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執筆者の写真クライストチャーチ倉敷

2020.5.3 木村由智主任牧師「信仰の落伍者にならない」

 どの様な事があっても、皆さんは主に感謝していらっしゃいますか?先週、今週と引き続いて、続きのような形で皆さんに勧めをさせていただきたいと思いますけども、皆さん、私たちひとり一人は、本当に主にあって重要不可欠な存在であるという事を、今日も信じていらっしゃいますか?あなたに十分何かが与えられていようが、いなくても、あなたは重要不可欠な人間です。その事をしっかり覚えて下さい。何かによって自分を保つという事は、本当に愚かな事です。その事を徹底して私たちは取り扱っていかなければなりません。そしてその生き方そのものが、神様の御性質を現すのです。そして人々が、この混沌とした時代の中で、「どうしてそんな生き方と考え方が出来るのですか?」と、私たちの所に来る、その事が間違いなく起こるのです。ですから皆さん、しっかりと進んで行きましょう。覚えていらっしゃいますか?「私たちはふるわれない国を受けています。」と、神様が私たちにおっしゃいました。「私たちの内側にある国はふるわれない国です。」そういう風に私たちが言うと、「そんなものはどこにありますか?」と、いつも外側をさがします。でも神様は私たちの内側に、どんな事があっても変わる事のない神の国を与えて下さっているのですから、私たちは感謝しましょう。どういう事があっても、悪い事があっても、いやな事があっても感謝しましょう。寿藤先生たちは愛媛に行って1か月で、こういう試練の中に、これはもう恵みだと思います。この事を通して、よりいっそう主を求めて、自分たちの信頼しているものがどんなものなのかという事を、より明確にする時と神様が導いて下さっている事を信じます。それは同時に私たちも同じです。ここにいても、この身体として起こっている出来事は、私たちへの教訓です。その事を皆さん、しっかり受け止めて、どの様な事があっても、私は忍耐をもってこの時を乗り越えて行く、その心が大切だと思います。ですから今は忍耐です。

 今、神様が私たちに教えておられるのは、人間の強欲さ、利益追求、そういったものを私たちの経済の中心は中国だという事を現し、そして神様はその経済の中心である中国を打たれたのです。という事は、我々の経済、お金に関する考え方が、本当に自分の利益の事しか考えていない、企業の利益の事しか考えていないという事が、明らかにされたという事です。これが、「国々の力を破壊した」という神様の御計画です。私たちが、どんな事があっても頼らなければならないものは神様であるという事を、あらためて今、私たちは教えられていると信じます。世の人達でさえ、もうどうしていいか分からない。東京も、何日か続けて二けたの感染者、所が又、4倍ぐらいに上がったり、「もう2023年まで続くのではないか、この状況は?」と、もう私たちには予想も何も出来ない。神様だけが、全てをコントロールしておられる。だったら、私たちはもう黙って神様に従うしかないのです。もうこれしか言う事はないと思います。いくら慌てふためいたとしても、神様がそれを止められるまで、この状態は続くという事です。ですから私たちは神様を恐れましょう。神様はこの時代の支配権を奪いました。この地上の、「賢い者」と呼ばれている人たちの計画を全て破壊しました。何もかもが動かなくなるようにしました。それは、その主権は誰にあるのかという事を明らかにする為です。その主権は神様にあります。その神様に従う事が出来る私たちは本当に幸いな者です。その事を本当に感謝していただきたいと思います。今は不確かな時代です。何にも信頼するものがない時代です。神様だけにしか信頼する事はできません。よりいっそう、今まで以上に私たちはその信頼を強めていく時が、今訪れているという事です。ですから落ち込まないで下さい。経済的に立ち行かないような状況が来たとしても、その状況によってあなた自身の心が恐れ、しなえてはいけません。信仰によって固く立つ者に変えられていって下さい。

そして私たちは謙遜でありなさい。ペテロたちが漁師としてのプロとして、一日中、夜通し働いた。でも何の成果も結果も出なかった。でも、魚釣りに関しては素人のイエス様に、「網を下ろしなさい。」と言われた時に、彼らは自分のプライドや考え方、そういったものを全部横に置いて、「お言葉ですから従います。」という選択をしました。今、私たちに求められているのは、そういう選択です。あなた自身の経験値や、あなた自身が頼りにしているもの、或いは重要だと思っているものを、神様はもう一度深く掘り下げて、「それらのものを捨てなさい。」と、おっしゃっているのです。兄弟姉妹、捨てていきましょう。価値の無いものを持ち続けるという事は本当に愚かです。どうしても私たちは、そういう価値の中で生きていく事が重要だというアイデンティティーを、外側からすり込まれてきましたので、そう簡単に抜けるものではありませんが、私たちは捨て続けていくという事を、していかなければなりません。

