今日私たちが見たいのは、成熟の行いの三番、「彼の死と等しくなる。」これを今日は全て語りたいと思います。サモーフォスという言葉が語られています。それは十字架の枠の中に流し込まれるという意味合いが含まれています。私たちは十字架の枠の中に流し込まれなければならない。この「彼の死と等しくなる」の三番目は、5つに分かれているという事を、私たちはこれを通して学んできたと思いますが、それを今日はもう一度皆さんと一緒に学びたいと思います。いったい何をこれは私たちに語っているのか?その中心的な真理が皆さんに今日深くわかれば、我々が実際にこの真理をどのように生活の中で表していく事ができるかという事を理解する事ができると思います。御言葉は必ず私たちの行いにまで現れなければなりません。それが御言葉の力です。御言葉が知識だけに留まるなら、あなたは律法的な人になるだけであって、何の良い影響も人々に与えません。私たちがそれを生活の中で具現化していく、それこそが神様の御心です。ですからそれを見ていきましょう。この十字架の枠の中に流し込まれる、すなわちその1番目は、1.「自分の考え、自分の思い、自分の夢を剥ぎ取る。」これが、彼の死と等しくなるという意味の1つ目です。自分の考え、これはこの地上で私たちが生まれてから、色んなこの地上の知識や、経験や、能力で得たあなたの性格が確立していった、その内容です。十字架は、その考え方を剥ぎ取ります。この世は、もう生まれた時から罪の世界です。又、聖書ははっきりと、「正しい人は一人もいない。」と、書かれているように、生まれた時から私たちは罪人です。すなわち私たちの考えは良くありません。この地上で生まれて、この地上の体制、例えば私たちは日本国で生まれたら、日本の国の考えに染まっていきます。そしてその中で私たちは生きていきます。それがあなたの性格、性質になっていくのです。その考え、又、あなたがそれによって培われてきた自分の思いというものがあります。そして次が、自分の夢、この地上で描いた夢です。すなわちこの地上であなたが持つ夢です。このようになりたい。こうしたい。それに向かって私は進む。そういったものを全部十字架は剥ぎ取ります。これを肉のキリスト者は非常に気に入らなく思います。だったらもう自分というものが無いじゃないか。そう、あなたというものが問題なのです。私たちが十字架の枠の中に入れられる為には、1.「自分の思いや自分の夢を剥ぎ取る」事によって、私たちは他の為に生きるという新しい世界に、私たちを十字架は連れて行ってくれるのです。多くの世界の、又、日本のありとあらゆるイエスを知っていない者たちは、全部自分の考え、自分の思い、自分のビジョン、夢に従って生きていきます。そしてその結末は、死です。私たちがこの死の世界から脱却する為に、キリストは十字架にかかって下さいました。キリストの十字架は、私たちを十字架の枠の中に入れる。十字架が持っているその思想、その中に私たちを入れてくれるのです。十字架によって私たちは、自分の考えや、自分の思いや、自分の夢、これが人々を不幸にし、この呪われた世界を生み出しているという事を皆さんはご存知ですか?この全ての国々の、全ての政治、又、経済、社会、医学、全てのものは自分の栄光の為です。私たちが十字架で死ぬ時、私たちは自分の栄光を求めない生き物になるのです。他の人の為に生きるという思想が、ここに含まれています。これは私たち人間にはない思想です。人間は皆、自分の夢や、自分の考えや、自分の思いが実現する事の為に生きています。それが争いになり、戦争になり、憎しみや、妬みや、怒りや、憤りを生み出していくのです。そして本当は幸せになりたいにもかかわらず、人々は悲しみと絶望と、そして最後は死で終わる。何とも言えない人生を、全ての人類が送ってきたのです。しかし十字架は私たちに、他の人の為に生きるという新しい思想を持たして下さる素晴らしい力が十字架の力です。
2.「自分の破壊を実現する。」これは自我です。自分というものが人から非難を受けたり、又、自分自身のプライドを傷つけられたり、自分というものを持っている者は、いつも争いがあります。そして、怒り、憎しみ、妬み、絶望、失望、悲しみ、苦しみ。こういったものは、自分というものを持っている所から生まれて来るものです。その自分を破壊する事、十字架はその力があるのです。自分というものを破壊します。十字架は、私の人生の中に新しい契約を実現していくのです。イエス様が仰せられたように、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、新しい世界に入ります。」この世界ではありません。この世の考え方ではありません。あなたは新しい契約を、イエス・キリストと結ぶ。それが十字架です。それは全く新しい契約です。それはいったい何でしょうか?他の人の為に生きるという人生です。だからこの意味は、1番も2番も同じです。5つの事を言いますけども、全部、同じです。その考え方で生活する。
