皆様おはようございます。YouTubeを通して礼拝を捧げている兄弟姉妹、おはようございます。今私たちが従事している、成熟した構造の非常に具体的な繋がりの部分について、クライスト・チャーチで言うならば、CSからJ2、中高生、そしてユースへと、又、大人の中へと入って行く、その過程の引き継ぎと言いますか、教会全体がその覆いの中で養われていくべき正確な形について具体的に語って下さっています。今日はセッション4の所から少しお語りしたいのですが、神様がこの建設の季節、この時代に神様が全ての地球上のコミュニティーの中に構築したいシステムがあります。それはコミュニティーとしての構造であると共に、それは言い換えれば私たち一人一人の考え方、又、視野、振る舞い、それが問われています。
ですから、DVDの中でウッドロフ師が、「自問して下さい。」と、言われていました。個人の考察が4つでしたか、出て来ました。一人の時間を作って、静かな時を持って熟考する。自分自身に問いかける。考察する。自分をよく吟味する。その時間を取るようにと、これは使徒的恵みを通して流れて来ている神様からあなたに対する命令です。それを、「した方がいいですよ。」ではなく、「全員でしましょう!」という事です。誰一人、「そういう時間を持ちませんでした。」と言う人があってはならないのです。私たちは仲良しサークルでここに集っているのではなくて、本気で神様の御心を行いたいと願って、自ら集っている神の仲間、家族です。全ては脳の司令塔、管理センターから流れて来ますけれども、全ての肢体、器官というものは、この頭、キリストに向かっています。そこに向かっていなければならない。けど単にコイノニアとか、同労者会とか、チーム会とか、それぞれ活発にジョイントされて機能していたら良いのではなくて、全部それはキリストに、頭に向かわなければならない。イエス様はおっしゃいました。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝です。私に繋がっていれば豊かな実を結びます。」私と結合しているならば、私の命の中にあなたがいるなら、あなたの中に私がいるなら、命の結合がそこにあるなら、実を結びます。もし一生懸命色んな働きをして、奉仕をして、お掃除をして、務めをして、だけど繋がっていないなら、あなたは何もする事ができません。私から離れて、頭から離れて、頭だけで、何もする事ができません。「私はあれをしています。これをしています。献金しています。」いいえ、命と繋がっていないなら、あなたは神様の要求とずれた所で、一生懸命生きています。それがあの建設的視野というものです。今、神様が望まれる所に並んで生きるという事はどういう事ですか?私の学校生活は、会社での生活は、家で、教会生活、兄弟姉妹との関わりで、「どう私がそれをデザインしたらいいですか?」というのが建設的視野。「それは来ています、それを求めましょう!」と、おっしゃいました。どのようにこの頭、キリスト様は地上を歩まれたのでしょうか?今日のタイトル「聖霊によって」。ウッドロフ先生はおっしゃいました。私たちの求めるべき、「私はそれが欲しいです!」という建設的視野というのは、命の流れ、恵み、当然それは使徒的な恵みです。使徒的恵みを通して聖霊によって生み出されるものです。聖霊によって与えられる能力です。あなたの頑張りや、能力や、訓練や、それによってその視野が、すなわち「地上でどう生きたらいいですか?」というデザインです。それを生み出す事はできません、聖霊によってでしか。何かこう頑張っているのに、取り組んでいるのに空回りしている気がするという人がおられたら、ちょっと問うてみて下さい。私は聖霊と共に、その取り組みをしていただろうか?私は自分の考えがまずあって、自分の好みがまずあって、それから一生懸命頑張って何かを取り組んでいたのだろうか?私は聖霊に聞き、聖霊の促しに従い、聖霊に敏感になり、聖霊とやり取りし、聖霊によって祈り、これを全部言い換えたら、「信仰によって」という事です。していただろうか?その事を問うていただきたいのです。
