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執筆者の写真クライストチャーチ倉敷

2019.10.6 久松 政一使徒的長老「福音を信ぜよ」

今日は、「福音を信じなさい」というこのタイトルでお話をしたいと思います。なぜなら皆さんこの教会は、本当にレベルの高い最後の時代に来ています。そして神様の一番新しい運動の中にいます。そうすると、最初の教えがぶれる人がいます。「この教会は、新しい教えばかりして、一番大切な教えをしないのだ。」と、勘違いするクリスチャンも出てくるかも知れません。それはとんでもない話です。私たちは聖書に書いてある事は皆信じます。私たちの根幹、土台、中心、核、これは福音です。ここから私たちは信仰を出発させます。信じない者はクリスチャンじゃありません。神様を信じない者は私たちの仲間じゃありません。私たちの仲間は、皆これを信じています。これを信じていなかったらクリスチャンじゃない。それは世の中の考えで生きる人たちです。私たちはこういう人々に、これを語ります。さあ今日は、これを見ていきましょう。

 「福音」という言葉は、これは名詞です。新約聖書に、福音という言葉は86回出てきます。非常に多く出てくるのです。皆さんはこれぐらい、福音というのがこの新約聖書に出てくる事を知っておられましたか?そして動詞の言葉は、「福音を宣べ伝える。」または、「喜ばしい知らせを語り伝える。」これが25回出てきます。ですから名詞と動詞を合わせると大体111出てきます。それぐらい「福音」というのが、新約聖書で重要であるという事を私たちは知る事ができます。この「喜ばしい知らせを語り伝える」という言語が、多くの教会で福音を、「良い知らせ」と言われるようになった。だから福音というのは、すべての人にとって、世界中の人にとって、グッドニュースです。良い知らせです。これ程良い知らせは、他に比較するものがありません。私たちが生まれたら、色んな価値観を、この世界で持ちます。お金が一番大事だとか、やっぱり3階建ての家だとか、いや、名誉が大事だとか、やっぱり子供たちがいい職業に就く事が大事だとか、皆それぞれ勝手な事を言います。でも聖書ははっきりと、良い知らせ、福音ほど私たち人間にとって喜ばしい知らせはありません。これを聞かなかったら、本当に不幸な人生を送ります。だからイエス・キリスト様が、この福音について語っておられるのです。これぐらい新約聖書では、「福音」という言葉が多く出ているという事を、まず覚えましょう。

 今から2千年前、聖書の言葉で、イエス・キリストにより語られ、伝えられた。それは大体、紀元後30年ぐらいから300年ぐらいまで、この福音が伝えられたのです。そして、紀元後300年以降は、皆さん御存知のように、福音は途絶えてしまいました。福音を伝える人がいなくなりました。その代わり、カトリックという宗教が、世界を支配しました。カトリックは福音を伝えてはいません。彼らはキリストを信じるという事において、本当の意味で理解していません。それは今も続いています。ですから300年まで福音が伝えられました。そして300年以降、福音が伝えられなかったけれども、神様はもう一度聖書に書いてある福音を回復して下さいました。それが、皆さんが御存知のマルチンルターという人物です。この人によって再び福音が語られ、今日までこの福音は伝えられているのです。このマルチンルターは、1517年95か条という意見書、カトリックはおかしい、彼もカトリックだった。カトリック以外にその時代にはキリスト教は無かった。ですからマルチンルターもカトリック信者だった。でも、なんで免罪符を買ったら地獄の苦しみから救われるというような、皆さん御札です。それは誰が出しましたか?カトリックという政府が出したのです。そして財政がひっぱくしているから、政治と宗教を混同しました。そしてこの免罪符を買えば、あなたの死んだお爺さん、お婆さんが地獄から救われる。お金で地獄から救われるという切符を出したのです。マルチンルターは、本当にこれはおかしい。ですからその免罪符を初め、ありとあらゆるカトリックの制度に対して、マルチンルターは意見書を出して、「これはおかしい。これは改めるべきだ!」95箇条を、カトリックの門に叩き付けたのです。それが1517年の出来事です。そして今日まで福音は、マルチンルターから始まって、今全ての教会に伝えられてきているのです。

