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2020.6.7 久松政一使徒的長老「アイオニオス・ゾーエ」「永遠の命」

今日皆さんにお伝えしたい事があります。久松ひろ子先生の事であります。皆さんが携帯を通して、今はラインの時代ですから、皆さん全員に行き渡っていると思います。少しお伝えしたいと思います。6月2日火曜日に、私とひろ子さんは、咲子さんの勤めている病院の先生にうながされて、「ちょっと、久松さんのその症状はおかしい。だから病院にすぐに行って下さい。」という勧めをして下さったが故に、私たち夫婦は6月2日の午後3時ぐらいに倉敷中央病院に行きました。救急外来で待っていて、そしてひろ子さんが診察を受けたのですけども、「まず最初は、CTを撮りましょう。」という事で、3時~4時半ぐらいまでかかりましたでしょうか、それが終わった時に、救急外来の担当の先生が、「脳内出血はしていません。けれども少し何かおかしい所があるようなので、MRIを撮りましょう。」という事になりまして、4時半から又、彼女だけMRIを撮りに行く事になりました。そしてMRIや血液検査などの結果が出たのが6時過ぎぐらいだったと思います。その中に私たちも来て下さいという事で、そしてその時に医者が言うには、「脳梗塞です。今日入院しましょう。」と、いう事で、私も咲子もびっくりしました。そういう状況になりましたので、医者から色んな説明をしてもらいました。実際のひろ子さんは、実は火曜日以前の、その前の週の、多分金曜の夜ぐらいだったと私は思っているのですけども、間違いなくそうなったのは土曜日の朝、右側の唇の口角が少し垂れ下がって、食事をする時に、水分が少し流れる感じになってしまって、それにもかかわらずひろ子さんは3日間病院に行かなかったのです。それは彼女が若い時、大阪建物という所に勤めていた時に、彼女は顔面神経麻痺という、顔の半分が全然利かなくなる病気になった事が一度あったので、今度もそれだとひろ子さんは思ったのですね。それによって結局遅くなってしまいました。ですからその3日間は、歩き方はまあ普通だったのです。ろれつのまわり方も、普通の方と比べると8割から9割ぐらいでした。そういう状況の中で3日間を過ごし、6月2日に入院して、今日に至っております。結論としまして、「すこぶる元気だと言っておいて下さい。」というのが、ひろ子さんのメッセージでございます。今、見ていると思います。「そうよ、それはあなたが言いなさい。」と、多分言っていると思います。皆さんの祈りのおかげで、この様に、最小限のかたちで守られている事を、本当に感謝したいと思います。皆さんありがとうございます。心配をおかけしました。本当に祈って下さって感謝をしております。その中で一つのエピソードは、こんな事、ひろ子さんは言わない方がいいと思っていると思いますけど、言いますよ。金曜日の出来事で、37歳の看護師さんが担当で、その彼女が疲れていた様なので、教会の庭にあるミントを持って行っていたので、ひろ子さんがその人に、「これを嗅いだら気持ちが良くなるわよ。」そういう所から話がはずんで、その人の人生の色んな所まで言って、「もう私は地獄に行く。」とか、そういう事を彼女が言い出して、「そんなことはない、神様は素晴らしい事をされる。」という話をちょっとしたのでしょうね。そうしたら、「ざんげをしたらいいのでしょうか?」と言うから、「ざんげはする必要はない。悔い改めたらいい。イエス様の名前を言って、車の中であなたは一人で祈りなさい。」と言って導いたそうです。すこぶる元気です。彼女はこう言いました。「これは神様がなさった。私の肉の力が勝らないように。だから私は感謝していますので、皆様本当にありがとうございますと、言っておいてね。」と、言っていましたのでお伝えします。今からメッセージを語らせていただきます。

