2021.7.11 山田 恵副牧師「救いを達成【完成】せよ」~ピリピ2:12~

 皆様おはようございます。倉敷、岡山、愛媛、京阪奈のYouTubeを通して礼拝を捧げておられる兄弟姉妹の皆さん、おはようございます。

 私たちが救われたのは、一瞬にして救われました。何年も修行をしたり、聖書を勉強して、初めてその資格が与えられたのではありません。イエス様を救い主として信じたその瞬間に、私たちは神の子という立場が与えられて、罪が赦されました。永遠の命が与えられました。救いはその瞬間に来ます。けれどもその救いという言葉の中には、永遠の命を受けた後の、神様が見て完全とされる救いの状態というものがあります。そこにいきなり行くのではありません。ですから救われて、信じて終わりではないというのはそういうことです。「救いを達成せよ」と言われる以上は、達成点、完成点が必ずあります。「救いを完成せよ」というのが神様の御心です。では信じただけでなく、それはどういうことなのですか?ということを今日は見ていきます。

最初の救いというのは、天からの一方的な神様の恵みであり、私たちの行いによらない神様からのプレゼント、賜物です。その立場です。でもその立場になったら、その立場にふさわしい者としての歩みが始まります。ですから天からの一方的な恵みと、そしてそれを受けた私たちが、地上から天に対する応答というものが要求されるのです。それがクリスチャンライフであり、信仰生活と呼ばれるものです。そこにはいろいろな形もあります。でも形の中にある、私たちに要求される神様の願いというものがあります。ということはそれを聞かずして、達成点には到達しないということになります。オリンピック選手も選ばれて代表という立場になったら、彼らの目標は、この地上の金メダルです。それが到達地点です。彼らはそのために、そこに焦点を当てて、何年も前からトレーニングと自己鍛錬と、あらゆる調整をしていきます。日々の努力です。そして最後の金メダルは、己の栄光です。でも私たちは神様の栄光を求めます。私たちは上の賞与を求めています。それすらも自分の願望ではなく、主の喜ばれることだからです。

ピリピ人への手紙2章12節「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。」パウロの獄中書簡です。死を目前にして、このようにピリピの愛する兄弟姉妹に対して勧めています。あなたたちは本当に従順でした。でも私は今牢獄にいます。今はいっそう神に対して、与えられた指導者に対して、従順でいて、そして今日のポイントは最後の所です。「恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。」救いの達成を、どうやったらできるのですか?そのポイントは何ですか?それは、「恐れおののくことだ」と、言っています。それは具体的にどういうことかを詳訳聖書で見ますと、恐れおののくという言葉の中に、色々な意味があるのです。その中の3つ、「恐れおののく」とは、いったいどういうことなのか?どうやったら救いを完成できるのですか?まず最初に、①誘惑に対する注意、実際にその訳の方では、「警戒」と書いていました。誘惑に対する警戒、深い注意をもってということです。そして②敏感な良心、そして、③自己不信任、本当はこれが最初に来ているのです。自己不信任というものをもって、注意深く、誘惑に対して警戒しなさい。そして敏感な良心を持ちなさいということ。