 イエス・キリストの福音を信じる事によって、3つの事が私たちに与えられます。

1.罪が許される。私たちは本当に一人一人、正しい人は誰もいません。本当に醜い性格です。私たちは裏表のある生き物です。誰も正しい人はいないと聖書は告げています。ですから福音が語られなければなりません。己を義としている人はいます、自分は正しいと。でも、それは腐った義です。本当に腐っています。ある人は、自分が小さな会社の常務だと、それだけで自分は素晴らしい人のように錯覚している男たちが沢山います。それはあなたの会社だけの立ち位置でしょう。あなたはその会社から出たらただの罪人です。それさえも分からない人たちがいっぱいいる。もうレッテルがいっぱい張られて、そういう風な価値観で生きている生き物が世界中にいっぱいです。そんな中で私たちは、福音を信じる事によって、罪が許される。私たちの今まで犯してきた、また、語ってきた、また、思ってきた全ての事が許されるのです。2.そして義とされるのです。義とされるという意味は、一度も罪を犯した事が無い者と認められるという事です。福音を信じるなら、あなたは正しいとされるのです。なんという恵でしょうか。3.永遠の命が与えられる。福音を信じたら、永遠の命が与えられる。私たちの肉体はいつか死にます。この度も、9月と10月にたて続きでお二人の方が召されました。けれどもどちらもイエス様を信じておられたので、その方々はもう罪が許されているし、神様の前に正しいとされているし、永遠の命が与えられていますから、肉体は火葬場に行って無くなります、灰になります。灰は何からできていますか?それは土からできているのです。土の成分が、この肉体を作っているのです。なぜなら聖書ははっきりと、化学とも適合します。神様は土の塵で人を創られた。ですから肉体は無くなります、けれども私たちの内にある霊が永遠の命を持っている者は、神のみもとに行く事ができるという絶対的な約束があるのです。それが福音を信じる事によって得る事のできる、世の中では絶対に得る事のできない物を神様はあなたに下さるのです。

 1517年にマルチンルターが、カトリックに対して反抗しました。反抗という言葉、それがプロテスタントという言葉です。ですから正しくないカトリックに対して抵抗して、もう一度聖書に立ち返ろうというその群れを起こしたのがマルチンルターです。そこからたったの8年後には、メノシモンズという方が、洗礼の教え、イエスキリストを信じたら、洗礼を受けるというその教えが始まりました。なぜなら紀元300年から、全部福音も無くなってしまい、このイエス・キリストを信じたら、洗礼を受けるという事も無くなっていたのです。もちろんカトリックでは洗礼をします。でもその洗礼は滴礼です。水を浸して、おでこに付けて、それで洗礼です。それは滴礼です。でも聖書の洗礼は、浸礼です。全部浸すというその真理が帰ってきたのです。そこからバプテスト派が出てきた。このシモンズさんに、「ああ、その教えは聖書が言っているのと同じ教えだ。だから私たちはあなたを信じますよ。」という事で、メノシモンズさんの所に沢山の人々が集まり始めた。それをメノナイトと言うのです。そこからバプテスト派が出てきた。そこからブレザレントというような派も出てきているのです。これは全部バプテストの流れから出てきているのです。簡単に言うと洗礼です。洗礼が始まったのです。福音を信じたら、その後洗礼を受ける。ですから私たちにとっては、福音を信じる事と、洗礼を受ける事は同じなのです。これはもうその場でする事なのです。空間を開ける必要がないのです。信じた者は洗礼を受ける。これが聖書の教えです。カトリックでは滴礼を生まれた子供にしますし、また、水に浸からせるのですけども、これは聖書から言うと、大人が受けるものです。罪を認めた人が洗礼を受けるのです。赤ちゃんが自分の罪を認められますか?赤ちゃんに意思がありますか?だから幼児洗礼というのは、聖書では出てきません。これは勝手にカトリックが作ったのです。聖書的でありません。聖書の最初のイエスを信じた人たちは皆、水に全部浸されたのです。浸礼という洗礼でした。こういう幼児洗礼は行われません。その意味において、ここで学んでいただく事は、洗礼という事も、これは聖書に書いてあるその教えが回復されてきたのが1525年から現在に至るまで、あらゆる教会で洗礼がなされているのです。ですからイエス・キリストの福音を信じた人は洗礼を受けるというその二つの事が、今の世界中の教会で、今も行われ続けているのです。その最初が1517年のマルチンルターから始まってきた。でももっと言えば、イエス・キリスト様の時代から行われてきて、途中に空間があるという事です。