頭であるキリスト様は、まさに聖霊によって生まれなさった方です。イエス様は聖霊によって身ごもりました。マリヤが聖霊によって身ごもった時に、御使いはまずマリヤの所に現れました。そしてその後、婚約者であったヨセフは、ひそかに彼女を離れようとしました。婚約中に、結婚する前に懐妊したという事が公になれば、石打ちの刑でほぼ殺されます。だからマリヤをそういうはずかしめに会わせたくなかった。彼女を守る為にという気持ちもあったでしょう。なぜ別れるのかという理由を公にしないで、自分がそっと離れたら、後で妊娠が分かったら、ヨセフの子だと世間的には思うでしょう。彼女を妊娠させて、あいつは逃げたと。自分は悪者になってもいい。ヨセフは正しい人であったと書いています。彼の中にはまだ色んな葛藤があったでしょう。ですから色々と思い巡らしている時に、御使いが夢の中に現れて言いました。「ヨセフよ、恐れてはならない。恐れるには及びません。マリヤを妻として迎え入れなさい。マリヤの胎内に宿っているのは、聖霊によるのです。聖霊から出たものです。」と、告げました。全人類を罪から救う救い主、メシヤはたくさん預言されていました。メシヤはダビデの家系から生まれなければなりませんでした。メシヤはベツレヘムという所で生まれるはずでした。でもその時にマリヤとヨセフはどこにいましたか?ナザレにいました。ベツレヘムから160キロ北にあるナザレという町です。神様がその預言を成就する為には何を用いましたか?人口調査、戸籍登録をする為に、それぞれ生まれ故郷に帰って登録をしなさいと、そこでマリヤは身重のまま160キロの旅をしたのです。神様はその様にして、ダビデの家系からメシヤはベツレヘムから生まれるという事が実現、成就する為にその様な方法を用いられました。全て聖霊によって、事は行われていったのです。イエス様はただ聖霊で生まれただけではありません。その育ちも、成長も、そして30歳からのご生涯も、その前の悪魔の試みも、十字架も、復活も、全て聖霊によってなされました。その事を改めてインプットしていただきたいと思います。ルカによる福音書2章は、イエス様は肉体的にも、又、知的にも、霊的にも、全部その成長は聖霊によったと書いています。また後で2章40節を見ておいて下さい。最初のアダムはいきなり大人でした。イエス様は赤ちゃんから生まれました。人間として他の子供と同じように成長しました。発達していきました。キリストはベツレヘムでの誕生で、その存在が始まったのではありません。永遠の初めからおられました。永遠の存在でした。永遠におられた方が世に遣わされました。イエス様の中には完全な神聖がありました。完全に神御自身でした。私たちは思うでしょう、聖書を読んだら全てのイエス様の戦いと勝利は、イエス様がスーパースターのように、神様御自身であったから、いとも簡単にそれはできたのだと。もちろん悲しみ、苦しみ、痛みは、同じように体験されました。でもイエス様は聖霊とパートナーシップだからできたのです。イエス様の人間性は最初から完璧ではなかったです。罪は犯されませんでした。でも他の子供たちと同じように肉体は成長していきました。人間性も成長していきました。聖書に、「神はナザレのイエスに聖霊と力を注がれた」とあります。それによってイエス様は成長されました。悪霊を解放する事も、多くの人を癒す事も、人となられたイエス様の、その人間性の中に天から来た神の資質が来て、それとミックスされてできたのではない。神聖は最初からありました。