3.「私はキリストと共に十字架にかけられた。生きているのはもはや私ではなく、キリストが私の内に生きているのである。」これが十字架の力です。私はキリストと共に十字架に付けられた。キリストだけが十字架にかかったのではない。私たちがイエスを信じるという事は、2000年前にイエス・キリストが十字架にかかった時、私も共に十字架に釘付けられた。その真理を聖書は語っています。あなたも十字架で釘付けられたのです。だから生きているのはもはやあなたではない。キリストが私の内に生きておられるのです。だからこの肉体は、この事の為に使う為に今あるのであって、自分の考え方や、夢や、ビジョンや、又、思いや、そういう事の為にこの肉体を、もはや私たちは使わない。なぜならこの肉体は十字架と共に、もう十字架に付けられてしまった。キリストが私の内に生きておられる。その事の為にこの肉体を用いるのです。ですからこういう事が言えます。私の生活(結婚生活・子供との関係・仕事に関する事)は、地上とは異なる場所から流れて来て、それが私の内に、今あるのです。十字架の枠の中に私たちが入る時、私たちは上からの考え方が私の内に今あります。ですからキリストが私の内に生きておられるのです。あなたはもう死んだのです。明確にそう書いています。キリストと共に十字架に付けられた。生きているのはもはやあなたではない。キリストが私の内に生きておられる。だから私たちは、上の領域、その考え方で生活する。それは全く世の中の結婚生活や、子供の躾や、仕事の価値観や、又、この世の経済的観念や、ありとあらゆるものは、この世からの考え方では一切もうない。キリストが私の内に生きておられる、その考え方が、あなたに結婚生活の考え方を、新しいものとして下さるのです。だから結婚生活と言えば、結局夫にとっては妻です。妻にとっては夫です。又、家族の意味で言えば、父親としては、子供。又、母親としては子供です。子供から言えば、お父さん。子供から言えば、お母さんです。すなわち自分ではない。皆、他の為に新しい考え方で家庭生活を送るという事です。ですから地上とは異なる場所から流れて来ているものが、今私の内にあるのです。それが十字架の力です。あなたのその地上の考えは、もう死んだのです。それを出すと、それがあなたを不幸にするのです。
4.十字架は「過去の歪みを矯正する。」あなたがこの地上で経験してきた過去のあなたの歪み。ある人にとっては、それは傷でしょう。ある人にとっては、それは悲しみでしょう。ある人にとっては、それは今も続いているかも知れません。十字架は、過去の歪みを矯正してしまいます。私の内の古き人は、キリストと共に十字架に付けられた。もう私の古い人は死んでいるのに、どうして死んでいる私が、過去の自分の経験や知識によって、矯正されずに歪んだままで生きる事ができますか?もう歪んでいないのです。もう十字架によって矯正されて、背筋はまっすぐになったのです。キリストと共に私たちの古い人は十字架に付けられたのです。もうあなたの、「何でこんな親から生まれたのだろう?」とか、「何であの友達は私にあんなひどい事を言うのだろう?」とか、「何で私の頭は悪いのか?」とか、「何で私はこんなに頭が良いのかなあ?」とか、それは全部歪みです。その古いあなたはキリストと共に十字架に付けられた。もう過去の歪みはないのです。そんなものはもうあなたには存在しません。十字架はその力があるのです。だから彼の死と等しくなるという、この4番目もその意味です。
5.「上への門が十字架」です。ですから十字架はこの地上のものではないのです。十字架は上へ向かっての門なのです。そこが私たちの行く場所であり、そこから今、流れて来ているものが十字架の力です。だから、栄光の場所へ行く事が唯一の私たちの望みです。この地上で墓の中に入る事が私たちの望みではない。私たちは上へ向かって、十字架の門に向かって進んでいるのです。望みはそれだけです。この地上でどれだけたくさんのお金を持っていても、棺の中には入れられない。彼も死ぬのです。彼も滅びるのです。もし十字架を信じないなら、永遠の滅びです。しかし十字架は栄光への門です。私たちはその為にのみ生きているのです。1~5の、これら全ては何を表しているか?それは、他の人の為に生きる事。この新しい世界の中に私たちを導く為の力です。これがキリスト者です。世の中の全ての人間は、己の考え。