2019.5.5 木村 由智主任牧師 「霊的な現実」  

今日は霊的な現実という事を私たちは理解していきたいと思います。長老のメッセージを皆さん覚えていますか?私たちはただ許された者であるという事の理解が本当に必要です。皆さんは許されただけなのです。本当にどうしようもない人間でしょう。私たちは、いかに自分が愚かであるかという事を悟らないといけません。そして神様に許されたのだという事を、覚えないといけません。許されて、今神様の恵に

よって生かされているという事を覚えましょう。7を70倍、それはもう完全な許しという事です。許し続けなさい。なぜですか?私たちが許されたから、許す事ができる訳です。自分は許されたけど、人を許さないという人、いますか?世の中はそうです。そういう聖書の話でした。自分はとんでもない、一生かかっても返す事ができない負債を、許してもらったにもかかわらず、わずかな負債をも許さなかった。これは私たちにとって、大きな教訓だと思います。私たちは許されているならば、許し続けていかなければなりません。そうする事によって、あなたは自分が許されているという事の確信と、許されている事の恵というものを理解できます。私たちはそういう者でなければなりません。それで私たちは許しを表して、多くの人々にこの許しを伝えていかなければなりません。私たちだけが許されて、気持ち良い状態になっているのではなくて、正しい恵を私たちは流していきましょう。

 霊的な現実というのは、「一人は全ての者のために立つ事ができる。」という原則が、コングレスを通して私たちに流し出されました。その究極は、イエス様が全ての人類の罪のために十字架に架かって下さったという事でした。その原則から、私たち罪許された者は、同じように全ての人のために立たなければならないという事です。あなたが許して下さったから、私もその許しを携えて人々の中に、許す事のできない問題や、人や、色々なものを許しに導いていく事が私たちの務めです。それを皆さん本当に励んでいかなければなりません。ルカによる福音書23章32節~34節「さて、イエスと共に刑を受けるために、ほかにふたりの犯罪人も引かれていった。されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架に付け、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。そのとき、イエスは言われた、『父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。』人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。」イエス様が十字架に架けられて、イエス様が言われたのは、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」以前の私たちはそうだったと思います。自分は正しいと

思っているのですけど、神様の目から見たら何一つ正しい事はないのです。でも私たちはそれを正しいと思って、信じてやっている訳です。でも神の目から見た時に、「誰一人この地上に義人はいない。一人もいない。」と、聖書が言うように、誰一人、神様の正しさに到達する事ができる者はいませんでした。でも私たちはイエス様を信じて、その神様の正しさの中に到達する事ができた訳です。それは私たちにとってゴールではないです。それが本当の意味の人生の始まりです。それは私たちがキリストの身体として私たちを完成させる事。完成させるというのは、私たちをキリストの身丈にまで成長させていく事、成熟させていく事と、このキリストの事を知らない人に、キリストの事を伝えていくという全ての事が含まれています。以前はキリストの事を伝えていくという事だけが中心的な考え方が多かったと思います。でも今は私たち自身も建て上げ、そして、まだキリストを知らない人たちも神の国の中に入って正確に立ち上げていくという事をしていかないといけません。そのために私たちが救われているという事をより深く悟りましょう。ですから皆さんの務めは、完成させていく事です。あなた自身を完成させる事と、そしてキリストを知らない人たちをキリストの元に導いて、その人たちを完成させていかなければならないです。それが私たちの務めです。皆さんその務めに従事しましょう。そのために皆さん私たちは許しをいただいているという事を覚えなければなりません。では具体的に私たちがどのようにしてそれをこの地上でなしていくかという事を今日見ましょう。

 救いというものは罪の許しではなくて、キリスト様の御性質を私たちの中に流し込んで、その形の中に私たちを形成していかなければなりません。今までは罪によって形成されたあなたの価値基準や、考え方や、行動パターンや、言動があったでしょう。でも十字架によってそれらのものは完全に取り除かれて、あなたの中に神様の御性質が流れているという事を受け取らなければなりません。私の中にあるものは、神様の御性質が流し出されている。それが私たちの霊的な現実であるという事です。その霊的な現実を何のためなのか?それはこの地上において私たちが神様に変わって、神様の代表として立つためです。ですから前回、「信仰による義人は生きる」という事を言いました。この地上で、どんな事があっても、どんないやな事があっても、正しい態度と、正しい判断をし続けていく事が、信仰による義人だという事を言いました。少しの嫌な事で、すぐに機嫌をそこねたり、自分の態度を悪くしたり、言動が悪くなるのは愚かです。幼稚です。私たちの中に流し込まれた霊の本質は、そういうものは含んでいません。私たちの中に流されているその本質は、大人として成熟していくための、本当に大切なものが私たちの中に流し込まれています。それを皆さんは受け

