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2021.10.24 久松 義人牧師「新たな時季に共同体と共に歩む」

 あたかも嘘や偽りがないかのように私たち自身を繕って歩んだり、大丈夫なふりをして歩んだりすることは、私たちの正しい判断を曇らせてしまいます。ですから私たちが、真実に、嘘、偽りなく今の時季を神様の内にあって前進していくならば、去年のちょうど今ぐらいの時期に、40周年をクライストチャーチが迎え、美味しいお弁当をいただき、身体の養いとして本当に楽しく交わって、40周年を祝うことができました。一つの地方教会の共同体として、私たちが共に歩んできた久松先生ご夫妻の信仰の軌跡を私たちは共に見て、今日もなお前進していきますけれども、実際のところ、私たちは過去2004年から共に旅路を歩いてきたコングレスから解放されているという事実を、私たちはしっかり認識しています。その中で私たちは木村先生を通してイエス様に従い、キリストの恵みを受けて前進していくという新しい時季、フェーズ(段階、局面)に入っていることを、私たちは真実な、偽りのない心を持って受け止めて前進していけると、私は信じています。ですから皆さん、私たちはそういう意味で新たな時季を歩んでいると言うことができます。今まではコングレスの中にいました。しかし私たちは今、信仰を持って神様の御言葉に従い、イエス様の内に、この新たな時季を歩んでいます。その時季にあって皆さんと分かち合いたい御言葉を、今日語らせていただきます。

 ルツ記1章1節~5節 「さばきづかさが世を治めているころ、国に飢きんがあったので、ひとりの人がその妻とふたりの男の子を連れてユダのベツレヘムを去り、モアブの地へ行ってそこに滞在した。その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、ふたりの男の子の名はマロンとキリオンといい、ユダのベツレヘムのエフラタびとであった。彼らはモアブの地へ行って、そこにおったが、ナオミの夫エリメレクは死んで、ナオミとふたりの男の子が残された。ふたりの男の子はそれぞれモアブの女を妻に迎えた。そのひとりの名はオルパといい、ひとりの名はルツといった。彼らはそこに十年ほど住んでいたが、マロンとキリオンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子と夫とに先だたれた。」イスラエルの民が、カレブとヨシュアに導かれて、約束の地、カナンの地に入った後、王が支配する時代が始まります。サウル王の治世が始まる前までは、裁き司と呼ばれる神の預言者がイスラエルを治め、イスラエルが偶像礼拝を行い、神に対して姦淫を行い、神に背いたとき、神様はイスラエルに様々な、ミデアン人や異国の民をもって、彼らを悩まされました。それぞれの期間の間で、イスラエルの民が神様に叫んだとき、神は、預言者、裁き司を送られました、皆さんは士師記を何度も読んでおられると思います。サムエルが起こり、サウルが王として任命されるまでは、ギデオンやサムソン、デボラ、そういった人々が士師記を通してイスラエルを治めていたことを私たちは知っています。その時代にイスラエルの民である一人の男性エリメレクは、自分の生まれた故郷、ユダのベツレヘムを去り、ナオミという妻と共に、国に飢饉があったので、食べ物を求めてモアブという地に、カナンの地を去って出ていきました。そこで二人の息子を神様からいただきました。一人はマロン。もう一人はキリオンという名前でした。マロンという名前は、ヘブル語で「病気」という意味です。とんでもない名前を付けていると思います。その通り、マロンもキリオンも亡くなってしまいます。マロンとキリオンの二人は生きていた間に、二人の妻をめとりました。その妻たちの名前が、オルパとルツと言います。ユダのベツレヘムを去って、モアブの地に行ったエリメレク、この男の名前は、「私の神は王です」という名前でした。けれども彼は亡くなりました。彼の息子たちも亡くなりました。彼らのめとった異邦人の妻たち、オルパとルツは残っています。モアブという地は、聖書の中に何度も出てきますが、モアブ人の祖先は、ロトとロトの娘の子供の名前がモアブです。モアブというヘブル語の意味は、「彼は私の父です」という意味です。神様の願われる方法でない方法で生まれてきた子供が、モアブです。その子孫たちがモアブ人です。すなわち完全に神様の国から離れた、神様の国の原則を行っていない異邦人の人々のことを表わしています。その二人の女性を、マロンとキリオンはめとりました。名前はオルパとルツです。地理的にはモアブの地はイスラエルの死海の東の方です。