 「アイオニオス・ゾーエ」イエス様がこの様な言葉でおっしゃっていたのでしょう。もちろんギリシャ語ですから、その言いまわし方は違ったと思いますけども、英語的な言い方で言うと、「アイオニオス・ゾーエ」二つの言葉からなっています。「アイオニオス」と、「ゾーエ」です。今日はこの事を語ります。「アイオニオス」、これは「永遠」という言葉です。「ゾーエ」は、「命」です。命には二つあると前に語りました。一つ目の命は、psucheプスチェー。新約聖書に40回使われています。この言葉の意味は、肉体の命という意味です。ですからあなたが今持っている肉体、いつか無くなる命です。すなわち消えていく命の事を、プスチェーと言っています。もう一つの命、それが新約聖書で77回使われています。この命は、zoeゾーエと言います。この命は死ぬ事のない命です。ですから「アイオニオス・ゾーエ」は、「永遠の命」です。今日はこれを強くあなたに語ります。なぜならイエス様は新約聖書で、先程言っているように、何度も語っておられるのです。ですからこれを私たちに与える為に、イエス・キリストはいらっしゃったのであって、この目的故にイエスが来られたという事を、あなたは一番重要視しなければなりません。新約聖書に、「アイオニオス・ゾーエ」という、「永遠の命」という言葉だけでも42回使われているのです。その内24回が、イエスの弟子が使っています。誰でしょうか?ヨハネです。ですからヨハネによる福音書は、四福音書の中で一番霊的な内容が含まれていると言われている特別な書物です。これはモーセの幕屋で言うと、モーセの幕屋には一つの門があって、その門はイエス様を象徴しているという事を、学んだ人は理解していますね。その門に四つの色がある。四つ目の色というのは青色。これがヨハネによる福音書を象徴している色なのです。青は上の色です。これは天の色です。すなわち私たちが望んでいる領域です。そこに本当の命を持っておられる御方がおられるのです。ですからヨハネは天的なもの。上のもの。そういった意味で、青という色が使われています。そして又、エゼキエル書には四つの顔があります。その四つ目の顔は、鷲の顔です。鷲は、空高く飛びます。これは天の鳥です。ですからそれは上の領域の事です。ヨハネによる福音書は、霊的な事、この現実的な人間的な事ではないのです。ですからそこで使われている言葉が、「アイオニオス・ゾーエ」です。そしてヨハネは、ヨハネによる福音書、ヨハネ第一の手紙、ヨハネ第二の手紙、ヨハネ第三の手紙と、四つの書物を書いています。この四つの書物の中で、彼は24回、永遠の命、又は、永遠の生命という言葉を使っているのです。どれだけ彼がこれに固執していた事か、非常に重要視していた事がお分かりでしょう。これはこの世には無い命です。だからイエス・キリストがいらっしゃらなければならなかったのです。今日は、ヨハネによる福音書を見ていきたいと思います。御言葉があなたに命を与えます。この聖書の言葉が永遠の命です。ヨハネによる福音書の中で、最初に出て来る、この「アイオニオス・ゾーエ」という言葉は、ヨハネによる福音書の3章15節に出て来ます。では15節を御一緒にお読みしましょう。「それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。」彼とは誰ですか?この言葉は誰がおっしゃいましたか?イエス・キリストが言われた言葉です。だから、「御自分を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。」明確です、イエス・キリストの来られた目的は。永遠の命をあなたに与える為です。何とすごい命でしょう。私たちの人生は何故はかないのですか?プスチェーの命しか持っていないからです。肉体が無くなったら終わりです。人はそれを死と言います。けれどもその死の向こうに、もう一つの命がある。それをイエス・キリストは、私たち全世界の者に与える為に来られた御方です。全ての人に平等に。イエスは誰でもイエスを信じる者が、全て永遠の命を得る為だと、はっきりとここでお語りしておられます。

これは最初の3章1節から何度も語った事です。パリサイ人のニコデモという宗教家が、夜イエスに会いに来る所から始まっています。そしてその宗教家であるニコデモは、イエス様にお会いした時に、「先生あなたは神から遣わされた御方であるとわたしは信じています。そうでなかったら、病気を治したり、奇跡を行ったりするような事は誰にもできません。あなたは素晴らしい教師です。」と、イエスを誉めたたえた時に、イエスは、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない。」という言葉から始まって、イエス様はこの人に永遠の命を与えたいが故に、最初に語られた言葉は、「だれでも新しく生れなければ、永遠の命に至ることはできない。」「新しく生まれる?そんな事出来ませんでしょ、イエス様。」と、この宗教家はたずねます。「もう一度、母親の胎の中に入るのですか?」と、言った時にイエスは、「あなたは宗教家のリーダーでありながら、そんな事も分からないのか。風は思いのままに吹くではないか。けれども風は見えない。でも風というものは明確にあたっているからそれと同じ様なものである。」すなわち見えない領域を、あなたはなぜ信じないのか?という事をお語りになって、そしてイエス様はこうおっしゃいました。12節「わたしが地上のことを語っているのに、すなわち風という譬えの表現をしているのに、その地上の譬えでさえあなたがもし分からないのなら、どうして天上の、上の領域のことが、あなたに分かるはずがあるのか。」と、おっしゃっています。そして13節、「天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。」イエス様は、はっきりとおっしゃっています。わたしは天から下りて来た者だ。すなわち上から来た者だ。我々は地上で生まれたのです。あなたは地上の人です。けれどもイエス・キリストは上から来たと仰せられています。そして上から来て又、上に昇る者は私しかいない。

