2019.9.1 木村 由智主任牧師「正確さを実践する」

 今朝は、「正確さを実践する」という事をもう一度皆さんと分かち合って、少し皆さん自身が周りの方と、「正確さを実践する」という事において神様から聞いた事、あるいは実践するようにと導かれた事を分かち合って、その後何人かの兄弟姉妹の中からコメントをいただきたいと今日は考えております。

 まず、神の言葉というものが、どんなものであったか。「正確さ」という神の言葉は、私たちに下って来た神様の資源だと言いました。天からの資源として、「正確さ」という言葉が来ました。皆さんが「正確さ」という事を思う時に、どういう風な捉え方をされるかが非常に大切だと思います。天からの資源という言葉が、まだ皆さんの耳に残っていると思いますが、それは私たちがこの地上で神様に認められた者として生きていくための具体的な言葉である、デザインされた者。だから、「正確さ」という言葉が来たら、あなたはこの地上で正確に歩んで行くという事を受け取っているのです。その「正確」というのは、非常に微妙な所で、皆さんには皆さんの自己義というのがあります。自分の正しさ、自分の価値基準というのがあります。でもそれを本当に追及して、それを主張しても、必ず相手が傷付くか、相手が嫌な思いしかしません。それでも自分は正しい事をした。それで落ち込んでいる人を見ても、あの人が間違っているのだから仕方ない。それ程強い自己義、それは本当に正確なのかどうかという事です。

 ウッドロフ先生が、「イエス・キリストは神の核の現れである」という表現をされました。「神の核の現れ」、すなわち「神様の愛の現れである」と。そこには犠牲があるという事です。自己義と神の愛とは全然違うと思います。自己義の強い人は、まず赦すという事をしっかり学ばないといけないと思います。自分がどれだけ赦されたかという事をわきまえていると、そう簡単に自分の義を通す事はできません。でも私たちは本当に愚かですから、自己義を通してしまう事があります。「正確さ」という言葉が私たちに天から来た時に、この地上で神様が望んでおられる事をするために、「正確さ」という言葉が私たちに届けられたと受け取る事が非常に大切です。そして、「私たちの中でその神様の言葉を実用化しなさい。」と、いうように言われました。

