今日は「罪」という事について、皆さんにお話しさせていただきたいと思います。ヨハネによる福音書16章8節~9節「その方が来られると、世の人に誤りを認めさせます。罪、心の正しさ、神との正しい関係、さばきからの救いについて、人々は考え違いをしているのです。まず、罪とはわたしを信じないことです。」罪という言葉を皆さんが聞かれる時に、どういう風に感じ、受け取られるでしょうか。たいていの場合、行いという事が、皆さんの思いや考えの中にあると思います。でも聖書が言う罪というものを、今日もう一度皆さんと理解して、その事に対して私たちがどのように歩んで行けばいいかという事を、一緒に考えたいと思います。罪という言葉の元々の意味は、「的外れ」という意味があると言われています。「的外れ」というのは、私たちの会話の中でよく、「あの人何か的外れな事をしたなあ」とか、「的外れな事を言うなあ」という表現を、皆さんも使われると思います。「大事な点を外している」、「見当違いをしている」という意味です。今、お読みしました聖書の、「その方が」と言うのは、イエス・キリストという方を指しています。今日はクリスマス礼拝ですから、私たちはイエス・キリストの誕生をお祝いするために、今日礼拝をしているのです。クリスマスというのは、イエス・キリストが誕生された事です。それで、「メリークリスマス!」「クリスマスおめでとう!」と、言うのです。大体、私たちの「おめでとう!」は、プレゼントをもらえるという意味の、「おめでとう!」が、多いと思います。クリスマスぐらいは、何か良い物を食べるというような考え方が多いと思いますけども、イエス・キリストの誕生をお祝いするその理由、それは私たちが的を外れた人生を送っているという事です。その的を外れた人生から、私たちは、的をえた人生に、今、軌道修正をしなければならないという事を聖書は教えています。まず、「その方が来られると、(イエス・キリストが来られると)世の人に誤りを認めさせます。」「あなたの生き方は、的外れな生き方をしていますよ。」という事を教えると言っています。その的外れは、罪です。そしてそれは具体的にどういう事か、それは心の正しさです。そして神様との正しい関係です。裁きからの救いについて、人々は考え違いをしている。的が外れているのですから、心の正しさの価値基準であるとか、神様との関係とか、裁きからの救い、というものに対しての、正確な知恵や、正確な答えというものを持ち合わせていないのです。心の正しさを失って生きているのが、的外れの人生の結果です。皆さんは、心が正しいと思っていらっしゃるかも知れません。でも、的から外れた人生は、決して心が正しいとは言えません。その心の正しさというものは、私たちの生きてきた経験や、躾や、学んできた事、そういった事による価値基準によって、こういう事が心の正しさなのだというものを、それぞれ皆さん、若い人から年老いた人は気付いているでしょう。でも、一人一人の価値基準は全く違います。教えられた事によって違う。また、育ってきた環境によっても違う。受けてきた躾や教育によっても変わってきます。聖書が言う、心の正しさを失っている生き方というのは、自己中心な生き方だと言っているのです。ですから、自分の思い通りにならない時に、私たちの心の中には、怒りや、憤りや、虚しさや、また、色々な感情が私たちの心の中に湧き上がってくると思います。でも私たちが的を外れた人生から、的を得る人生に変わる時に、どんな時にも神様だけに頼るという心が、私たちの中に建て上げられていくのです。この目に見える、何かに頼って生きていこうとする生き方から目に見えないけれども、絶対的な力を持った神様に信頼して生きていこうという心が私たちの中に生まれてくる。この聖書の箇所は言っています。「神との正しい関係」これを失って生きているのが今の私たちです。これを私たちはどのようにとらえるか、それはあなたがアイデンティティーを見失っているという事です。あなたが何者であるかという事を見失っているという事です。ですから外側からあなたが定義される事によって、「自分はそういう者だ」という風に信じて生きているという事です。
