者や、教師、牧師、伝道師、そういった恵みの中で、教会形成がなされているということを改めて私たちは感謝しなければならないと思います。もう一箇所、コリント人への第一の手紙12章28節~29節 「そして、神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた。みんなが使徒だろうか。みんなが預言者だろうか。みんなが教師だろうか。みんなが力あるわざを行う者だろうか。」神の教会の中で、このように人々を立てたというのが明らかです。そして今日、この任命式の中で、神が教師として私たちの共同体の中に、山田恵副牧師を立ててくださるということを覚えなければなりません。では、これを誰が任命するのか?当然、神様です。聖霊の導きによって、それを受け取って、この事が今日、成就するのです。それを私も受け取りました。そしてこれは、明確に神様から来たものだという確信に立って、今日ここでその事を行います。ですから、能力があるからとか、長い間この教会に仕えていたとか、この教会で救われたとか、そういう人間的な価値基準ではないということを言いたいのです。聖霊が働いて、心に感動を与え、思いを与え、それを人々が信仰によって受け取って、それを実際現わしていくということが、今日のこの出来事であるということです。ですから、YouTubeをご覧になっている方も、今日この場所にいらっしゃる方も、信仰をもって、今日の式に臨んでいただきたいと思います。何よりも大切なのは、そのことです。ですからこのことを私たちが受け入れるということは、神様の働きを私たちが受け入れるということです。そして神様の働きを認めるということです。そうする時に私たちの中には、神様の恵みが溢れてきます。神様の力が溢れてきます。すべてのものが私たちの中に注がれてくるでしょう。ですから心を新たにしながら、この礼拝の中で、皆さんも心を整えてください。これは非常に大切なことです。山田先生は、副牧師から教師になる。ランクが上がるという言い方はおかしいですけれども、そうなっていきます。そうなればなるほど、低くなっていかなければなりません。これは同じく同労者、私たちも同じです。この立場は、神様によって与えられた立場ですから、これは、我々が能力によって勝ち取ったものではありません。血筋によったものでもありません。家柄でもありません。これは神からの分与を受け取った、ただその一言だけです。それに対して信仰を持って、私たちは最後まで歩んでいくというのが、我々の姿勢です。その姿勢に倣って、兄弟姉妹も、この事は神様がなされた事なので、「私は最後まで信仰を持って、この共同体に従っていくということが必要です。

パウロはそういったことを、ガラテヤ人への手紙3章で語っています。大まかに要約して申しますと、パウロはガラテヤの人たちに、1節 「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。」非常に厳しい言い方をしました。「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、明確にあなたは救いを得たはずだ。しかし、だれがあなたを惑わしたのですか。2節 わたしは、この事を聞いてみたい。あなたが聖霊を受けたのは、律法、すなわち行いによったのか、それとも、聞いて信じたからなのか。3節 あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊で始めたことを、今になって肉で仕上げるというのか。この3章3節、この部分を非常に強調したいと思います。神様が始められたことを、私たちは最後まで、神様の働きとして行っていかなければならない。4節 あれほど大きな経験をしたのは、むだだったのか、まさか、むだではないであろう。5節 あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、行いではなく、聞いて信じたからである。なのになぜ肉で仕上げようとするのか。6節 このように、アブラハムは『神を信じた。それによって、彼は義と認められた』のである。7節 だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。」聖霊によって始めたことを、信仰によって受け止めなさい。アブラハムも、彼が約束の地に行くという時に、今回私たちもDVDで聞きました。彼がその場所を望んだのではなかった。その場所が別に好きでもなかった。ただ一言、神様が、「行け!」と言われたから行った。それに対して彼は自分の好み、そういったことにいっさい関心を置かずに、神様だけに関心を置いて従っていきました。これが、御霊によって完成させていくということです。私たちは最後まで、そう歩いて行かなければなりません。人間的な価値基準で、何事も判断するような思いや考えが私たちの中にあるならば、それは、本当に捨て去り、葬らなければなりません。私たちは神の御霊に導かれているから、神の子として存在することができるのです。そのことを本当に、今日私たちは深く受け止めたいと思います。この働きを簡単に申し上げますと、これは神様につなげる働きです。私たち同労者に、また教役者に、五役者につなげる働きではありません。ただ私たちを通して、神様につながっていくというのが、この五役者の働きです。ですから我々は、何も栄光を求めたり、称賛を求めたりすることのないように、進んでいかなければなりません。実際そのように私たちの共同体では、久松長老、ひろ子先生が、その模範をずっと示してくださって、今、その流れの中で、継続してそれが進んでいっているということを信じます。我々の働きは、いつも神様のことを思い、考え、人々が神に似るようになるということを望んでいるということです。私たちが不十分なところもあるでしょう。でも私たちに与えられた務めは、人々をキリストに似る者へと変えていくために、伝えていくということです。そのために神様が、賜物として私たちを召してくださったのです。神の賜物は変わることはありません。この事は非常に大切です。

