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2019.3.3 木村由智主任牧師「正確性を持って進む」     

2019年は正確性をもって進むという事を、非常に大切な事として私たちは認識しないといけません。私たち兄弟姉妹が互いに祈る時は、頭には手を置きません。あるいは肩に手を置いて祈るという風な形をとります。聖霊待望会とか、何か任命する時には、神様から権威を委ねられた者が頭に手を置いてお祈りをいたします。聖書には、軽々しく手を置いてはならない。」というふうに書いてあります。それは、その権威を委ねられた者によってのみ、それを行使していくという事を皆さんよく理解していただいて、共に進んで行きたいと願うからです。その事の故に私たちは、何事に於いても正確性をもって、それは、絶対こうしなければならないという人間的な、律法的な、あるいは規則的なものではなくて、自由な恵み中で私たちは神様の原理、原則を正しく行っていくという事を理解していただきたいのです。私たちはもう自由です。罪が赦されて、神の子とされて、本当に私たちは幸いな者ですという事を皆さん覚えていらっしゃいますか?それは大切な事です。その中で私たちはまだまだ変えて行かないといけない価値基準だとか、捨てていかないといけないものが沢山あると思います。

 まず今日皆さんにお伝えしたい事は、霊による誕生を私たちは正しく認識するという事です。皆さんは霊によって生まれたという、長老から「アイデンティティー」という風に聞いていますけれども、皆さんいかがでしょうか?へゲモンという事が言われている中、この世、社会の中では、自分は何者なのかという事、自己の認識を与えるもの、これらに価値があると思って生きてきた訳です。仕事ができるといったら、自分は何か立派だと思う訳です。仕事が出来なかったら自分はダメだと思う訳です。その為に頑張って、頑張って生きて行かないといけない訳です。そういう風に生きてきた私たちが霊によって誕生したという事を認識する時に、本当に私たちは大きく変えられていくと思います。イエス・キリストという方はどうやって生まれましたか?聖霊と、マリヤによって生まれたと言いました。ヨセフとマリヤによって生まれたのではなくて、聖霊によって身ごもったという風に言う訳です。聖霊によってイエス様はこの地上に誕生したのです。それはこの世の種をもってではなくて、イエス様は神様の種によってこの地上に生まれた方ですから、神様にそっくりだった訳です。私たちイエス様を信じる者は、霊に於いて新しく誕生したという事を受け取らないといけません。何度も何度も同じ事を繰り返すようですけれども、それは本当に大切な事なのです。自分は自分の努力によって新しく生まれ変わったのではないという事を皆さんが認識する為です。努力によって自分が変われた、あるいは、レベルが上がったと捉えていたら、その努力が出来ない様な状態になった時に、あなたは価値基準を失う訳です。でもそこに価値基準を置いていなくて、イエス様を信じた事によって私は全く新しく変えられたのだという価値基準を持っていたら、この世の価値基準が崩れて行っても、私は神様から生まれたから全然大丈夫ですという事が言える訳です。私たちが持たないといけない確信はそこです。どんな時にも私は神によって生まれた者なのだという事がなければ、私たちはこの地上で正しく生きていくという事は難しいです。なぜならこの地上は能力主義だからです。能力があればちやほやされる。能力が無かったら振り向きもしない。それがこの世の常です。でも私たちには能力があるか無いか、又、仕事が出来るか出来ないか、そういう外側の事によって価値基準を神様はもうけるという事はありませんでした。皆さんがどれだけひどい人間だったとしても、神様は、「こうしたら、私はあなたを愛してあげる。」という事は、1度も言いませんでした。無条件で私たちの為に、私たちに変わる事すらも要求しない。自分が彼らの変われない部分を担って死ぬという事をいつも選択された訳です。その事の故に、私たち自身では何も出来なかった部分を、代わりに全部して下さった御方がイエス様であるという事です。それが霊によって誕生するという事です。皆さんはその誕生を本当に信じていらっしゃいますか?これは大切な事です。非常に簡単な事ですけども大切な事です。