 今日は、「信仰の落伍者にならない」私たちが今の状況の中で、私たち自身の信仰を決して見失ったり、神様から心が離れて行くようになってはならないという事を、もう一度皆さんに強くお語りしたいと思います。体は礼拝に来ていても、私たちの心が本当に、今まで以上に強く、今は繋がらなければならない時期です。「落伍者」これを辞書で引くと、隊列から遅れていった人たちの事。比喩的に言うと、大勢の人が歩むような人生に遅れをとったり、悪い方向に行って、落ちぶれてしまっている人の事を「落伍者」という意味が出て来ました。私たちは、クライスト・チャーチという、一つのキリストの身体です。この身体に属する者が、最後まで一つになって進んで行く、これ程大切な事はありません。兄弟姉妹、何があってもこの隊列から出る事のないようにして下さい。あなたは本当に重要不可欠な人です。あなたに能力や賜物が無くても、あなたがいるだけで神様は喜ばれます。その領域にまで、私たちは達しなければなりません。賜物は神の国を正しく構成する為に神が与えられたものです。何も賜物が無いと思ったら、笑っていて下さい。それだけでも十分です。あなたの顔を見ていたら、もう何もかも平和だなというくらいの笑顔を出していたらいいと思います。その葛藤の中で、あなたはそこにまで到達していかなければなりません。ですからどんな事があっても落伍者にならないように進んで行きましょう。だからあなたの心の中で、「あの人元気かな?」と思ったら、電話してあげて下さい。会いに行ってあげて下さい。そういう繋がりを持ち続けるという事です。私たちが電話をする、訪問するというのは、関係性を確認し、「あなたは私たちと同じキリストの身体です。神の国の者です」という事を、そこで言っているのです。ですから今、そういうような事にもっと私たちは心を砕きたいと思います。

