会堂に集われている兄弟姉妹、またYouTubeをご覧になって礼拝を捧げている兄弟姉妹、おはようございます。この主日礼拝で、皆さん声を出しておられるでしょうか?マスクをしているので叫んでも、なかなか声が明確ではないかもしれませんが、私たちの元々の声の大きさにかかわらず、あなたが今出せる限りの声は出すべきです。「叫べ、力の限り主をほめたたえよ!」男性の声が弱いと思います。女性はマスクに自分自身を逃がしてはいけません。口がどれくらい開いているかは誰にも見えません。でも、神様はご存知です。それは兄弟姉妹を愛するがゆえです。他者を愛するならば、あなたは神の前に、本当にその御言葉が言っているとおりのことを実践するべきです。そしてこの会堂が、主の宮、主の天幕が、神の濃厚な臨在の中で覆われる時、聖霊の強い働きがある時、この一致を主が見て喜んでくださる時に、一人一人の霊的な体験が高まります。今日、非常につらい心でここに集ってきた兄弟姉妹がいるならば、その方の内側に、その神の臨在は触れます。それは兄弟姉妹の愛によって、その人は体験します。
今日のタイトル、「心を広げる」というタイトルを聞くと、「思ってはいるけど、なかなかこれも難しいなあ。」と思われた皆さん、大丈夫です。少し広げるということを、今日は語ります。「あなたの心を限界まで広げましょう!」ということではなくて、ちょっと広げましょう。このちょっとが大事です。だから安心してください。まず、「心」と「思い」は、違うと思いますか?一緒だと思いますか?これは別物だと思いますか?その前に御言葉を見ます。
エレミヤ書17章10節「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである。」主である私は心を探ります。そして思いを試みる、テストします。これも調べるということです。探るというのも、調べるということです。ポケットを探ったら千円が見つかった!ポケットを調べたのです。それは同じではないですか?心を探り、思いを試みる。チェックする。調べる。似ています。そしてその道に従い、あなたの生き方に従って、神様は報いをなさいます。
マタイの福音書では、イエス様はこうおっしゃいました。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。」またピリピ人への手紙には、「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」また、詩篇には、こう書いてあります。「主よ、わたしをためし、わたしを試み、」私をテストして、「わたしの心と思いとを練りきよめてください。」聖書に、心はたくさん出てきます。心を定める。心を傾ける。心を注ぐ。また愛する心。心を痛める。これは全部、思いという言葉に換えても、言うことができると思います。思いを定める。私の思いを注いで。愛する思い。じゃあ一緒なのかなぁ?ただ言えることは、思いというのは、いろいろある。例えば今この瞬間、皆さんは何かを思っています。思いというのは考え、とも言えます。実は、思いという言葉は口語訳とか、新改訳とか、新共同訳とか、いろいろな訳によって、思いという言葉は、心とも訳されています。そして、考え、計画、それも思い。両方あるのです。心ということが、思いと訳されている所もあります。私たちの内には、いっぱい思いがあって、今、皆さんがどういう思いでいるか、それは、一分前の思いとは違うかもしれません。思いというのは、瞬間、瞬間、変わります。人間は一日のうちで、どれくらいの思いを巡らせていると思いますか?ある研究者によると1万回、でもまたある別の研究者によると3万回とか言っています。ということは、1秒か2秒かに一回、それは無意識も含めて。私たちはいろんな計画があって、自分なりの願いもあるし、いろんな感情が次々と出てくるし、そして瞬間、瞬間、常に何かを選択して生きています。1万回考えるということは、何秒に一回、私たちは物事を考え、そして願い、選択しているか。そして大きく二つに分けることができます。