私は母子家庭でした。ですから中学生ぐらいになると、友達から、「母子家庭だから、お前の家は貧しい。」「お前には父親がいない。」という心無い言葉を浴びせられた経験がありました。そういった事を言われたくない。そういう事を言わせたくないと思って、何かしらの者に自分を変えなければなりませんでした。でもそれによって本当に私の心の内側に、その母子家庭で、裕福ではないという事の葛藤に勝つ事はできませんでした。ただ、人からそれを言わせない雰囲気だけをつくって、自分を保つという事しかできませんでした。でもそれがいつ崩れるか、それがいつまでもつかという事をいつも考えながら、自分の中で葛藤していた事も記憶しています。いずれにせよ、自分の中には答えが無いという事をよく理解していたのです。しかしながら、私たちが正しい神様との関係を回復する時に、皆さんは神様によって造られたという事を知る事ができます。私たちが学んできたのは、進化論を学んできました。私たちは決して猿から進化したものではありません。神によって造られたものです。これは絶対的なものです。そのあなた自身が、誰によって造られたかという事を回復する事が、神様との正しい関係です。だからあなたがどんな家で生まれようが、どういう風な環境であろうが、どれだけの状態であろうが、一切、神様の前には関係ありません。気にするのはあなただけです。でもあなたが神様との正しい関係を回復するならば、あなたの生い立ちがどんなものであっても、あなたは神様に造られ、神様に愛されている最も貴い者として、この地上を生きていく事ができるのです。そのアイデンティティーを回復しなければなりません。この世は学歴や色んな事ができる事によって人を認めたり、認めなかったりします。でも実際、能力のある人ばかりじゃないです。能力の無い人も沢山います。では能力が無ければ、私たちはこの地上で何の価値も無い人間なのか。親がいなければ、何もこの地上では認められないのか。そんな考えが、この地上では蔓延しているのです。そういったものによって、私たちはいつも外側から定義されて、「ああ、自分はこういう者だ。だからもう勉強して見返してやる!」何か秀でたものを見出して、この世の人たちを見返してやる。でもそれができたと思っていても、そういったものも、あなたがこの肉体を宿している間しか続かないのです。でもそのようなくだらない価値観の中にいつも自分を置いて、ふわふわ、ふわふわ生きているのが実際の私たちの現状じゃないでしょうか。でも今日、イエス・キリストの誕生を祝うという事は、あなたが神様によって造られて、神様との正しい関係を結ぶ事ができるようにイエス・キリストという方が誕生されたという事を、よく理解していただきたいと思います。この御方が唯一、神様とつなぐ事ができる御方です。あなたの人生がどんな人生であっても、あなたがイエス・キリストに繋がるならば、あなたは自分が神によって造られた者として、この地上で、誰からも非難される事もなく、誰から色んな事を言われても、あなたの心は傷付く事はありません。あなたの心はいつも正しく、この地上の中を生きていく事ができるでしょう。なぜならあなたが神様に繋がったからです。私たちが神様に繋がらないなら、私たちの人生は、本当に終わってしまいます。
そして最後に、「裁きからの救い」について。これは永遠の命という事を表す言葉です。人は必ず神様の前に立って、この地上で生きてきた全ての事について判決を受けなければならないと、聖書には書いています。大体私たちは、悪い事をしたら、ちょっと良い事をして、プラス・マイナスゼロだという考え方が多いのではないでしょうか。「ああ、ちょっとやり過ぎたな、今度はちょっといい事しようかな。やり過ぎたな、でもあの人が悪いし、でもこの環境が悪いから、それは私のせいでもない。これは世が悪いのだ。これは誰々が悪いのだ!」いつもそうやって、私たち自身が裁きから逃れようとしていた。それを聖書は、考え違いをしていると言います。