これを理解するために、一つの事件と言いますか、出来事を見たいと思います。旧約聖書で、皆さんがよく知っている箇所だと思います。サムエル記下24章1節~4節です。ダビデの統治が40年、その終盤です。晩年になってから、彼は数々の過ちを犯しましたが、その中の一つです。この頃、軍事力においてはある程度のものがありました。戦国時代を駆け抜けてきて、息子アブサロムが死に、そして晩年になって彼の中に自分の能力とか、権力とか、立場とか、与えられたものに対する慢心があったのでしょう。そこにスッとサタンが来ました。1節「主は再びイスラエルに向かって怒りを発し、ダビデを感動して彼らに逆らわせ、『行ってイスラエルとユダとを数えよ』と言われた。」「主は」と書いていますが、歴代誌の方では、「サタンが起って」と、書いています。ですから主は、サタンが彼の中に誘惑することを許可されました。ヨブに対して許可されたように、神様はそれを許可されました。主が怒りを発することがあったのです。「ダビデを感動して」というのは、ダビデの心に何かを動かしたのです。そしてダビデは部下たちに言うのです。「さあ、国中を巡って人口調査をしなさい。兵力がどのくらいか数えて来なさい」と。2節「そこで王はヨアブおよびヨアブと共にいる軍の長たちに言った、『イスラエルのすべての部族のうちを、ダンからベエルシバまで行き巡って民を数え、わたしに民の数を知らせなさい』。3節 ヨアブは王に言った、『どうぞあなたの神、主が、民を今よりも百倍に増してくださいますように。そして王、わが主がまのあたり、それを見られますように。しかし王、わが主は何ゆえにこの事を喜ばれるのですか。』」ヨアブというのは、ダビデの側近中の側近、軍隊の長です。このヨアブが王に対して、「王様、どうぞ主があなた様を非常に豊かに繁栄して下さいますように。しかしなぜ王様、このことをなさるのですか?」人口を数えるということが、なぜいけないのですか?イスラエル、神の民は、神様によって導かれるのがその性質です。「実際の見える武力、能力、人間的なテクノロジー、知識、知恵、そういったもので戦ってこの神の民を発展させていくのだ!他の国々と戦って、強力な国に、軍事力においても拡大していくのだ!」という考えで進んではならないからです。いつでもダビデは主に聞きました。でも年を取ってから、彼はフッとやられました。4節「しかし王の言葉がヨアブと軍の長たちとに勝ったので、ヨアブと軍の長たちとは王の前を退き、イスラエルの民を数えるために出て行った。」出て行ってしまいました。そして9カ月とちょっとくらいかけて、あっちこっち手分けして数えました。そしてそれが、どれくらいだったかと言うと、サムエル記下24章9節~10節。9節「そしてヨアブは民の総数を王に告げた。すなわちイスラエルには、つるぎを抜く勇士たちが八十万あった。ただしユダの人々は五十万であった。10節 しかしダビデは民を数えた後、心に責められた。そこでダビデは主に言った、『わたしはこれをおこなって大きな罪を犯しました。しかし主よ、今どうぞしもべの罪を取り去ってください。わたしはひじょうに愚かなことをいたしました。』」今日語りたいのはここです。「しかしダビデは民を数えた後、心に責められた。」それはどういうことでしょうか?その話に入る前に、さっきの3つのポイントを見てください。①誘惑に対する注意。私たちは神様の判断、神様のやり方、それに注意を払わなくても、語られていることを心に留めなくても、自分のやり方とか考えで十分だ。大丈夫。そこそこできる。こなせる、と思ってしまう誘惑が人間にはあります。具体的に言えば、神の判断、上から流れてくる資源、その中で語られること。DVDで発せられること。それをかみ砕いて、日曜日や、水曜日や、金曜日に語られること。あるいはもっと小グループで語られること。上から流れてくることを、そんなに自分の中に留めなくても、昨日と同じやり方で今日もいける。一年前と同じやり方で、同じ思考パターンでいける。人はそういう誘惑があります。それは自分の好みなのです。自分の信条なのです。自分が心地良いと思うやり方なのです。それを一言で言うと、肉、あるいは欲。これによって、アダムとエバは堕落しました。もともと我々人間が本来持っているその堕落した性質は、いつもそれをやろうとしてしまいます。非常に合理主義でやろうとします。「そんなことしなくても、こうやった方が早いです。こうやった方が簡単でしょう。この方がスムーズにいくでしょう。いちいち一緒にやったり、集まったり、話したり、交わったりしなくても、チャッとお弁当頼んで、さっと食べて、さっと帰って、いいじゃないそれで。もう、いちいち台所で作ったりしなくても。」いつも合理的、それはすごく理性の人です。それが良いと思っています。あるいは、いつも理屈、理屈で責めてくる。目的があって、そしてどういう意図があるかというものを知ろうとしないで、ただ形だけやるのも、そうです。その奉仕は、その係は、何の目的のためにあるのですか?なぜそういう当番があるのですか?兄弟姉妹がいろいろなつまずきにならないように、人々に対する配慮のために様々な奉仕があります。皆さんそれぞれに努められています。でも神様は、自分のテリトリー、そこの所しか見えない人に対して、教会の考え方というものを、全体を見せられるのです。カメラが引くように、そして全体を映し出します。神様の視野、指導者が語ることは、全体が見えるように、お勧めしたり、アドバイスしたり、提案したり、助言したりしているのです。全体が見えてきます。それと同時にその人に対して、その人のテリトリーの、さらにもっと人の心の奥にスポットを当てます。でも自分の判断で大丈夫と思っていたら、自分の視野の所しか見えないのです。そこに動いている人々の思いとか、必要性とか、見えないのです。それを神様の考えはクローズアップして、他者のことが見えるように、無関心でいないように、教えてくれます。そして全景が映る時に、「あっ、私はこの全体の中で動いている。この人との関わりで動いている。この人との繋がりで動いている。だからその時はこうするべきだ。」いろいろなことが見えてきます。皆さんも山に登る途中、自分が見えている景色だけだったら、いったいこの山がどんな形で、丸なのか、三角なのか、富士山なのか、見えません。頂上に行ったとき、頂上からの景色は見えます。誘惑に対する注意が必要です。ダビデは神様のお考えでなくて、自分の考えでやってしまいました。ダビデは心に責めを受けました。24章10節「 しかしダビデは民を数えた後、心に責められた。そこでダビデは主に言った、『わたしはこれをおこなって大きな罪を犯しました。しかし主よ、今どうぞしもべの罪を取り去ってください。わたしはひじょうに愚かなことをいたしました。』」過ちは誰でも犯します。過ちを犯しても、その後の心の態度、また、行動、これが問題です。誰しも過ちは犯します。ダビデは言いました。非常にこれは大きな罪、大きな罪という自覚がありました。「あっ、ちょっとやっちゃったー!」ではない。これは大きな罪だという良心の呵責、そして、「ひじょうに愚かなことをいたしました。」単なる反省ではないのです。②敏感な良心というのは、ただ単に道徳的にちょっと気持ちが痛い、ではない。あなたの霊が敏感でなかったら、スッと神様にアンテナを合わさなかったら、あなたは地上を愛してしまいます。いろいろな地上の情報というものに振り回されます。それにものすごく影響を受けてしまいます。上がったり、下がったりしてしまいます。そして損得で物事を考えるようになります。「自分にとって心地良いのはどっちかなあ?」そこに神様の願いは反映されません。それは非常に鈍感な人です。良心の呵責というその良心というのは、霊です。霊が敏感であるということは、すぐに、「神様の願われることに私は正しく立っているだろうか。私は危ない者ではないだろうか?」と。何かちょっと教会生活の中で不具合とか、自分の中でいろいろな葛藤を皆さん持つときがあると思います。そういう時に霊が鈍感だったら、自分の意識が人のせいにすることに向きます。良心の呵責がありません。私が神の前にどうだろうか?というところに意識が行きません。敏感な良心を求めましょう。敏感な良心、霊に対して敏感であること。神様のことがわかる心。それが、救いを達成するために必要なことです。そして③自己不信任、すべては結局これです。自己不信任という思いが自分の中にしっかりあれば、霊的に敏感でしょう。そして誘惑に対しても注意深くなるでしょう。