 ルツ記1章6節~14節「その時、ナオミはモアブの地で、主がその民を顧みて、すでに食物をお与えになっていることを聞いたので、その嫁と共に立って、モアブの地からふるさとへ帰ろうとした。そこで彼女は今いる所を出立し、ユダの地へ帰ろうと、ふたりの嫁を連れて道に進んだ。しかしナオミはふたりの嫁に言った、『あなたがたは、それぞれ自分の母の家に帰って行きなさい。あなたがたが、死んだふたりの子とわたしに親切をつくしたように、どうぞ、主があなたがたに、いつくしみを賜わりますよう。どうぞ、主があなたがたに夫を与え、夫の家で、それぞれ身の落ち着き所を得させられるように。』こう言って、ふたりの嫁に口づけしたので、彼らは声をあげて泣き、ナオミに言った、『いいえ、わたしたちは一緒にあなたの民のところへ帰ります。』 しかしナオミは言った、『娘たちよ、帰って行きなさい。どうして、わたしと一緒に行こうというのですか。あなたがたの夫となる子がまだわたしの胎内にいると思うのですか。娘たちよ、帰って行きなさい。わたしは年をとっているので、夫をもつことはできません。たとい、わたしが今夜、夫をもち、また子を産む望みがあるとしても、そのためにあなたがたは、子どもの成長するまで待っているつもりなのですか。あなたがたは、そのために夫をもたずにいるつもりなのですか。娘たちよ、それはいけません。主の手がわたしに臨み、わたしを責められたことで、あなたがたのために、わたしは非常に心を痛めているのです。』彼らはまた声をあげて泣いた。そしてオルパはそのしゅうとめに口づけしたが、ルツはしゅうとめを離れなかった。」オルパとルツはモアブの女です。未亡人です。彼女たちの故郷はモアブです。ナオミは自分の嫁、オルパとルツに対して、「あなたがたが私と一緒にベツレヘムへ帰る必要はありません。自分の故郷へ戻って行ったらいいです。あなたが生まれた所へ戻って行ってください」と、勧めました。ここにたくさんのドラマがあります。これだけ読んでも、ナオミの語っている言葉も、なんだかドラマのセリフのようです。ナオミは未来に対する希望がないです。自分のベツレヘムという故郷で、神様が巡り合わせてくださったエリメレク「私の神は王です」という名前の男性から生まれてきた子供たちは死んで、私には将来がない。私は故郷へ帰って、ただもう死ぬだけです。そういう人間の感情が、彼女の言葉から読み取ることができます。「もう無理でしょう。もう帰ってあなたたちは幸せになってください。」途方に暮れた有様でした。否定的で、悲観的で、ネガティブで。そこで、この未亡人の女たちがとったナオミへの態度、反応を見ましょう。

 ルツ記1章15節~18節「そこでナオミは言った、『ごらんなさい。あなたの相嫁は自分の民と自分の神々のもとへ帰って行きました。あなたも相嫁のあとについて帰りなさい。』しかしルツは言った、『あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。 あなたの死なれる所でわたしも死んで、そのかたわらに葬られます。もし死に別れでなく、わたしがあなたと別れるならば、主よ、どうぞわたしをいくえにも罰してください。』ナオミはルツが自分と一緒に行こうと、固く決心しているのを見たので、そのうえ言うことをやめた。」ルツの内側に持っているアイデンティティーの爆発がここにあります。彼女はこう言います。「あなたの民はわたしの民です。」彼女はモアブ人です。彼女の心地いい場所はモアブです。けれども今から、彼女が行こうとしているのはベツレヘムです。ベツレヘムへ行ったこともありません。大抵皆さん、どうですか?自分の夫の故郷に帰るのは、田舎のお父さんとか、姑さんとか、本当に優しい方もおられると思いますが、一般的に緊張するというか、気を使うことがあります。どちらかと言えばオルパも、自分の故郷、居心地のいい所へ帰りたい。でもルツは、「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。」この異邦人の女から出てきた言葉が、彼女のアイデンティティーを表しています。そして自分の神々の所へ帰っていったオルパ。けれどもルツは、「主よ、どうぞわたしをいくえにも罰してください。」あなたの神が私の主です。あなたが従っておられる、アブラハム、イサク、ヤコブの神が私の主です。その主に対して、「主よ、私がこの姑であるナオミを離れてしまうならば、私を罰してください。」とんでもない信仰の爆発です。とんでもないアイデンティティーの明瞭さです。彼女はモアブ人です。ルツのアイデンティティーの強烈なインパクトがここで出てきます。彼女の持ったアイデンティティーの明瞭さ、クリアな信仰に対して、神様はこの後のルツの人生を、このモアブ人であるルツの人生を、どのように導かれるでしょうか。

