top of page

2021.10.3 久松 政一使徒的長老「帯」

 おはようございます。今日のメッセージテーマ、「帯」。この同じギリシャ語の言葉に、もう一つ同じ意味合いのものがあります。エペソ4章3節には、「きずな」という言葉が出てきます。よく日本では、「きずな」という言葉が使われている所もあります。この、「きずな」という言葉と、「帯」という意味は、同じ言語です。御言葉をまず見てみましょう。

 エペソ人への手紙4章3節「平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。」「平和のきずな」と書いてあります。「きずな」というのは、一般的には、人と人との断つことのできないつながり。また、離れがたい結びつき。そういう意味が、「きずな」という意味で使われています。コロサイ人への手紙の3章12節~14節に、先ほど言った最初の「帯」という意味が書かれていますので、ここを皆さんと一緒に読んでみたいと思います。「だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」皆さんは神様に選ばれた、聖なる人なのですから、あわれみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい、と書いています。これは着物にたとえられています。帯の最大の役目は、いろんな下着を着ます。何枚も重ねてきちっとした上で、もし帯がなければどうなりますか?全部、下着もダラ~ンとなってしまいます。ですからあわれみの下着、慈愛という下着、謙遜という下着、柔和という下着、寛容という下着を全部身に着けた上で、これらいっさいのものの上に愛を加える。すなわち結ばれなければならない帯、これで完全に締まるのです。言い換えれば、この柔和とか、寛容とか謙遜は、全部愛から出ているのです。愛に連なっているのです。これらすべての下着の服は、帯によってキュッと締められることによって、正装ができるのです。一番大切なのは、愛であると聖書には書かれているのです。ですからこの帯の役目というのは、すなわち愛の役目というのは、いろんなものの上に、最後にこの帯を締める時に、それは完全なものになります。ということを、この御言葉で告げています。私たちは神様からいただいた愛によって生きることができます。その意味において、この愛というものが帯にたとえられているということは、非常に興味があります。