 私たちが落伍者にならない為に、完成者イエス・キリスト様を見上げていきます。もう一度基本的な事ですけども、皆さんとこの事を確認しながら進んでいきたいと思います。へブル人への手紙12章2節「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」もう一つ、別の訳の聖書が最近出ているのですけども、それはわりと私たちの普通の言葉に近いので、読んでみましょう。「私たちの指導者であり教師であるイエスから、目を離さないように。イエスは十字架の死のあとの喜びを知って、恥をもいとわず十字架にかかった。そして今は、神の王座の隣、名誉ある座についているのだ。」イエス様は十字架の死のあとの喜びを知っているという風に、この訳は訳しているのです。これは非常に私たちにとって励ましになる言葉だと思います。十字架の死の後の喜びというものが、どういうものなのか。死ぬという事は、ここで、「恥をもいとわず十字架にかかった。」これは、イエス様が神の子でありながら、何の非の打ち所のない者が、罪人として十字架にかけられるのです。その恥をいとわずに、十字架にかかっていかれた。それ程までに、その死の後にある喜びの大きさを、イエス様は知っておられたという事です。私たちは、皆さんいかがでしょうか?十字架の死の喜び、死ぬというのは、やはり嫌でしょう。死ぬという事は、実を結ぶ為の最初の行為なのだという事を、もう一度皆さん、私たちは覚えましょう。イエス様は全世界の人々が救われるという、実を結ぶ為に、十字架にかかられたのです。その喜びは、本当に、どんなものにもかえられなかったという事です。当然この十字架の死は、死と葬りと復活というものがあります。イエス様は復活する事、そして神様の隣に座るという事も御存知でした。ですからこの地上のどんな良いものよりも、神の所に行くという事が、何よりもイエス様にとっては大切な事であった。同じ様に私たちも自分に死ぬという事に対して、死ねば新しい者に変わって神様と共にいるという事の恵みを、どれだけ私たちは理解していますか?死ぬのが嫌で、いつも抵抗して、いつも怒られるでしょう。そういう肉の弱さが、ろていされた時に、「そこに死になさい。」という事を、「その死んだ後にある喜びを、もっと理解しなさい、もっと知りなさい、それが大切なのです。」という事を我々は知らなければならないです。何回言われても、同じ様に繰り返してしまうという事が、皆さんの中にもあるでしょう。私はその時に気付いたのです。その言われている事を受け取る回路が無いという事に。私はもう病気じゃないかなあ?でも、その回路が無いという事が分かれば、ただ「はい!」と言う事が出来るのです。でもその回路が自分の中に無いという事が分からなかったら、何度も何度も自分に言い聞かせて、「そうだ!」と言って、言葉の表面的なものだけを受け取って、努力して努力してやるのですけども、空回り、空回り。もう何回言っても分からない。でもその人には、それを理解する回路が無いだけ。「分からない時は、黙って『はい!』と言って、じっとしている事が一番ですよ。」と、言ってあげたらいいと思います。そして自分が、「ああ本当だ、分かってないな。」と思ったら、「はい!」と言って、じっとしておくのです。忠犬ハチ公の様に。何かあると思って、分かっているという態度が、結局謙遜さを見失うのです。弟子たちは、自分たちはプロだ、でも素人から言われても従ったのです。それは神様が言われていると受け止めたからです。そうしないと、二つのタイプが出てきます。反抗と従順。だからイエス様は、「幼な子の様になりなさい。」と言われました。子供は分かっていなくても、「はい!」って言うでしょう。そうやり続けていけば、神様がその回路を修復して下さるかも知れない。一生修復してくれないかも知れない。どちらであっても、私たちはそれで、自分の価値があるか無いかを決める必要はありません。神様があなたを、よしとされたからです。皆が同じ様な回路を持っていたらどうしますか?もう皆がピリピリ系だったらどうしますか?もう近くにも寄りたくないでしょう。皆がゆったり系だったらどうしますか?どっちのタイプでもいいのです、神様がそう造られたから。あなたが理解出来なくても、そのまま生きて下さい。ピリピリ系に、「何回言ったら分かるの!」と言われても、「私の罪は許されています。」そうしていたらいいです。それぐらい、混沌とした時期に楽しんで生きて下さい。あなたはあなたです。仕方ない、そういう回路が無いのだから、神様にしかその回路を修復出来ないのです。だから、感謝して生きて下さい。正しく歩む為に、次の御言葉を見てみましょう。

ペテロの第二の手紙3章10節~14節「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。しかし、わたしたちは、神の約束にしたがって、義の住む新しい天と新しい地とを待ち臨んでいる。愛する者たちよ。それだから、この日を持っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。」別の訳で見てみましょう。10節「しかし主の日は、盗人のように、思いがけない時にやって来ます。その時、天は恐ろしいとどろきと共に消えうせ、天体は焼けて崩れ落ち、地と地上のすべてのものは跡形もなく焼き滅ぼされてしまいます。このように、これらのものがみな滅び去るのですから、私たちはどれほどきよく、敬虔な生活を送らなければならないことでしょう。その日が来るのをただ待ち望むだけでなく、早めるようにしなければなりません。その日、神は天に火を放たれ、天体は燃えて溶け去ります。」この様にして、私たちがいかに正しくこの地上を歩んでいないといけないかという事を、神様が求めておられるという事です。ピリッとしていても、疲れた時にはゆっくりするのです。ゆったりしている人も、いつもゆったりしているのではなく、自分の好きな事にはパパッと動くでしょう。出来る事もあるのです。だから私が言いたいのは、出来るのにしないのはだめです。ここで神様がおっしゃっているのは、そういう事を抜きにして、「あなたがあなたとして到達している部分はしなさい。ちゃんとしなさいよ。」という事をおっしゃっているのです。それが落伍者にならないという事です。だからあなたは今、この地上で生きているならば、「この地上の生活を敬虔に生きなさい。ただじっとして待っているのではなくて、それが早まるように、あなた自身の信仰の努力も必要です。」と、神様はおっしゃっているのです。