取ったのです。だから信仰が必要なのだという事です。信仰が無かったら、神様は喜んで下さらないと聖書に書いてあります。もしあなたが神様を喜ばしたいと思うならば、信仰によって全ての事を受け取るべきです。自分に批判的な事、自分に都合の悪い事、全部あなたは受け入れて、何もないかのごとくにそこに立ち続けなければなりません。神様はその立ち位置を私たちの中に明確にした時に、次のステップに御自身の働きを示して下さる訳です。どんな事があってもあきらめないで、最後まで私たちはこの地上で進んでいかなければなりません。洗礼を受ける時に聞きます、「どんな事があっても神様から離れる事なく、イエス様に従いますか?」あれは儀式的に、洗礼を受けるために私がする質問ではなくて、神様が問いかけた問いに対して、「神様、私はそうします。」と言う事です。ですからどんな事があっても私たちはこの地上の出来事に対して屈服しない。絶対にあきらめないという信仰姿勢が必要です。肉の強さではありません。その人をやり込めるためにじょう舌になる必要はありません。地上のランクを上げる必要もありません。「見返してやる!」そんな考えも必要ありません。私たちにとって大切なのは、その流し込まれている霊の本質にいつも目を留めていく事です。霊的現実の中にあなたは立ち続けていかなければなりません。十字架によってそれを受け取りました。愛によってそれを受け取りました。だから私たちは許されているがゆえに、無条件に人を許す事ができる訳です。「でもこの夫を許し続けるのは無理です」って言いたいでしょ、奥さんたち。別に「アーメン!」と言ってもいいです。本当だから。本当に私たちは、そういうプロセスの中で、神様の愛の本質をもっと正確に知らなければならないです。あなたのために命をかけるという事は、「あなたの本質を全部取り除いて、私の本質を入れますよ。」という事です。「無条件の本質をあなたの中に入れますよ。」という事です。今まで私たちは条件付きで

しょう。ユースでも、婚約、あるいは結婚するという人たちがだんだん出てきますけれども、神様の導きでするのです。神様によって導かれたという信仰に立ってやるから、どんな事があっても神様の導きだという所に、その原点に帰れる訳です。自分で選んだら、気に入った、気に入らない、「もういやだ!」ってなる訳です。人間的価値基準をださない。それ程までに私たちは、自己中心的で、勝手な者であったにもかかわらず、無条件で許しを受けた訳です。その許しを受けた我々が、今度は条件を付けるという事は、長老のメッセージで言われた、「返せない負債を許してもらったにもかかわらず、わずかな負債に目くじらを立てている」という事です。ですから何事も信仰によっていかないといけないのです。信仰によって生きていくという事は、あなた自身を神様の性質へと変えていくのです。そしてあなたを強くするのです。この地上のどんな問題や、どんな出来事においても、それを乗り越えていく事ができる力です。それを皆さん持たなければなりません。この世の楽しみは一時的です。本当に一時的です。時々私たちの心に感動を与えるようなものも沢山あります。でも私たちに本当に感動を与えるのは、神様の愛以外にはありません。それは私たちが許されているという事です。兄弟姉妹、許されていますか?じゃあ許しましょう!聖霊によってのみ、神様の愛を知る事ができると書いています。「聖霊によって神様の愛が注がれている。」だから聖霊以外に、この神様の愛を受け取る事はできない。だから霊的な者だけが、霊的なものを受け取る事ができる。私たちはイエス様を信じて、霊的な者に変えられた訳です。肉体は持っています。でもあなたの本質は霊です。その霊で私たちは愛していかないといけないのです。こうしてくれたから愛する。こうするから愛する。これはこの世の価値基準です。そういう価値基準で私たちは歩んではいけません。

ペテロの第一の手紙2章1節~5節「だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。」これが私たちの務めです。あらゆる悪意や、偽りや、偽善や、そねみや、悪口全部、捨てなさい。その物はあなたの中に入る余地はありませんと聖書は