 コリント人への第一の手紙13章1節~3節から見ていきたいと思います。「(1節)たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。(2節)たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。(3節)たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。」こう書かれています。1節の所は、「たといわたしが、」と書いています。また2節の所にも、「たといまた、」と、書いています。そしてまた3節も、「たといまた、」という言葉が書かれています。この意味は、この文章全体を理解していただいたらわかりますけれども、すべてのものをあなたが備えていても、帯がないなら、あなたは価値がない。それが結論です。でも我々人間はこの地上で生まれていますから、ありとあらゆるものを重視して、この帯の重要性をあまり感じない。ですからすべてのあわれみや、謙遜や、柔和な心や、そういうものを束ねるところの愛がなかったら、なんにもなりません、と言っているのです。しかも、この御言葉においては、本当にものすごいことを書いています。最高の才能、また知恵、知識、これは世の中の人がものすごく求めるものであり、クリスチャンも時々そういうものを下地に価値を見出す人がいます。だから比較社会というものがあるのです。あの人は優れた能力を持っている。あの人は素晴らしい知識がある。でも皆さん、たとえば私が本当に聖書の知識に通じていて、預言もします、また人々にカウンセリングする力もあります。いろんなものを持っていても、実際の内面が、本当に愛が中心でなかったら、私はまったくの無意味な者です。そう神様は見られます。世の中の人はメッセージがうまい。コングレスの教えを素晴らしく語る。でもその人の内面が本当に愛から出ていなかったら、ただの知性だけの働きだったら、皆、傷ついてしまいます。皆さんもそういう見る目がおありですか?あの人はすごく優れているけれども、家ではあんな、めちゃくちゃなことをしている。あんな、子供にひどいことを言っている。奥さんに対して、聞くに堪えないような言葉を言っている。そんな人はこの世の中にはいっぱいいます。すなわち社会と家とでは違う顔がある。多かれ少なかれ皆そうです。でもイエス様は、いつ、いかなる時でも神様です。神の言葉を語られました。人にこびたりしません。人を上げたりしません。そのとおりに語られました。ですから誤解を多くの人からお受けになられました。なぜなら世の中は、そういう人が大嫌いだからです。裏と表があって、うまいことこなすことができるような者が、この世では尊ばれるのです。帯がないのです。クリスチャンの中にも、たくさん帯がずれている人がいます。兄弟姉妹、いかがですか?あなたの言葉によって、人の徳を高めていますか?人のために何かすることが、あなたにとって、何をすることよりも嬉しいですか?2節の、「たといまた、」の中には、能力や知識が入っています。博学という。パウロは博学でした。でもそういうものは、へゲモンだと言いました。そしてこのコリント人への手紙を書いたのはパウロでした。ですからどんなに知識や、また、能力があっても、愛がないなら何もないのと同じだ。むしろ、それが問題だ。それが2節の意味です。また3節のたとえは、貧しい人に全財産をあげても、自分の名前を売るために、そういうことをしている人もいるかもしれません。「火あぶりの刑になっても、もし愛がないなら何もないのと同じです。」と言っています。もう一節の、「たといわたしが、」という所の答えは、もう、「うるさい」とか、「騒音に過ぎない」とか、「聞きたくない」という内容です。御使いたちの言葉を語ったりしても、私はやかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じです。やかましい鐘を横でガンガン鳴らされたら、どうですか?あなたの耳は、「もううるさい!」と、思いませんか?それと同じなのです。あなたが持っている知識や、能力、霊的なことで、御使いたちの言葉を語る。また預言をする。そういうことです。「すごいなあ、あの人は!」と、思われる人でも、愛がないなら、その人の態度や、言葉や、表情や、雰囲気や、また、ありとあらゆる場所で、同じ顔でないのなら、その人はうるさい鐘です。それと同じなのだと言っています。何もないのと同じです。そういう人は中身に帯がないから、そういう能力や知識だけで生きている人の傍に行きたくない。どんなに素晴らしい知識と、博学と、今で言うと、英語ができるとか、そんなのどうでもいい話です。英語ができることと、その人の中身は違うのです。でも皆やられているでしょう。知識や能力や、この地上で生きていくことに。私はこの頃つくづく思います。愛するということを。人のために、自分自身よりも、相手のことを思う心、これが第一です。皆さん。愛は忍耐強いし、親切だし、ねたまないし、自慢しないし、自惚れないし、思いあがらないし、自分の利益になることを求めないし、失礼な態度や、自分のやり方を押し通さないし、いらいらしないし、腹も立てません。人に恨みを抱くこともしませんし、人から悪いことをされても気にしません。正しくないことはしません。正しいことは喜びます。これが、「帯」です。あなたはその霊があります。使っていますか?しっかり締めていますか?「帯」を。皆さん、キリストの愛があなたの内にあるでしょう。なぜ肉の方を使うのですか。キリストはあなたのために、この愛という帯をあなたに与えました。あなたが、信仰があるなら実践できます。人が喜んでくれることがあなたの喜びですか?自分が損しても、相手が幸せになってくれるなら楽しいですか?けれども相手がちょっとでも自分より賢かったり、勉強ができたり、社会で部長だったり、社長だったりしたら、羨ましいですか?愛は羨ましいと思いません。「ああ、素晴らしいねえ、人が幸せになって、素晴らしい立場になることは喜びです。」と言える人は、愛があります。イエス様の愛はその愛です。

 コリント人への手紙13章13節「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」ですから、もう極端に言えば、永遠に残るのは愛だけです。もちろん信仰も残りますし、希望もあります。この三つは永遠に存在します。でも、その他のものは、どんなに素晴らしい能力を持っていたとしても、80歳、90歳がきたら認知症になるし、永遠にその人は優れた人ではないのです。いつか年老いてくるのです。私たちは廃れていく者です。この肉体も、知識も、能力も。残るのは、あなたの内にある神の愛だけです。あなたは愛を大切にしていますか?自分の義をたてていませんか?たとえ自分が正しかったとしても、相手の側に立って、相手を褒め称えてあげることができますか?ゆるしてあげますか?相手の徳を高めてあげますか?相手の方が知識的にも能力的にも弱い人であっても、その人を高めてあげますか?人の徳を高めることができますか?いつも自分が出て、人と比べて、そして相手をやり込めるような、そんな愚か者がキリスト者の中にいてはいけないでしょう。私たちの教会は、主の教会です。今年の御言葉は、言葉や口先だけで、うまく言い合うことは誰でもできるのです。すなわち内面が、愛がなくても、うまく繕うことのできる人はいくらでもいます。皆さん、そんな口先だけで愛する愛は、愛ではないです。私たちは本当の愛を表わすことのできる者です。私は今日、あなたに本当に語りたい。あなたの持っている知識や、能力や、知恵や、そういうもので人と付き合うことを止めてほしい。あなたの一番の大切なものは、「帯」です。「愛は、すべてのものを結ぶ帯である。」帯がだらけていませんか?本当にだらしないです、それは。着物を着る人は、それをよく理解できます。ありとあらゆる着物を着ても、最後の帯がきちっと締まっていなかったら、ダラ~ンとなります。それで歩いたら、本当にもう恥ずかしいです。そういう姿のあなたを、イエス様がもし見ておられるとするならば、あなたは本当に恥ずかしいです。愛のたとえ話を今からして、終わりたいと思います。よく皆さんもご存知のお話しを今からします。