でもこの地上を歩まれたイエス様は、なぜ赤ちゃんから生まれたのですか?もちろん聖霊によって宿りました。でもドアからいきなり現れて、もう最初から聖霊が注がれた成人として、どこからかサーッと登場してもよかったです。なぜこの子供は、知的にも、又、身体も霊的にも発達した、成長したと書いているのですか?私たちも同じように、その年齢に於いて、発達、成熟、頭と同じ様に身体も成長するべきだからです。イエス様は洗礼を受けられて、聖霊に満たされて、聖霊に支配されて、ヨルダン川から帰って来ました。又、ルカ4章を読んでおいて下さい。聖霊に導かれて、今度は荒野に悪魔の試みに遭いに行かれました。40日間試みられました。そして聖霊の力に満たされて、そこから試みに勝利してガリラヤに帰られました。聖霊に導かれ、洗礼を受け、聖霊が鳩の様に下り、いつもイエス様は、人間イエスは聖霊に満たされて、聖霊に支配されて、聖霊に促されて、聖霊と共に歩まれて、そのように生涯を過ごされました。聖霊様抜きで、人間イエスがスーパーマンの様にされたのではないのです。その全期間、全時間、聖霊はイエスと共におられて、助け、励まし、あのゲッセネマの園で祈った時も、十字架上でムチ打たれて、背中の肉が飛び散って骨が見えて、全身血だらけになっている時も、聖霊の励ましによって力付けられ、父の御心を完全に行われました。勝利は神様が願われる完全な人、その中身、それをもって初めて勝利できます。ですから聖霊を抜きにして、この助け主を、弁護者を抜きにして、ただ自分の知性と、これまでの経験で頑張って取り組んで、教会生活をして、学校生活をして、会社で色々して、頑張って一生懸命して、それで勝利できる訳がないのです。イエス様でさえそうなされました。今、一生懸命取り組んでいる兄弟姉妹、頑張っている兄弟姉妹、何がしか葛藤し、悩み、考え、取り組み、もしかしたら何も取り組まずにただ何となく日を過ごしている方もいるかも知れませんけれども、それぞれの信仰に応じて取り組みはされていると思います。イエス様は内におられる父が遣わされた、聖霊は父の霊です。聖霊は子の霊です。子は、「わたしを見た者は父を見た。」と、イエス様はおっしゃいました。子は父を啓示します。聖霊はイエスを啓示します。聖霊を通して私たちは神の人格、イエス様を見ます。そしてこの方を通して父を知ります。その父と子の霊、聖霊があなたの中に今おられます。それを見ます。
コリント人への第一の手紙6章19節~20「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」あなたは知らないのですか。
あなたの身体は神様から受けて、自分の内に宿っている聖霊の宮です。だからパウロは言っています。「生きているのはもはや私ではない。」私の内に私はいない。身体はあるけど、私は生きていない。私は死んだという事は、消滅しました。私はキリストと共に十字架に付けられた。私は死んでいるから何の活動もする事はできません。私はもう消滅してそこには見る影もありません。じゃあ一体誰が生きているのですか?キリストが私の内に生きておられる。キリストと共に私の命は機能している。聖霊がおられる。だからあなた方はもはや自分自身のものではないのです。自分なのですけど、自分のものではない。「主よ、私ではなくあなたです。私の願いではなくあなたの願いです。」「主よ、私のこれが好き、あれはあまり好きではない。」ではなくて、あなたが何が好きか。あなたが何を嫌われるかです。私の人生の目的ではなくて、あなたが私の人生に持っておられる目的です。私ではなく、主よ、あなたです。私の衝動的な動機から何かを行うのではなくて、神様あなたの動機から私は行いたいです。私ではなく、主よ、あなたです。これがまさに、聖霊と共に進むという事ではないですか?