エペソ人への手紙1章23節「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」ちょっと難しので簡単な訳で読みます。「ですから教会はキリストのからだであって、すべてを満たすキリストの霊が満ちあふれる所です。」という事です。ですから教会すなわち私たちは、キリストのからだであって、すべてを満たす事の出来るキリストの霊が、私たちの中に満ちあふれている所が私たちですという事を言っているのです。皆さんの中にはキリストの霊が満ちている。ただの霊ではない、「すべてを満たす、霊と心とからだと、全部の領域を満たす事ができる霊が、皆さんの中に満ちているのです。」という事を言っているのです。なのに私たちはまだ充分ではないかのように、自分がもう少しこういった所が良くなりたいというような欲を持つという事は、本当に良くないです。ですから私たちは、すべてを満たすキリストの霊に私は満たされているという事を、皆さんが覚えなければなりません。ですから何かあった時に感情の怒りが出る、何かあった時に愚痴が出る、不平が出る、裁きが出る。いえ、私の中にはキリストの霊が満ちていますから、キリストの様な性質しか出て来ないという事を、あなたが頭で考えない限り無理です。「あー、そうなったらいいなあ」とか「あー、そういう恵みなのだ。今日はいいお話を聞けた。先生わかりやすくて感謝します。」と言って、もう次の週に会ったら忘れている。それは皆さんの心の意識が無いからです。私はそういう者だという確信を、皆さんしっかり持って欲しいのです。それがあなたを確かな者にして、どんな事があってもあなた自身を見失う事がないようにするものです。あなたがあなた自身に、いつも違う事を考えれる思考に、「わたしはすべてを満たすキリストの霊が満ちている者なのだ!」という事を、言わなければなりません。私が皆さんに、いくらそう言って言葉巧みに祈って、励ましたとしても、あなたがそれをつかまない限り、あなたは霊から誕生した者であるという確信に立ち続ける事は出来ません。皆さんあなたはイエス様を信じたら、霊によって誕生したという事を良く理解して下さい。それは、私の中にはいつもキリストの霊が満ちているのだという事をあなたは受け取らなければなりません。パウロがイエス・キリストに出会った時に、彼自身がイエス・キリストに満たされて、それまでは迫害する立場にあった者でした。キリストを信じる者を捕まえて獄に入れるという事も、彼は許可書をもらって、息をはずませながら、至る所でキリスト者を捕らえていた。ところが彼がイエス様に満たされた時に、今度はイエス様を伝える者に変えられた。180度変わったという事、これが大切なのです。キリストに満たされるとあなたは180度変わったという事が、このパウロを通して私たちに神様が伝えたい真理なのです。人があなたをどう定義しようが、あなたは、「私は180度変わった!」という事を、あなたは確信しなければなりません。あなたが仕事で失敗したとしても、「失敗してしまった、感謝します。次、気をつけます。」と言って、それだけでいい訳です。それまで私は、「絶対に失敗を人に見せない。」というのが私の信念だった。失敗しても、口八丁、手八丁でごまかしていたのです。それで自分はキリスト者として良い証しをしていたと思う訳です。違うのです、自分が恥をかきたくないから、自分が嫌な思いをしたくないから、全部隠して、隠して、隠して、でも頭隠して尻隠さずで、もう見えている訳です神様からは。そんな事は本当に止めましょう。失敗した時に、「ごめんなさい。」