ヨハネによる福音書5章24節「よく言っておきます。わたしの言うことを聞き、わたしを遣わされた神を信じる人にはだれでも、永遠のいのちがあります。罪のために罰せられることは絶対にありません。すでに死からいのちに移っているのです。」ここで言っているように、「わたしを遣わされた神を信じる人にはだれでも、永遠のいのちがあります。」すなわち、「イエス・キリストを信じるなら、あなたには永遠のいのちが与えられます。」という約束をしています。信じる者には永遠のいのちが与えられ、そして裁かれる事がなく、死からいのちに移っている。罪のために罰せられることは絶対にありません。すでに死から命に移っているからです。この肉体は必ず死にます。どんなに外側を装っても、それは必ず終わりが来ます。でも、イエス・キリストを信じるならば、死からいのちに移っている。永遠のいのちが与えられている。裁きからの救いというものは、そういう事です。信じる者には永遠のいのちを与えるという約束が、神様の約束です。あなたが何か行ったから、あなたが立派な人だから、あなたが立派でないから、仕方ないからという事ではありません。神様は何かができるかできないかにかかわらず、信じる人には全て、同じように神様の恵みを与えられると約束して下さっています。「全ての人がこれを受ける権利があります」と、神様は聖書を通して私たちに語っています。どうかそれを受け取って下さい。あなたがこの地上で、どれだけ能力を費やして、どれだけ勉強し、どれだけ自分を変えたという風に信じたとしても、それによってあなたに永遠の命をもたらす事はできません。そんなものはこの地上にありません。聖書に書いてある、この言葉に信仰を持つ者だけがそれを得る事ができます。将来に対しての不安がありますか?死に対しての恐れがありますか?私たちが神を信じるならば、将来に対しても、死に対しても、何の恐れを持つ必要はありません。神が私たちを最後まで持ち運んで下さるからです。だから私たちは、神様を信じます。
イザヤ書53章1節~12節 どれだけキリストが私たちのために犠牲を払って下さって、私たちの事を気に留め、愛して下さっているかという事を、皆さんで見たいと思います。まず、1節~3節「しかし、それを信じる人はなんと少ないことでしょう。だれが、耳をすまして聞くでしょう。神はだれに、救いの力を示すのでしょう。主の目には、彼は不毛の地に芽を吹いた柔らかな新芽のようで、私たちの目には、心引かれるものは何一つなく、慕うようなものもありません。私たちは彼をさげすみ、受け入れませんでした。彼は悲しみの人で、苦しみをなめ尽くした人でした。私たちは彼に背を向け、そばを通っても顔をそらしました。彼が侮られても、そ知らぬふりをしていました。」このイエス・キリストが十字架に架かった姿を見て、また、イエス・キリストが33年間歩んでいる姿を見て、当時の人々は、何一つ心を惹かれるものはなかった。今、イエス・キリストという方は、この地上にはおられません。でも、イエス・キリストを信じている私たちを通して、イエス・キリストを知らない人たちは、イエス・キリストを見る事ができます。でも、その外側を見て、「そんなに知恵も無さそうだし、格好もそんなに良くないし、何一つ見た感じは、心惹かれるものが無い。」という風に、神様を知らない人たちは判断するかも知れません。でも、私たちの内側には神様がいらっしゃいます。ですから、外側を見て人を判断するというような愚かな事を決してなさらないようにしてください。その人の中におられる神様、この人がどんな姿であっても、喜んで感謝して生きている。そこに全ての人は神様を見出す事ができます。立派だから、しゃべるのが上手だから、何かをしても優れているから、だから素晴らしい。でもそれが無かったら、素晴らしくないのですか?私たちはそういう見える所によりません。キリストは十字架に架かって行くために、誰からも気にも留められませんでした。どうか皆さん、皆さんの周りにいるクリスチャンの方々を通して、キリストを見出して下さい。その人の外側を見たり、その人の能力を見て、「この人の中には神がいない。」とか、「この人は聖書の言っている言葉の人とは違う。」という判断や考え方を、決して持たないようにして下さい。