そして、モーセの時代の事を語られた。竿の上に青銅の蛇をつけて、高く掲げてモーセは言いました。「罪を犯した人たちよ、あの青銅の蛇を見よ!そうするなら蛇にかまれた者は全て、もう一度生き返る事が出来る。」そして彼らは青銅の蛇を見上げました。その時、病が癒されました。「それと同じように、すなわちモーセが荒野で蛇を竿の上にあげたように。わたしも十字架の上にあげられなければならない。それはあなたに永遠の命を与えるためである。」と、おっしゃっているのです。兄弟姉妹、これは宗教じゃない。あなたがこの地上で生きている間に、イエス・キリストを信じるなら、あなたに永遠の命が与えられる。その為にイエスは十字架に架かられたのです。はっきりとしています。だから永遠の命という言葉は、この3章15節が初めてです。そして16節は、皆さんよくご存知の御言葉です。「神はそのひとり子であるわたしを十字架に付けたほどに、皆さんを愛して下さった。それはわたしを信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」私たちは永遠に生きる者、けれども今、プスチェーという命しかないあなたにとっては、肉体の滅びが全てであります。だからこの肉体の命が維持されている間に、イエス・キリストを信じるなら、あなたは次の世界に行く時、あなたは永遠に生きる者となるという事を、神はイエスを通して約束して下さったのです。

4章でも、サマリヤの女で、イエス様は語っておられます。ここでも永遠の命というものを、36節に使われています。サマリヤの女は、この世の中を代表する様な罪人です。でもあなたも罪人です。この世界の全ての人々は罪人です。誰一人、イエス・キリストを信じないなら、永遠の命は得られません。死んだら滅びます。けれどもイエスはその為に来て下さったのです。あなたを愛して、あなたを許して、あなたの罪の身代わりとなって、十字架に架かって死んで下さった。あなたがそれを信じる時、永遠の命が与えられます。あなたを死後の世界に於いて、永遠に生きる者としたいとイエスは切に願っておられます。誰が、色んな宗教の中で、永遠の命を与える事の出来る者がいますか?仏陀も死にました。彼の墓もあるでしょう。骨もあるでしょう。イエス・キリストの墓はありません。唯一、イエス・キリストは甦られた御方です。私たちに真の望と希望を与えて下さる方は、世界中に、この御方以外にはないのです。どんなに素晴らしい人々でも、皆死んだのです。彼らは過去の人です。もう二度と生きて来る事はないのです。兄弟姉妹、あなたがこの教会に導かれて来たのは、いいかげんな事じゃない。神様はあなたを愛して、色んな人々を通して、この宮に導いて下さったのは、明確な目的があるからです。それは永遠の命をあなたに与える為です。このサマリヤの女は5人も男を変えた、本当に汚れた女です。これは男も女も皆一緒です。今、本当に、男も女も結婚をしないで、肉体関係を持っているような全ての人は、皆、罪人です。そして結婚をしていても、イエス・キリストを信じないなら、その人は永遠の滅びが待っているだけです。イエス・キリストは、十字架に架かってまであなたを愛された。身代わりとなって、すなわちあなたの為に死なれた。人の為にイエスは人生を送って下さったのです。あなたは己の為にのみ人生を送る気ですか?愚かな生き方をしてはいけません。兄弟姉妹、私たちは永遠の命をいただく為にこのプスチェーという命をもらったのに過ぎません。真の命、永遠の命、アイオニオス・ゾーエをいただく為に、私たちは生まれて来たのです。その命をいただかなかったら、この地上でどんな幸いを一時的に持ったとしても、全ては滅びていきます。あなたは死んだ後、何もこの地上の物を持って行く事は出来ません。兄弟姉妹、この世の物など、何の価値も無いのです。価値あるものは永遠の命です。その5人も男を変えた女に、イエス・キリストは近づいて下さいました。サマリヤの女と書かれているのですから、サマリヤは、ユダヤ人とは付き合っていなかったのです。すなわちイエス・キリストはその当時、ユダヤ人としてお生まれになったから、ユダヤ人としてのイエスは、サマリヤという道を絶対に通らなかったはずなのに、わざわざサマリヤの道を通られたのは、その女に永遠の命を与える為です。だからイエスは全部知っています。だから世界中の一人一人に、全てチャンスを与えています。でも皆、自分の自我と自分の栄光の為にそのチャンスを捨てます。そして自分の幸せのみを求めて、最後まで生きる。人間中心主義、自己中心な者は、滅びなければ仕方がない。何度もチャンスを下

