2021.2.21 久松 求 牧師「まだ見ぬ先へと」

 YouTubeを見てくださっている兄弟姉妹、倉敷の兄弟姉妹、おはようございます。今日はだいぶ暖かいですね。最高気温が20℃くらいまで上がると聞きました。服装も難しいです、上がったり下がったりで、私たちの人生のようです。本当にさまざまなことがありますけども、私たちが今ここにあるのは、主の恵みによってです。あなたが何かしたからとて、私たちは1分1秒長く生き延びることはできないと聖書は言っています。今あるのは本当に、主の恵みです。私たちは今を生きています。明日を生きてはいません。そして昨日にも生きていません。私たちが生きているのは、今日という今だけです。もし明日のことが私たちに分かっているのならば、私たちはどれ程生きやすくなるでしょうか。明日はこのことが起きるから、このために、この準備をしておこう。いいえ、「明日のことを思いわずらうな」と、イエス様はおっしゃいました。私たちは、明日のことは分かりません。でも皆さん過去のことは知っています。でも私は過去のこともすぐ忘れてしまうのです。私たちが生きているのは、今です。でもほとんどの人の人生は、過去によって形成されています。

 ヤコブ書1章2節~6節「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。」あなたがたの過去にあったいろんな出来事、又、今現在起きていることも含めて、そういうふうな試練があった場合は、それをむしろ非常に喜ばしいこととしなさいと言っています。3節「あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。」試練というのは、テストです。あなたにその実力があるのか、その問題が来た時に、それを適応できるのか、そのためにテストがあります。4節「だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。」試されることによって、忍耐が生まれることを私たちは聞いている。聞いてはいるけれども、実際それを本当に、非常に喜ばしいことと思うことができるでしょうか?試練に会った時、悲しみが、苦しみが、あなたの家庭の中で、友達の関係の中で問題が起きた時、あなたは喜ぶことができますか?普通に考えたらできないです。この4節にあるように、問題が起こった時、そこから逃げ出して、もがいてはなりません。「忍耐力を十分に身につければ、完全に成長した、どんな事もびくともしない強い人になれます。」と、言っています。どうやったら忍耐力がつくのですか?私はいつも問題が来る時に、右往左往してしまう。5節「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」ここで、「知恵に不足している者」と、書いています。「ああ、私は知恵があります。」「ああ、あの人のことだ。私はそんな事ありません。」と、おっしゃる方がもしおられるのでしたら、あなたは知恵がありません。言い換えるなら、私たち皆、知恵はありません。でも皆よく言うのです。「お前そんな事も知らないの!?」神の前に私たちは皆不十分です。私たちの知っていることは、ほんのわずかです。この5節の他の訳では、「神様に直接たずねなさい。」と、言っています。「すべての人に与える神に、願い求めなさい。」皆さん、神様に直接たずねることがありますか?あなたに何か問題があった時に、神様に直接たずねる人ですか?それとも自分で何とか解決しようとしますか? 一つしかないと私は思っています。何か問題があった時に、あなたはあなたの経験した知恵、いろいろなことを含めて、「ああしなければならない」と、する人ですか?それとも、「神様、今何が起きていますか?」神様に直接たずね求める人の二つしかいない。間はありません。あなたはどちらですか?「神に直接たずね求めなさい。」直接です。でもあなたはよく隣の人に相談します。「お母さん、」もちろんお母さんはあなたのお母さんですから、あなたよりも経験はあるでしょう。知恵もあるかもしれない。でもあなたを救ってくださったのはお母さんじゃない。あなたの人生を導くのはお母さんでもない、お父さんでもない。友達でもない。神様に直接たずねなさいと言っています。その思考、感覚、パターン、それを皆さん養ってほしい。