次に4節~5節を読んでみましょう。「しかし、彼は私たちの悲しみを負い、私たちの嘆きをにないました。私たちは、彼がそんなに苦しむのは、罪を犯して神に罰せられているからだと思いました。しかし、私たちの罪のために傷つき、血を流したのです。彼は私たちに平安を与えようとして、進んで懲らしめを受けました。彼がむち打たれたので、私たちはいやされました。」イエス・キリストは、私たちの悲しみを負って下さいました。どれだけ皆さん悲しい経験を、この世の中でしているでしょうか。また、「彼が苦しむのは、罪を犯して神に罰せられているからだ。」私たちの嘆きも、になって下さいました。そしてそれを見た人たちは、「ああ、彼は罪を犯しているからそのような苦しみを味わわないといけないのだ。」という風に理解しました。でも彼が味わった悲しみ、嘆きは、全部私たちが経験しているものです。「それを十字架の上で、にないました。」と、言っておられるのです。それを、「良き訪れ」と言います。彼は私たちの罪、的をはずれた人生に生きている結果、招いてきた様々な出来事のために、傷付いて血を流して下さったのです。それは私たちに、本当の平安を与えようとして、自ら進んで懲らしめを受けて下さいました。あなたの代わりに懲らしめを受けて下さいました。あなたが信じるならば、あなたはその懲らしめから解放されます。イエス様がむち打たれて、私たちはいやされました。本来ならば、私たちが受けなければならなかったむちを、彼が代わって受けて下さいました。その事のゆえに、私たちは罪が許されています。
6節~10節までを読んでみましょう。「私たちは神の道を離れ、羊のようにさまよい出て、自分勝手な道を歩いてきました。しかし神は、私たち一人一人の罪を彼に負わせたのです。彼は痛めつけられ、苦しみ悩みました。それでも、ひと言も語りませんでした。子羊のようにおとなしくほふり場へ引いて行かれ、毛を刈り取られる羊のように、非難を浴びせる者たちの前に黙って立ちました。人々は彼を裁判にかけ、刑場へ引き立てました。はたして、彼が死ぬのは自分たちの罪のためであり、身代わりに罰を受けて苦しんでいることを知っていた者が、その時代にいたでしょうか。彼は罪人扱いを受け、富む者の墓に葬られました。悪いことをしたわけでもなく、悪いことばを口にしたわけでもありません。彼を傷つけ、悲しみで満たすのは、主の計画だったのです。罪の赦しのためのささげ物として、そのたましいをささげるとき、彼は多くの子孫を見ることができます。彼は復活し、神の計画は彼の手によって成し遂げられます。」神様は、的はずれな人生を送っている私たちを、羊のようにたとえました。そしてそのおおいから出て、さまよい出て、自分勝手な、すなわち自己中心な道しか歩く事のできない者たちの、その一人一人の罪のために、イエス・キリストに全部の罪をおゆだねになった。皆さんいかがですか、神様から離れる人生は、自分中心しかないのです。自分中心だったら、自分の思う通りにいかない事が起こったら、もうパニックになったり、ヒステリックになったり、また、人を攻撃したり、そういう風にしか生きられないのです。そういう自分勝手な生き方から、神様に繋がって、本当に心に平安を持って、どんな状況や、どんな出来事が起きても、その出来事や状況に心をみだしたり、いらだったりしないで、神様に信頼していくという心を、神様は私たちの中につくり出そうとしておられるのです。ですから私たちは神様に繋がらなければ、このうまくいかない人生から解放される事はありません。彼は痛めつけられて、苦しみ、悩みの中でも一言も言い訳をなさらなかった。もしあなたが誰かの代わりに罰を受けなければならない状況になった時に、「何で私が受けないといけないのですか!」という事が、必ず出るでしょう。「何でこんな仕打ちを私が、あの人が悪いのに、何で私がこれをしなければならないのですか!」世が悪い、誰々が悪い。私も父が交通事故で亡くなったので、事故が無ければ父は生きていたと思います。もうその理不尽さに対する答えを、どこにも見出す事ができません。でも神様が、その苦しみを全部になって下さったという事を、私たちが信じる時に、私たちの心は本当に開放されます。皆さんの心はいやされます。彼は非難を浴びせる者たちの前に黙って立ちました。神様の子供ですから、何一つ非が無いのです。でも彼はそれに対して、「私は非が無い。そんな事を言う事を許さない。」という事を、何一つおっしゃらずに、言われるままの事をただ受け入れられた。もし私たちが神様を信じるなら、私たちもそのような強さを持つ人に変えられていきます。この世は何の理由もなく人を攻撃したり、人をおとしめたりするような時代です。その中でも、そんな事に何一つ影響を受けないで、私たちはその状況の中で固く立ち続けて、前に進む事ができる者に変えられる、それが私たちです。イエス・キリストを信じる者です。彼は罪人扱いを受けました。