 ステイホームと言われて、何もする事がない。もう仕方ないと思っても、あなた自身の内側に神様が起こす願いは、正確にしなければなりません。その願いに従って、あなたは動いていかなければなりません。この時期だから何もしないで、じっとしていて、神様は何も語らない。いえ、神様は神聖な一時停止という中から今、ウイルスをまきはじめられたのです。まさにハバククと同じ様な現象が起こっているのです。その様な時期の中で、何も無い。でも、「私は主をほめたたえます!」と、ハバククが立った、その立ち位置。その事を神様は私たちに、「頭で学んだ事を、今、実践しなさい。」と、おっしゃっている時だという事を受け取って下さい。決して私たちのこの群れから、誰一人落ちる事があってはなりません。この群れは増え続けていかなければなりません。そして神の身体として機能していかなければなりません。それぞれの役割が、必要な人たちが、まだまだ起こされて来なければなりません。それが神様の望んでおられる事柄です。兄弟姉妹、今の生活を正しく送りましょう。敬虔に生きましょう。

13節「しかし私たちは、そのあとに、神の目にかなう人々だけが住む、新しい天と地が用意されるという約束をいただいています。」14節「愛する皆さん。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、罪を避けて生きることに精一杯励みなさい。また、すべての人と平和に過ごしなさい。」罪というのは、どういう風にとらえますか?今、この状況の中で、あなたが会社に要求してくる事柄が、あなたの家庭を破壊する様な事に繋がるなら、あなたはその要求に対してNOと言わなければなりません。どんな事があっても今、私は家庭を守り、家庭の長として立つという事が、男性として求められていると思います。精一杯励みなさい。「すべての人と平和に過ごしなさい。」と言われて。「ああ、大丈夫、大丈夫。」じゃなくて、言いたい事は言わないといけません。止めて欲しい事は、「止めて!」と、言わなければなりません。私たちは言葉だけ平和主義者になってはいけません。あなたがあなたとして生きる為に、神様が言われる事に従って下さい。そしてもう一つ、今日私が皆さんにお伝えしたい事は、出エジプト記で、アマレクという言葉が出て来ました。この聖書箇所を皆さんと読んでいきたいと思います。

