2019.11.3 木村 由智主任牧師 

昨日私たちの愛媛にある教会で聖霊祭りというのがあり、本当に楽しい時間を皆さんと過ごす事ができました。今日も子供祝福式で、多くの子供さんと、お父さん、お母さんが礼拝に来て下さって、本当にありがとうございます。礼拝に初めて出られて、少し戸惑いとか驚きがあったと思いますけれども、私たちはイエス・キリストという神様を信じて、その神様を礼拝するというのが、この礼拝の目的でありますので、是非今から少しの間、聖書を通して神様の言葉をご一緒に聞いて、その言葉によって皆さんが励まされ、また、皆さんの人生が祝福されていくという事を何よりも願います。

ローマ人への手紙5章1節~5節「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主・イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。わたしたちは、さらに彼により、いまたっているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終わることはない。なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」私たちの事を分かりやすく言えばクリスチャンとよびます。イエス・キリストを信じている者として、私たちの事をクリスチャン、キリストに似た者とよびます。皆さんが読んでいただいて分かるように、私たちは信仰によって義、正しくされたという事が、聖書の中に約束されているのです。私たちは信仰によって神様に正しい者とされた。他の訳で読みますと、「ですから、信仰によって」これは大切な事なのです。「神の目に正しい者とされたわたしたちは、主・イエス・キリストによって神との間に平和を得ています。」私たちは信仰によって、神の目から見て正しい者とされたのです。私たちが正しくされたという、その価値基準ですけども、皆さんそれぞれ自分の価値基準というものがあって、そこからその正しさ、これはもう絶対正しいというものがあると思います。それぞれ私たちには、つちかってきた価値基準があって、それぞれの正しさというものが、経験や考え方によって基づいているのです。でもここの聖書の箇所が言っているのは、信仰によって、神の目に正しい者とされたという事が大切な事なのです。それはどんな行いも関係なく、ただ、「神様を信じます!」という事によって、神様はその人を正しいとして下さるのです。皆さん今日ここには、若い人から年長者の方も沢山いらっしゃいますけども、そこに行きつく事ができたのは、人生の経験の豊かさとか、知識の深さとか、そういったものによって、そこに到達する事ができたのではなくて、信仰によって、神の目から見て正しい者とされたという所に到達しないといけないのが私たちなのです。私たちには行いというものがあります。そのほとんどが、報いを求めてその行いをするのです。何々したら良く見られる。そういうものが、私たちのほとんどの価値基準の中にあります。でもキリストは、私たちの一切の良い行いにかかわらず、信じるという事だけで私たちを正しい者にして下さったという約束をして下さっています。その事のゆえに私たちは今日神様を信じて、幸いな人生を送っているのです。皆さんいかがでしょうか、私たちには非常に固執した考え方とか、文化とか、また、躾されてきた事柄というものが非常に強くあると思います。でもそれが結局私たちの関係の中で、合い入れない関係になって衝突を起こしたり、問題を起こしたり、不一致が起こったり、本当にささいな事で私たちは互いを受け入れあう事ができないという弱さを担いながら生きていると思います。でも神様は、事が十分できるかできないかに関わらず、「神様を信じるならば、あなたを正しい者とします。」という事が、聖書の約束なのです。皆さんはその約束を信じて、信仰を持たれた方々がほとんどだと思います。今朝の礼拝の中でも、神様が私たちに語っておられると感じたのは、「主の御名をよび求める者は皆救われる。」という意味です。何か神様を信じるというのは、弱い人たちや、ちょっと変わった人たちが信仰を持つ、私もそう思っていました。15歳の時に教会に初めて先輩に誘われて来て、こういう場所はもう何か自分の人生の中で、挫折や敗北感を味わった弱い人たちが集まって、自分を慰めて生きている場所なのだという捉え方しかできていませんでした。当時の私は、父を幼い時に失って、そんなに裕福でない中、いつも自分の心の中に満たされない思いがあったのです。父親から愛されるという経験が無いという、本当に虚しさみたいなものがあって、何かをしていつも自分の心を満たしたいという風にしか考えて生きていませんでした。でも教会に通って、「神様を信じませんか?」と言われ、言われた手前、断るのもと思い信じたのです。でも私が、「信じます!」と言った時に、神様は働いて下さって、私の心を変えて行く事ができるようにして下さいました。皆さんは、皆さんの人生の中で起こっている様々な出来事を通して、皆さん自身を変える事ができますか?私は10年間ぐらい入退院を繰り返すような病気をしましたけども、自分で自分を治すという事はできませんでした。