己の思い。己の夢。この為に生きているのです。私たちは十字架によってそれを剥ぎ取られました。そして新しい世界が目の前に映し出されました。それは他の人の為に生きる事です。それがキリスト者の生活の土台です。それが私たちの幸いです。それが生まれて来た真の目的です。この世の人はそのようなものは絶対に受け入れません。どうしてですか?罪があるからです。罪とは自我です。いつも自分というものを非難されたり、否定されたり、ひどい事を言われたりすると、憤りや、怒りや、憎しみや、妬みや、ついには殺意まで、そしてそれが国に及ぶ時、戦争という事になり、あの75年前の第2次世界大戦の時に、どれだけの人が死んだか。たった75年の平和でした。世界は刻々と変化していきます。けれども今、世界中に核を持っている国がたくさんあるのです。一つの国がそれを使ったら、もう連鎖する事は間違いないです。人間は自我がある生き物ですから。そして殺し合って、全てが灰になります。火をもって神様は、この世界を終わらせます。それが聖書にはっきり書かれています。けれども私たちは他の為にこの世界の中で生きていく違った人種です。上への栄光だけを求める民です。ですから正しく生きる事が私たちの喜びです。いつも私の考えの中では、あの人に何かしてあげようか、あの人の所へちょっと行ってあげたらいいかな。あの人に何か今度してあげたらいいかな。別にお金だけでない。ちょっと行ってあげる事だけでも嬉しい。そういう他の為に生きるという事が、もう身体に染み付いてこなければなりません。己の事ばかり考えていたら、あなたは本当に不幸になります。愛する兄弟姉妹、私たちは新しい生き物です。イエスの死と等しくなった者です。イエス様は私たちの為に死んで下さったのです。他の為に死んで下さった、唯一の模範者です。では御言葉を見てみましょう。
1.エペソ人への手紙2章8節~10節「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」その為にあなたに信仰を与えたのです。あなたを救った目的は、この地上の価値観で生きるのではなくて、神様の新しい契約、過去の歪みを矯正してしまって、違った思想から出て来るもの、又、あなたの夢や考えや思いを剥奪して、違う領域からの思想、それによって私たちは良い行いをするように、イエス様はあなたを造ったのです。あなたを造った目的は、己の為に生きるのではなくて、十字架を通して、人の為に生きるという事が神様の御心です。そして私たちはもうその資源を持っているのです。キリストを私の内に持っているのです。この方は他の為に生きたのです。あなたはその種を宿しているのです。
2.マタイによる福音書22章37節~40節「イエスは言われた、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。』これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている。」今に於いて、神を愛するとは、十字架を信じる事です。神を愛するというこの言葉は、律法時代の言葉です。だからイスラエル人は、この二つの戒めを守っていた。しかしそれは律法によって守っていた。律法によって彼らは神を愛した。そして自分を愛するように、あなたの隣人を愛する。これは、本当はできない言葉です。自分を愛して人を愛せますか?自分がなかったら人を愛せます。人を愛したら自分を愛せないです。自分を愛したら人を愛せないです。だからこの二つ目の、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。」という言葉は、律法です。できない事を聖書は告げています。しかしイエス様がこれを言われた時、次の御言葉があります。見てみましょう。
3.ヨハネによる福音書13章34節「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」「わたしがあなたがたを愛したように」の「愛した」は、現在形ではないです、過去形です。愛したのです。これは預言的な言葉です。まだこの時、イエス様と弟子たちの関係は続いていました。まだ十字架にかかっていません。けれどももうすぐイエス・キリストは、十字架にかかってこの御言葉を実現します。「わたしがあなたがたを愛した。」何で?十字架で身代わりの死を遂げた。これは他の為、すなわち弟子たちである、お前たちひとりひとりの為に、私は他の為に生きた。という証です。十字架は他の為に生きる為の証です。世の中の人は、キリストがおられません。