 では、今日の中心の教えである福音を見ていきましょう。今日は福音について語ります。これは、ものすごい深い教えです。福音という事を見ていきましょう。イエス様が語られた箇所を読んでみましょう。マルコによる福音書1章14節~15節「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ。」ここで初めてイエス様が福音という言葉を使ってらっしゃるのです。「悔い改めて福音を信じなさい。」イエス様はこのために来られたのです。時は満ちたという意味は、時がやって来た。神様の計画の時が来た。神様の国、それは、「そこから私がやって来た。神の国から私はこの地上にやって来ました。」と、イエス様がおっしゃいました。そしてその最初のメッセージは、「悔い改めて福音を信ぜよ。」これが、最初の福音の言葉です。ですから福音を信じる前には、悔い改めるという事をしなければならない。悔い改めるというのは、今まで自分勝手な道を歩いていた。自分の考えで生きてきた。方向転換して、神様の方向に改めなさい。悔い改める=方向転換しなさい。あなたは自分の勝手な考えで生きるのを止めて神様の方向に帰って来なさい。というのが悔い改めるという事です。多くの人は悔いる事はします。「ああー、また、失敗した。また、同じ事をやってしまった。ああ、私はもう何て愚かなのだろう!」何度も同じ事を悔いてばかり。「悔い改めよ!」改めてないのです皆。だからイエス様を信じる前にする事は、方向転換して、神様の方向に自分を向きなさい。そうしたら、聖書の言葉が私たちの中に入ってくるのです。そのスタートは、福音を信じる事です。だから福音を信じたら、先程のように永遠の命が与えられるし、義とされるし、罪が許されるのです。この特権にあずかる事ができる人は、福音を信じる人だけです。だからイエスは、「全世界に出て行ってこの福音を伝えなさい。」と、言ってらっしゃるのです。

 イエス様が、先程は福音という言葉を使いましたけど、イエス様の弟子である使徒パウロが、これを説明しています。福音について使徒パウロが、福音というのはどういう内容なのかという事を、パウロは言っているのです。コリント人への第一の手紙15章1節~11節に、その全容がかかっています。「兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。」だからコリントの人たちは、最初パウロが福音を伝えた時に信じたのですが、そこからまた、心がガタガタッと崩れて行ったのです。だからパウロは手紙を書いて、それによって立ってきたあの福音を思い起こしてもらいたい。だから皆さんこの教会の中でも、イエス様を信じているけれども、心がガタガタの人、いませんか?「あなたはクリスチャンですか?」と、言われるような人、いませんか?世の中と何ら変わらないような、そんなクリスチャンになったらだめですよ。パウロはコリントの教会に、そう言っています。「あの福音を思い起してみなさい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っているのだったら、あなたがたはこの福音によって救われるのに、どうしたのだコリントの人々よ!」と、腹が立って怒っているのです。3節「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値打ちのない者である。しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。」しっかりと、私が以前にあなた方の所に行った時に伝えた、あの福音を思い返して、その福音の中に留まっていなさい。あなた方はそこから出ているのではないか。あなた方は私が伝えたあの福音と違う生き方をしている。戻って来なさい。と、パウロは言っています。その福音とは、この中に書かれていました。まず1節「兄弟たちよ、わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受け入れ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。」だからパウロは、コリントの兄弟姉妹たちに対して、「私が以前あなた方の所に行った時に伝えた福音を、ちゃんと実行していなさい。その福音の考え方によって生活しなさい。生きていきなさい。そうするなら、あなたは最終的にあなたが信じている福音によって、あなたは救われて、義とされて、罪許されて、永遠の命を得て、神様の元へ皆行く事ができます。」と、パウロが言っているのです。だからそれぐらいコリントの教会は、最初にイエス様を信じていながら、その福音に生きてはいなかったのです。福音の内容に従っていなかったのです。言い換えれば、この世の生活にどっぷり浸かった生き方をしていたのです。世の中の価値観で生きているのです。クリスチャンは神様の言葉に従って生きる民です。世の中の価値観で生きる者ではありません。もしあなたがそれをするなら、パウロがこのコリントの教会に言っているように、最後にあなたは救われなくなります。気を付けて下さい。これは私が言っているのではない。これは神様が言っているのです。だからあなたは福音の真理に生きていかなくてはなりません。福音の内容は、3つある事を今から言います。それに従ってあなたは生きて行く必要があります。これが福音の内容です。