出エジプト記17章8節~16節「ときにアマレクがきて、イスラエルとレピデムで戦った。モーセはヨシュアに言った、「われわれのために人を選び、出てアマレクと戦いなさい。わたしはあす神のつえを手に取って、丘の頂に立つであろう。」ヨシュアはモーセが彼に言ったようにし、アマレクと戦った。モーセとアロンおよびホルは丘の頂に登った。モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。しかしモーセの手が重くなったので、アロンとホルが石を取って、モーセの足もとに置くと、彼はその上に座した。そしてひとりはこちらに、ひとりはあちらにいて、モーセの手をささえたので、彼の手は日没までさがらなかった。ヨシュアはつるぎにかけてアマレクとその民を打ち敗った。主はモーセに言われた、「これを書物にしるして記念とし、それをヨシュアの耳に入れなさい。わたしは天が下からアマレクの記憶を完全に消し去るであろう。」モーセは一つの祭壇を築いてその名を「主はわが旗」と呼んだ。そしてモーセは言った、「主の旗にむかって手を上げる、主は世々アマレクと戦われる。」ここで特に、神様がモーセに言われた「ヨシュアの耳に入れなさい」という表現です。「私たちの耳に置きなさい。」という原語で見るとそういう意味があります。それは何を耳に置くように神様がおっしゃったのかというと、「わたしは天が下からアマレクの記憶を完全に消し去るであろう。」そして、「主の旗にむかって手を上げる、主は世々アマレクと戦われる。」という事を、「あなたの耳に置きなさい」という事をヨシュアに言いなさいと神様は言われたのです。これは、私たちがアマレクという事に対して、どのような受け止め方をするのかという事です。特に16節で、「主の旗にむかって手を上げる」というこの言葉、私たちの聖書では、こういう訳ですけども、原語の訳では、「アマレクの手は天の御座に向かっている。」すなわち、逆らっているので、主は戦われるというように言われたのです。神様に向かってアマレクは反抗しているという事、その事の故に「主は世々アマレクと戦われる」という様な言い方をされたのです。「世々戦われる」ここでは完了していないのです。引き続いて、続いていくという事を言っているのです。実際これらのものがいつ終わったかと言ったら、これはダビデの時代に、これらのものが終わっていったのです。それまでずっと、戦いは、繰り返し、繰り返し、このアマレクと戦い続けて行かなければならなかったのです。アマレクを私たちはどう取るか?悪の象徴、肉、というように取るならば、私たちはいつも悪、又は、肉に打ち勝ち続けて行かなければならないという事を言っているのです。皆さんの、今の生き方の中で、私たちは常に戦い続けて行かなければならないという事を覚えておいて下さい。イエス様を信じたら、瞬間的に何もかも無くなるという事ではありません。私たちの内側だけ変わって、外側は何も変わっていません。でもその外側に対して私たちは戦い続けて行くという決心をしなければならないという事です。あなたは自分自身の肉と悪に戦い続けなければ、あなたの持っている弱さにアマレクが乗じて、その弱い人たちを、その軍団から取り除こうとするという事を、いつもあなたは覚えておかなければなりません。あなたの弱さと肉が出る度にそれが追って来る。ですからその時に聖別出来なかった故に、600年経って、ペルシャ帝国が出来上がった時に、エステル記の中にハマンというイスラエル人を根絶やしにしようとした人物、あれは、アガク人、ハメダタの子ハマンという名前ですけども、アマレク人アガクというのは、アマレク人の王家の名称なのです。だからアマレクは、ずっと神の民を攻撃し続けている。神様の国を完成させない為に、今もなお働いているという事です。この時代、600年経っても、それがずっと続いていたのです。そして同じ様に今も、アマレクという人々の住む地域はありませんが、その本質、霊は、私たちの霊にいつも戦いをいどんで来ます。そして私たちをいつも、価値の無い者、神の国にはふさわしくない様な者として私たちを扱おうとします。そして私たちのアイデンティティーを破壊しようとします。しかし私たちは戦い続けなければなりません。神様の言葉は、私たちの耳に置かれているという事を忘れてはなりません。神は世々戦われるという事を私たちの耳に置く時に、神が戦って下さるという信仰を持つ時に、あなたは立ち上がらなければなりません。神と共にあなたは働いて、それを行っていかなければなりません。それがその事を現しています。アマレクは私たちにとって、そういうものです。16節「彼らは主の御座に背いて手を上げた。主は世々アマレクと戦われる。」背いて手を上げたのです。皆さん私たちがGDOで神様の前に捧げた捧げものは、神様が受け入れて下さったというように聞きました。私たちの捧げものは、良い香りとして神様の元に届けられた。それまでに私たちは位置合わせをし、自分の変わらないといけない所を取り扱い、自分に死に続けて、そのプロセスを通って、私たちの手を上げた時に、神様はそれを受け入れられました。しかし彼らが背いて手を上げた時に、神様は決められました。世々戦うと。私たちは戦わなければなりません。アマレクと戦い続けて、本当に神の国が完了する時まで、戦い続けていかなければなりません。それが私たちの今ある立ち位置です。「耳に入れなさい」というのは、「完全に記憶を消し去る」という事をあなたの耳に置いておいて下さい。アマレクのした事、アマレクの存在、そういうものがあったものを、全部神様は消し去って下さる。あなたの弱さや愚かさを全部取り除いて下さるという信仰にあなたが立ち続けるならば、あなたの中に正しい回路を神様は回復して下さるでしょう。そう信じます。だからあなたはそれを、あなたの中にあるアマレクの性質を、完全に取り除いて下さい。アマレクが働きそうな部分を取り除いて下さい。これは大切な事です。