悪い事をした訳でもないのに。悪い言葉を口にした訳でもないのに、傷付けられ、悲しみで満たされました。でもそれは神様の計画だった。という事は、神様は彼に全ての罪や、彼に全てのものをになわせて、私たちが苦しまないでよいようにして下さったという事です。イエス・キリストを信じるならば、私たちはそのようにされます。それだけではなく、彼は復活し、神の計画は彼の手によって成し遂げられます。すなわち、信じる者に永遠の命が与えられて、この地上の一時的な命に価値観を置かないで、この世のものに混同されないで、大切なものだけ見極めて生きていく者に、私たちを変えて下さるという約束をして下さっているのです。そのような約束が、この地上の教えの中にあるでしょうか?ありません。聖書だけがそれを約束するものです。
最後の11節~12節を、お読みしましょう。「彼は、自分のたましいが苦しみもだえた末、神のみわざが実現するのを見て、満足します。『わたしの正しいしもべは、このような苦しみを経験して、多くの人を神の前に義とする。彼が人々の罪をすべてになうからだ。それゆえ、わたしは彼に、偉大な勝利者としての栄誉を与える。彼は進んでいのちをささげたのだ。彼は罪人の一人に数えられ、多くの人の罪を負い、罪人のために神にとりなしをした。』彼は、自分のたましいが苦しみもだえた末、神のみわざが実現するのを見て、満足します。私の苦しみを、全部苦しんで受けられて、そして彼は私たちを正しい者とするという約束をなされています。彼が全ての罪をになって下さったからです。あなたは自分の環境や、生い立ちや、自分の能力の無さを非難したり、否定したり、悲しんだりする必要は全くありません。この世の中が定義する、愚かな考えや発想を全部、十字架の上でになって、取り除いて下さいました。私たちの心が、どんな環境で、どんな生まれで、どんな知識で、どんな人間であったとしても、神様は私たちを愛して、正しい者として下さるという約束です。この世のくだらない価値観に自分をゆだねないで下さい。この世の法則によって生きる事を止めて下さい。神様に繋がって、神様からの命を受けて、神様によって正しい者とされた人生を、この地上の中で受け取り歩んで下さい。そのような人の人生を、偉大な勝利者だと聖書は言います。本当の勝利者は何ですか?この世の、もろもろの出来事に支配されずに、この世の愚かな考えにときふされる事なく、神様に繋がり続けて生きている者こそ、偉大な勝利者です。どれだけ失敗をしても、すぐに神様によって勇気付けられ、神様によって立ち上がって、自分の弱さを認めて、そして自分を変えようとする姿こそ偉大な勝利者の姿です。神様はそのような心を信じる者に与えたいと願っておられます。神様の願いは、私たちが本当に変えられて、このどうしようもない地上の歩みを、神様の原則によって正しく歩んで行って欲しい。それが神様の願いです。それがクリスマスの意味です。彼は私たちのためにとりなしをして下さっています。信じる者を、今もなお天において、私たちが苦しみの中で、神様を見捨て、あきらめて、人生を投げ捨てたり、考えを投げ捨てたり、良いものを捨ててしまう事のないように、私たちを最後まで見守り続けて下さる、これが私たちの神様です。今日初めて来られた方々、是非この神様の恵みを受け取って下さい。ここにはその恵みが満ちています。ただ信じるだけです。あなたが何かをするという事を要求していません。ただあなたが心を開いて、「私は神を信じます。」これだけで充分です。そうなるならば、あなたの人生は変わるでしょう。それはあなたの心が変わるからです。聖書に、「人の心は何よりもいんけんで、それは直らない」と、書いてあります。神様によってしか、その心は直す事はできないと言っています。心が悪くても、認める事ができない弱さを持っていても、私たちが神様に繋がるならば、神様は必ず私たちを変えて下さると信じます。どうかこの恵みをお受け取り下さい。そしてこれからの人生を、神様と共に歩んで下さい。永遠の滅びから、永遠の命の中に入って、どんな時にも感謝して、どんな事にも感謝して生きていく心を養って下さい。それを神様からいただき続けて下さい。それが神様の願いです。
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