ローマ人への手紙8章5~6節「なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。」思いは1万回考えるくらいあるけれど、思いは大きく分けて、肉か、霊かです。私たちはキリストの思いを持っていると書いてある所があります。「キリストの思いを持っている。キリストの思いを抱いている。」キリスト様の計画、キリスト様の目的、キリスト様の願い、キリスト様の感情。「えっ!?神様に感情があるのですか?」あります。私たちの肉から出る感情ではなくて、神様は無感情で無感覚ですか?いえ、イエス様は涙を流されました。憤られました。喜ばれました。悲しまれました。それらを、私たちは、キリストの思いを持っている。神の思いを抱いている。抱くということは、どこにですか?どこにキリスト様の思いを抱くのですか?やっと結論が出ました。心に、です。神の思いは、霊、キリスト様の思いをあなたの内に抱いています。その内なる人は、霊の人です。ここでの心というのは、霊という器を表した言葉です。神の思いを私たちの霊は持っている、というよりも、私たちの心に抱いていると言ったほうが、私たちはわかりやすいです。でもここでは、同じ意味です。私たちの思いには、いっぱいあると言いました。その思いには、神の思いと、肉の思いと両方あります。神の思いは、私たちの心に抱くものです。それを霊と言います。たくさんの思いが入っている、その場所が心です。
エペソ人への手紙3章17節「また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、」キリスト様があなたがたの心のうちに住んでくださっています。その場所が、霊的な場所です。私たちの感情ではない。さあ、テーマに戻ります。今日のテーマは、心と思いはどう違うかというテーマではなくて、「心を広げる」です。最初に皆さんがこのタイトルを見たときに、私たちの感情や感覚でこれを捉えると、「心を広げるのか、でもちょっと今、広がりそうもない気分です。」と、思ったかもしれません。でも心を広げるときに、私たちは感情を広げるのではなくて、神の思いを抱いているその器を広げるのです。これならちょっと、できそうではないですか?私たちの感情は関係ないのですから。器を広げるのです。霊としての、その心を広げます。 パウロはどう言っているか?パウロは、父のように、そして時には母のように、生まれたばかりの霊的幼子に対してさまざまな牧会をしていました。使徒的な働きとして、教会の土台を強くするために、細かいことやいろいろなことを指導していました。その中でこのように言っています。コリント人への第二の手紙6章11節~ 13節「コリントの人々よ。あなたがたに向かってわたしたちの口は開かれており、わたしたちの心は広くなっている。あなたがたは、わたしたちに心をせばめられていたのではなく、自分で心をせばめていたのだ。わたしは子供たちに対するように言うが、どうかあなたがたの方でも心を広くして、わたしに応じてほしい。」コリントの兄弟姉妹、クライスト・チャーチの兄弟姉妹、あなたがたに向かって、使徒たち、指導者たちの口は開かれています。何も隠していません。オープンです。私たちの心は広くなっています。兄弟姉妹たちは、その上から流れてくることによって、その器を通して心をせばめられていたのではなくて、そのように感じたかもしれないけれども、自分で、これは全員に言えることです。私が心をせばめていたのです。心というのは、せばまったり、広がったりするということがわかります。子供たちに対するように言うが、「こちらは、心を開いています。あなたのほうでも心を開いてください、応じてください。」そのようにして、キリストの身体である教会が強くなっていくのです。今、広がったり、せばまったりすると言いましたけれど、何かを広げるためにはどうしたらいいか?一つの見方で言うならば、「ちょっとだけ心を広げましょう!」と言うときに、あなたが固いままだったら、カチカチのバター、カチカチの蜂蜜だったら、広げられない。柔軟性があったら広げることができます。
詩篇119篇32節「あなたがわたしの心を広くされるとき、わたしはあなたの戒めの道を走ります。」神様、あなたが私の心を広げられるとき、広くされるとき、私はあなたの真理の道を、あなたの掟の道を、私はそこを走ります。走ることができます。皆さん、自分で頑張って思いを広げるのではなくて、神様が心を広くしてくださいます。ここに信仰を持ってください。この広くするというこの言葉の中に含まれている意味は、輝く、晴れやかな状態。春はいろいろな入学、卒業、いろいろあります。皆、晴れやかな顔をしていると信じます。こういう状況であっても。晴れやかなさま、輝いているさま。それがこの、広くするという言葉の中に含まれている意味なのです。広げるということは、神の御心だからです。