 一つ目は、これです。これはイギリスの軍隊が、エジプトの国に駐留していた時のことです。実際にこれはあったお話です。イギリス軍の曹長。監視官のトップです。大将から下の内、兵卒までの間で言うと、そのランクは真ん中からちょっと下ぐらいの人を、曹長と言います。その曹長は、多くの部下に良い影響を与え、また、愛されていました。それを聞いた、その軍隊の中にいるチャプレン、すなわち従軍牧師、今もそうですけれども、クリスチャン国と言われる国の軍隊は、必ず牧師がついて行きます。そしていろんな問題や悩みを兵士たちから聞き、教えて、励ましたり、そういう働きをするのが、従軍牧師です。ですから、この曹長さんが、素晴らしい愛の人だということを聞いた従軍牧師は、「曹長さん、あなたが多くの軍人に愛され、慕われているのはなぜですか?」と、尋ねました。なぜならつい最近まで、その曹長の言動や振る舞いは、目にあまるものがあったからです。ということは、ある時からこの人は変わったみたいですね。それまでは、非常にひどい、そういうリーダーだったみたいです。すると曹長は、その従軍牧師にこのように答えました。「牧師先生、私たちの兵士の中に、部隊でただ一人のキリストを信じている者がおりました。私自身も彼のことを良く思っておりませんでした。ですから彼はいつも仲間からののしられ、はずかしめを受けて、からかわれておりました。多分このように言われていたのでしょう。『お前はいつも祈っているが神様が聞いてくれるのか?お前はバカか?そんなことが軍隊の中で何の役に立つのか?目障りだ!』など。私もそう思っていました。」と、この曹長は言いました。そんな折、このクリスチャンであった彼は、いつものように夜、祈ろうと、ベッドの脇にひざまずきました。その瞬間、軍靴が彼の頭をめがけて、あらゆる角度から一斉に飛んできたのです。仲間たちが、彼が祈る時に、皆で示し合わせたように。軍靴ですから、ものすごく硬いです。それが彼の頭をめがけて飛んできたのですから、どれだけ怪我をし、傷ついたことでしょうか。「その時に私はおりませんでしたが、ある晩のことです、彼が私の隣に来て、ひざまずいて祈っていた時、私は軍靴を脱いで、思いっきり彼の頭を殴ったのです。『この偽善者め、人前でいい格好しやがって!』と、心の中は煮えたぎっておりました。クリスチャンである彼は黙っていました。朝になり、私のベッドの傍に、昨日殴りつけた私の軍靴がきれいに磨かれ、きちんと揃えてあったのです。それが、私が残酷に取り扱った相手、彼からの答えです。私は彼の行いに、深い感動を覚えました。ひどい仕打ちの代わりに、愛と親切をもって表わしてくれました。私の心は打ちのめされました。私は彼の行為に対抗できませんでした。私はその場で、イエス・キリスト様を私の神として受け入れ、信じたのです。」こういう実際のお話があります。彼は軍の一兵卒として、そんなに能力も、力も、知識もなかったかもしれません。でも彼は、愛という帯をしっかり結んでいました。愛する兄弟姉妹、この世はすぐ終わりが来ます。あっという間です。時は流れます。皆さん、時の中に生きている私たちは、キリスト様という永遠を、あなたの内に抱いています。それは愛の帯です。これを使いましょう。人に良いことをして、殴られたら本望です。このクリスチャンは、どんなにひどい目に遭っても、愛の帯を外すことはしませんでした。