言える事が大切です。それができるという事は、朝会った時に、「おはようございます。」と、自ら言う事です。あなたが言わない限り、あなたの子供も言いません。子供たちに、「おはようございます。」という事を、私たち自らがしない限りしません。全ての原則は、長老がなぜそんな事を言われるか、それはこういう原則です。180度変わった者は、自分の好き嫌いに関係なく、「私は神の霊によって何でもできる!」という信仰に立つ訳です。そう聖書も言っています。ですから私たちはその確信が我々の中になければいけません。その価値基準が私たちを大きく変えて下さる訳です。それを積み重ねていって下さい。その事を繰り返していって下さい。失敗しようが何しようが絶対にあきらめないで、「私はこの正確な事をやりとげて行く!」という事が私たちの思考の中に無い限り、あなたが、「ああ、こういうへゲモンがあった、ああいうへゲモンがあった。」と、上げる事ができても、実際自分をどう取り扱っていっていいのか分からないままになってしまいます。だからそれを止めましょう。私たちはその価値基準をしっかり持たなければなりません。あなたは自分で変わる事ができますか?変わる事ができたら神様は要りません。変わるのは外側だけです。良く見せるという事だけです。でも本質は、罪がある限り変わる事はありません。でもイエス様によって霊が変えられたなら、私たちは価値基準が変えられていきます。あなたの価値基準は何ですか?社会人になる人、又、高校生になる人、又、大学生になる人、色んな人がこれからこの春、誕生してきます。外側が成長しても、その内側が、思考が変わらない限り、私たちは本当の意味で成長という事はできません。皆さんも自分ではわかっているはずです。「あっ、これは駄目なのだ。」それを捨てるという事ができるのは、私の中に全てを満たすキリストの霊が満ちているから、「私はこれはいらない!」と言う事が出来る訳です。あなたの価値基準は何ですか?「あーもう、私がいてもいなくても。」これが一番私は嫌いです。あなたがいるかいないかにかかわらず、という言い方をするのが一番嫌いです。神様は「あなたはいてもいなくても仕方ない者だけども、死んであげるわ。」なんて言いますか?言わないです。もう自分の価値基準を本当に高く持っているか、あるいは低く持っているか。真ん中の人ってほとんどいないと思います。「僕には学歴がありません。」とか、家柄も大した事はありません。」とか、そんな事を言ったら神様に失礼です。皆さんの家柄はたどって行ったら神様なのでしょ。何でそんな愚かな事をいつも頭の中で考えているかという事です。「思考のへゲモンを置き換えなさい。」という風に、今私たちはすすめられています。「この世の価値基準で建て上げられた考えや、思いや、感じる所のそれら全てを追い出して、新しい構造を自分の中に組み入れなさい。」と、神様が言っておられるという風に言われている訳です。それを皆さんしなければいけません。「先生すみません。私はすぐに言ってしまうのです。」それを言うのを止めて下さい。それは完全なへゲモンです。自分は良いと思っているだけで、それは何ですか、自分の価値基準が良いという価値基準でしょ。良い事をしているという自分の価値基準で言う訳です。でも神様の思いとはそれは又、違うと思います。神様が要求されている基準というものを、私たちはつかまないといけません。この肉の資源というのは、この世の資源の事を指す表現ですけども、「私たちは天からの資源を受ける事が必要だ!」という風に言われています。じゃあどうやってそれを受けるのか?