医者に行かなければなりませんでした。何かの助けを得なければなりませんでした。3年前には、第2腰椎を、圧迫骨折をして、もうコルセットをして動けない。自分ではどうする事もできない。また、どうする事もできない家庭の中に生まれたとか、もう治らないような病を受けたとか、自分ではどれだけ努力しても知識や知性を発達させる事ができなかったとか、色んなものが私たちの中にあると思います。それを私たちはどのように受け止めて、皆さんは生きていらっしゃいますか?変える事のできないものを受け入れるという強さを、皆さんはお持ちでしょうか?それは信仰以外にないのです。自分がどう努力しても、変わる事のできない現状があるという事を分かっていながら、認める事も受け入れる事もできない。だから私たちは何かをして、そのできない部分を忘れるかのように、否定するかのように、前に向かって何かをし続けてしか生きる事ができない。それが私たちの現実かも知れません。でも神様を信じるならば、私たちはそれらのものを受け入れる事ができるという所にまで、私たちは到達する事ができるのです。この聖書の箇所の中に、「それだけではなく、患難をも喜んでいる。」と、書かれています。どうする事もできない理不尽な扱いや、そういうものを、「私たちは喜んでいる。」と、聖書は書いているのです。「なぜなら、患難はわたしたちに忍耐を生み出してくれる。」と、書いているのです。ただ我慢するのではなくて、どんなに理不尽な事が来て、変えられない現実を目の当たりにしても、私たちはそれを喜んで、その中できれたり、慌てふためいたり、あきらめたり、妥協した人生を送る事なく、神様の力によって、私たちはその状況を忍耐する事ができると聖書は約束しているのです。そしてその忍耐は、練達=練られた品性を生み出すという事です。練達=熟練して、すごい業ができるという、そういう表現ですけども、忍耐を通して私たちは私たち自身の内側に、練られた品性を生み出す事ができると聖書は約束しているのです。そしてその練られた品性の中から出て来たものは、希望を生み出すという事です。私たちの外側は変える事ができるかも知れません。でも私たちの本質は変わる事はありません。唯一神様だけが、私たちの本質を変える事ができる御方です。だから私たちはここに来て、神様を賛美する、感謝をするのは、自分がどれだけ愚かで、自分自身の力では何一つできないこの私を、神様だけが唯一、正しい者として私たちを受け入れて下さった。「その感謝のゆえに私たちは神様を礼拝します!」というのが、私たちの信仰姿勢であるという事です。皆さんはいかがですか?本当にあなた自身を変える事ができますか?あなた自身の、その本当にどうしようもない考え方を、もう何をやっても長く続かない、どうしようもない怠惰や、また、自分の欲のためにはどんな犠牲を払ってでも、それを手に入れたいという狡猾さとか、そういったものをあなたは何によって変える事ができますか?聖書の言葉以外に変わる事はできないのです。それが私たちです。だから私たちは、そういう自分であったけれども、神様を信じたら、神様は正しい者として下さるという所に、私たちは行きつかなければならないのです。私たちは自分自身で本質を変えるという事は難しいと思います。外側を変える事は可能でしょう。髪の毛の色を変えたり、ちょっと立派な服を着たり。見た感じでいくらでも自分を良く見えるようにできる。でもその本質は、必ず生活や、言葉や、態度の中に現れてくるのです。その領域にまで私たちを変える事ができるのは、神様しかいらっしゃらないという事です。その神様に私たちは信頼を置いて生きている。それがクリスチャンと呼ばれる人たちです。私たちです。私たちも神様のゆるしを得て、今進んでいますけども、神様によって正しいとされたからといって、いきなり頭が良くなるのではありません。いきなり何かができるのではありません。でも、できる、できないかによって、いつも自分を計っていた、その価値基準から解放されて、私はできなくても感謝してこの地上を生きて、歩んで行く事ができるという者に変えられて行く事の方がずっと大切です。どんなに頭が悪くて、努力しても報われない人はいるでしょう。私もそのタイプです。どんなに頑張っても、もう覚えられない。くだらない事は一杯覚える。皆さんも多分そうでしょう。仕事でどんなに忙しかったか、辛い事があったか、とうとうと話しをする事があるでしょう。それが私たちの現実です。私たちはその現実から癒されていかなければなりません。そうなっていくのは、本当に、自分が認められたいという事を、私たちはどこかで願っているからです。イエス・キリストという方は、その私たちのそういう性質を取り除くために十字架に架かって下さったと、聖書には書いてあります。その性質を十字架の上で一緒に担って下さって、そこで死んで下さった。そしてその私たちの性質を、共に墓に葬って下さった。そして3日目に墓を打ち破ってよみがえられた。そういう事が聖書に書いてあります。それが象徴するのは、私たち自身では変える事も、どうする事もできないものを、キリストは全部代わりにそれを受けて下さって、死んで下さって、葬って下さって、そして新しい命を私たちに与えるという事を信じるだけで、私たちに与えますという事を約束して下さったのです。