さっているのに、それでも否定する人たちが沢山います。

 私たちがこの女を通して覚える事は、わざわざイエスはその女に近づいて行って、井戸のそばで待っておられた。その女の為に、神御自身が、永遠の命である御方が、たったこの一人の罪人の女の為に。皆さん、この世の人達はいつもそうでしょう、自分に価値のない者とは交わらないでしょう。自分に益する人々とだけ交わるで

しょう人間は。自分を攻撃する人や、自分を非難する人や、自分をバカにする人、そういう人に対して、あなたは愛しますか?愛さないでしょう。一番の罪人の様なこの女の所に、自ら進んでこのイエスは近寄って下さった。これが神様の愛です。愛は、罪を、咎を覆うのです。そして、語りかけた、「水を飲ませて下さい。」「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれと

おっしゃるのですか。」と、女が言うと、「あなたと話しているわたしがだれであるか知っていたならば、あなたの方から、わたしに水を下さいと言うであろう。」と、イエスは逆の質問をなさいました。「えっ、あなたは何も持っておられないのに、その命の水をあなたは持っておられるのですか。そうしたらその水を下さい。もうこんな乾く、この世の水ではなくて、いつまでも乾く事のない水を下さい。」と、言った時に、「あなたには夫が5人いたね。あなたは罪を許されなければならない。」という話から、ずっとイエスとこの女は、話が続いていきます。そして最後に、イエスがこの女に御自身を現しなさった時、「主よ、あなたを信じます。」と、彼女は答えました。イエス・キリストを信じました。ですから立場や、能力や、地位や、名誉はこの世のものであって、何の価値もありません。永遠の命をいただく為にはただ一つ、イエス・キリストを信じる事です。兄弟姉妹、その命をあなたがいただいた事を、本当に大切に思って下さい。

そして又、4章の次は5章、ユダヤ人たちに対してもイエスは永遠の命という事を語っておられます。そして又、6章にも、ユダヤ人たちに対して語っておられます。6章では、27節に、永遠の命に至ると書いています。これは、マタイによる福音書4章に、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである。」というイエス様の言葉があります。パンというのは、この地上の食べ物、食物。私たちの身体を維持するもの。すなわち肉体を維持する為の食べ物の事を、パンという言葉で象徴されています。私たちは食べる為に生きているのではない。人間は本当に朽ちる事のない食べ物、それが命のパンだとおっしゃいました。その話をしてからこの6章を見る時に、「永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。」朽ちる事のない食べ物があるのです。それが神の言葉です。それが聖書です。この聖書の言葉を食べるとは、すなわち、人の為に生きるという事です。聖書の言葉はいつも、人の為に生きる事が、朽ちる事のない食物だと言っています。自分の為に生きる人は、朽ちる食物の為に生活しているのです。だから仕事をする事も、大学へ行く事も、又、人と付き合う事も、皆、この世の食物の維持の為です。お金を沢山もらうのも、結局、おいしい物を食べて、いい家に住んで、そして死んでいく。それは朽ちる食物です。朽ちない食物とは、イエス様の御言葉です。イエス様の御言葉は、いつも人の為に生きるという事を語られています。私たちが永遠の命を、私たちの内にいただいたら、私たちの価値観は変わります。今までは、自分の為にのみ生きて来た人生から、人の為に生きる事の喜び、それが私の幸いな人生、それが私の食物だ!朽ちない食物、それは永遠の命、他の為に生きる、それが神の御言葉。それを6章で、イエス様は語られました。