「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたこと(経験したこと)であった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、1.わたしたちの罪のために死んだこと、2.そして葬られたこと、3.聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、」これが福音です。ではこの内容を簡単にまとめたものが次です。福音とは、私たちの罪のためにイエス様が十字架に架かられたのです。あなたの罪のためです。あなたは地獄に行かないとならない人でした、私も含めて。神様の前に正しくないのですから。神様があなたを造られたのに、あなたは勝手な生き方をしているのだから。神様は滅ぼすのは当たり前です。だからあなたを罪から救い出すために、キリスト様自らが十字架に架かって身代わりの死を遂げて下さる事によって、私たちはこの福音、私たちの罪のために死なれた事が、あなたにとって良い知らせです。私たちの罪のためにイエスは死んだのです。彼は彼のために死んだのではない。彼は罪を犯していません。彼は正しい人でした。私の身代わりのために、十字架に架かって下さった事が、これが福音の1つ目です。そしてイエス様は死んだだけではなくて、死んでも時々生きる人がいます。死んでいたけれども、パッと目が開いて生きたという人。そういう事のないために、完全に死んだ事の証明は、葬られた事です。イエス様は死んだだけではなくて、墓の中に完全に葬られた。すなわち完全な死です。イエス様は完全に死んで下さったのです。死ぬ事のない神が、あなたのために死んだのです。驚くべき事です。そして3日目に墓から甦られた。この3つが福音です。キリストが私たちの罪のために死んだ事。完全に葬られた事。3日目に私たちのために甦って下さった事。イエス様が甦って下さる事によって、私たちは希望を持つ事ができるのです。私たちも甦る時が必ず来る。これがイエス様が代表として、私たちの身代わりに死んで下さった事です。だからこの3つを合わせて、私たちは福音を信じるという事です。私たちは罪許されて、私たちは完全に許していただいた者として立つ事ができる。それが福音を信じる事です。これがマルチンルターが言った救いです。1517年福音がもう一度戻って来た。福音を信じるこの教えが、マルチンルターの中に戻って来た。それは神様がなさった。これは神様の教えです。今まで途絶えていたものが、もう一度回復した。この根本的な教えが、あなたの信仰の土台にありますか?私の罪のために死んで下さった。イエス様が完全に私の罪のために葬られて下さった。そしてイエス様は、私のために3日目に甦って下さった。それを私たちは信じます。それがクリスチャンです。この3つを、私たちはマルチンルターの教えとして回復したのです。2千年前のイエス様の時代には、弟子たちはこの教えを大胆に語りました。けれども、紀元後300年ぐらいの間に皆消えてしまった。300年~1517年までは、全くイエス・キリストを信じる福音を聞いた事が無かったのです。それをもう一度神様は、マルチンルターを通して回復して下さった。彼は神様に用いられた人物です。