 ルツ記2章1~3節「さてナオミには、夫エリメレクの一族で、非常に裕福なひとりの親戚があって、その名をボアズといった。モアブの女ルツはナオミに言った、『どうぞ、わたしを畑に行かせてください。だれか親切な人が見当るならば、わたしはその方のあとについて落ち穂を拾います。』ナオミが彼女に『娘よ、行きなさい』と言ったので、ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた。」神様はこの聖書の箇所を通して、はっきりと私たちに原則を教えたいのです。ですから何度も繰り返して書いています。2節に、「モアブの女ルツは」と書かれています。彼女の肉体とDNAと、生まれながらの性質と、慣れ親しんできた場所はモアブです。それを私たちに思い出させるために、もう一度書いています。「モアブの女ルツはナオミに言った、」彼女の生来生まれ育ってきた場所は、異邦人の地、モアブです。けれども彼女は、「あなたの神はわたしの神です。」内側に持った信仰、その結果「ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた。」エリメレクはナオミの夫です。イスラエルの中に、エリメレクの属していた部族があります。ユダのベツレヘムにエリメレクは属していました。その畑にモアブで生まれ育った女は来ます。彼女はベツレヘムのことなど何も知りません。イスラエルの地理など、何も知りません。でも彼女がナオミに、「あなたの神はわたしの神です。」と語る時、神様は、「フーム!」。ルツが考えもしないで、自分で計算した訳でもなく、ベツレヘムのボアズの所へやって来ました。これは神様の導きです。皆さん、信じますか?皆さん、どうですか?お一人、お一人、私たちは皆、異邦人でした。様々な国籍があります。けれども私たちは、このイスラエルの神に向かって、「あなたが私の神です!」と、皆さん告白されました。そうであるならば、皆さんのその告白した信仰に報いて、ルツの持っていたようなアイデンティティーの明瞭さがあるならば、あなたが属すべきベツレヘムに、神様は導いてくださいます。そして皆様も、このクライストチャーチに導かれたと信じます。あなたが属する場所が、この神の国にはっきりと存在します。はからずも皆さんは、ここに導かれました。皆さん、そう信じますか?それゆえに、あなたが属すように定められている場所に、あなたの持っているアイデンティティーの明瞭さと信仰のゆえに、神はあなたを導かれました。ルツはそのように導かれました。その中で神様は、どのようにルツを、さらに養っていかれるでしょうか。

 ルツ記2章4節~8節「その時ボアズは、ベツレヘムからきて、刈る者どもに言った、『主があなたがたと共におられますように。』彼らは答えた、『主があなたを祝福されますように。』ボアズは刈る人たちを監督しているしもべに言った、『これはだれの娘ですか。』刈る人たちを監督しているしもべは答えた、『あれはモアブの女で、モアブの地からナオミと一緒に帰ってきたのですが、彼女は『どうぞ、わたしに、刈る人たちのあとについて、束のあいだで、落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました。そして彼女は朝早くきて、今まで働いて、少しのあいだも休みませんでした。』ボアズはルツに言った、『娘よ、お聞きなさい。ほかの畑に穂を拾いに行ってはいけません。またここを去ってはなりません。わたしのところで働く女たちを離れないで、ここにいなさい。』」イスラエルの神が、ボアズの口を通して語られます。「娘よ、お聞きなさい。ほかの畑に穂を拾いに行ってはいけません。」あなたが属する場所に、神がはからずもあなたを導かれました。他の畑に、他の部族の所へ行かないように、ここで養いを受けてください。ボアズは語っています。「わたしのところで働く女たちを離れないで、ここにいなさい。」ここで神様は、何度も語っています。「あれはモアブの女です。」異邦人の女です。神の永遠の選びの民、アブラハムの子孫ではないです。けれどもルツには信仰がありました。皆さん、私たちが選びの民となるただ一つの原則は、「信仰によって」です。皆さんは信仰によって、アブラハムの子孫です。ルツは同じその信仰を持ちました。その時神様から、ルツを養う恵み、必要な養いはやってきました。落ち穂を、他の畑に拾いに行かないで、この畑であなたは養いを受けてください。そして神様は、ボアズの口を通してそれを約束してくださいました。皆さんは異邦人であったかも知れません。けれどもモアブの地から、日本の地から出て、信仰によって、「あなたの神がわたしの神です。」「あなたの神がわたしの主です。」と言って、あなたの導かれた場所に属するならば、神様は私たちを養ってくださいます。皆さんはそれを信じますか?私は信じます。十分に養われます。そのクオリティーの、一つの条件があります。「彼女は朝早くきて、今まで働いて、少しのあいだも休みませんでした。」これは信仰のクオリティーを表しています。兄弟姉妹、私たちが今まで前進して歩んできた、コイノニアの仲間との集い、この共同体の中で定められている集い、私たちは信仰のクオリティーを保って、一貫性を持って、皆さん、休まずに、私たちはその前進を続けましょう。そうであるなら、神様は私たちを養ってくださるという約束があります。ルツの信仰のクオリティーは、「朝早くきて、今まで働いて、少しのあいだも休みませんでした。」私たちの共同体の中、私たちを養うために備えられている教会生活、コイノニアの仲間、その中で皆さんの歩みを休まないでください。時々出席できないこともあるでしょう、これは霊的なことです。私はモアブの地を出て、はからずも導かれました。その中で神が私を養ってくださいます。どういう信仰、姿勢を持ってですか?休まず。休まずは、文字通りではないです。皆さんの心の姿勢です。つながっていようという。