昔からよく歌っていた賛美にあります。イザヤ書54章の御言葉「あなたの天幕の場所を今、ひろげ」天幕を広げる。今でも、イスラエルのパレスチナの遊牧民の人は、テントを張っているのですが、そのテントを家族が増えてテントが狭くなったら、そのテント、天幕をつなぎ合わせて広げるのだそうです。だからあなたの天幕、住まいを広げるということは私たちの霊、あなたの一番深い所、その心を広げる。これは神様の祝福です。神様はあなたを大きくしたい。神様は、アブラハムに言われました、「わたしはあなたの名を大きくしよう。」「多くの国民の父としよう。」この数が増え広がるという意味も含めての広がり。私たちの内側が広がる。つなぎ合わされる。誰かとのつながりができる。隣の人との関係が、よりつながって、強くなる。「綱を長くし、鉄の杭を強くせよ、あなたは右と左に増えひろがり。」という賛美です。これは神様の祝福なのです。皆さんが狭いままで、固いままであったら、その受けるべき祝福をあなたは受けることができない。めちゃめちゃ大損ですよ。広げるべき意味がわかります。数は力です。あなた自身が、数においても、力においても、エルサレムの鉄壁の城壁のようになるのです。
今日のまとめを言います。これだけは覚えてください。これだけ、心に入れてください。この地上に神様の計画はあります。この地上での神様の計画を私たちが行っていくために、この共同体は正しく機能しなければなりません。そのために神様は、上から神様が承認した建設構造というものを、使徒を通して降ろしてくださいました。それはあなたへの資源、恵みです。私たちの心が広がっているならば、私たちは上から流れてくることに対して、正確に、そこで私は機能していこうと、信仰に立つことができます。方針案を見て、感覚で捉えると、「何でこれ?どうしてそこを変えるの?何で私、これ?えっ!あれもう、ないの?」あなたの霊と、神の思いが入っている場所を皆さんがちょっとだけ、ちょっと広げたら、それは成熟ですから、神様の祝福がそこに流れます。その信仰を見て、神様は報いてくださいます。
ペテロの第一の手紙4章7節~10節「万物の終りが近づいている。だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである。不平を言わずに、互にもてなし合いなさい。あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。」終りが近づいています。だから心を確かにし、それは感情や、いろいろな思いはもちろんあるでしょうが、あなたの霊、いろいろな思いがあるその場所、その器、そこはあなたの核です。心を確かにしなさい。心を調整しましょう。そして何よりもまず、互いの愛を熱く保ちなさい。互いにもてなし合いなさい。互いに受け入れ合いましょう。ゆるし合いましょう。皆さん言ってください、「互いの愛を熱く保ちます」と。その告白は一番神様が泣いて喜ばれる告白です。父は嬉しい。子供が、我が子が、誰かと愛し合っている姿は。なぜなら、それは最も成熟だからです。成熟したさまです。皆さん、少し心を広げるということを受け取ってくださいましたか?少しでいいです。
そのあなたの一歩は、ものすごく尊いものです。自分の感情とか、感覚に捉われていたら、その一歩は踏み出せない。むしろ一歩引いてしまう。そしてどんどんせばまる。どんどん固くなる。もう冷蔵庫のバターの話じゃない。冷凍庫のバターです。皆さん、神様からものすごい資源と最高のギフト、恵みを「取りにおいでー!」と言われたら、小さい器を持って行きますか?「もういくらでもあげるから、最高のものを、あなたが成長するそのやり方、全部、人生の祝福、強さ、愛、喜び、平安、もういくらでもあげるから取りにおいでー!」と言われたら、「こんなんじゃ足りない。もうバケツ、バケツ!」もう、いくらでも下さるのだったら、私たちは広げるでしょう、入れ物を。だから、ちょっと広げましょう。ものすごく自分の感情的に頑張る必要はありません。もうぜんぜん頑張る必要はありません。だけど、信仰に立ったら良いことです。信仰を持ちましょう!信仰によって、インフォメーションを聞いてください。信仰によって方針案を聞いてください。必ずあなたは強くされます。柔らかく、柔軟になります。そして互いのつながりを強くして、鉄壁の天幕で私たちは進みましょう!
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