エペソ人への手紙4章8節~15節「そこで、こう言われている、彼は高いところに上った時、とりこを捕えて引き行き、人々に賜物を分け与えた。」さて

「上った」と言う以上、また地下の低い底にも降りてこられたわけではないか。降りてこられた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られたかたなのである。そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。」イエス・キリストが地上に来られた最大の目的は、父なる神様の心、思い、それを成就する為に来た訳です。その為にこの御言葉が書かれてある訳です。これはキリストが御自身の身体である我々を完成させる為である。皆さんの頭はキリストです。そして、「私はキリストの身体です」という意識がないといけません。私はキリストの身体なのです。頭ではないのです。頭が考えて、身体が動くという構図が私たちの中になければいけません。それを変わって、私があたかも頭の様にするという事自体が間違っている訳です。私たちはキリストの身体です。身体は頭から出て来るものによって動いて行く訳です。頭が考え思う所を、身体が動かしてそれを表して行く。だから私たちは神様が言われた事をして行くという事だけなのです。簡単でしょう。でもそこに邪魔していくのが、あなたが立て上げてきた思考です。それによって神様の真理を聞いていても、いつも自分の目の前にある価値基準が最優先されるのです。だから私たちの価値基準は、本当に厄介なものだと思います。長老が具体的に、「普通」という教えをして下さいました。私の子供も、もうすぐ免許が取れそうなので、車を買おうかと、私も色々探して、家内と話して、もう安いのでいい。30万ぐらいの車で十分だという考え方です。それぐらいの本当の考え方を持たないといけないです。「いや、最初からもう、月1万円で。」もうその考え方が自分の価値基準なのです。「いや、最初からだったら長く乗れる。」とか、もう色んな言い訳するのです。諸費用込みで30万円の車ですから、大体どんな車か、お察しがつくと思います。それでいいのです。それを受けるという事が、正確性を持って自分が生きて行くという事につながる訳です。それを私たち親はしていかないといけないのです。教会に来て、うるさいから漫画でも与えておく。ちょっとおもちゃでも与えておく。教会にいる時は静かにしなさいという事も言わないで、それでもう我慢させる。それが大人になって来たら、そんなに稼いでいないのに「俺は車は新車でないと乗らない。」これが出てくる訳です。これはもう本当におかしい事です。分をわきまえるという事を教えていかないといけない。自分が働いて蓄えて、出来るならそれをしたらいい。でも出来ない間は、あなたは自分の身丈にあった事をしなさいという事。それが、私たちの価値基準が変わっているという事です。

 ウッドロフ先生は「エゴの破壊をしなさい」という表現をするのです。それは自我、それを破壊しなさい。ここでウッドロフ先生が定義する「エゴ」というのは、私たちが世を見る視点から始まるポイントを形作る定義のシステム。だから、私たちが世を見た時に、その視点で「ああ、この車いいなあ!」「あの娘かわいいなあ!」「あの人かっこいいなあ!」「あの人の肩書すごい!」「あの人の仕事!」自分の価値基準の始まりをつくるポイントを破壊しなさいと言うのです。そのポイントを作ってしまうと、そこを起点にして、色んなものが形作られて

いって、そこが定義されてくる訳です。そうしたら、いつもそのフィルターを通してでしか何も見えなくなってくるのです。テレビを私は見て、もう嫌になってきたのが、家で引き込んでいる。立派な家に一人で住んでいるのです。お父さんはちょっと離れた所に住んでいて、何も今まで生活に困った事がないから、家に引きこもっても生きて行けると思っている。もう一人の人は、パソコンの仕事をしていて、「このシステムがもうちょっとでできるのです」と言って、20年間家に引きこもっている。他の人が、「20年たって出来ないのなら、出来ないでしょ、あきらめなさい。」親はあきらめさせないのです。そのフィルターを、私たちは破壊しないといけないのです。皆さんあなたの価値基準を、完全に崩壊しないといけないのです。私たちが何者であるかを、それによって告げるのです、あなたが作ったフィルターによって。あなたが世を見て、「うわー、あの人大学を出ている。私は中卒、高卒だ。大した事はない。」大した事はないというフィルターが出て自分よりも同等か、下の人を見たら、そのフィルターを取って、友達みたいにするのです。上か下かという基準を、皆さんの中で勝手にしてしまうという事で、どんなに皆さんが社会で生きて行く上で役に立つのですか?絶対に役に立ちません。それは皆さんのへゲモンを形作って、自信と価値観を定義してしまいます。私もそうしました。「私は母子家庭だ。あまり裕福ではない。負けてはいけない。学歴を付ける。あるいは立派な仕事につく。人よりも何か秀でたものを持たないといけない。」という事を、父が亡くなった時に、私は自分自身の頭にインプットしたのです。小学校に上がるぐらいの時です。これからやばいと思ったのです。やばいと思ったのは、お父さんがいなくて寂しいという以上に、これからの生活がやばいと思う訳です。そこまで罪がもたらしたへゲモンというものは、私たちをそう定義してしまうのです。そうやって生きていたら、もう人には絶対に負けれない。負ける喧嘩と勝負はしない。そうなってくる訳です。当たり障りのないように、うまく世とかかわって生きて行くという事しか出来なかったのです。私も本当にうまくやって来ました。営業やって、成績が上がって、立場も上がって、ある程度給料も上がって。それで「今日は教会ですから」と言って、帰れるようになった。「おお、素晴らしい!何と素晴らしい!神様は栄光を現している。」本当に、ただのいやみ。それを見て、誰一人キリスト教が素晴らしいと思った人はいなかった、私の周りには。なぜか?それは私のエゴがそこにさらけ出されていたからです。聖域になりましょう。集合の為に働きましょう。それはまず、あなたが自分のへゲモンを正しく取り扱う事です。自分の価値基準を完全に変える事です。それを、私たちはして行かなければいけません。