又、10章でイエス様は、「わたしはよい羊飼である。」そして信者たち、すなわちそれを羊に譬えられました。イエス様と私たちの関係は、羊飼いと羊なのです。そしてイエス様はおっしゃいました。「わたしの羊は、わたしの声に聞き従う。」皆さんは、あまり羊の事に関して御存知ないと思います。例えば、牧場があって、その囲いの中に色んな羊が、いっぱいいます。でもその中にいる羊は、全て一人の人の羊飼いの羊ではありません。色んな羊飼いの羊がいっぱいいるのです。そしてイエス様はこうおっしゃいました。御自分の羊を呼ぶ時、「我が羊よ、出て来なさい!」その羊飼いの声を、羊は良く聞き分けるのです。その御主人の声を聞いたら、すぐに羊は近寄って来ます。それは、「私の羊だからである。」イエス様はおっしゃいました。この羊たちに永遠の命を与える為である事が、10章に書かれています。10章28節「わたしは、彼らに永遠の命を与える。だから、彼らはいつまでも滅びることがなく、また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない。」そしてその前に、羊飼いと羊の関係を語っています。「あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからである。」と、イエスは語られました。だからイエスがいくら語られても、その声を聞く羊がイエスの羊でなかったら、イエスの所へその羊は来ません。その声を御主人の声だと知らないからです。私たち教会は、ありとあらゆる所へ出て行って、イエス・キリストの声を聞かせます。御言葉です。そしてあなたは、イエス・キリストの羊ですか?それともイエス・キリストの羊ではないですか?この二つの選択を、この羊にさせます。自己中心でなく、本当にこの地上で虚しく、真実を求めたいと思っている人は、イエスのもとにやって来ます。羊は羊飼いの声を聞くのです。イエス様は良い羊飼いです。私の羊は私の声に聞き従う。ですからヨハネの福音書を読んだら、全部これは永遠の命の事について書いてあるのです。

又、12章にも、アンデレとピリポに語っておられます。そして又、17章にも語っておられます。又、ヨハネ第一の手紙にも語っておられます。ヨハネは永遠の命について、ずっと語っています。それはあなたが世の中のものに心を奪われないで、あなたの内にある神の言葉、すなわちイエス・キリストの永遠の命を持っている事を、絶えずあなたに確認させたいからです。私たちはプスチェーの命を持っている故に、何かこの世で良い物があるかの様に、指輪や、又、良い家や、又、良いバッグや、そんな物は皆いつしか消えていきます。愛する皆さん、残るのは、永遠の命です。ですからヨハネ第一の手紙を見てみましょう。

ヨハネ第一の手紙1章1節「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について、このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである。」これはイエス様の事です。初めからおられた御方、私たちが聞いたもの。ヨハネはイエスの弟子でした。イエスの言葉を直接聞きました。神の言葉、永遠の命の言葉を、彼は自分の耳で聞いたのです。イエス様は肉体を持っておられた。けれどもイエス様の内にある霊は永遠の命でした。彼から語られる言葉は、神の言葉でした。その言葉を彼らは聞いたのです。見たのです。手で触ったのです。ヨハネはいつも12人の弟子の中でも、一番イエスの御そばにいて、いつもイエス様に触れていました。永遠の命を間近に見たのです。私たちには今、永遠の命がここ、神の御言葉にあります。これを信じる者には、あなたの内に永遠の命、プスチェーではない、ゾーエの命が存在しているのです。だからキリスト者は死んでも恐れない。永遠の命を持っている者だけが、次の世界に行く事が出来る。何と幸いでしょうか。その為にイエスは来て下さいました。あなたの家族、皆救われていますか?命かけて伝道しましょう!ヨハネは間近に永遠の命を見て、触って、聞いた。この永遠の命を私たちは見て、そしてそれをあなた方に告げる。これが、ヨハネが送った手紙です。ですから私は今日、永遠の命があなたの内にある事を確信していただく為に語っています。間違いない事実ですから。ただしキリスト者よ、聖書に、「兄弟を憎む者は、キリスト者ではない。」すなわち、キリストを信じている者を憎んでいるのだったら、あなたはキリスト者ではない。あなたはイエス・キリストから許されているのに、何であなたは人を憎む権利があるか?あなたは滅びる生き物だったのに、イエスが許して下さったのに、なぜあなたは憎むだけの権利を持っているのか?おかしいでしょ。嫌いな人はいるでしょう。嫌いな人とでも、愛して付き合う事は出来るでしょう。嫌な人でも、誠実に付き合ってあげる事は出来るでしょう。優しい言葉をかける事は出来るでしょう。でも憎んだら、あなたはキリスト者ではない。永遠の命はあなたの内に無い。これは相反する事です。許していただいている者が、なぜ許せない?だからこれは相反する事ですから、私たちがキリスト者であるなら、永遠の命を持っているのであれば、私たちは人をキリストの霊によって許す事は出来ます。簡単です。職場には必ず一人はいます。ちゃんとイエス様は置いていますそういう人を。その人にあなたはどんな対処方法を取りますか?もしその人がイエス様だったらどうしますか?形を変えて、おられるかも知れません。イエスは霊ですから、どこにでもおられます。あなたをテストしているかも知れません。永遠の命を持っている人は、人を憎みません。