 “機転が利く”という言葉を、皆さんご存知ですか?辞書で調べると、その場の状況に応じて、素早く適切な判断ができる人のことです。先ほどの、問題が起きた時に神様にたずね求めるパターンに、機転を利かせていただきたい。あなたはいつも右往左往している。あなたの培ってきた頭で、どれだけ頑張っても無理です。私たちは神にたずね求めないといけないことに関しては、直接神様にたずねることができるのです。それがパートナーシップです。それが、神が初めに人を造られた時のアダムとの一致であり、パートナーシップであり、一体性であり、神が直接たずねて、アダムが答えていた。そのようなことが、神の園の中では行われていたのです。でも私たちは分断されて、今、これは人の世です。本当にはかなく、空しく、消え去っていく人の世です。そこには神も何もない世界です。歪んでいます。男性も女性も区別できないような時代に、今突入しています。加速しています。皆さん大丈夫ですか?私たちの思考パターンが、どうにかして自分で何とかやりたい。もしくは、無気力、何も考えない。もう問題が起きても、何もないかのようにしている。それも良いことにはなりません。知恵の欠けている人とは、皆さん、私であり、あなたですか?「神に、願い求めるがよい。そうすれば与えられるであろう。」と、御言葉に書いています。

 ヤコブの手紙4章2節「あなたがたは、求めないから得られないのだ」と、ヤコブは、はっきりと言っています。「たとえもし求めたとしても、あなたが与えられないのは、その動機が間違っています。」と、言っています。動機が間違っているなら、神に願い求めても、与えられるはずもありません。そしてヤコブは厳しくその後に、「世と友になるな!」と、言っています。若者たち、よく聞いてください。あなたがこの素晴らしい神様の御言葉よりも、世から出て来る全てのものを愛するならば、それは神の敵となります。あなたは神の敵となろうとしているのですか?もしまかり間違えば、気づいた時には、私たちは御言葉を聞いている。教会には来ている。でも私たちがもし世と深く結び付いているなら、それは神の敵となると、はっきりと言っています。気をつけてください。そしてその後に、「神に近づきなさい。」ヤコブは、「神に近づいてもらいなさい」とは言っていません。あなたに、「神に近づきなさい。」と、言っています。サムエルのように、ダビデのように、アブラハムのように、私たちは神に近づかなければなりません。でも時々、神様から遠ざかっているなぁ、という感覚に陥る人、いるでしょう。私も経験しています。神様がもう私の人生の中に介入しておられない。私はもう遠く、神の地から離れているような感覚に陥る時も、何度もありました。でも神はその所に全ておられました。神は私が直接たずね求める時に、神様はその場にいつもいてくださいました。皆さんもそうですか?「神様、遠いから近づきたいけど。」いいえ、神様はいつも私たちと共におられます。あなたのそばに、あなたの前におられます。ですから皆さん、「神に近づきなさい。」そうすれば神は近づいてくださいます。

 ヤコブの手紙1章6節「ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。」海の波に似ている。もし私がサーフィンをする人だとするならば、多分いつも海の波の状況を確認すると思います。でないと、すごい大波の時に、その海に行って泳ぐ人はいないです。また、何も波も立たない日に行ったところで、何の意味もないのです。「疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。」疑う人というのは、海の波のようだと言っています。水面のようだ。それは心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人だ。」と、他の聖書では言っています。疑う人は心が定まっていません。あなたの言い方には安定がありません。それは海の波のようです。嵐が来れば、いつも荒れ狂う波のようです。外的影響に、いつも動じています。成熟のパターンの中にありました。思い出してください。外的影響に動じない人。アプローチ・パターンの原則です。アプローチというのは、着陸態勢に入った飛行機が取る態勢です。もうその着陸態勢に入ったら、その飛行機は必ず目的地に向かってアプローチしていきます。そこで少しの突風が来ようと、何が起ころうと、必ず滑走路に向けて行きます。でも、もし安定に欠く人があれば、必ずその目的が分かっているにもかかわらず、行こうとしているけど、何かあったら、「うわー、危ない!」ちょっとのことでビクビクして、心が動いて。動じない人もいますが、私たちの心はいつも動いています。アプローチ・パターンの原則、この航空機が目的地へと近づき、着陸するためのパターンです。それは私たちの信仰姿勢に似ているかもしれません。