言っているのです。乳を求める赤ん坊のように、熱心に霊の乳を慕い求めなさい。それは御言葉を求めなさいと言っているのです。なぜ私たちは御言葉を求めなければならないのですか?それは自分の考えや、過去の習慣や、色々なものにとらわれずに、神様が何をおっしゃっているかという事に耳を傾けるためです。あなたがどれだけ苦労して育ったか、どういう環境で育ったか、それは一人一人違うでしょう。でもそれ以上に私たちの中に影響を与えるのは、神様の言葉しかありません。あなたの経験や、考えではありません。神の言葉があなたに影響を与えます。だからあなたは神の言葉を求めなければならないのです。霊の乳を慕い求めなさい。赤ちゃんの時は乳を飲んで成長していく訳です。でもそこには全ての栄養が含まれている。同じように、この地上で霊として生きていくための、全ての必要が御言葉の中にある訳です。だから御言葉を求めなさい。だから御言葉を読みなさい。自分の聖書を開いて御言葉を読んで下さい。そうすればどこに何が書いてあるかという事が分かるようになってくるでしょう。どれだけ聖書を読んだかとか、どれだけ御言葉を知っているか以上に大切なのは、あなたが御言葉を愛しているかどうかです。御言葉を愛しているならば、あなたは御言葉の書いてある通りの事をするでしょう。御言葉にはその力があります。

2節に書いてあるように、「それによっておい育ち、救に入るようになるためである。」じゃあ救われていないのかという風に皆さん思うかも知れませんけども、救いに入るようになるためというのは、完成するためですという事です。あなたはまだ十分救われていないですよ、という事ではなくて、完成するためにこれを追い求めなければならないという風に言っているのです。あなたは自分の人生を、神様にあって完成させたいですか?じゃあ神様の言葉を求めて下さい。どんな自分の愛するもの以上に神様の言葉を求めなければなりません。そうするならば、あなたは完成へと必ず到達する事ができます。3節で、「主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知った」それは、何度でも許しなさいと言われている御方です。私たちは自分が許されたという事を、本当に知っていますか?許されたら、あなたは過去の自分の傷や、考え方によって行動しないという事です。神様の言葉によって行動していく者に変わっているという事です。それによって私たちは自分を保つ事ができているのです。私は許されているという事によって、私たち自身を保つ事ができているのです。許されていないと感じるから、何かをしないといけないという衝動にかられて、良い事をしたい、何か人のために助けたいという衝動にかられる。そして自分が、ありがとうと言われたり、賞賛を受けたりする。でも逆です。私たちが許されているがゆえに、神様に「感謝します!」と言うのです。「神様感謝します。神様あなたが許して下さっているから、私は自分を保つ事ができています。ありがとうございます。」これが正しい事です。だから人から賞賛を求めない。4節にイエス様は、「人には捨てられたが、」という風にあります。皆さんは人に捨てられたいですか?捨てられたくない、良く思われたい。会社でも一目置かれたい。自分のコミュニティーでも、あの人はいい人だと思われたいです。それが偽りだと言うのです。人にどう思われるか以上に、神様からの賞賛を求めたというのが、イエス様の生き方です。皆さんは何を求めていらっしゃるのですか?人からの賞賛ですか?人から良く見られたい。どれだけやったかという事を認められたいのですか?神様が私たちにした事は、私たちが何も神様の事を気に留めなくても、神様はイエス様を十字架に架けるという事をしました。私たちは何も気にも留めません。気に留める所か、神様を否定し、自分の事しか考えない者のために神様は私たちの所に来て下さった訳です。皆さん、人からの賞賛は求めないようにしましょう。それによってあなたは自分を保っているならば、人から賞賛を受けられなくなった時に、あなたは壊れてしまいます。そうであってはいけません。神は人には捨てられた。この世の人たちの価値基準は、どうでもいいというぐらいの信仰を持たなければなりません。この恵は拒絶です。人から拒絶される事。皆さん拒絶した事あるでしょう、夫婦の間でも。人間関係の中でも。でも私たちは許されています。拒絶される事を受ける事は、私たちの中に感謝と喜びを与えます。キリストはそれを受けました。人には捨てられた。拒絶されました。この地上からは拒絶されました。でも彼の中には、神から愛され、許されているという事がありました。どれだけこの地上のものが自分の能力を否定し、自分の存在を否定し、自分の言動を何一つ評価しなかったとしても、あなたの中には神様から許された、愛と喜びと感謝があります。それを受け取って下さい。あなたの中にはそれがあります。この地上ではあなたは何の価値も無い、人には捨てられたような者であったとしても、神が私たちに与えて下