だから他の為に生きる事はバカバカしい事であって、一度しかない人生、何でも自分の思い通りに生きる事が幸せだと思っています。私たちは栄光の門を目指しているのです。この地上だけで終わる世界ではないのです。永遠が私たちの望みなのです。ですからこの一時的な地上の中で人の為に生きる事は、私たちキリスト者にとって喜びです。イエス様ご自身が他の為に生きたのに、皆さん、お金持って死ねないです。その愚かな譬え話をイエス様はおっしゃいました。金持ちが、もうたくさんの豊作の年を迎えて、「ああもう蔵がいくらあっても足らないなあ。今年はもっと蔵を建てて、この豊作になった穀物を取り入れよう!」この時、上から声があった。「愚か者よ、お前が今日死んだらこれらの物は誰のものになるのか。」こうイエス様はお話されました。地上の物はどんなに得ても、それによって満足できません。又、芸能人や有名人が、どんなに素晴らしい栄光を得たとしても、彼らの最後は滅びです。どんなに美しい女性であっても年は取ります。そういうものに望みと価値を置いているこの地上に、何の望みがありますか?兄弟姉妹、あなたを救い出して下さった十字架の価値を、私たちはこの成熟の行いの三番目のランクとして、「彼の死と等しくなる。」私たちはその種を宿しています。キリストを宿しているのですから、あなたの生活の中で日々実行して参りませんか。私も一生懸命、今それをやっております。ですから最近は人の為にする事は、損という思いは一つもありません。時間も捧げるし、行動も捧げます。それからちょっとはお金も捧げます。人の為にする事ほど、嬉しい事はありません。楽しい事はありません。皆さん、一日一回は良い事をしましょう。それをいつも考えましょう。ちょっと隣の人に、なすびの炊いたのを持って行ってあげてもいいし、又、友達が何か悩んでいるなら、何も気を使わないで、その友達の所へただ行って、「今日なんか俺来たよ!」それだけでもいいです。「別に悩みがお前あるのか?」という事を言わなくてもいいです。「今日なんかお前の所に行きたかったんだ!」言うだけでも嬉しいじゃないですか。「もうそんなの帰ってくれ!」と言われても、あなたのその思い、それは上から来た思いです。その思いでそういう事をしていく事が、あなたの喜びでなければなりません。そういうものの積み重ねが、クライスト・チャーチでなければならない。その積み重ねがコングレスです。私たちは上から、コングレスから、その素晴らしい真理をいただいているのでありますから、私たちの内にあるキリストが私の内におられて、いつも良い事、他の人の為に何ができるか、小さな事でも何かしてあげよう。それが私の人生だという事を、皆さんは知っていただきたい。だからあなたはもう違う人種です。この世の人ではありません。あなたは永遠をいただいている者です。こんな肉体を持っている生き物は、幸せなんて来ません。棺の中に入る時、何にもなくなるのです。でもあなたの内にあるキリストが、あなたを導いて下さる。それが栄光の門、十字架です。兄弟姉妹、そこに向かって、本当に良い行いを喜んで行っていきませんか?あなたの財や、あなたの生活の全てに於いて、この地上に残す必要はありません。私たちの肉体が終わったら、私たちの望みの家へ連れて行って下さる方がいらっしゃるのです。キリスト様があなたを導いて下さいます。間違いなく御言葉にそう書かれています。それを信じているのがキリスト者です。ですからこれは宗教とは全く違います。これは私たちが生まれて来た真の目的です。他の人の為に良い行いをしましょう!
本当の言わんとする所を捉える事のできる、賢い人になって下さい。そして霊的な素晴らしい人になって下さい。これはウッドロフ先生が先程言っていた事と全く同じです。私たちはそういう者であります。今、私たちは完成を目指して進んでいますけれども、神様の目には、もう完成しました。「神様、来て下さい!」戸を叩いている。ノックしている。これを継続して続けていきましょう。でもこの継続の間に私たちが生活の中でするべき事は、他の為に生きる事です。どうぞ夫たる人たち、妻をもっと愛して下さい。本当はあなたの妻じゃない。主が与えて下さった人です。神の国に行ったら、結婚はありません。夫婦はありません。神の子たちです。ですから夫たる者たち、妻を愛して下さい。それは、他の為に生きるという事です。妻たち、欠点のある夫だけど愛しましょう。子供たち、不完全な父母でも神が備えられた親を尊敬しましょう、愛しましょう!という風に、私たちは他の人々の為に何かできる事はないか、絶えずその思いがあなたの内側から流れ出て来ますように、心から願います。
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