 我々はこの世に生まれ、置かれている環境の故に、特定の言葉を語ります。私たちは日本に生まれたら日本語をしゃべる訳です。私たちの価値基準は自分が出来ない事を人がしたら、素晴らしいと思う訳です。その能力を与えられていな

かったらどうします。肉の性質、この世の資源は、自分が良く見られたい為に、そういう良く見られる事の為だけに、自分の価値基準を注いで行く訳です。私たちは神様の思いを完成させる訳です。自分が良く見られたい為に切磋琢磨するのですか?違います。神様の為にするのです。でもその価値基準が、だんだん外れていってしまう時があります。その時は、私たちは互いに戒めなければなりません。少しあなたの奏でる音楽は、神をたたえる音楽ではなくて、あなた自身のキャリヤや、あなた自身の好んでいる音楽性を出しているように感じます。もう少しドラムの音をひかえて下さい。ドラムの音をひかえても礼拝出来ない事はないです。「求先生、もうちょっと私のソングリーダーの時、ギターでおかず入れてくれる!それしてくれたら聖霊の油注ぎをすごい感じるのよ!」そんなおかしな事を言ったら、「先生すみません、ちょっとおかしいと思います。」と、言われるの決まっているでしょ。でもそれは何ですか?世の価値基準が入って来ている訳でしょ。世はそういうテクニックを使って、人の肉をかりたてようとする訳です。私たちは霊がかりたてられなければならないのです。霊をかりたてる為に、私たちの音楽は神様の波長に合わさないといけないです。そして私たちの礼拝も、自分だけが大きい声を出して、どうでもいいという様な礼拝ではないです。自分の声が大きいと思えたら、調和しながら声を上げて行くという事をしていかないといけないです。全部あなたの価値基準によって構成されている訳です。それを破壊しなさいと言っている訳です。それが私たちにとって大切な事です。私たちは知っているか知らないにかかわらず、外側のものによって、いつも形成されようと、し続けて行くのです。それが私たちです。本当にくだらない価値基準、エゴは私たちの中に沢山あります。「それ捨てるまで礼拝堂に入らないで下さい」と、言われたら、もうずっと入られない。でも私たちは、それをやり続けて行くという信仰を持つ事が大切なのです。今日聞いて、「自分はまだまだだ。」「でも私はやっていきます!」という事が大切です。

創世記2章7節「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」神様の息を吹き込む、これは神様から出た本質が、その土のちりで作られた、その死んだ状態の身体を活性化させたというのです。神様の霊が私たちの中に臨むと、私たちの内に活性化されて、死んでいたものが生きたものに変えられていくというのです。私たちは神様の息を吹き込まれて人になった訳です。神様の息によって、はじめて私たちは人として立つ事ができる訳です。兄弟姉妹、この世の価値基準をあなたの霊の中に、思考の中に、魂の領域に持ち込まないで下さい。私たちは神の霊によって新しくされた。神の霊が私に満ち溢れている。これが私ですというものを、しっかりと確信して下さい。どんな時にもその価値基準を捨てないで下さい。どんな時にも昔の価値基準で、その出来事を見ないで下さい。その時にわからなかったら「神様助けて下さい!」と、言って下さい。それだけです。本当に簡単です。私たちはそうして、正確性をもって、この2019年を完成させて行きましょう。そして皆さんが本当の聖域となって、集合の為に働いて下さい。あなたが聖域です。そしてあなたを通して人々が集合して来るという事を、いつも忘れないで下さい。

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