 洗礼の意味も、イエス様の死と葬りと甦りが同じ意味です。この洗礼の意味は、バプティゾーという言葉が使われています。これはギリシャ語で、浸すという意味です。だから完全に水の中に浸されるという意味は、死を意味するのです。だからイエス様を信じたクリスチャンは、必ず洗礼を受けるのです。そして葬られるのです。そして水から上がるのです。これはイエス様の十字架の死と葬りと甦りに、私たちも共にあずかるという教えです。この霊的な教えが洗礼です。もちろん儀式的にしますけども、かたちとして水の中に入りますけども、本当の教えは、イエス様が十字架に架かって下さった時に、私も共にあの十字架に架かって、自分の自己中心の考えは、キリストと共に死んだ。という事を信じるために洗礼を受けるのです。自分の考えもキリストと共に死ぬ。そして完全に埋葬される。葬られる。完全に自分の考えに死んで葬り去られる。今まで世の中の考えで生きてきた私たちが、その考えが全部埋葬される。そして3日目にイエスが甦って下さったように、私たちも水から上がった時には、新しい考え方で生きる者となる。新しい考えとは何ですか?聖書の言葉です。これが新しい、神様の私たちの生きる考え方です。だから私たちの信仰生活というのは、この聖書の考え方に基づいて生きるという事です。そうしたら皆さんあなたはキリストと共にあなたも死ななければならない。キリストと共にあなたは葬り去られなければならない。キリストと共にあなたは新しい命に甦らされなければならないというこの3つの教えを、あなたは洗礼を通して体験するのです。洗礼を受けた人、ここにいる人たちの大部分です。だからまだイエス様を御存知ない方、あなたも今日イエス様を信じましょう。そしてすぐに洗礼を受けましょう。そうしたらあなたは約束されます。永遠の命と、罪が許される事と、義とされる事はあなたのものになるのです。

ローマ人への手紙6章3節~5節、11節「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって、神に生きている者であることを認むべきである。」これがさっき言った、死と葬りと復活の、その洗礼の意味がここに全部書かれているのです。コロサイ人への手紙2章12節「あなたがたは、バプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」死と葬りと復活に、あなたはあずかった事になるのです。イエス様のあの十字架は、あなたがその経験をするためだという事です。それが洗礼の意味です。コロサイ人への手紙3章1節「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、」だからあなたはキリストと共に甦らされたというのが、あなたの今の立ち位置です。神様があなたを見る時、あなたが洗礼を受けたなら、あなたは私と同じように、すなわちキリストと同じように、死んで葬られて、イエス・キリストが甦らされたように、あなたも自分の考えに死んで、新しい命に甦ったと、神様は見て下さるという事です。それが洗礼の意味です。キリストが死んだ時、キリストと共にあなたも死んだ。イエス様が死んで下さったのですけども、本当はキリストと共にあなたも死んだのです。そしてキリスト様が葬られたように、キリストと共にあなたも葬られた。そしてイエスが甦られたようにあなたもキリストと共に甦った。甦ったという意味は、新しい考え方で生きる人になったという意味です。今までのあなたの古いその体質、価値観、あらゆる世の中の経験、知識、能力、全部あなたは死んだのです。そして新しい神様の考えに生きるようにあなたは甦ったのです。だから本当は、洗礼を受けた後のあなたは、神様の目から見たら、昔のあなたじゃないのです。新しい命に生きているあなたが、神様の目からは見えるのです。だから古いあなたはもう死んだのです。だから罪を犯す事はもう無いのです。あなたが愚かな言葉を語る事も、もう無いのです。あなたが相手を責めたり、裁いたりするような事はもう無いのです、死んだのですから。その立ち位置が洗礼の意味です。我々の教会の大体は、洗礼を受けたクリスチャンです。でも、死んでいるのに生きているクリスチャンは多くいます。死んでいるのに、古い体質のあなたが時々出て来る。あなたは死んだのでしょう。けれども本当にあなたの価値観が、この世の価値観から、束縛から解放されるためには、もう一つの真理が必要なのです。だからこの洗礼の次に、今私たちが学んでいる使徒的改革という教えが、これと全く同じ意味をあらわす事があなたは分かりますか?