 ルツ記2章9節~13節「『人々が刈りとっている畑に目をとめて、そのあとについて行きなさい。わたしは若者たちに命じて、あなたのじゃまをしないようにと、言っておいたではありませんか。あなたがかわく時には水がめのところへ行って、若者たちのくんだのを飲みなさい』。彼女は地に伏して拝し、彼に言った、『どうしてあなたは、わたしのような外国人を顧みて、親切にしてくださるのですか。』ボアズは答えて彼女に言った、『あなたの夫が死んでこのかた、あなたがしゅうとめにつくしたこと、また自分の父母と生れた国を離れて、かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました。どうぞ、主があなたのしたことに報いられるように。どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように。』彼女は言った、『わが主よ、まことにありがとうございます。わたしはあなたのはしためのひとりにも及ばないのに、あなたはこんなにわたしを慰め、はしためにねんごろに語られました。』」素晴らしい私たちのお父さん、神様の養いが、ここではっきりと表されています。このイスラエルの神、その翼の下に私たちも身を寄せて導かれました。そうであるならば、あなたが乾く時、水を飲みなさい、という泉の場所があります。ルツはなおも言います。「私のような外国人を、私はイスラエル人ではないです。モアブ人です。私のこの生まれつきの姿、形と、生まれ育った慣習と、哲学は外国人です。モアブ人です。どうしてですか?」神様がボアズの口を通して、私たちに父なる神の特性を語ってくださっています。「かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました。」ルツの生まれ育った故郷を離れて、イスラエルの地に信仰によって彼女はやって来ました。皆さんも同様であると信じます。そうであるならば、神様はあなたがその翼の下に、このクライストチャーチの共同体を養い、導いておられるイスラエルの主の翼の下に、私たちは身を寄せるならば、私たちに十分に報いてくださいます。ルツはその報いを、ボアズの口から得ました。皆さん同じ信仰を持って、ルツと同じように私たちも、皆さんが導かれた、所属する皆さんの属している場所において養いを受けてください。安全です。素晴らしいです。神様は私たちを本当に、愛してくださっています。ボアズは私たちの父、神様を表しています。神様は私たちが異邦人であっても、信仰によってイスラエルの民として加えてくださり、私たちの信仰が、主に一貫して休まずにいるならば、私たちを養ってくださいます。その時、神様の目的、神様が何を成して、神様が何を見ておられるのかを私たちは知りたいです。神様の壮大な御計画、このルツとボアズの定め、神様は何に興味がありますか。そして神様の御計画の中で、神様と共に歩んでいく時に、私たちに何を約束してくださっていますか。私たちを養ってくださることは、神様がもう約束してくださっています。