 この世の歌はなんの解決にもなりませんが、聖歌472番、「平安」というタイトルで、これは久松長老が、「礼拝の賛美の中に、聖歌も取り入れていきましょう。」と、言われた意味は、聖歌は信仰の告白だからです。私たちの人生そのものを表しています。凝縮されています。若者たちには響かない言葉もあるかもしれない。でも不思議と40歳になると、入ってきます。詩篇でダビデが歌っています。「その望むところ、港に導きたもう主よ。人生は海の嵐のようだ。もまれきしこの身、人生のいろいろな問題によって、もまれて、苦しんで、本当に耐えがたいいろんなことがある。この人生のこの身も、不思議なる神の手によって、命拾いしました。」アメイジング・グレースもそうです。死にそうな状況でした。でも神の手により、私たちは今ここに立っているのです。あなたが何かをしたからとて、あなたが救いを得ることは決してできませんでした。「不思議なる神の手によって、命拾いしています。いと静けき港に、私たちは故郷に帰っていくかのように、我は今安らぎを得ます。港に着いて、救い主イエス様の御手にある身は、どんな事があっても案じることはありません。」本当に、聖歌は素晴らしいと思います。

 マタイによる福音書8章23節~27節「それから、イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。すると突然、海上に激しい暴風が起って、舟は波にのまれそうになった。ところが、イエスは眠っておられた。」弟子たちとイエス様は、ガリラヤ湖を渡られる為に、舟に乗られました。そして舟を漕ぎ出し進み出た時に、暴風が吹き、海上は荒れ狂う波が立ち、舟は今にも沈みそうになった。でもイエス様は、そこで寝ておられた。面白い記事ですこれは。イエス様は眠っておられた。でもその前に、18節「イエスは、群衆が自分のまわりに群がっているのを見て、向こう岸に行くようにと弟子たちにお命じになった。」もう群衆が押し寄せてくるので、イエス様は弟子たちに向かって、「向こう岸に行くから、舟を準備しておきなさい。向こう岸へ渡りなさい。」と、弟子たちにその前に言っていたのです。弟子たちは、「分かりました!」と、何も分からないまま舟を準備して、イエス様を待っていたのです。そしてイエス様が舟に乗り込まれて出発すると、すぐにすごい嵐が来ました。この24節に、激しい暴風と書かれています。これは地震ぐらい強い、舟も揺れるくらい、ハリケーンのような暴風のことです。もう舟は波にのまれそうになっている。でもイエス様は眠っておられました。面白い記事です。そんな中で寝ておれる方いますか?彼らは逃げることもできません。舟の上ですから。ただ嵐の過ぎ去るのを待つしかない。彼らはもう恐れています。もう人生の命の危機にさらされています。もう人間の力では不可能なことが起きています。もう人間の力では抵抗することはできません。その出来事の前に怯えるしかないのです。でもイエス様は眠っておられます。弟子たちは心の中で思ったのです。18節「向こう岸に行きなさい。」と、イエス様のおっしゃった通りにしたのですから。出た途端に、そんな事が起きた。不平が出たでしょう。不満が出たでしょう。疑いも出たでしょう。しかしどうでしょう、先程私たちは、「人生の海の嵐」を歌いましたけれど、私たちの日常でも起きていることです。実際に突風が起きているのではない。でもあなたの人生の中に、嵐に似たようなことが起きているでしょう。起きています必ず。私にも少なからず起きています。起きました。起きていない人はこの中に誰もいないはずです。神様の言葉は、私たちに安全や安心、この世の社会で豊かさを与えるためだけのものではありません。この世の価値観、社会の常識とは真逆を求めておられます。聖書はそうです。イエスと共に生きるということは、必ずぶつかります。必ず衝突します。友達と考えが何で違うかなあ?私も小学生なりに聖書の言葉を聞いてきたから、何でこんな考え方かなあ?何でそれを悪いと思わないのかなあ?必ず衝突があります。必ずこの地上の価値と常識に、必ずぶつかります。この思想とぶつかるのです。