ヨハネによる福音書1章1節「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」14節「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」この所から神様の言葉、「正確さ」を実用化しなさいと言われました。「実用化」という事の簡単な説明をすると、「考えや概念、理論的な何かを地上で実際的に現実化していく事」アイデアだけに留まらず、現実へと行動していく事。「こういう風にしたいなあ、したらいいなあ。」という思いばっかりで、実際現実には移らない。また、心の中の考え方を、他の人にも理解ができ、また、経験できる現実的なもので、それを受け取る事ができるもの。私が今言った中で、3つ目の部分が非常に大切だと思います。なぜなら、この御言葉にあるように、「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。」神様の言葉が来た時に、肉としてそれが誕生していかなければならない。皆さんが「正確さ」と聞いた時に、その正確さが私たちの中から現れて来ないといけない。現れて来て、人々がそれを観察して、それを見て、それを得るという領域にまで私たちは進んで行かないといけない。それが正確さだ、というように言っておられるのです。ですから、「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。」最初に言葉があって、言葉は神と共にあって、言葉は神であった。その神が実際、実用化して、目に見える形としてイエス・キリスト様が来られたという事です。それが私たちの中に「正確さ」という言葉をもって臨んだ時に、私たちの中からも、この「正確さ」という言葉が肉となって、すなわち「人の目に現れるような形にならなければなりません。」と、言っているのです。皆さんそれを聞いて、どういう風に受け取られましたか?ウッドロフ先生が御自身の譬えで、コングレスの始まり、1987年から今日までの旅。最初に神様の言葉が天から降りて来たと言われたのを、私たちはDVDで見ました。それ以来、その資源がただ知識として留まっているのではなくて、他の人々にも理解でき、他の人々がそれを受けたら、それに触れたら、経験する事ができ、具体的、現実的なものに変わっていっているというのが、このコングレスWBNです。その言葉が32年前に来て、そして今、2万以上の教会がそこに来るという事は、その神の言葉が肉となって現れて、それを見て、それに触れて、その中に留まって、ここまで私たちが来ているのです。はっきりと形に現れ、人間の生活に見える形となっている。他から見て観測可能であり、経験できるものでなければならない。だから私たちの中におられるキリスト様が、私たちの生活の中で現されて、そして人々がそれに触れて、そしてそれを観察して、それを経験して、神の国に入る事ができるという事です。その事を私たちは、本当にやっていかなければならないと思います。皆さんの中に正確さという言葉が来ました。さあ皆さんはこの1週間、それをどのように考えられましたか?神の言葉は肉となって現される。そして我々におとずれた。神の言葉は見える形となって、観察可能となって経験される必要があります。何を皆さんは正確に行わなければならないかという事を感じられましたか?私は何を改めるとか、そうしないといけないというような事を感じられたでしょうか?我々の中で正確さが肉となって現れて来なければならないのです。だから結婚している男性は、神様を愛していると言うなら、その神様を愛する愛で、本当に奥さんを愛する。奥さんに、「だまっとけお前!余計な事をするな!」って。神様が何かしたら、「うるさい!余計な事するな!」って神様に言いますか?「そんな事しません!」と、皆言うでしょう。でも奥さんに偉そうに言っていたら同じです。女性も夫にちょっと気に入らなかったら、「なんて事するの神様!いいかげんにしてちょうだい!」って、誰も言わないでしょう。でも実際は、その類の事を私たちはしてしまっているのです。私たちの中に「正確さ」が来る。この14節で、「わたしたちはその栄光を見た。」という言葉があります。それは注意して見なさい。地上に現わされた物の中に、神様の本質が反映されているという事なのです。この地上に現わされた、私たちの生活の中に、神様の本質が反映されている。人々はそれを見て、神様がいらっしゃるという事を知るという事です。神の国の文化が現わされていないといけないと言っているのです。あなたの文化ではなく、神の国の文化が私たちから現わされている。そのために「正確さ」を持ちなさい。さあ、「正確さ」を持つために、皆さんどういう風な事に心がけ、取り組んでいかなければならないですか?私はこのDVDを何度も見たのですが、この日曜日に見た時に、非常に神様から大きなインパクトをいただきました。私自身の事柄として神様は私自身の思いの中に、「自分自身をもう一度査定しなさい。」というような思いを下さいました。それで私はずっと自分の今までの生い立ちの事から、神様を信じてからの霊的な生い立ちの事も、ずっと考えてきた中で、私自身の今までの、この地上での旅路を査定していって、分かりやすく一言で言うならば、私自身の中にあるエジプトという価値観を取り除いて、新たな歩みをもう一度して行かなければならないという事を感じました。私は子供がある程度年齢がいってできたので、どうしてもかわいい。そうして全く愚かな価値観を持っていたなあと思うのは、躾というものが全然分かっていなかったので、自分が道を踏み外して生きて来たので、もし子供が道を踏み外したら、その時にどう対応しようかと考えたのです。私は父親がいなかったから、力づくで抑え込まれるという経験は、あまり無かった。でも学校では先輩とかに力づくで殴られたり、学校の先生にも、そういう経験はあったのですけども、自分の親からそういう事を受けるという事が無かったので、私は親として、一生懸命に腕立てし始めたのです。負けたらいけないと思って。単純でしょう。もう全然本質が分かっていないのです。それぐらいの知恵しか無かったし、それぐらいの知識しか無かったのです。恥ずかしいという事は分かっているけれども、それしかできないという弱さがあったのです。そして自分が小さい時に受けられなかった愛情を、与える事が躾だと思っていました。また、それが愛だと思っていました。その価値基準の中で、私は神様を信じて、その価値基準を持ったまま神様を信じ続けてきたのですから、人生の中の節目、節目の時に出てくる価値基準は、世の価値基準しか私の中から出て来なかったのです。そういった事をもう一度思い起して、自分が献身して自分の人生を神様のために献げたいという風に思うようになったのが、16歳~18歳ぐらいの時でした。でも私がそんな事を言っても、誰が信じてくれるだろうか?というような思いしか無かったので、私はずっとそれを自分の中に留めてきました。でもその思いが留めきれなくなって、教会の牧師先生に相談して、聖書学校に行こうと、20歳ぐらいの時から聖書学校に行き始めて、そこで本当に、私自身の何もかもが一瞬にして変わった訳ではありませんでした。その古い価値基準は、私の中にしっかりと、私自身がそれを持っていました。そうやってだんだん、だんだん、年を重ねて成長して、働きが委ねられて立場も何かしらの立場が付いてきましたけれども、私は本当にチャランポランだったと思います。いつもギリギリの所で、信仰生活を送っていました。それで結婚したのですから、家内には一瞬にして見抜かれました。家内は23歳ぐらいでした。私は36歳ぐらいでした。本当に一瞬にして、その偽りが見抜かれてしまう。でも私は全然それが偽りだと思っていなかったのです。私は礼拝もするし、奉仕もするし、というような考え方しか無かったのです。自分がいかに歪んで、愚かで、自己中心的で、もう本当に欲の塊だという事が全然分かっていませんでした。もう一度神様は、それら一つ一つの事を私の中で正確に査定して、そして今日私はそれを皆さんの前に現わす事が私自身の務めだと思いましたので、こういう私自身の証のような形で、今日御言葉を語らせていただいていますけれども、私は本当に、もうギリギリのキリスト者でした。ギリギリの教役者でした。兄弟姉妹はどういう風にそれを捉えられましたか?その中で神様が私に、「あなたは何に繋がっているのですか?」という事を非常に強く私に語って下さいました。