 ルツ記4章7節~17節「むかしイスラエルでは、物をあがなう事と、権利の譲渡について、万事を決定する時のならわしはこうであった。すなわち、その人は、自分のくつを脱いで、相手の人に渡した。これがイスラエルでの証明の方法であった。そこで親戚の人がボアズにむかい『あなたが自分であがないなさい』と言って、そのくつを脱いだので、ボアズは長老たちとすべての民に言った、『あなたがたは、きょう、わたしがエリメレクのすべての物およびキリオンとマロンのすべての物をナオミの手から買いとった事の証人です。またわたしはマロンの妻であったモアブの女ルツをも買って、わたしの妻としました。これはあの死んだ者の名を起してその嗣業を伝え、死んだ者の名がその一族から、またその郷里の門から断絶しないようにするためです。きょうあなたがたは、その証人です。』すると門にいたすべての民と長老たちは言った、『わたしたちは証人です。どうぞ、主があなたの家にはいる女を、イスラエルの家をたてたラケルとレアのふたりのようにされますよう。どうぞ、あなたがエフラタで富を得、ベツレヘムで名を揚げられますように。どうぞ、主がこの若い女によってあなたに賜わる子供により、あなたの家が、かのタマルがユダに産んだペレヅの家のようになりますように。』こうしてボアズはルツをめとって妻とし、彼女のところにはいった。主は彼女をみごもらせられたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。そのとき、女たちはナオミに言った、『主はほむべきかな、主はあなたを見捨てずに、きょう、あなたにひとりの近親をお授けになりました。どうぞ、その子の名がイスラエルのうちに高く揚げられますように。彼はあなたのいのちを新たにし、あなたの老年を養う者となるでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人のむすこにもまさる彼女が彼を産んだのですから。』そこでナオミはその子をとり、ふところに置いて、養い育てた。近所の女たちは『ナオミに男の子が生れた』と言って、彼に名をつけ、その名をオベデと呼んだ。彼はダビデの父であるエッサイの父となった。」ボアズはルツをめとるように神様の導きにより導かれていきますが、けれどもイスラエルの中では、定められた権利の譲渡というものがあります。エリメレクは、ユダのベツレヘムの出身です。エリメレクの資産をナオミはまだ持っています。ナオミの取り分があります。それを贖う、それを買い取って、この死んだエリメレクの名前が断絶しないためには、誰かがその資産と、その資産を持つ持ち主、すなわちナオミとルツを買い取らなければいけません。それがこの時代の方法です。その時にその権利を最初に持っている人は、ナオミに最も近い親族が、それを行うことができる権利を持っています。それがこの当時のやり方です。それはモーセの律法の中に、そのようにしなさいと書いています。ですから最初に、その権利を持っている人が、それに対して、「私がその嗣業を買い取って、モアブの女ルツを買い取ることは私には無理です。その異邦人、外国人の女を私が買い取ることは無理です。」と言いました。その次の順番として、権利を待っているボアズに、「あなたがどうぞそうしてください。」と、このやり方に従って、7節にあるように、「すなわち、その人は、自分のくつを脱いで、相手の人に渡した。」これが権利の譲渡の証拠です。その時ボアズ、すなわち神様がしたいことをボアズが代弁しています。9節「ボアズは長老たちとすべての民に言った、『あなたがたは、きょう、わたしがエリメレクのすべての物およびキリオンとマロンのすべての物をナオミの手から買いとった事の証人です。またわたしはマロンの妻であったモアブの女ルツをも買って、わたしの妻としました。これはあの死んだ者の名を起してその嗣業を伝え、死んだ者の名がその一族から、またその郷里の門から断絶しないようにするためです。』」神様が追い求めておられることがはっきりします。エリメレクの名前は、「私の神は私の王です。」その死んだ者の名前が断絶しないために、ボアズはナオミとその嗣業とを買い取ります。そして先ほど読みました17節「『ナオミに男の子が生れた』と言って、彼に名をつけ、その名をオベデと呼んだ。彼はダビデの父であるエッサイの父となった。」ダビデ王の祖父、おじいちゃんとなるオベデが、ボアズとルツの間から生まれます。神様の興味がある、神様が熱心に追い求めておられるのは何ですか?神の国です。