 ヨハネの第一の手紙2章15節、16節「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。」厳しく言っています。「それらは世から出たのであり、父からのものではない。」と、はっきり言っています。「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。」あなたが見ているもの全ては、父のものではありません。これら全てのものは、この地上のものです。それらは全部過ぎ去っていきます。消え去ります。若者たち、あなたが今見ているもの、あなたの携帯の画面に映っている全ての輝かしい、楽しいと思っているもの、それらは全部世にあるものです。それを愛してはなりません。厳しいです。でも皆、愛しています。興味を持っています。大人たち、子供たちには言っているけど、皆さんもそうでしょう。目の欲、肉の欲、持ち物の誇り、これは父から出たものではないのです。パウロ先生は、はっきり言っています。「この世と調子を合わせて生きてはなりません。」私たちが合わせなければならないのは、神の御心に生きているかどうかです。だから友達と衝突して当たり前です。会社の人と考えが違って当然です。まだ信じていない家族に、あなたが攻撃されるのも当然です。でもあなたたちに、神様ははっきりおっしゃっています。「この世と調子を合わせて生きていてはいけません。」ですから弟子たちも、同じように嵐の中、この舟の中で旅をしていたのです。

 神様は、私たちが苦しむことを望んでおられるでしょうか?皆さん忘れないでください、御子イエス様は、私のために命をかけて愛してくださいました。あなたをイエス様は、今も愛してくださっています。神は愛そのものです。神様は愛です。もし愛を知りたいならば、私たちは神に近づかなければなりません。あなたが直接たずねる回路がないのだったら、今日あなたはチャレンジしてみてください。目を上げて、「神様!」神に近づきなさい。そうすれば神は近づいてくださり、その愛をあなたは知ることができます。私たちは絶えず、さまざまな問題のことのゆえに、恐れ、不安。神様はその事について悲しんでおられるのです。神様には必ず目的があります。嵐の向こうに神の目的が待っています。彼らは向こう岸に渡って、神の福音を宣べ伝えるための目的が待っていました。彼らはそこを通らなければなりませんでした。神様は目的を持って彼らに、「向こう岸に行きなさい。」と、おっしゃいました。彼らは必ずそこを通らなければなりませんでした。その不安、恐れ、疑い、そのいろんな感情的なものを彼らは通り、神の御業、神の奇跡、神の信仰、それを彼らは掴まなければなりませんでした。神様にはあなたを招きたい場所があります。ですからテストされます。あなたに越えてほしい、あなたのその問題に目を背けないでほしい。それをあなたが本当にクリアする時に、神の目的、完成がその場所にあることを皆さん知ってください。その場所に到達しなければならないために、あなたは多少苦しむかもしれません。あなたは多少、涙を流すかもしれません。でも完成するための目的があるのです。そのためにイエス様は、「向こう岸へ行きなさい。」と、言います。あなたの人生の中に、「向こう岸へ行きなさい。」と、言います。舟を漕ぎ出しなさい。意味が分かりますか?あなたには分からないのです。私にも分からないのです。そのまだ見ぬ先のことは誰も知りません。でも神の目的がその場所にあるのです。それは私たちの神の目的の完了のようです。成熟の場所を目指しているかのようです。まだ見えていません。でも私たちは歩き続けています。登り続けています。下山することは許されていません。後ろを振り返ることは許されていません。後ろを振り返ったとて、あなたの過去によって、私たちを未来に導くための資源はそこにはもうありません。天から新しい光がやって来ているにもかかわらず、私たちはまた、過去に向かって下りていって、どうやって進めるのですか?神様は知っておられます、あなたの全ての問題を。アブラハムの信仰もそうでした。彼が義と認められたのは、信じたからです。あなたには信仰がありますか?イエス様が、「向こう岸に行きなさい。」と、言った時に、「はい、私も行きます!」行きますか?皆さん。怖いかもしれない。嵐が待っているかもしれない。今日、明日、あさって、嵐が訪れるかもしれない。いや、もう起こっているかもしれない。あなたは大丈夫ですか?主が共におられます。それが私たちの告白でなければいけません。神が共におられます。もし弟子たちがイエス様の本質を知っているならば、彼らは恐れなかったでしょう。弟子たちはここで、「主よ、助けてください、何で寝ているのですか?わたしたちは死にそうです!」イエス様は彼らを叱られました。「なぜ怖がっているのか、信仰の薄い者たちよ。」イエス様はその後、波をおしかりになりました。「静まりなさい!」と、言った。彼は全知全能なる神様ですから。山に、「動け!」と言えば、動くのです。神様の御言葉によって、この世界の全ては造られたのですから。ですから私たちは、本当に神に近づかなければなりません。神は近づいてくる者を拒むことはしません。この右往左往していた弟子たちが、聖霊を受けた後、どうなるか何度も聞きました。イエス様がいなくても、彼らの言葉には力がありました。聖霊様が彼らの内におられることによって、彼らはまるでイエス様のような働きをしていったのです。それが使徒行伝の時代なのです。そのためには彼らも、このプロセスを通らなければなりませんでした。