私も子供たちに言いましたけれど、「主にあって、両親に従いなさい。」という御言葉があります。それは何に繋がっているかという事を非常に強調している言葉だと思うのです。「主にあって、両親に従いなさい。」主に繋がっているならば、あなたの両親に従いなさいと言っているのです。当然クリスチャンの主にある者、その主にあるあなたの両親が、チャランポランであっても、それはあなたの責任ではないです。私はいつもそういう自己義を出して、「そんなチャランポランで」と、自分はもうチャランポランの大阪代表みたいなチャランポランなくせに、人を見たら、「あいつはもう世界一チャランポランや!」とか、そんな事ばかり言っていましたけども、私はかろうじて、細い糸のような形で繋がっていました。でもその99%ぐらいは、この世にしっかり繋がっていました。私は本当に愚かな事をしていたのだ。そういった事が今ようやく自分の中で認識して、そしてそういう者だったという事を認めて、私は今幸いに、この主の恵みの中で神の言葉に繋がって、「正確性」をもって進んで行く事ができるように導かれているだけなのです。ですから何も誇る必要もないですし、何もいじける必要もないですし、普通に淡々と主にあって私は生きていく事ができるという事を、もう一度再確認できました。皆さんは何に繋がっていますか?小さい時から親に連れられて来て、いつの間にかJ2、ユースに入って、イベントとか色々あって、それは本当に大切です。あなたたちをずっと神の国の中に留めるために、この世に留めないために覆いとして存在していた。だから私たちの共同体の中にはコイノニアグループがあり、様々な活動があるのは、皆さんの覆いとなって、皆さんがこの地上に舞い戻る事がないように神様が定めた組織です。その中であなたは本当に個人的に主に繋がっていかなければなりません。本当に主に繋がらなければなりません。あなたは肉の家族に繋がっているのですか?あるいはこの世の楽しみに繋がっているのですか?何に繋がっているのですか?主に繋がる、その言葉に繋がるならば、あなたはその言葉通りの人になる事ができます。そしてそれがあなたの人生の中で目に見える形となって、人々がそれを観察し、そしてそれを経験して、それを得たいという風にまで変わっていくと、私は信じています。皆さん自身は何を正確にしなければならないですか?私はもう一度、自分自身の歩みを査定して、自分がいかに愚かで、自己中心的で、汚れていたかという事をもう一度認めて、それでも神様が真実に私をここまで導いて下さったという事に、私はただ感謝しました。そして私は本当に自分自身の今のこの立場、この地上で神様が定めたこの立場を、本当に正しく行っていかなければならない。人に良く思われたいという考え方や、「きつい事を言ったら嫌がるだろうな」とか、そういった事は、もう私は止めようと思います。だからといって、今から皆さんに機関銃のように言いたい事を言うという事ではないです。でも時々言いにくい事を、さらっと言った時があったとしても、神の言葉として、その正確性を得るために、今語られているという風に受け止めていただきたいです。兄弟姉妹、あなたは何に繋がっていますか?あなたは自分の生い立ちを、本当に考えた事がありますか?あなたがどれだけ人に親切にしても、自分の妻や子供たちに親切にしなかったら、それはもう完全な偽りです。目に見える所で、どれだけ素晴らしい働きをしても、目に見えない領域で、本当に妻を軽んじ、子供を軽んじ、家族を軽んじ、家庭を軽んじているならば、それは偽りです。でも、何よりも家庭を優先するというような愚かな考え方を持ったら、それ以上に悪いです。神様を一番にしなければなりません。神様があるゆえに、私の家族がある。神様があるがゆえに、今の私の働きがある。神様があるがゆえに、この嫌な出来事が私にあるという事です。皆さん、神様がもって来た色々な出来事を、「何でこんな事になるの!」と、言うという事は、神様に向かって、「神様、なんて事を私にするのですか!?」と、言う事です。言ってはいけない言葉というのは、そういう言葉です。本当に私は言ってはいけない言葉を、ずっと言い続けていました。もう本当に愚かだという事がやっと今、この「正確さ」という言葉が来た時に、もう何と自分が愚かだったのかという事に気付きました。