私たちの中のどうしても変える事のできない私たちの心を、新しく変える事をして下さったのが、この神様です。そして患難も喜び、その患難を喜ぶ事によって忍耐が私たちの中に生み出され、忍耐を通して私たちの中に錬られた品性が生み出され、そしてその錬られた品性は私たちに失望を与えないという約束を与えて下さいました。この神様の御性質、イエス・キリスト様の御性質を私たちは信仰によって、これを受け取る事ができるのです。皆さんどうですか?何一つ長続きしない、何一つ変える事ができない。神様を呼び求めて下さい。神様をあなたが求めるなら、神様は新しい扉を必ず開いて下さいます。あなた自身では、解決する事も変える事もできなかった事を、神様は変えて下さいます。ですから神様を信じたら状況が一変するという事ではなくて、その状況によって、打ちひしがれたり、悩んだり、落ち込んだり、自分を駄目だとしか思う事ができなかったあなたを、駄目でもなく、打ちひしがれる必要もなく、あなた自身の内側を強くささえて、あなたにどんな試練が来ても、神様を信頼するという事において、乗り越えさせて下さる力を与えて下さる。これが信仰によって義とされたという意味です。皆さん私たちにはこの道しか無いと思います。神様によって、生まれ持っている性質を留める事ができるのです。そういう意味で、私が病気をした時、その病気が出始めた時期で、「今、治療する事例はあまりないから、あなたは多分死んでいくでしょう。」と、医者に言われました。「何て事を言うのだろう!」と、思ったのですが、皆さん、私たちが神様を信じたからといって、私はもう病気にならないとか、問題が何一つ来ないとか、何にも私の人生に悪い事が起こらないという事ではありません。同じように嫌な事を言って来る人はいるでしょう。職場の上司がもう本当にいつもプレッシャーをかけて来たり、本当に嫌な人たちがあなたの周りにいて、その人たちが瞬時に死ぬという事はありません。でも神様を信じたら、私たちの内側が変えられたという事は、その状況に対して私たちは自分の心を曲げる事もなく、その状況を受け入れる事ができる強さを神様から与えていただく事ができるというのが、信仰によって義とされるという事です。いくら腕立てしようが、筋トレしようが、病気になる時にはなるのです。問題が来たら、身体を鍛えているからといって、子供が不良になったのを直せるかといったら、直せる訳ないです。同じように、私たち自身では何も私たちの心を変える事はできない。でも神様だけが、それを唯一する事ができる。私は神様の前にこういう風に自分自身を定義した事があったのです。今、牧師をしていますけども、牧師になる前の期間があって、その時に同じような志を持った人が、私を含めて3人いました。一人は、外側も賜物も、もうギターもうまい、歌もうまい、顔もメキシコ人みたいな顔をしている。もう一人は、頭が良くて、ピアノも弾けて、会社の社長をやっている。私は醤油顔で、眉毛薄くて、何もいい所無いなあ。よし決めた!中学校の時、ラグビーをやっていたから、私は体を動かす事だけだと思った。それで一生懸命体を動かしたら、神様が体を動かす事に対して、病気を与えて下さったのです。私たちは何か、自分のひいでているものがないかという所に固執したりするのです。性格が悪くても、頭が良かったらいいとか。私もよく母親に言われました。「どっちかや!どっち取る?」と言われて、「もう頭は無理やなあ、性格も無理やなあ。」と、思いながら、だからいつも親切そうに生きてきました。でも腹の中では、「もう腹立つなあ!」と、思いながらでも、外側ではこうやって生きてきました。そうしか生きられなかった。私たちはそういう何かに固執してしまう。この地上で生きて行こうと思ったら、誰からも何も言われないように、また、何も言わさないように、自分のひいでた部分だけに固執してやっていこう。その部分が否定された時に、もう終わってしまいます。人生が終わるという風にしか捉えられない。でも私たちはそういう考え方や生き方によって生きていく者ではないという事です。皆さんが神様を信じて、神様の愛を受けたなら、私たちの中にどういう変化が起こって来るかという事を、一つの聖書の箇所から見たいと思います。

エペソ人への手紙3章16節~19節「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに超えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」神様は、神様を信じるならば、信じた人の中に神様の霊が臨むと書いてあります。そしてその神様の霊が、私たちの内なる人を強めて下さるという約束を、ここでして下さっています。また、キリストが私たちの心の中に住むという事は、キリストという方は、死を打ち破って甦られた御方ですから、この地上のどんな困難をも屈する事なく、私たちは生きていく事ができる。そして、「あなた方が愛に根差し」この愛というのは、好き、嫌いの愛ではありません。神様の愛は無条件の愛ですから、何かをしたから愛するとか、何かをしないから愛さないというものではありません。そのまま私たちを愛して下さるのです。頭が良かろうが、身体が強かろうが、知性が発達していようが、していなくても、神様は私たちを愛する事をして下さる。