ダビデはその後、預言者ガデを通して、裁きを受けることになるのです。三択です。七年間イスラエルに飢饉がくるのがいいか?三か月敵に追いまわされるのがいいか?三日間疫病で苦しむのがいいか?ダビデは、主の手に陥らせてくださいと言いました。そして三日間イスラエルは疫病にやられました。ダビデの罪ゆえに七万人が死にました。そしてその後、ダビデは神様に示された所に祭壇を築くのです。アラウナという人の、「小麦を脱穀する打ち場」、という所に祭壇を築いて、全焼の生け贄と、和解の生け贄を捧げます。そして後に、その場所にソロモンの神殿が建つのです。ダビデの崩れた心、その場所に完成された神の神殿が建つのです。いかに神様が、敏感な良心、そしてその後の正しい態度と行動を願っていらっしゃるかがわかります。この自己不信任という言葉ですけど、①~③は全部、「神様を恐れおののく」ことの説明です。よく政治の世界でも、「信任を受けます」という言葉があります。「不信任」ということは、信じません、認めませんということです。私は私の肉を信用しません。信頼しません。信じません。そういうことです。強くありたいですか?強くありたいのなら、神様と一つになっていないといけないです。神様とパートナーシップを結んでいないといけないです。もしそれを望むのだったら、あなたの中にある人間本来の、反抗する、抵抗する性質というものを否定しなければならないのです。「神様、私はあなたと正しいパートナーシップの中を歩きたいです。なぜなら、それが一番強いことだからです。あなたを離れては、私は弱い、肉です。そのために私は、私の中にある、自分でやりたい。人口調査したい。兵力を把握したい。それに注目したい。私のやり方で奉仕をしたい。私のやり方で、子育てをして、仕事をして、学校生活をしたい。」それを否定しなければいけません。ローマ人への手紙の中で、パウロは言っています。「わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。」 「わたしの肉の内に、善は一つもないということをわたしは知っている。」その葛藤がありました。すべての人間はその葛藤があります。肉を持っている限り、いつでも古い性質というものが、あなたと天の間に塞がっています。それが最大の妨害をしています。天と地が一つになろうとするのを妨げています。