これから私も、それを肉となって現れていくようにしていくプロセスの中に今います。皆さんもそのプロセスの中に入って下さい。言葉は肉となって現わされなければなりません。神の正確さがあなたの肉の中で現わされて、子供たちがそれを取って、正確に子供たちが成長して行かなければなりません。あなたがその務めている会社で、正確に事をしていかなければなりません。それが、「正確さ」です。あなたの中にある偽りを、本当に排除して下さい。あなたは自分の愚かさを認めて下さい。神様の言葉が来た事によって、自分がいかに愚かであったかという事が分かりませんか?自己中心だという事が分かりませんか?ささいな事でこだわって、自分の思う通りに行かない事に対して、本当に憤って、苛立って、裁いて、表面上は涼しい顔をしている。でもそれを受け入れたくない。そんなもの受け入れたくないから、また、人に関心を払って、俺はできている、やっているという態度。それはもう本当に愚かです。私たちはそういう愚かさを持つ者ではなく、正確に神の言葉を行っていく者です。

2019年9月1日(日)

~礼拝メッセージ~

        「正確さを実践する」

       ●木村 由智主任牧師●

今朝は、「正確さを実践する」という事をもう一度皆さんと分かち合って、少し皆さん自身が周りの方と、「正確さを実践する」という事において神様から聞いた事、あるいは実践するようにと導かれた事を分かち合って、その後何人かの兄弟姉妹の中からコメントをいただきたいと今日は考えております。

 まず、神の言葉というものが、どんなものであったか。「正確さ」という神の言葉は、私たちに下って来た神様の資源だと言いました。天からの資源として、「正確さ」という言葉が来ました。皆さんが「正確さ」という事を思う時に、どういう風な捉え方をされるかが非常に大切だと思います。天からの資源という言葉が、まだ皆さんの耳に残っていると思いますが、それは私たちがこの地上で神様に認められた者として生きていくための具体的な言葉である、デザインされた者。だから、「正確さ」という言葉が来たら、あなたはこの地上で正確に歩んで行くという事を受け取っているのです。その「正確」というのは、非常に微妙な所で、皆さんには皆さんの自己義というのがあります。自分の正しさ、自分の価値基準というのがあります。でもそれを本当に追及して、それを主張しても、必ず相手が傷付くか、相手が嫌な思いしかしません。それでも自分は正しい事をした。それで落ち込んでいる人を見ても、あの人が間違っているのだから仕方ない。それ程強い自己義、それは本当に正確なのかどうかという事です。

 ウッドロフ先生が、「イエス・キリストは神の核の現れである」という表現をされました。「神の核の現れ」、すなわち「神様の愛の現れである」と。そこには犠牲があるという事です。自己義と神の愛とは全然違うと思います。自己義の強い人は、まず赦すという事をしっかり学ばないといけないと思います。自分がどれだけ赦されたかという事をわきまえていると、そう簡単に自分の義を通す事はできません。でも私たちは本当に愚かですから、自己義を通してしまう事があります。「正確さ」という言葉が私たちに天から来た時に、この地上で神様が望んでおられる事をするために、「正確さ」という言葉が私たちに届けられたと受け取る事が非常に大切です。そして、「私たちの中でその神様の言葉を実用化しなさい。」と、いうように言われました。