 コリントの教会の中で、パウロは叱責しました。「わたしはパウロに」つく、「わたしはアポロに」。最も霊的なことのように言いましたけれども、それは完全に肉であり、幼い状態です。私たちはそのようなことのないように、神様の前に兄弟姉妹を導いていきます。我々につなげることを絶対にいたしません。皆さんをキリストにつなげていくために、私たちは従事していく。この事をまず、最初に理解していただきたいと思います。

 では、五役者を立てられる神様の目的、このエペソ人への手紙4章11節、まず、キリスト御自身が五役者を立てられたということを覚えなければなりません。キリスト御自身が立てられたのです。任命したのは、この共同体の主任牧師である私ですけれども、その背後に、神様の霊的な動きと、神様の御心と、神様の思いを受け取った我々が、イエス・キリストの名によって、任命していくということです。これはキリスト様の働きです。神様が賜物をある者にお与えになったのは、私たちのすべての領域において、御自身をキリストの身体に満たすためにほかならないのです。キリストの身体を満たすために、神様は賜物を与えて、人々を立てられたということです。五役者は当然、神様の賜物です。キリストが立てられることを、最後まで忠実に私たちが伝えていく時に、この働きはキリストにつながる働きに変えられていきます。途中どのような事があっても、私たちは諦めずに、最後までキリストに似る者へとなるように、人々を私たちは導いていくという考えで、

信仰に立って進んでおります。賜物とは、神の恵みによって与えられた聖霊が、我々の内で働き、それを生み出すこと、それが賜物だというふうに、定義したいと思います。それは、神様の賜物として与えられたものが、聖霊によって最後まで完成されていくということです。ですから、ガラテヤの書簡でパウロが叱責したのは、「その賜物、能力は、神の身体を、キリストの身体を完成させるためにあなたに分与したはずです。なのに、あなたが自分の欲求や、私利私欲のためにそれらを用いようとするのはどういうことなのか!?」ということが含まれているのです。私たちは、認められるか、認められないかにかかわらず、神が私たちを立てたということに変わりがないのですから、どんなことによっても動かされたり、嘆いたりすることのないようにしていかなければなりません。これが、この五役者、同労者の中での本当に重要な役割です。

 そして二つ目の、エペソ人への手紙4章12節 「それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、」聖徒たちを整える、奉仕の業をさせる。キリストの身体を建て上げていくということが、この五役者によって、キリストの身体の中で完成されていくということです。エペソ人への手紙2章20節~22節 「またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。」これが、私たちの最終的な目的の場所です。霊なる神の住まいとなる。そのために五役者が立てられて、わたしたちを整えてくださるということです。エペソ人への手紙4章13節 「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」と、あります。私たちが皆、信仰の一致に到達する。この信仰の一致というのは、信条的な一致ということを言っているのではありません。それは、「キリストが本当に救い主であると信じる信仰によって、私たちは一致しましょう!」ということを言っているのです。「そんなことは当然じゃないか!」と、皆さん思われるかも知れません。でもここで大切なことは、信仰とは、自分が無力で、本当に何もないというところから始まっていかなければなりません。自分に何かしらのものがある、というふうなものを持っているならば、私たちはそれを捨てなければなりません。それが、最後の成熟を追跡するという神様の資源の中で、今、私たちが行っていることです。救いをいただいたときは、本当に赦された喜びと、感謝と感動を現わしたことを皆さんも鮮明に覚えていらっしゃるでしょう。でもいつしか聖霊によって賜物が与えられたことにより、肉において誇るようなことが私たちの中にあってはならない。「そういうものがあると、私たちは信仰の一致に到達できません」と、パウロが言っているのです。賜物は、神様から来たから、私を通してそれが現わされているだけです。でも、「私は本当に救いがたい罪の性質にまみれている者だった。そこから完全に贖ってくださったのは、神様の恵みだ」というところに立ち続ける一致がなければなりません。ですからパウロは、この4章11節~16節までを見る前に、この4章1節~2節で、特に強調しているのは、「謙遜でありなさい」ということを強調しているのです。そして「一つになりなさい」ということを、7~9回くらい言っています。それくらいパウロは、キリストの身体が愚かである、弱いということを知っているのです。だから五役者が必要なのだ。それによって完成されていかなければならないということを強調しているのです。「謙遜」という言葉の言語は、低い思いを持て、低い心を持て、という意味が含まれているそうです。私たちが決して神様の前に、召されたことを高ぶったり、誇ったりすることのないために、「謙虚でありなさい」と、パウロはまず戒めを、そして、「一つになりなさい」ということを強調し、その五役者について説明していっているということです。非常に大切だと思います。兄弟姉妹、私たちが持たなければならないのは、キリストは本当に私にとって十分であるということの認識です。そしてそれに対する信仰です。それを私たちが持たなければなりません。自分には何かができる、自分は何者かであるというような考えが、教会の一致を妨げる。前進させなくしてしまいます。皆さんが何かができるかは、聖霊が働いて超自然的な力となって、あなたに業をさせているということを覚えましょう。それがなければ何もできないのだということの認識を私たちは持たなければなりません。