ヨシュア記の中で、約束の地に入ったイスラエルの民に、神様は、そこにいた七つの異民族に対して、「徹底的に聖絶せよ!」と言われたのです。時に聖絶しました。でも時に聖絶しませんでした。全部滅ぼしませんでした。でもそれが後々、大きな問題になっていきます。約束の地とはどこですか?あなたの中です。神が約束された相続地。神の国はどこにありますか?あそこですか?ここですか?あなたの只中に神の国は、約束の地はあるとおっしゃったではないですか。そこには先住民がいるのです。七つの異民族がいるのです。それが人間本来の、私がやりたい。私が私を守りたい。私は傷つきたくない。私のプライドをこわされたくない。その敵に対して、もしあなたがいろんな誘惑に陥ってしまうなら、世の中のものをちょっと羨ましく思ってしまうなら。皆がやっているように、同じようにやらなかったら、持たなかったら、なんか自分は遅れていると思うなら、あなたは聖絶していない。それを残したままです。だからイエス様はおっしゃいました、「わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と。一回だけでなく、日々。日々あなたは自分自身の中にある肉と戦いなさい。聖絶しなさい。そうして私に従って来なさい。その人がわたしの弟子です。その人がわたしのパートナーです。その人とわたしは一緒に御心を行います。わたしはその人を通して神を現します。