 もう一つ、ドイツが第二次世界大戦で、敗戦の色が濃い時の出来事です。第二次世界大戦で、ドイツと日本は組みました。それで日本は負けました。ヒットラーの国、そのドイツがもう負けが近いなあと思うようなその時です。ですから非常に、食料もなく、国民も非常に困難を覚えている、そういう時期です。その時、たくさんのジャガイモを積んだ貨物列車が通るところでした。一人の子供が食べ物を見つけ、そのジャガイモの載っている貨物列車を見つけたのです。食べ物がないから、その子供は、この貨物列車に近づいていきました。貨物列車はゆっくりと走っていました。その子供も、なお列車に近づき、ついにその列車に飛び乗ろうとした次の瞬間、疾風のごとくに走り寄った影が、その子供を列車から引き離しました。その結果、子供の命は助かりました。しかし、その陰は車輪の中へと飲み込まれ、血がそのあたりに飛び散ったのです。その飛び込んだ影はその子供の父親でした。愛は、自分を犠牲にすることを喜びとします。私たちキリスト者は、それが私たちの喜びです。自分のこと、自分の義をたてること、自分を愛すること、これほど醜いことはありません。兄弟姉妹、私たちは神の国の民です。帯を締めています。

 最後に、何度もお話ししました。私たち久松家は子供たち3人が小学校の時に、北海道に家族5人で旅行をしたのです。8人乗りのボンゴで行きました。知り合いの先生が北海道におられたので、交わりも目的の一つでしたけれど、もう一つの目的は、一緒に塩狩峠という所まで行きました。これは、旭川市という所があります。本当に寒い所です。ここに三浦綾子さんという作家が住んでおられました。もう召されて、神の国におられます。三浦綾子さんがお書きになった塩狩峠という本を読んで、私も感銘を受けました。感動しました。実際にあった話ですから。ですから私は、家族全員でそこに行きたいと思って、一緒に行きました。まだ小学生の子供たちは、あまり関心がなかったと思います。その塩狩峠というのは、その旭川から網走の方へ上っていく列車があるのです。その途中に、塩狩峠という場所があるのです。その塩狩峠に、私たちは立ちました。もう本当に感動しました。なぜならそこで、明治22年でしたか、今はJR、その前は国鉄、その前の前身の鉄道の会社の時の明治の出来事です。永野信夫という青年のお話しです。彼はクリスチャンでした。そして婚約式を迎える時でした。その当時は結納という形でしたけど、今は婚約式です。ですから婚約するために彼はその列車に乗って、そして旭川に、彼女の待っている所へ行こうとしていたのです。もう本当にそれは麗しいことです。なぜならそのお嫁さんになろうとしている人は、クリスチャンでしたけれども、カリエスという病気にかかって、その当時は不治の病、治らない病気だったのです。ずっとお付き合いしている中で、永野青年は「あなたがもし治らないなら、僕は一生結婚しません。」と言っておられた青年だったのです。でも神様は奇跡的にこの女性を癒されたのです。それでこの結納という日、彼は喜び勇んでその列車に乗りました。一つの列車に、約百人ぐらい乗っていたそうです。本当に雪がいっぱい降っていた真冬、列車は2両。彼は鉄道員でした。彼女に会える喜びで、そして、彼女は癒されて、この結納の時を迎える喜びはどんな気持ちだったでしょう。まだ若い青年です。それなのに、大きな事故が起こって、列車の連結が外れてしまったのです。その外れた列車に永野青年は乗っていたのです。そして、まっすぐ行くはずだったのに、それを牽引する汽車から連結が外れてしまったのですから、ザーッと下降していったのです。それに気づいた青年は鉄道員でしたから、外に出て、そして手動ブレーキでもう一生懸命止めようとします。でも塩狩峠という所は、坂になっていっているのです。ですからブレーキが効かないのです。それを行いながら、自分は今までこの時のために彼女とお付き合いしてきた。そういう思いが彼の脳裏に浮かんだでしょう。もう一つの思いは、自分は鉄道員だ、この百人ぐらい乗っておられる方々の命を救わなければならないという、ものすごく真実な愛がありました。その狭間で彼は、手動ブレーキで止めようとしていたのでしょう。けれども彼はその道のりがわかっていました。そのまま行ったら、この百人が谷底に落ちていく。下まで行ったら終わってしまう。もう必死だったでしょう。その脳裏には、そのどちらかが浮かんできたでしょう。でも、最終的に彼が決断したことは、何メートルも積もっている雪の中に飛び込んで、雪が鮮血に染まった。そういう出来事が明治22年にあったのです。その結果、この百人の人たちの大部分が、後にイエス様を信じなさったという実際のお話しです。自分の幸せよりも、この地上での命よりも永遠の命を重視した彼の最後の決断は、その道に行ったのです。そして彼が亡くなった時、彼が着ていた服の奥に糸で結ばれて、手紙が入っていました。そこには彼の決意書が書かれていました。「もし、自分の命を捨てなければならない時がきたならば、私は喜んでその方向に行きます。イエス様を愛します。」遺言の遺書を、いつも彼は持っていたのです。そしてそのとおりに、彼の肉体の命は終わりました。けれどもそれによって、永遠の命にあずかることができた人が、百人中8~9割もいました。彼らは教会で洗礼を受けられたということであります。ヨハネの福音書12章24節「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、死んだなら、多くの実を結ぶようになる。」これがイエス様の十字架です。でもその十字架を信じた私たちも、一粒の麦です。私たちのこの肉の命はすぐに消えていきます。だんだん年がいきます。どんなに見繕っても。でも、永遠の命を持った人は幸いです。世の人はこれを愚かと言うでしょう。そんなことがあろうはずがないと。でも私たちは、このイエス様を信じているのです。帯を大切にするクリスチャンになってください。あなたの態度が、あなたの雰囲気が、あなたの口から出る言葉が人を祝福しますように。あなたが教会にいる時も、家にいる時も、社会で仕事をしている時も、同じ顔でいてください。あなたに能力があろうが、知識があろうが、そのような知識や能力にイエス様は目を留めておられません。あなたは素晴らしいと、イエス様はおっしゃいません。あなたがこの教会で、どんなに奉仕しても、あなたが預言しても、またどんなにあなたが力ある業をもってしても、人から素晴らしいと言われても、そんなものにイエスは目を留めていません。イエス様が留めておられる目は、「きずな」、「帯」、「愛」、成長しましょう。そしてその状態で、主・イエス様の来られるのをお迎えしましょう。神様の祝福が、皆さんにありますように。