そしてもう一つはサウルです。このサウルがアマレクに対して、本当に愚かな事をしました。これは私たちの教訓です。私たちがこの地上で、どういう風にしてアマレクに対して対応していかないといけないかという、これを読んでみましょう。サムエル記上15章1節~3節「さて、サムエルはサウルに言った、『主は、わたしをつかわし、あなたに油をそそいで、その民イスラエルの王とされました。それゆえ、今、主の言葉を聞きなさい。万軍の主は、こう仰せられる、『わたしは、アマレクがイスラエルにした事、すなわちイスラエルがエジプトから上ってきた時、その途中で敵対したことについて彼らを罰するであろう。今、言ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ。彼らをゆるすな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも皆、殺せ』7節~11節「サウルはアマレクびとを撃って、ハビラからエジプトの東にあるシュルにまで及んだ。そしてアマレクびとの王アガグをいけどり、つるぎをもってその民をことごとく滅ぼした。しかしサウルと民はアガグをゆるし、また羊と牛の最も良いもの、肥えたものならびに小羊と、すべての良いものを残し、それらを滅ぼし尽すことを好まず、ただ値うちのない、つまらない物を滅ぼし尽した。その時、主の言葉がサムエルに臨んだ、「わたしはサウルを王としたことを悔いる。彼がそむいて、わたしに従わず、わたしの言葉を行わなかったからである。」サムエルは怒って、夜通し、主に呼ばわった。この事の故に、ダビデの時代までずっと、アマレクと戦いをしなければならないようになりました。普通のヒューマニズム、又、人間愛の強い人は、「何で神様は、こんな人を殺すのだ!」これは、滅ぼされるべきものがあるという事を、神様が私たちに教える為です。その為に、このアマレクがいたという事です。私たちはこのように受け取りましょう。そしてサウルは本当に愚かな事をしました。アガグを許した。すなわち王を許してしまったのです。そして王に連なっている、良いと見えるものを残した。この根本を撃ち滅ぼさずに、そのまわりだけ滅ぼしてしまった。これは私たちがよくやってしまう失敗です。本質は何も触らないで、枝葉の事ばかりいつも論争している。これを止めなければなりません。いつもピントがずれている。必ず矯正されなければいけない。これは私たちにもあると思います。これはランクが上がったから完全になれるというものではありません。私たちはいつも、自分自身がそうならないように気を付けないと、私たちはアマレクにやられてしまうという事です。皆さん、今はそういう時代です。私たちは正しくこの地上を生きなければなりません。私たちは皆さんに何か能力を求めたりしません。でもあなたが神様の為に何かしたいという、その飢え渇きは本当に大切にして欲しいです。でもそれが十分に出来なくても、あなたの心が正しければ、私たちはそれをよしとします。でもその心がだんだんこのサウルの様に、「他のものを殺して、これだけは残しておこう!」ヨシュアの耳に置いた、神様が言った言葉、それは、「全部取り除きなさい。」それを置いたにもかかわらず、サウルはそれをしなかった。いかに愚かな事をしたかという事を、私たちは理解しなければなりません。そして私たちも同じあやまちを繰り返さないように、自分自身をわきまえて生きていくという事を、もう一度確認しましょう。

ガラテヤ人への手紙5章24節「キリストに属する者は、生まれながらの自分が持つ肉の欲望を十字架につけてしまったのです。」あなたが何か自分がしようと思う事に対して、自分の願っている事と違う事を言われる時に、それはあなたの肉の欲望かも知れません。それはもう十字架に付けました。あなたが求めるのは、聖霊から来るものです。肉と聖霊は、相反するものです。一つにはなれません。あなたが神様と一つになりたいなら、「私の肉は全部捨てます!」という事です。その事を私たちはこの時期追及していかなければいけません。何も無いからといって、何も起こらない訳ではない。何も無いからこそよりいっそう私たちの内側を深く神様が見つめ、直し、そしてそれを変えて、そしてこれが終わった時に、私たちの共同体が本当に成熟し、外に向かって行くという事を、何よりも神様は望んでおられるという事です。あなたの自分の情と欲を十字架に付けて下さい。あなたの求めているものは何ですか?だからといって、「ええ?じゃあ何も求められないのか。」ではなくて、あなたが本当にそれを誰かに聞いてもらって、話をして、そういう関係の中で、自分自身を吟味していくという時を、今、行って下さい。これは裁きではありません。私たちの成長の為です。この事を通して私たちは、終わりに向かって行く者と進んで行きたいと思います。よろしいでしょうか皆さん。もう一度私たちは、どういう者であるかという事をしっかり受け止めて下さい。信仰の落伍者にならないようにしましょう。どんな事があってもついて行くという信仰を持って、最後までこの群れの中に留まって下さい。アマレクが来て、落伍者を全部取り除いて行った。それは、へブル書の御言葉の様に、「ふるわれる者が取り除かれた」という事かも知れません。でも私たちは、兄弟姉妹がふるわれる者でない事を願います。最後まで、このクライスト・チャーチの中で、一つの身体として進んで行くという事が、神の御心だと信じています。兄弟姉妹、どんな事があっても、この共同体の中に流れる神様の恵みから逸脱しないようにして下さい。あなたの欲と我を通す事を止めて下さい。神様の御心を私は追及するという、強い信仰姿勢をもって神様を求めて下さい。分からなかったら聞いて下さい。私たちはそれにしっかりと答えていく恵みをいただいています。兄弟姉妹、主にあって励まされて進んで行きましょう!

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