さったものは、許しと喜びと感謝です。それを皆さん正しく受け取って下さい。それがあったら十分です。それ以外のものは、本当に必要ないというぐらいです。トゲのある言葉や、自分勝手な言葉、それは全部罪です。それを全部取り除いてくれた訳です。私たちの中にはそれが出てくる本質、それを出そうとしていたそのものが、私たちの中から完全に取り除かれたのです。皆さんそれを信じていますか?だからどんな事があっても、そんな言葉は出さないという事を、私たちは信仰によってする事ができます。自分を変える事ができると信じます。イエス・キリストによって、キリストが私のために十字架に架かって罪を取り除くというのは、私が本当に無意識で、何も考えないで出てきたそういったものまでも、完全に除去して下さって、御性質を私たちの中に与えて下さった。それが私たちです。そのようにして私たちは進んでいかなければなりません。罪は私たちに過剰に反応させます。正しい事を行わせないために、私たちに怒りを持ってきます。憤りを持ってきます。口では許すと言っても、態度が全然許していない。許したら、もう許します。何も無かったようにします。神様はそうしました。それが私たちの中に流れている本質です。兄弟姉妹それをもう受け取っています。私たちの中にはそれが流れています。それが私たちです。

ルカによる福音書23章35節~39節「民衆は立って見ていた。役人たちもあざ笑って言った、『彼は他人を救った。もし彼が神のキリスト、選ばれた者であるなら、自分自身を救うがよい。』兵卒どももイエスをののしり、近寄ってきて酢いぶどう酒をさし出して言った、『あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい。』イエスの上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札がかけてあった。十字架にかけられた犯罪人のひとりが、『あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ』と、イエスに悪口を言いつづけた。」こういう風に言った訳です。でもこの言葉に対しても、イエス様は人間的な方法によって解決はしませんでした。それが肉に従わずに霊に従うという事です。あなたは過剰に反応してはならないのです。あなたが過剰に反応する、その罪の性質は全部取り除かれて、イエス様と同じ、霊的な反応しかできないような者にあなたは変わったのです。あなたはそういう者です。そういう者として確信をもってこの地上に立って下さい。そういう者として家庭の中に立ち続けて下さい。そういう者として職場に立ち続けて下さい。そういう考え方で、この共同体の中に存在して下さい。そういう考え方で神様に仕えて下さい。そういう考え方で神様を礼拝して下さい。それが我々です。私たちはそういう者です。