閲覧数:11回

最新記事

すべて表示

2022.11.6木村由智牧師「神様が回復したい関係」

今日は、「神様が回復したい関係」というテーマで、聖書を見ていきたいと思います。「神様が回復したい関係」とは、どういうものなのか?私たちは正しいアイデンティティーを回復することが必要です。ある所から少し抜粋したものですけれども、ある精神分析学者が定義した言葉を、皆さんと少し分かち合いたいと思います。 「アイデンティティーとは、自己確立、あるいは、自分固有の生き方や価値観の獲得」というように定義し、こ

2022年10月2日久松求牧師「私たちの特権」

皆さん、グッドモーニング。主の御名をほめたたえます。皆さんのお手元に、月報がございます。この月報をいつも見て、神様の共同体の動きをいつも注視していただきたいと思います。これを置いたまま帰らないようにしてください。これを作るために、多くの人々の時間と犠牲が捧げられています。私たちはこれを見るとき、本当に感謝をもって、これを1か月間見ながら、持ち歩きながら、確認していきたいと思います。表紙を見ましたか

2022年7月31日(日)壽藤考志牧師「恵みを流し出す人となる」

皆さん、おはようございます。お久しぶりです。2020年の3月29日が、ここでの最後の礼拝だったと思います。あれからもう2年と4ヶ月ぐらい経ちますけれど、またここに立つことができて、こうして皆さんの顔を見ることもでき、また共に礼拝ができる恵みを心から感謝します。愛媛県は3つの地域に分かれていて、ここから(倉敷から)一番近い東側を「東予」と言います。中心部の県庁所在地の松山があるあたりは「中予」と言い

bottom of page