 使徒的改革の中心、これを皆さんは学びました。二つの山を登りました。一つ目の山は、「最後の成熟への追跡」という山でした。二つ目の山は、「代表行為」という山でした。これは、死と葬りと復活の意味です。すなわち実際的に私たちが、何に死ななければならないか。自分は今までどういう風な価値観を、世の中で持ってきたか。それを洗いざらい神様はあらわして下さって、「ああ、こういうものは本当に自分にとって価値が無かったのだ!」という事を、一つ一つを確認して、全部それを捨てていく、死ぬという経験をする事が、この最後の成熟への追跡の意味です。最後の成熟への4つの追跡の1番目、損を算出する。世の価値に対する死です。私たちはこの損を算出する。この世の中の知識や能力や経験や、また、地位や名誉やあらゆる価値観は、皆価値が無い。それに死ななければならない。あなたがどこそこの大学を出ている事が、あなたの価値ですか?そんなものは、あなたにとって何の価値も無い。あなたはその価値に死ななければならない。また、あなたがひどい親の元で生まれて、ある人は児童相談所で、絶対その親を友達に合わせたくないというようなひどい親を持っている子供たちもいっぱいいるのです。皆、劣等感を持っているのです。本当は卑屈になってしまっているのです。そういう子供は、一般の世の中の人は、さげすんで人を見るのです。「あいつは児童相談所の所から出た子供だ!」また、ちょっとでも障害があったら、「あの子は障害者だ!」高慢な自惚れから人を見ます。でも神様の目から見たら、その児童相談所の子供でも、また、障害者の子供でも、素晴らしい人なのです。価値があるのです。でも、私たちは卑屈になって、「勉強ができなかったらだめだ!」とか、「親がひどい犯罪者だから、その子供だから私はもうだめなのだ!」とか。そんな事はない。神様は、「そういうものには価値が無いよ。あなたは素晴らしい人だよ!」と、神様が言って下さるのが、この損を算出するという意味ではありませんか?私も卑屈で、劣等感を持っていました。口は悪いし、ガラも悪いし、そんな親の子供に生まれたのです。神様はそうさせたのです。僕の友達は皆、良い大学に行っている。自分は一番情けない、低いレベルの高校を出て、すぐ就職だった。私の心は劣等感で満ちていました。「何でこんな差別があるのだ!何でこの世の中は悪いのだ!この世の中がひどいのだ!」と、言って、世を恨んだ事がどれだけあった事でしょうか。そんな私が今、そういうものは価値が無い。そういうものに意味が無い。どんなにひどい、低い、士農工商で言えば、一番下の非人という領域の人たち、部落の人たち、その人たちも価値があるのです。神様の前に皆、価値があるのです。世の中の会社のレッテル、どこそこの会社の部長になった。それであなたは自惚れるでしょう。そしてその会社の中では偉そうにしているでしょう。そんなものには価値が無いのです。神様は、「損を算出せよ。自分の肉に死になさい。自分の世の中の価値観に死になさい。」と、神様はおっしゃっているのです。2番目は、「出発点を再定義する」という事は、永遠からの視点で物事を見なさいという事ですから、私たちは初めから神様の子として本当は永遠の存在なのですけども、そういう視点から物事を見る事ができなくて、私たちはいつでもこの世の価値で生きてきたから、永遠という、すなわちこれは甦りです。だからイエス・キリストを信じて、損を算出して、出発点を再定義したら、死んで甦るという事が理解できます。3つ目の十字架の中に入れられるは、死と甦りと両方があります。私たちは自分の十字架の枠の中に入れられる。自分の肉の中に入って死ぬ。そしてその後甦る時、この十字架から知る事は、人のために生きるという生き方に私たちは変えられる。イエス様は人のために生涯生きて下さった。己の幸いのためには、イエスは生きた事が無かった。私たちキリスト者も、人のために生きるために救われたのです。新しい命というのは、人が幸せになる事が喜びの考え方なのです。それは甦りです。それは永遠という領域です。だから最後の、「上を目指す」というのも、永遠、甦り、上を目指して、私たちはこの地上に価値なんて一つも見出さない。これは死んだら終わりです、こんな所。どんなに素晴らしい人でも皆死んでいくのです。何の価値も無い。最終、死んだ後、永遠の命を持っているか持っていないかで勝負です。私たちは永遠にキリストと共に生きる者となるのです。これが死と葬りと復活です。