そして、「彼を知る知識の一致とに到達し」ということをパウロが言いました。それはキリストをより深く知るということでありますけれども、私たちがいただいている神様からの望み、嗣業、また、力の大きさというものを知るということ、このちょうど終わりの時代を生きている者として、突然、コロナが来て、でも私たちは神様の覆いの中で守られ、それどころか私たちの思い、そして心、考えが同化していきながら、このキリストの身体の内面的な成長と外的な数の成長がなされているということは、これは神様の上から来ている時間枠の中で生きていく我々に与えられた恵みです。それを見るだけでも、私たちは素晴らしい神様がいらっしゃるということを十分理解できると思います。その部分において私たちは、一致していくということが大切なのです。能力の違い、考え方の違い、いろんな違いがあるでしょう。でも、私たちは一致していかなければなりません。それこそ唯一、私たちを成熟させる道だからです。兄弟姉妹、一致していきましょう。そして完全に大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するためですと、あります。キリストの満ち満ちた身の丈というのは、キリストらしくなるということです。そのキリストらしさというのは、内側の品性の部分。キリストらしい品性は、二つの要素に分けられます。まず一つは、きよさです。私たちは聖なる宮として神の住まいになるということが、先ほど、エペソ人への手紙2章20節~22節で読んだように、主にある聖なる宮になっていく。御霊によって神の御住まいとなるということが、きよさを示します。この五役者の働きを通して、兄弟姉妹、皆さんは、きよさを神様からいただかなければなりません。当然、私たちも同じです。きよさによって、私たちは神の住まいになるということを、人々が明らかにしていくためです。この集合体である交わりも、きよさが命です。このきよさがなければなりません。キリストがきよくあられるように、私たちは自分をきよくします。ヨハネが言いました。それがクリスチャンです。それが、キリストの花嫁です。そのことを私たちはしっかり受け止めなければなりません。「清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。」と、エペソ人への手紙の中にあります。きよさというものは、オプションではありません。これは、絶対にきよさになるということです。きよくなってもならなくてもいい、ではなくて、きよくなるということが神様から求められているということです。

そしてもう一つは愛です。互いを愛する愛と、神を愛する愛の大きさ。成長していくことが必要です。エペソ人への手紙3章17節~19節 「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」と、パウロは祈ります。私たちが完全に大人になるというのは、きよさを身につけることと、この神の愛の中に生きていくということです。神様が私たちに契約を結ばれました。そしてイエス様がそれを成就してくださいました。

エレミヤ書31章31節~34節 「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない。」この契約を神様が約束されて、新しい契約。そのことが成就したのが、イエス様が来られた時です。