ガラテヤ人への手紙5章24節「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。」皆さんはキリストに属する者ですか?そうしたらあなたの肉、その情と欲を十字架に付けてしまった。もう完全に取り除いたという事です。ガラテヤ人への手紙2章19節~21節「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。」私たちは神様と生きるために、行いによって生きていた者を、行いによって生きるという事を止めました、という事を言っている訳です。それは、もっと分かりやすく言えば、自分は外側の身なりが美しい、その価値基準で生きていくという事を止めたという事です。自分には能力があるから、その能力をもってこの地上を生きていくという事を止めたという事です。自分は頭がいいから、その頭の良さで生きていくという事を止めたという事です。自分は家柄がいい、何々がいいと、そのへゲモンで生きていく事を止めたという事を言っているのです。まだその生き方をしている人、いますか?私たちはそういうたぐいの者ではありません。キリストと共にその価値基準は十字架に付けられて、完全に取り除かれたと言われているのです。そうしたら、神様の望むままの事を行える、その心と考え方が私たちの中に構築されているはずです。でもまだ私たちの好き嫌いが出てきます。それを私たちは取り除かないといけません。「私が今、この肉体をもって生きているのは、私を愛し、私のために御自身を捧げられた神の御子を信じる信仰によって生きている」と言っているのです。信仰による義人は、こういう事なのです。私は今、何ら変わらない外側を保って生きているけれども、でも内側に神様の命を宿して生きているのは、私は信仰によって生きているのだ。皆さん信仰によって生きていきましょう。そういう人は神様の恵を無駄にはしない。「神様の義が、行いによって得られるとすれば、キリストの死は無駄であった」そうです。神様の義を行うために、これと、これと、これをしなさい。あなたは能力が無いからこれぐらいです。あなたは能力があるからこうしなさい。そんな事を一つも聖書は要求もしないし、神も私たちに要求していません。でも私たちの意識の中には、できないといけない。失敗してはいけない。そういう価値基準がありませんか?その価値基準は要りません。神様の価値基準はそうではありません。世はそうです。ですからあなたが職場に行けば、能力を要求されるでしょう。「でも私は神様の国の価値基準だから、能力を要求されても、そんな能力はありません!」それはもうもっと愚かです。幼稚です。分かりましたと言って、神様の恵によって努力をして下さい。それができるかできないかは分かりません。できる人もいれば、できない人もいるでしょう。それによってあなたは自分のランクを下げ続けていかなければならない状況の中に置かれるかも知れません。でも、自分の本来の場所を見出したなら、そこで感謝して生きるべきです。偽って生きる事は、本当に罪です。そうするならば、あなたは許す事ができなくなります。自分をいつも保っているから。「これぐらいできて当たり前だろう!」子育てしている人、良く分かるでしょう。「何でこんな事、分らないの!」分からないのです。そのレベルなのです。そして正しく成長していったら、できる子もいれば、できない子もいる。ただそれだけなのです。でも自分の能力や、自分の生き方で、その物差しで計ろうとする時に、それは許しではありません。比較です。そうすると私たちの関係は、正しい関係を保つ事はできません。兄弟姉妹、私たちは神様の恵を無駄にしてはいけません。あなたが何か正しい事を行ったから、神様の救いの中に入ったのですか?いいえ、あなたほどひどい者はいない。心の中で何を考えているのか分からない。でもそれを神様は全部許して下さいました。無条件で許して下さいました。あなたが文句を言う前に、自分がどれだけの許しを受けているかという事を考えて下さい。苛立ちや、憤りがきた時に、自分がどれだけその同じような怒りや憤りを持っていたかという事を考えて下さい。それを全く無しにして下さった。それどころか、良いものが実を結ぶように、という風に、神様の御性質を私たちの中に流し込んで下さった。でもそれを私たちは流し出さなければ、そのままで終わってしまいます。だから兄弟姉妹、流し出して下さい。

ペテロの第一の手紙2章13節~14節「あなたがたは、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。主権者としての王であろうと、あるいは、悪を行う者を罰し善を行う者を賞するために、王からつかわされた長官であろうと、これに従いなさい。」許された私たちは、従う事ができるのです。あなたが従いたくないという思いや、考えがあるならば、あなたは本当に許しを正確に受け取っていないのかも知れません。許す者は従う事ができるのです。これは本当に大切な事です。従うという事は本当に大切な事です。その通りだと皆さん思われるでしょう。でも実際、何か事が起きた時に、無条件で、嫌です、という反応が出てくる時ってないですか?私たち許された者は、無条件で従う事ができるような恵と力を神からいただいています。それを正しく受け取って下さい。あなたは本当に神様に仕えていますか?人々に仕えていますか?「神様には仕えます感謝します。うおー!」って泣いて、人には、「ええかげんにせえお前!」これを、偽りと言います。偽善と言います。そうであってはなりません。私たちは本当に許されているならば、仕える事ができます。一切自分の肉的な感情を抑圧して、それに影響される事なく、喜んで使える事ができる。そういう者として、神様の前に私たちは存在しています。兄弟姉妹そのように進んでいきましょう。