ここで問題があるのです。私たちが陥りやすいことの一つに、自分の中にある非常な、問題とするような性質だったり、悪と思うようなものだったり、例えば、ひどく暴力的な態度だったり、人に対しての考え、自分のやり方、他はそんなに問題ない。むしろいいと思っている。いいと思うから、自分の考えがいつも出てくる。むしろそれが役に立つと思う時もあるでしょう。なんでそんなにいっぱい理屈を言って、人をやり込めるのですか?そんなにあなたは自分が正しい、これが絶対いい。なんでそんなに思うのですか?どうしてあなたはいつも文句ばっかり言うのですか?なんでいつも否定的なのですか?それは、まだ異民族がいるのです。自らの判断を、これで良しと、自己信任を良しと自分でしてしまったら、100%従うということは、もう不可能になります。サウルがそれをやりました。自己信任しました。「これで良かろう」と。「いや、むしろわたしは民の声をちゃんと聞きました。良いと思ってやったのです。サムエルさんが遅れるのが問題だったのです。」自己信任してしまいました。私たちも同じです。自分で良しとしてしまっているのです。「まあいいか」と。あるいはそれに気づきもしていない。「自分の判断」って何ですか?その自分という中にあるのは何ですか?無知じゃないですか。理解不足じゃないですか。いったいどれだけのことを悟って、どれだけのことを理解しているというのですか?自分の判断というものは、そこから出る判断なのです。ものすごく鈍感じゃないですか?自分の判断というものは、鈍感丸出しの判断なのです。自分が一生懸命主張して、「もうこれでいきます!」と主張して、その主張の中にあるのは何ですか?ものすごく感情に左右された意見ではないですか。もう感情に捉われて、感情にかきたてられて、怒りにかきたてられて、自分に起こった不条理や、不都合や、不公平や、それから出る、憤りからの言動じゃないですか。自らの判断というのは、それが入っているではないですか。それでは戦えないのです。私たちは強くありたい。それは、しっかりと戦いを制して、異民族を聖絶して、しっかりと自分の足で立っている状態です。自立したキリスト者です。もういつも誰かに慰められて、支えられて、カバーされて、忍耐されて、やっとこさ。それは自立できていない。一番最初の御言葉を見てください。ピリピ人への手紙2章12節「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。」最後に、このことを言います。今、言った3つのことは、「恐れおののいて」の中にある必要な要素です。原則です。それをもって、あなたは自分に信頼しない。私は信頼に値しない。私の肉はあてにならない。私の肉でやったら愚かさしかない。その思いで、自分の救いの達成に努めなさい。自分の目標、達成、完成、聖絶、自立、これに努めなさいということは、「天に向かって体を伸ばす」ことです。聖絶することは、「ロスの算出」です。「十字架の死と等しくなる」ことです。自分がどこから来たか、その出発点を「私は霊から来た」と、それをはっきりと再定義することです。努めるということは、積極性がないとできないです。受け身だったらできないです。言われて初めて動くようであったら、自立したキリスト者とは言えません。あなたは主体性をもって、自分の足で進むのです。誰かの助けや、誰かが自分のために我慢してくれることをさせてはいけない。それを待っていてはいけない。自分の足で進むのです。自分で自分の中にある、約束の地に居座っている堕落した性質、これと戦うのです。聖霊によって。積極性は神の国の特徴です。これらは全部、人のためにやります。なぜですか?私たちは神様の中に存在しているからです。「神のうちに生き、動き、存在している。」これが、私はすべてだと思います。神の命の中でしか、私は生きられない。本当の意味で生きることはできない。私は神の命の中に、「生き」というのは、「機能している」。神の命の中で私は機能して、神の命の中で動いている。「動く」というのは、「良い行い」です。神の御心に合った行いです。「生き」― 機能し、「動き」― 良い働きをし、存在している。そう、それがあなたです。それがあなたでなければならない。神に愛され、価値ある者とされ、大切な人とされ、「我が子よ」と言ってもらい、その中に生きるということは、「絶対に私はそこに立って動かされない」と、毎日決意することです。皆さん、あなたの感情にやられないでください。あなたの中から出てくる、いろいろな疑問であったり、葛藤であったり、もちろん感情はあります。スコット先生もおっしゃっていました。感情は無視するのです。それは何も実を結ばない。結果をもたらさない。感情はありますよ。無感覚になれと言うのではないのです。皆さん、神様の命の中で生きたいですか?そこにしか、私たちの居場所はないです。そこでこそ、あなたは真の平安と自由を得ることができます。そのためには手放さなければ。自己に固執することを手放さなければ。手放したら、命を得ます。満たされます。

今日は3つのことを言いました。「恐れおののく」ということは、誘惑に対して注意し、警戒することです。そして、良心の敏感さ、何かの時に、「私は神様の命の中に、ちゃんととどまっていただろうか、この考えは?」そして自己不信任、自分を信じないことです。よーく考えたら、たいてい無意識で私たちが肉で動くとき、もう100%自分を信じています。「いやいや、自分なんて信じていませんよ!」いや、信じているから怒るのではないですか。いいと思っているから、攻撃するのではないですか。自分が悪くないと思っているから相手をやり込めるのではないですか。皆さんに与えられた素晴らしい立場、その救いはいったいどこから来たのですか?神様から一方的に来たのです。人生の最後まで、その救いの達成、完成をやり抜きましょう。皆さん一緒に、あなたは一人じゃない。絶対に一人じゃないのです。一緒にやりましょう!隣の人、頼りないですか?いや、あなたも頼りないのですから、ちょうどいいくらいです。今日の共同体に対する預言にあったように、根底にあるのは「赦し」です。自分を信任しなかったら、簡単に赦せます。私たちはなんと愛されているのでしょう。主に感謝します。主に栄光をお返しします。

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