マタイによる福音書5章17節で、「わたしは成就するためにきたのである。」と、イエス様がおっしゃった、その事を言っています。そしてその新しい契約は、この前、久松長老から私たちは聞きました。自分の好む愛し方で人を愛することをやめて、神が望む愛し方で人を愛するということをやっていくのです。この契約を神様が立てると言われて、イエス・キリストしか、これを成就することはできませんでした。なぜなら私たちが持っている愛は、神の愛ではなかったからです。イエス様が初めて愛を現わしてくださって、私たちがそれを成就することができるようになった。すなわち私たちは、自分の好む愛し方、自分の好む方法を捨てて、神が望む愛し方、方法で人を愛し、神を愛していく、その愛の広さ、高さ、深さ、長さがより拡大されていく、それが、五役者によってもたらされる神の恵みです。私たちが生きる領域は、そういう領域です。ですから私たちは、新しい契約の中で、神と共に歩んでいるということを覚えましょう。もう一度、「自分の方法を捨てます!」と言うことが必要だと思います。そして、「神の方法で私は愛します。」と言うことを私たちは認識したいと思います。そういうものが五役者から具体的に流されていきます。

ペテロの第一の手紙4章7節~10節 「万物の終りが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。不平を言わずに、互にもてなし合いなさい。あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。」まず、それぞれが賜物をいただいているということです。それぞれというのは、受けていない人はいない、皆、受けているということです。「私には何も賜物はないのです」という言葉は聖書に反するかも知れません。自分では認識できていないかも知れないけれども、私たちには与えられています。10節に、「神のさまざまな恵みの良き管理人としてと、あります。さまざまということは、皆、違うということです。私たちは神様のさまざまな恵みをいただいています。五役者は、皆さんの前に立って務めをしますから、人間的な言い方をしたら目立つかも知れません。他の人は誰にも評価されないかも知れません。ある人は、働きがたくさんあるかもしれません。ある人は少ないかもしれません。でも、神様がそう定められた。比較は無用です。妬みも無用です。私たちがするべきことは、世の終わりが来て、神様が来られたときに、私たちは神様の前で神様から「よくやった、忠実な僕よ」と、これのみが私たちの目的です。そのために五役者が立って、皆さんに神様の資源を流すのです。それが我々の務めです。多く持つ者も多く求められ、少なく持つ者も少なく求められます。いずれにせよ、神様がそうされたから、私たちは従ってまいります。そして、神の恵みの良き管理人として、今日、

山田先生が任命されますけれども、私たちは神様の賜物の所有者ではありません。管理者です。恵みの賜物は、神様からお預かりしているものであって、やがてそれを清算する時に、「よくやりました」ということだけが、私たちの、この地上での賜物を用いるための目的です。人によく思われるとか、何とかしようという気持ちも大切です。でも、何よりも、神様の前に立った時に、「あなたはよくやりました。人々に対して配慮もしました。私が与えた賜物を、かざしたりしませんでした。あなたは本当にへり下っていました。あなたは本当にきよい愛に満ちた美しい姿勢を貫きながら、私の業を行いました。」私たちは、そう言われたいです。神様が本当に望んでいるのは、そういう良き管理人ということです。神様は私たちにこれを預けるから、今日、神様が山田先生に教師という職を預けるから、その務めを預けるから、地上の生活で人々を建て上げてください。」というのが、神様の願いです。私たちもそのように召されているのですから、当然、神様から牧師として、このいただいたものをこの地上で人々のために伝えて活かしていく以外に、私たちのこの賜物の価値はありません。ですから精一杯、「私たちはより輝かせて、活かしていかなければなりません!」と、力を入れすぎる必要はありません。神様が与えられた賜物を忠実に新しい契約の中で、自分の考えや自我に死んで、常にきよさを保ちながら、神様の御霊の生み出された賜物を生み出していくということに努めていくということです。受ける側も、同じ信仰が必要だと思います。受ける側もそのような信仰を持って受けるならば、あなたも同じ恵みにあずかることができます。そして同じように変えられていきます。賜物の用い方というものは、単に自分のためだけではなく、人々がキリストのように変わっていくために、私たちはそれを流し出していく管でしかないということです。パウロは何度も、「互いに」という言葉を繰り返しています。「互いのため」ということを、常に私たちは意識していかなければなりません。具体的には、「互いに熱心に愛し合いなさい。」「互いに親切にもてなし合いなさい。」「互いに仕え合いなさい。」という、この3つだと思います。終わりの時代に生きる我々は、自己中心ではなく、互いということが求められているということを、もう一度認識しましょう。そして、互いに愛し合うということは、何よりも「多くの罪を覆うからである」。罪を覆うというのは、旧約聖書の表現方法だと言われているそうです。要するに、罪を赦すということです。この御言葉の意味は、「愛は多くの罪を赦します。」ということになります。ですから、「私たちがすべての罪を赦されたのだから、私たちも互いに赦し合うべきではないか、」という意味です。