その愛を基として生活しなさいと言っているのです。この地上には無いです。勉強ができたらチヤホヤされる。もう私の母親ほど、典型的な長男しか愛さないという愛はありませんでした。弟とは食事も全然違うし、今思うと、本当に弟がかわいそうだったと思うぐらい。それは愛ではありません、それは好みです。その人がどうであっても、神様はイエス・キリストという方を遣わして、イエス・キリストという命を与えてまでも愛するという価値を、その人たちに与えて下さっているのです。ですから皆さん、この地上で知性が発達しているとか、何かがひいでているとかいう事によって、自分に価値があるとか、無いとかいう事を絶対に決めないで下さい。神は私たちを愛して下さっています。能力が無くても、あっても、容姿が良くても、悪くても、神はあなたを愛しておられます。その愛の広さと、長さと、高さと、深さを理解しなさいと聖書は言っているのです。今持っているあなたの愛は、本当に小さな愛でしょう。こうしたらゆるしてやる。こうしたら愛してやるという方向でしか生きてゆく事ができないでしょう。でも私たちが神様の愛によって、その広さ、長さ、高さ、深さを持って接していくならば、その愛は必ずそこに到達する事ができます。だから私たちはそれをしなければならないという事です。ただその愛は、受けるだけのものではなく、その愛を流して、そして癒して、ゆるして、その人たちを立て上げていくという事をするために、神様は私たちに愛を下さっているのです。皆さん私たちが受けている愛が、いかに大きなものであるかという事を理解しましょう。人知を遥かに超えたキリストの愛。人がこの地上で、どれだけ知恵を持ったとしても、そのキリストの愛を知る事はできないと言っているのです。その愛で私たちが満たされるように、聖書は祈っています。皆さん、人は受けたものしか流せないのです。私は本当にその事を思いました。結婚して子供ができて、本当に私は自分の愛したい愛し方、それは自分が受けた愛し方でしか子供を愛する事ができませんでした。だから本当の意味で、子供たちは私から神様の愛を受けるという事は、十分なされていませんでした。ですから歪んだ価値基準を、彼らの中に私自身がもうけるという結果になってしまいました。人は受けたものしか流せないのです。だから私たちは神様から愛を受けなければならないのです。無条件の愛を受けなければならないのです。それを私たちが求めるならば、神は私たちに新しい扉を開いて、私たちに神様の愛を流して下さるようになるでしょう。皆さん私たちは現実を受け入れ、そのためにこの神の愛によって、私たちの許容量を広げていかなければなりません。どれだけあなたが知恵を積んで、経験をしたとしても、この神様の愛から来る許容量は、この地上のどんな知恵や経験よりも偉大で素晴らしいものであるかという事を、今日受け取っていただきたいと思います。既に神様を信じている人たち、もう一度この神様の愛に立ち返って下さい。どれだけ自分が無条件で愛され、ゆるされ、そして癒され、正しく立て上げるために、私たちの内側にいつも神様が働いていて下さっているかという事、その事を忘れないで下さい。あなたが信頼しているものは何ですか?あなた自身が信頼している神様は、あなた自身の心を癒す事ができますか?一時的な慰めや、気持ちを抑える事ができたとしても、私たちの中に、どのように歩んで行っていいか、「これが道だ、これに歩め」と、神様は私たちに言って下さると、聖書には書いています。私たちの心の内側に、神様御自身が働いて、私たちの思いに、その神様の思いをもたらして、私たちがこの地上の困難さや、また、理不尽さや、色々な問題の中にあって、どう正しく生きていく事ができるかという事を教えて下さるのは、神様しかいらっしゃいません。この私たちの信じている神様こそ、その事ができる御方です。私たちはもう一度この愛の中で、私たち自身を正しく建て上げていきましょう。正しい価値基準を持ちましょう。そしてこの神様から愛をいただいて、その愛によってあなた自身を癒して下さい。あなたが過去受けてきた傷や、過去受けてきた躾や、そういったものから離れて、神様の無条件の愛を受けて、その愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解して、この人知ではないキリストの愛を知って下さい。それこそがあなたを癒し、あなたを建て上げ、あなたをゆるす事のできる唯一の愛です。それを受けたあなたは、同時に人をゆるす事ができるでしょう。違いを受け入れる事ができるでしょう。ゆるす事ができるでしょう。正しい価値観を持って、あなたはこの地上を生きていく事ができると信じます。もう一度皆さん、私たちはこの愛を受けたいと思います。どうぞこの神様の愛を受け取って下さい。それは恥じる事ではありません。むしろ自分の努力によって、何か変える事ができているという風に信じていた、その考え方を恥じるという事を覚えて下さい。そして今日、この神様の愛によって私は新しく変わる事ができるという、その信仰を今日持っていただきたいと思います。

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