ヨハネによる福音書1章1節「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」14節「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。」この所から神様の言葉、「正確さ」を実用化しなさいと言われました。「実用化」という事の簡単な説明をすると、「考えや概念、理論的な何かを地上で実際的に現実化していく事」アイデアだけに留まらず、現実へと行動していく事。「こういう風にしたいなあ、したらいいなあ。」という思いばっかりで、実際現実には移らない。また、心の中の考え方を、他の人にも理解ができ、また、経験できる現実的なもので、それを受け取る事ができるもの。私が今言った中で、3つ目の部分が非常に大切だと思います。なぜなら、この御言葉にあるように、「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。」神様の言葉が来た時に、肉としてそれが誕生していかなければならない。皆さんが「正確さ」と聞いた時に、その正確さが私たちの中から現れて来ないといけない。現れて来て、人々がそれを観察して、それを見て、それを得るという領域にまで私たちは進んで行かないといけない。それが正確さだ、というように言っておられるのです。ですから、「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。」最初に言葉があって、言葉は神と共にあって、言葉は神であった。その神が実際、実用化して、目に見える形としてイエス・キリスト様が来られたという事です。それが私たちの中に「正確さ」という言葉をもって臨んだ時に、私たちの中からも、この「正確さ」という言葉が肉となって、すなわち「人の目に現れるような形にならなければなりません。」と、言っているのです。皆さんそれを聞いて、どういう風に受け取られましたか?ウッドロフ先生が御自身の譬えで、コングレスの始まり、1987年から今日までの旅。最初に神様の言葉が天から降りて来たと言われたのを、私たちはDVDで見ました。それ以来、その資源がただ知識として留まっているのではなくて、他の人々にも理解でき、他の人々がそれを受けたら、それに触れたら、経験する事ができ、具体的、現実的なものに変わっていっているというのが、このコングレスWBNです。その言葉が32年前に来て、そして今、2万以上の教会がそこに来るという事は、その神の言葉が肉となって現れて、それを見て、それに触れて、その中に留まって、ここまで私たちが来ているのです。はっきりと形に現れ、人間の生活に見える形となっている。他から見て観測可能であり、経験できるものでなければならない。だから私たちの中におられるキリスト様が、私たちの生活の中で現されて、そして人々がそれに触れて、そしてそれを観察して、それを経験して、神の国に入る事ができるという事です。その事を私たちは、本当にやっていかなければならないと思います。皆さんの中に正確さという言葉が来ました。さあ皆さんはこの1週間、それをどのように考えられましたか?神の言葉は肉となって現される。そして我々におとずれた。神の言葉は見える形となって、観察可能となって経験される必要があります。何を皆さんは正確に行わなければならないかという事を感じられましたか?私は何を改めるとか、そうしないといけないというような事を感じられたでしょうか?我々の中で正確さが肉となって現れて来なければならないのです。だから結婚している男性は、神様を愛していると言うなら、その神様を愛する愛で、本当に奥さんを愛する。奥さんに、「だまっとけお前!余計な事をするな!」って。神様が何かしたら、「うるさい!余計な事するな!」って神様に言いますか?「そんな事しません!」と、皆言うでしょう。でも奥さんに偉そうに言っていたら同じです。女性も夫にちょっと気に入らなかったら、「なんて事するの神様!いいかげんにしてちょうだい!」って、誰も言わないでしょう。でも実際は、その類の事を私たちはしてしまっているのです。私たちの中に「正確さ」が来る。この14節で、「わたしたちはその栄光を見た。」という言葉があります。