もし私たちがクリスチャンであると言いながら、私たちの愛が人の罪に対する赦しとして実行されなければ、神様の愛として、そこには聖霊の働きが流れていかない。本質的に、私たちは赦していかなければならない者なのだ、ということです。「互いに赦し、愛し合え」ということを言っているということです。「互いに親切にもてなし合いなさい。」という御言葉がありますが、これは当時、キリスト者が旅をして行って、迫害や、宣教のために移動して、その地方、地方に行ったときに、その地方のキリスト者に泊めてもらいました。今のようにホテルがあった訳ではなかったのです。その時に、神の家族のクリスチャン仲間が、宿を提供したり、家を提供したというのです。でも皆さんどうですか、「ちょっと10分ほど、家の前で待っていてください。」と言って、家を片付ける。多分皆さんもそうだと思います。「えっ!ちょっと待って、前もって言ってほしい!」この時代は、そんなことは言えなかった。携帯もないのです。メールも使えません。「この地に宣教のために来ました。泊めてください。」「どうぞ、どうぞ。」と言うのです。その時に、「それをぶつぶつつぶやかないで」と、そういう意味だそうです。「快く受け入れなさい。」ということだそうです。でも本当に私たちは、そういう開かれた心が神の働きのために必要だということです。これも自分のためだけではなく、キリストの身体を完成させていくために、「つぶやかないで、親切にもてなしなさい。」と、言っているのです。

 私たちがいただいている賜物というものは、基本的に自分を楽しませるものではありません。互いに仕え合うためです。ペテロの第一の手紙4章11節「 語る者は、神の御言を語る者にふさわしく語り、奉仕する者は、神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである。それは、すべてのことにおいてイエス・キリストによって、神があがめられるためである。栄光と力とが世々限りなく、彼にあるように、アァメン。」ふさわしくありなさいということは、どういうことでしょうか?ふさわしいということは、信仰を持ってやっていくということです。忠実にやっていくということです。正義を持ってやっていくということです。ベストを尽くしてやっていくということです。それに、何かしらの足りないところがあったとしても、「すべて良し」とします。これが、クライスト・チャーチのリーダーシップの本質です。ですから皆さんが、信仰をもってやったことの結果がどうであっても、我々が覆いとなって、それを守っていくということです。ですからふさわしく皆さん、進みましょう。信仰をもって、忠実に、正義さをもって、ベストを尽くしていきましょう。自分一人では完成できないということを、いつもわきまえましょう。必ず助けがいる。わざわざ神様は五役者としたのです。使徒だけでよかったのではないか、イエス様だけが五役者の務めを持っておられましたけれども、人に分与するときには、やっぱりそれぞれの人に分与して、その身体が一つにならないといけないということです。同労者会は一つです。そして、そこから流れていくものが、皆さんに一致をもたらします。これが、皆さんが受けるべきものです。神様が、私たちを立てられました。それは皆さんを完成させるためです。具体的なことを語ってきました。皆さんがそれを受け取るということです。信仰によって受け取るということです。ここは能力があってもなくても、皆が受け入れられる場所です。唯一、居心地の良い場所です。唯一愛される場所です。唯一ゆるされる場所です。そこに人々がいのちを見出して、この終わりの時代の完成を目指していかなければなりません。兄弟姉妹、それが私たちの務めであります。しかしこの賜物も、やがてすたれる時が来ます。

最後に、コリント人への第一の手紙13章8節~13節を見たいと思います。「愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」このようにあります。イエス様が来られたら、私たちのこの賜物は、もう必要なくなってきます。でもこの地上にいる間、キリストの身体として、私たちがここに存在している間、賜物は必要です。それによってキリストを現わしていくからです。何よりも願うのは、私たちが完全に知られているように、完全に私たちが知ることができるようになる時を、何よりも望みます。その時が来るまで、私たちは聖霊によって与えられた賜物を活かして、キリストの身体の完成を目指していく、これが私たちの歩みです。兄弟姉妹、そのような信仰をもって、共に神様の前に進んでいきましょう。いつまでも存続するものは信仰、希望、愛です。目に見える物ではありません。全部、私たちには見えないものです。しかし、これが大切であり、最も大いなるものは神の愛です。この愛の質の中に、私たちは生き続けていきましょう。

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