 そして代表行為、これも、世の人々のために私たちは生きるのです。また、我々のコングレスの教会以外の教会のために、代表として立つのです。という事は、人のために生きる。他の教会のために自分を献げる。すなわちそれは、甦りの命です。ですから死と、葬りと、復活を表している事は理解できます。だから私たちは自分に死んで、人のために生きるというこの考え方は、コングレスの中心です。すなわち聖書の一番の、根幹の教えです。それを実際にできる形に、具体的に表したのが、洗礼ではなくて、このコングレスの教え、すなわち使徒から開かれた御言葉によって、私たちはプロセスを踏む事によって、成熟していく。私たちはキリストの者になっていく。キリストに似る者になっていく。キリストのようになっていく。それがこの教えです。最高の教えを、私たちはいただいているにもかかわらず、使徒的改革が分からないというようなクリスチャンにならないで下さい。兄弟姉妹、私たちは己に死ななければなりません。己の今まで生きてきた、この世に与えられた価値観、その性質と、その性格と、そのあなたが今まで生きてきたその経験や知識は、本当に腐ったものです。あなたがそれを付けている以上、成熟できません。私たちはキリストと共に死にました。キリストと共に葬られました。キリストと共に甦りました。同じように私たちはキリストと共に死にます。そして私たちは葬られます。そして他の人のために生きる。それは永遠の領域です。だから私たちのこの肉体は、いつ死んでも永遠という存在ですから何の問題も無い。兄弟姉妹、あなたはこの地上で何を求めているのですか?皆、消えていくものでしょう。永遠という今この瞬時に、他の人のために生きる事こそ、私たちの喜びじゃないですか。それが真のキリスト者です。だから福音とはこれです。プライドありますか?あなたは何の価値も無いです。私も本当に愚かな者に過ぎません。「あなたのどこが偉いの?」と、ちょっと隣の人に聞いてみて下さい。その人が、「私はどこも偉くありません。」と言ったら、その人は素晴らしい。顔が綺麗、どうでもいい話です。世の中の価値観に、皆さん振り回されるのを止めましょう。あなたは神様の前に素晴らしいのです。キリストがあなたのために身代わりとして死んで下さったのは、あなたも人のために生きるためです。そのためにあなたの考えに死にましょう。だからマルチンルターも、バプテスト派の人々も、また、ノエル・ウッドロフ師が、このコングレスを作ったのも、皆神様の教えです。分かって下さいましたか?簡単に言えば、死んで生きる事です。だから10月13日の捧げものの日は、あなたが死んで、「キリストに喜ばれるために、人のために生きます!」というあなたを捧げる日です。ものすごい簡単。「だけど、まだあそこだけは捨てたくないのですが。」こういうのがいけないのです。あなたのどこが偉いのですか?外側がいくら美しくても、中身が腐っていたら意味が無いのです。だから今日、私たちは、「福音を信ぜよ。」イエス様はそのメッセージを語るために来て下さったのです。そして、福音の通りに彼は十字架に架かりました。そして墓に葬られました。そして、聖書に書いている通りに3日目に生き返って下さいました。死ぬ事のない方が、本当に死んで、実際に生き返った姿を、私たち人類のサンプルとして見せて下さいました。だから愛する兄弟姉妹、あなたも肉に死んで、人のために生きましょう。愛する兄弟姉妹、イエス様を信じて、私たちは永遠の命をいただきました。もう死ぬ事はありません。永遠は私たちのものです。ですから人のために生きるのは私たちの喜びです。もしこの肉体が死ぬるだけの人生なら、私たちも悪い事をしましょう。永遠が無いのだったら、やりたい放題しましょう。神様の裁きも無いのですから。でも、髪の毛一筋さえも数えておられる御方がおられると書いてある。あなたはこの聖書を本当に信じているのですか?恐ろしいイエス様がおられますよ。十字架にまで架かって呪われて下さったのは、あなたが信じるためです。もし信じなかったら、あなたは永遠の地獄に行くのです。神様は絶対に許さないです。私たちは右か左かです。羊になるか、ヤギになるかです。イエス様を信じましょう。今日、初めていらっしゃった方、イエス様を信じましょう。あなたはそのために生まれて来たのです。それ以外は何もありません。これを信じるなら、あなたの人生は変わります。今まで卑屈で、本当に性格の悪い人、それはこの世だからです。でもイエス様を信じたら、あなたは変わります。人のために生きる事が喜びになる。あなたは素晴らしい人生を送る事ができる。神様は約束して下さっています。そのための十字架です。主に従いましょう!

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