それは注意して見なさい。地上に現わされた物の中に、神様の本質が反映されているという事なのです。この地上に現わされた、私たちの生活の中に、神様の本質が反映されている。人々はそれを見て、神様がいらっしゃるという事を知るという事です。神の国の文化が現わされていないといけないと言っているのです。あなたの文化ではなく、神の国の文化が私たちから現わされている。そのために「正確さ」を持ちなさい。さあ、「正確さ」を持つために、皆さんどういう風な事に心がけ、取り組んでいかなければならないですか?私はこのDVDを何度も見たのですが、この日曜日に見た時に、非常に神様から大きなインパクトをいただきました。私自身の事柄として神様は私自身の思いの中に、「自分自身をもう一度査定しなさい。」というような思いを下さいました。それで私はずっと自分の今までの生い立ちの事から、神様を信じてからの霊的な生い立ちの事も、ずっと考えてきた中で、私自身の今までの、この地上での旅路を査定していって、分かりやすく一言で言うならば、私自身の中にあるエジプトという価値観を取り除いて、新たな歩みをもう一度して行かなければならないという事を感じました。私は子供がある程度年齢がいってできたので、どうしてもかわいい。そうして全く愚かな価値観を持っていたなあと思うのは、躾というものが全然分かっていなかったので、自分が道を踏み外して生きて来たので、もし子供が道を踏み外したら、その時にどう対応しようかと考えたのです。私は父親がいなかったから、力づくで抑え込まれるという経験は、あまり無かった。でも学校では先輩とかに力づくで殴られたり、学校の先生にも、そういう経験はあったのですけども、自分の親からそういう事を受けるという事が無かったので、私は親として、一生懸命に腕立てし始めたのです。負けたらいけないと思って。単純でしょう。もう全然本質が分かっていないのです。それぐらいの知恵しか無かったし、それぐらいの知識しか無かったのです。恥ずかしいという事は分かっているけれども、それしかできないという弱さがあったのです。そして自分が小さい時に受けられなかった愛情を、与える事が躾だと思っていました。また、それが愛だと思っていました。その価値基準の中で、私は神様を信じて、その価値基準を持ったまま神様を信じ続けてきたのですから、人生の中の節目、節目の時に出てくる価値基準は、世の価値基準しか私の中から出て来なかったのです。そういった事をもう一度思い起して、自分が献身して自分の人生を神様のために献げたいという風に思うようになったのが、16歳~18歳ぐらいの時でした。でも私がそんな事を言っても、誰が信じてくれるだろうか?というような思いしか無かったので、私はずっとそれを自分の中に留めてきました。でもその思いが留めきれなくなって、教会の牧師先生に相談して、聖書学校に行こうと、20歳ぐらいの時から聖書学校に行き始めて、そこで本当に、私自身の何もかもが一瞬にして変わった訳ではありませんでした。その古い価値基準は、私の中にしっかりと、私自身がそれを持っていました。そうやってだんだん、だんだん、年を重ねて成長して、働きが委ねられて立場も何かしらの立場が付いてきましたけれども、私は本当にチャランポランだったと思います。いつもギリギリの所で、信仰生活を送っていました。それで結婚したのですから、家内には一瞬にして見抜かれました。家内は23歳ぐらいでした。私は36歳ぐらいでした。本当に一瞬にして、その偽りが見抜かれてしまう。でも私は全然それが偽りだと思っていなかったのです。私は礼拝もするし、奉仕もするし、というような考え方しか無かったのです。自分がいかに歪んで、愚かで、自己中心的で、もう本当に欲の塊だという事が全然分かっていませんでした。もう一度神様は、それら一つ一つの事を私の中で正確に査定して、そして今日私はそれを皆さんの前に現わす事が私自身の務めだと思いましたので、こういう私自身の証のような形で、今日御言葉を語らせていただいていますけれども、私は本当に、もうギリギリのキリスト者でした。ギリギリの教役者でした。兄弟姉妹はどういう風にそれを捉えられましたか?その中で神様が私に、「あなたは何に繋がっているのですか?」という事を非常に強く私に語って下さいました。