ヨハネ第一の手紙5章13節、これは、ヨハネがこの手紙を書いた意味です。「これらのことをあなたがたに書きおくったのは、神の子の御名を信じるあなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである。」聖書は、この地上だけの人生で終わるのではなくて、イエス・キリストを信じる事によって、永遠という領域の命を得る事で、私たちは永久に生きる民であるという事を、イエスは語っておられるのです。だからイエスは言いました。私は甦りであり、ゾーエである。甦られた御方です。彼は命そのものです。何の命?プスチェーの命は十字架の上で死なれました。あなたの罪のためです。身代わりのための命です。死ぬ必要のない御方がプスチェーになって、肉体を持って、見える形になって、神がこの世に来られた事ほど奇跡な事はありません。あなたの為に肉体を宿されたのです。十字架に架かって、あなたの罪を赦す為です。そしてそれだけではない。3日目に甦る事によって、「わたしは甦りであり、命(ゾーエ)である。」永遠の命を私たちに与える為に来て下さったのです。兄弟姉妹、だからこの地上で、唯一の私たちがするべき仕事は、イエスを信じる事です。それ以外に何もない。そんな物は皆消えていく。あなたがこの世の中で、絶対必要だという様な物は何も無い。固執する心こそ愚かです。ラザロは乞食で、お金もなく、大金持ちのそばで、金持ちが食べたパンくずを食べて生きていた。それでも信仰があった。彼はアブラハムのふところ、永遠の命の場所に行ったのです。皆さん、あと100年経ったら、ここにいる人は誰もいないのです。永遠の命を持っていますか?ヨハネは永遠の命をあなたに与える為に、「これらのことを書いたのは、あなたがたに、永遠のいのちを持っていることを、悟らせるためである。」明解です。そしてその永遠の命とは、イエス御自身です。

それが20節です。ヨハネ第一の手紙5章20節「さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。」私たちは宗教を信じているのではない、永遠の命を持っているのです。次の世界へ私たちは行くのです。それは罪の無い世界です。それは愛し合う世界です。本当に赦された者だけが集う事が出来る神の国です。そこに私たちは、永遠という場所で生きるのです。あなたには仕事があります。務めがあります。神の国にはそれぞれの務めがあります。イエス・キリストが私たちの王の王として、この方に仕えて、この国の中で、ありとあらゆる務めをしながら、私たちは愛し合い、永遠に生きるのです。そこに至る為に、この地上であなたがイエス・キリストを信じるかどうか、勝負です。これが目に見えるものであったら、皆信じるでしょう。けれども見えないです。イエス・キリストはもう上にあがられました。永遠の命は今、肉体としては見えません。けれども語られたイエスの言葉である、永遠の命である書物は、今もここにあります。あなたはこれを信じますか?それとも信じませんか?このメッセージは、一つに集約したら、「永遠の命をあなたに与えるため」です。私たちは今、永遠の領域で物事を判断しています。他のために生きる事は、永遠の命を持っている者の特権です。互いに愛し合いなさい。私たちはその様な教会です。さあ、永遠の命を持っている兄弟姉妹、あなたの仕事は一つです。他のために生きる事です。他のために生きる事こそ、永遠の命をいただいた者の使命です。兄弟姉妹、信仰の導き手であり完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走りましょう!

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