 ペテロの第一の手紙2章15節「善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。」これは、神様からくる知恵が、私たちを正確にこの地上で機能させるという事です。牧師任命式の預言の中で、神様の知識が与えられる。それを通して私たちの中にもその恵が流れてくる訳です。神様の言葉はそういう風に受け取らなければなりません。だから私たちは喜ばなければなりません。神様の知恵と知識が私たちの中に流れてくる。私はこの地上で、それによって正しく機能していく事ができるという事を言っている訳です。兄弟姉妹、「ああ、すごいなあ!」ただ単に、「ああ、素晴らしいなあ!あんな事を言われて。」それは、兄弟姉妹、私たちのためでもあります。だから私たちは、それを正確に受け取りましょう。神の知恵が私たちをこの地上で正確にしていきます。16節「自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。すべての人をうやまい、兄弟たちを愛し、神をおそれ、王を尊びなさい。僕たる者よ、心からのおそれをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気むずかしい主人にも、そうしなさい。もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。」この御言葉の通りです。皆さん、私たちは自由な者です。どんなこの世の愚かしい、また、いやらしい事柄にあっても、私たちの内側を汚される事のない、神様の僕として自由にされたという事を覚えて下さい。あなたは自由です。何の束縛も、何の制限もあなたは受ける事はありません。神様の永遠という、無限という愛と恵が皆さんの中に豊かに注がれています。それがあなたの資源です。それによって生きて下さい。すぐに尽きてしまうような資源、すぐに無くなってしまうような考え方に頼らずに、いつも神様に聞いて、神様を求めて、その無限の資源の中で、あなたは正確に歩んでいかなければなりません。言葉上手に祈る事以上に、あなたの心から出る事を神様は望んでおられます。あなたがどれだけうまく人の前で何かをしたかよりも、どれだけ正しい心で神様の前に仕えようとしているかという事が、神様の関心です。絶対に外側の美しさや、上手さや、そういったものに心を翻弄されてはいけません。あなたの心の真実を、いつも神様の前に表し続けて下さい。私は本当に、これは大切な事だと思います。「気難しい主人にもそうしなさい」と書いてありますから、御婦人方、そうしましょう。気難しい主人も、気難しくないようになっていきましょう。いつもニコニコして、ごはん食べたら最後に、「おいしかった、ありがとう!」って、聞こえるように言わなくてもいいのです。「本当に感謝します。」という気持ちでいいのです。職場で気難しい上司がいるでしょう。いるのです、どこにでも訳の分からない人は。でも私たちはその訳の分からない人に心を乱される事なく、主によって、いつも治められていますから感謝です。そのようにして、私たちは進んでいきましょう。ののしられても、ののしり返さず、嫌な顔もしない。どんな事があっても、「感謝します」と言います。何も無いかのように、微笑んでいます。本当に神様の言葉は素晴らしいです。私たちがいつも霊に従うように、霊的な者である、その霊に従うように私たちを導いて下さる言葉が書いてある訳です。だから皆さん、何も無いのにいつも憤らないで下さい。もう声もかけづらいような、怒ったような雰囲気を出さないで下さい。そういう人いるでしょう。家に帰る時は、「ただいまー!」ドアもゆっくり開ける。トイレ行きたかったとしても、ゆっくり入る。「お帰り!」と、言いたくなかったとしても、「お帰り!」そこからやって下さい。その霊によって、自分を正しく保った態度から、普通にして下さいという事です。

この地上は私たちにとって、本当に私たち自身を霊的にしてくれる沢山のものを神様は用意して下さっています。「苦しめられたり、脅かされたりしても、正しい裁きをする方に一切を委ねられた。」許すという事ができるという事は、委ねるという事ができるのです。委ねるというのは、言葉では簡単な言葉です。でもそれが本当にできるのは、許されているから、委ねる事ができるのです。皆さん許されているでしょう。なのに、委ねる事ができない。だから私たちは、正しく生きていきましょう!十字架に架かって死んで下さったのです。「私たちは羊のようにさまよっていたけれども、魂の牧者であり監督である方の下に立ち帰った。」だから監督の指示は正しい指示です。プロ野球の監督は、誤った指示を出す事もあります。でも私たちの監督は、本当に正確です。全ての事を正しく、私たちが行うように指示をしてくれます。その元にいるのです。あなたは十字架の打ち傷によって癒されました。もうややこしい価値基準は癒されました。だからあなたも許して下さい。委ねて下さい。神様に従って下さい。そのように私たちは進んで行きましょう!その価値基準を私たちは、私たちの価値基準を知らない人たちに分かち合わなければいけません。世の人たちは傷付いたままです。そしてそれを振り払うかのように、前に前に進んで行こうとしています。でも本当に進む事はできません。だからあなたの一番身近な人を獲得したいならば、私はややこしくてすみませんと言って下さい。私は偉そうですみませんと言って下さい。そうするならば多分大丈夫だと思います。そのように進んでいきましょう!



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