コリント人への第二の手紙1章21節~22節「あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ、油をそそいで下さったのは、神である。神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜わったのである。」神が私たちにハンコを押されました。その保証として私たちの心に聖霊を賜っています。「あなたは私のものだ!」と。「わたしがあなたを贖った。私はあなたのアイデンティティーを破壊して、新しいアイデンティティーを与えた。私の形があなたの中に形作られるようにと、その約束に私はハンコを押すよ」と、心に印を押されました。その証拠は聖霊です。もし皆さんの重要書類でも、最後に認め印がなかったら、それは有効ですか?家の権利書も、何にしても、「ハンコをお願いします。」宅配便が来て、ハンコとかサインがなかったら、その送られて来た物を受け取る事ができますか?神様があなたと共におられるという事を、どうやって私たちは自覚できるのですか?心に御霊を賜りました。これは信仰によって受け取るのです。目には見えないから。聖書を読めば読むほど、それが内に入れば入るほど、もうこれは信仰によってでないと、「どうやって神様の御心に生きる事ができましょう?」と、思いませんか?もう一つ私が聖霊によって語りたい事は、先程のDVDを通して語られたように、繋がるという事です。
使徒行伝9章31節「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって平安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増して行った。」こうしてクライスト・チャーチは、倉敷・岡山・愛媛・奈良、さらに広がり、聖霊によって平安を保ち、ウッドロフ先生も言われました。「あなたの頑張りではなくて、聖霊によって強化されるのです」と。私たちのする事は、イエス様の様に、この方に依り頼んで、聖霊様に依り頼んで、自分の好みから離れて、自分が無学だという事を認めて、この方と共に信仰によって取り組む事です。挨拶をする事です。弱っている人に声をかける事です。共に祈る事です。集会に出る事です。喜んで捧げものをする事です。感謝してお掃除する事です。「基礎がかたまり、主をおそれ聖霊にはげまされて歩み、」そうしたら次第に、次第に、次第に信徒の数を増して行った。正しく機能しているから。だから私たちは共同のプロセスというものに価値を置かなければなりません。孤独であってはならない。共同のプロセス。一緒に旅をしている。互いに影響を与え、この兄弟とこの兄弟、この姉妹とこの姉妹、このチームとこのチーム、指導者と聖徒たち、互いに繋がって影響を受け合って、そこに価値を置かなければならないのです。神様はあなたをその孤独の場所から取って、チームの中に置かれるのです。繋がりの中に置かれるのです。あなたを孤独な場所から引き出して、この使徒的な恵み、命の流れのコンテキストに置かれるのです。その家族の中に置くのです。繋がるという事は、絶対的にこれは不可欠な事です。
クライスト・チャーチ40年の歴史も、先生たちもこの繋がりというものを本当に大切にされて、神の国の文化を作ってこられたのです。文化というのは人々です。聖霊とのパートナーシップがないと、何も建て上げられないのと同じです。神様の枠の中に、私たちが入ったら、本当に自由です。真理は人を自由にするのです。神様の大きい枠というのは、そこには愛しかないのです。そこには自由しかないのです。そこには真実しかないのです。そこには争いがない。妬みがない。優越感や劣等感もない。悲しみも痛みもないのです。神様はその中に入れたいのです。
命は血だと言いました。体中に張り巡らされている血管を繋げたら、地球2周半。それ全部命です。使徒的恵みはその様に、キリストの身体である私たち教会、共同体、このコミュニティーの中を張り巡らせています。使徒的恵みは、神様が今私たちに要求されている事です。ですから皆さん、聖霊によって歩みましょう。聖霊によって繋がるのです。色んな思い、感情を超えて、イエス様がそうされました。聖霊によって生まれなさって、イエス様がこうおっしゃいました。「私は一人ではない。父は私を一人にはされない。なぜなら私はいつも御心を行っているから。私と父とは一つです。」だから聖霊と共に歩まれました。聖霊と共に歩まれたから勝利されました。私たちも地上で後、何十年生きるか知れませんが、完成まで、この旅が終わるまで、あなたは聖霊と共に進んで下さい。兄弟姉妹の、共に歩むその歩みが必要です。皆さん覚えて下さい、聖霊によって繋がるという事を。さあ2020年も、後もう少しです。コロナは益々増えております。でもそれがどうしたのですか、神様がされているのでしょう。神様に喜ばれる事を粛々と日々行うのみです。恐れないで下さい。あなたは強い人です。聖霊の助けがいつもあるからです。この1週間も、人々に良い事をして進みましょう!
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