 イザヤ書9章6節~7節「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。」万軍の主、イスラエルの神が熱心に追い求めているものは、これです。ダビデの位に座す方が、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。神様は、イエス様が座に着かれる、そのダビデの位に座して、とこしえまですべ治められる神の国の完成を、神様は求めておられます。神様が熱心に考えておられるのはそのことです。それゆえダビデの祖父となるオベデをボアズとルツから生まれさせられました。エリメレクの名前は「私の神は私の王です。」兄弟姉妹、皆さんそう語られますか。「私の王様は私の神様です。」ダビデの子孫として、イエス様はベツレヘムで生まれなさいました。皆さん、異邦人であったかも知れない皆さんは、信仰によってモアブの地を出て、はからずもここに導かれて、それはまるで久松長老が、はからずも倉敷に導かれて、神様から聞いて、やって来て、ここにイスラエルの一つの部族であるクライストチャーチ、一つの嗣業があります。皆さんここに、はからずも導かれました。休むことなく朝早く起きて、勤勉に、私たちは互いに愛し合う。その時私たちを神様は養ってくださいます。ナオミには将来がなかった。「私には子供はもうないです。私の子孫はもうないです。もう一度誰かと結婚して、あなたたちの夫となる子供を生み出す力は私にはもうないです。」いいえ、将来はここに誕生しました。皆さんが召されている共同体に属する時、その共同体の将来の命、次の世代は約束されています。信じますか?この神様の壮大な、ボアズはルツをめとって妻とし、主は彼女をみごもらせられたので、彼女は一人の男の子を生み、ナオミに孫が授けられました。私たちの将来、次の世代、約束されていると信じますか?皆さんの子供たち全員です。ここにいる子供たち、若者たち全員です。誰一人、欠けるのを見たくない。ベツレヘムに導かれました。ここに神様の原則があります。私たちが勤勉に、その属する共同体で、神の道を歩くなら、私たちの将来、次の世代は約束されています。私はそれを信じます。皆さんがイスラエルであるならば、イスラエルに向かって巡礼していた、それがイスラエルの人々の歩みです。その歌を見ましょう。都に行くとき、王がおられる。「私の神は王です。」というアイデンティティーを持った人たち。「私の神は私の王です。」という、はっきりとした明瞭さの信仰を持っている人たちが、都に向かう時に歌った歌を歌いましょう。

 詩篇121編1節~8節「わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない。主はあなたを守る者、主はあなたの右の手をおおう陰である。昼は太陽があなたを撃つことなく、夜は月があなたを撃つことはない。主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られるであろう。」兄弟姉妹、この信仰がありますか?「私の神は私の王です。」エリメレクという名前を断絶させないために、神様はこの壮大な計画をボアズ、ルツの人生に起こされました。神様が熱心に追い求めておられるのは神の国の完成です。あなたの王はイエス・キリスト様です。「私の王はイエス・キリスト様です。」その民が都に向かう時、神の臨在がある所に向かう時、私の助けは天から来ます。信仰を持ちましょう。その王を喜ばせましょう。

 詩篇149篇1節~9節「主をほめたたえよ。主にむかって新しい歌をうたえ。聖徒のつどいで、主の誉を歌え。イスラエルにその造り主を喜ばせ、シオンの子らにその王を喜ばせよ。彼らに踊りをもって主のみ名をほめたたえさせ、鼓と琴とをもって主をほめ歌わせよ。主はおのが民を喜び、へりくだる者を勝利をもって飾られるからである。聖徒を栄光によって喜ばせ、その床の上で喜び歌わせよ。そののどには神をあがめる歌があり、その手にはもろ刃のつるぎがある。これはもろもろの国にあだを返し、もろもろの民を懲らし、彼らの王たちを鎖で縛り、彼らの貴人たちを鉄のかせで縛りつけ、しるされたさばきを彼らに行うためである。これはそのすべての聖徒に与えられる誉である。主をほめたたえよ。」兄弟姉妹、主をほめたたえましょう。あなたの造り主、皆さんの父、皆さんの王、その方を喜ばせましょう。それを行う民、皆さんの喉には神をあがめる歌がある。皆さんの手にはもろ刃のつるぎがある。御言葉をもって私たちは戦います。そしてそれを私たちが、すなわちイスラエルが、このクライストチャーチがイスラエルの部族として行う時、神様は何をなさいますか?7節~9節に書いてあります。「しるされたさばきを彼らに行うため」です。神様が終わりに向かって、しるされた裁き、黙示録に書かれている裁き、預言の書に書かれている裁きを地上になされるために「これはもろもろの国にあだを返し、もろもろの民を凝らし、彼らの王たちを鎖で縛り、彼らの貴人たちを鉄のかせで縛りつけ、しるされたさばきを彼らに行うためである。」その前には何がありますか?イスラエルの民が、その造り主を喜ばせています。最後に、「主をほめたたえよ」と、もう一度書かれています。裁きの始まりは、主の民が王を喜ばせるところから始まります。皆さん、まっすぐに進みましょう。あなたがはからずも属している所に、朝早く起きて、文字通りではない。勤勉さと、主に一貫性をもって、この共同体の中で、仕え、愛し、集会に集い、「彼らは休みませんでした」と、神様から言われるとき、私たちは養われ、ナオミのような悲観的ではなく、皆さん、将来の次の世代は約束されています。新しい時季、その信仰を持って歩みましょう。

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