 私たちはこの40周年を経て、バトンタッチされ、次の世代、ここにいる皆さん、また、YouTubeを見ておられる兄弟姉妹、若者たち、私たちはこれを本当に、次の村々、町々へと始まったその思いから、今、成熟へと、完成へと、一つへと目指していく中で、神様がこの先、何をされるか分かりません。でも私たちは、どんなことがあったとしても、どんな事が自分の人生に起こったとしても、神様から離れることは決してありません。「主が成される!」と、言った、私たちの生みの親であられる長老たちのその信仰を、私たちは受け継いで、「主が成される!」ですから、私たちは信仰を持つだけです。疑ってはなりません。たじろいではなりません。恐れてはなりません。クライスト号に乗っているのです。色んな人がいます。いろんな所に乗ってください。私は先頭の所に乗りたい、と思ったら乗ってください。私は帆の上の所に乗りたい、と思ったら乗ってください。「私は海に落ちそうなのですけど、乗っていますか?」それでも乗っていたら大丈夫です。皆さん乗っています。岡山、愛媛、京都、大阪、奈良、倉敷、神様の御国が広がっていくために、私たちは前進していきましょう!このクライストチャーチ号は、今日も主と共に舟を漕ぎ出して、先へと進まなければなりません。もう今は屋根がついています。大丈夫です。グレースフルとヘブロンカンパニーが覆いとなって、皆さんを豊かに神様の恵みの中で守ってくださいます。ですから皆さんが神様に直接たずね求めること、あなたが近づくこと、あなたの責任です。あなたの責任は、あなたが果たしてください。神はあなたの信仰を喜ばれています。私たちは、まだ見ぬ先へと漕ぎ出していきましょう!信仰を持って、アブラハムのように、ノアのように、ヨブのように、ハバククのように、信仰がなければ、神に喜ばれることなど決してできないのですから。神を喜ばす事ができるのは、信仰による義です。御言葉が来る時、それを私たちが、「はい、主よ、行います!」それだけです。進んで参りましょう!

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2021.3.14 山田 恵 副牧師 「心を広げる」

会堂に集われている兄弟姉妹、またYouTubeをご覧になって礼拝を捧げている兄弟姉妹、おはようございます。この主日礼拝で、皆さん声を出しておられるでしょうか?マスクをしているので叫んでも、なかなか声が明確ではないかもしれませんが、私たちの元々の声の大きさにかかわらず、あなたが今出せる限りの声は出すべきです。「叫べ、力の限り主をほめたたえよ!」男性の声が弱いと思います。女性はマスクに自分自身を逃がし

2021.1.3 木村 由智 主任牧師 「行いの伴う伝道」 

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