私も子供たちに言いましたけれど、「主にあって、両親に従いなさい。」という御言葉があります。それは何に繋がっているかという事を非常に強調している言葉だと思うのです。「主にあって、両親に従いなさい。」主に繋がっているならば、あなたの両親に従いなさいと言っているのです。当然クリスチャンの主にある者、その主にあるあなたの両親が、チャランポランであっても、それはあなたの責任ではないです。私はいつもそういう自己義を出して、「そんなチャランポランで」と、自分はもうチャランポランの大阪代表みたいなチャランポランなくせに、人を見たら、「あいつはもう世界一チャランポランや!」とか、そんな事ばかり言っていましたけども、私はかろうじて、細い糸のような形で繋がっていました。でもその99%ぐらいは、この世にしっかり繋がっていました。私は本当に愚かな事をしていたのだ。そういった事が今ようやく自分の中で認識して、そしてそういう者だったという事を認めて、私は今幸いに、この主の恵みの中で神の言葉に繋がって、「正確性」をもって進んで行く事ができるように導かれているだけなのです。ですから何も誇る必要もないですし、何もいじける必要もないですし、普通に淡々と主にあって私は生きていく事ができるという事を、もう一度再確認できました。皆さんは何に繋がっていますか?小さい時から親に連れられて来て、いつの間にかJ2、ユースに入って、イベントとか色々あって、それは本当に大切です。あなたたちをずっと神の国の中に留めるために、この世に留めないために覆いとして存在していた。だから私たちの共同体の中にはコイノニアグループがあり、様々な活動があるのは、皆さんの覆いとなって、皆さんがこの地上に舞い戻る事がないように神様が定めた組織です。その中であなたは本当に個人的に主に繋がっていかなければなりません。本当に主に繋がらなければなりません。あなたは肉の家族に繋がっているのですか?あるいはこの世の楽しみに繋がっているのですか?何に繋がっているのですか?主に繋がる、その言葉に繋がるならば、あなたはその言葉通りの人になる事ができます。そしてそれがあなたの人生の中で目に見える形となって、人々がそれを観察し、そしてそれを経験して、それを得たいという風にまで変わっていくと、私は信じています。皆さん自身は何を正確にしなければならないですか?私はもう一度、自分自身の歩みを査定して、自分がいかに愚かで、自己中心的で、汚れていたかという事をもう一度認めて、それでも神様が真実に私をここまで導いて下さったという事に、私はただ感謝しました。そして私は本当に自分自身の今のこの立場、この地上で神様が定めたこの立場を、本当に正しく行っていかなければならない。人に良く思われたいという考え方や、「きつい事を言ったら嫌がるだろうな」とか、そういった事は、もう私は止めようと思います。だからといって、今から皆さんに機関銃のように言いたい事を言うという事ではないです。でも時々言いにくい事を、さらっと言った時があったとしても、神の言葉として、その正確性を得るために、今語られているという風に受け止めていただきたいです。兄弟姉妹、あなたは何に繋がっていますか?あなたは自分の生い立ちを、本当に考えた事がありますか?あなたがどれだけ人に親切にしても、自分の妻や子供たちに親切にしなかったら、それはもう完全な偽りです。目に見える所で、どれだけ素晴らしい働きをしても、目に見えない領域で、本当に妻を軽んじ、子供を軽んじ、家族を軽んじ、家庭を軽んじているならば、それは偽りです。でも、何よりも家庭を優先するというような愚かな考え方を持ったら、それ以上に悪いです。神様を一番にしなければなりません。神様があるゆえに、私の家族がある。神様があるがゆえに、今の私の働きがある。神様があるがゆえに、この嫌な出来事が私にあるという事です。皆さん、神様がもって来た色々な出来事を、「何でこんな事になるの!」と、言うという事は、神様に向かって、「神様、なんて事を私にするのですか!?」と、言う事です。言ってはいけない言葉というのは、そういう言葉です。本当に私は言ってはいけない言葉を、ずっと言い続けていました。もう本当に愚かだという事がやっと今、この「正確さ」という言葉が来た時に、もう何と自分が愚かだったのかという事に気付きました。

これから私も、それを肉となって現れていくようにしていくプロセスの中に今います。皆さんもそのプロセスの中に入って下さい。言葉は肉となって現わされなければなりません。神の正確さがあなたの肉の中で現わされて、子供たちがそれを取って、正確に子供たちが成長して行かなければなりません。あなたがその務めている会社で、正確に事をしていかなければなりません。それが、「正確さ」です。あなたの中にある偽りを、本当に排除して下さい。あなたは自分の愚かさを認めて下さい。神様の言葉が来た事によって、自分がいかに愚かであったかという事が分かりませんか?自己中心だという事が分かりませんか?ささいな事でこだわって、自分の思う通りに行かない事に対して、本当に憤って、苛立って、裁いて、表面上は涼しい顔をしている。でもそれを受け入れたくない。そんなもの受け入れたくないから、また、人に関心を払って、俺はできている、やっているという態度。それはもう本当に愚かです。私たちはそういう愚かさを持つ者ではなく、正確に神の言葉を行っていく者です。

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