2018.12.2 木村主任牧師「聖域・集合の強調点」

今日は聖域集合の強調点という事で皆さんに少しお話をしたいと思います。今の時期

私たちが重要な事柄は何なのかという事を皆さん一緒に考えて、私たちは取り組んでいきたいと思います。

マタイによる福音書7章21節~23節「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪魔を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ。』働きや計画を優先させるよりも、見えない物を私たちは追跡していかないといけないということを言っている訳です。働き計画を優先させるならば、私たちは見えない物を追求するという事がおろそかになってくる訳です。見える働き計画は、全て見えない所から出てきている訳ですから、その見えない領域のものを、私たちは本当に大切にしないといけません。それは永遠という領域の事です。そこから来るものによって全てが行われているという事を理解しなければなりません。ですから私たちは今、何を強調点として考え、そして今私たちはこの時期に何をして行けばいいのか、長老もおっしゃったように、ウッドロフ先生が来て、新しい調整をなされる。でも私たちはその中で私たちのすべき事は、見えない物を追求するという事をいつも忘れてはなりません。目に見える物は一時的です。そしてそれは必ず失せていきます。しかし見えない物は永遠に続いて行きます。見える物によって自分の人生を判断したり、価値観を決めるというような事は本当に愚かな事です。ですからそういった事を皆さんやっていきましょう。そして皆さんの今のレベルで、神様の深みの中に更に私たちは入って行かなければなりません。今皆さんがいる状態の中から、更に神様の深みの中に入るという信仰が皆さんには必要です。そういう信仰を持って、飢え渇きを持って神様の前に出なければ私たちは相変わらず見える物によって自分の人生が振り回されてしまいます。しかし私たちが今いるレベルから更に応じて神様の深みの中に入って行くという事は大切です。それは聞くという所から始まっていきます。

 ヘブル人への手紙6章7節~8節「たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。」土地が私たちの心であるならば、今の神様の恵をどんどん、どんどん私たちは吸い込まなければいけません。そうすると私たちは役に立つ作物を作り出す事ができる訳です。しかし、いばらやあざみが生えるというのは、私たちの心に余計な物があるという事です。働きや計画ばかりを追求するあまり、本質的な目に見えない物をおろそかにするという事から、そういう障害が生じてくるという事です。ですから兄弟姉妹、私たちは見える物に絶対に影響されてはなりません。見えない物に目を止めて行かなければなりません。

へブル人への手紙3章7節~8節「だから、聖霊が言っているように、『きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、荒野における試練の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。』この、へブル書の3章と4章の中に、3度もこの事を神様は強調しておられるという事です。神様の声を聞いたなら、神様の声を聞いたなら、心をかたくなにするなと言っている訳です。いかがですか?私たちは何か言われるとかたくなになります。でもその時に、本当に自分の心を広げて下さい。その言われた事だけをとって、もう聞いた事だけで頭が一杯になって、固まってしまうという事がないようにして下さい。皆さん心を本当に広げて下さい。神様が語られた時に、その心を絶対にかたくなにしてはいけない。そむいた時のように、心をかたくなにするなという教訓を何度もここで神様は強調しておられるという事は、いかに、神が語られた時に私たちは耳を傾け、心を傾けていく事が大切であるかという事を強調している訳です。できたら嫌な事は聞きたくないです。できたら嫌な事も言いたくはない。でも、言わなければならない時があります。また、聞かなければならない時があります。その時に私たちは絶対に心をかたくなにしてはいけません。心を広げて下さい。必ず神様の言葉があなたの心に届くようにあなたは聞かなければいけません。そうするならばあなたは、目に見える物だけを優先するような愚かな生活から、本当に本質的な、見えない物を大切にしていくというその生活の中にあなたは入って行く事ができるでしょう。それを私たちは今、強調しなければいけません。その事を本当に追求して行かなければなりません。その事を本当に価値あるものとして私たちは捉えて行かなければなりません。

マルコによる福音書4章9節、4章23節7章16節で、「聞く耳のある者は聞くがよい。」皆さんいかがですか?聞いた事を行っていますか?大体聞いていない人は、ハイハイと言うのですが、全く違う事をするでしょう。聞く耳があったら聞きなさいとイエス様はおっしゃるのです。「私は聞く耳を持ちます!」と、皆さんそれが大切です。ですからちゃんと聞きたい、本当に行いたいというその飢え渇きが皆さんの中にありますか?皆さん聞いたらやるという事です。

 コリント人への第二の手紙4章16節~18節「だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の思い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」見える物はこの世限りなのです。私たちが行くのはこの世じゃない。天の故郷に行く訳です。この世限りのものに私たちは価値を置きませんということです。神様が聞きなさいと言われた時に、私たちは聞かなければなりません。今日も礼拝の中で、「神様がこう言われます」と、言った時に、それは花婿の声でした。そうしたら花嫁が応答しなければなりません。私が言っているのは、肉の目に見える原則ではなくて、霊の領域の原則において、神様の言葉が語られたら、それに対して応答する事によって私たちは一つになるという事です。それを聞いて、それに応答するならば、私たちはその聞かされた事を行う事ができるようになる訳です。ただ単に聞くだけのもので終わってはなりませんという事です。私たちは聞く耳の者でありたいと思います。あなたがもし聞く耳を持たないならば、あなたはそれを見る事はできません。ここには神様の原則があります。聞く、見る、行うという事です。私たちはそれをやって行かなければならない。今、私たちが特に気を付けなければならない事は、聞いた事を見て、行うという領域に、もっと価値観を置いて行かなければならないという事です。ただ単に聞いて、「ああ、そうなのだ。ハレルヤ、アーメン!」で終わってはいけません。「分かりました、それを私は見ます!」見たならあなたは行う事ができるのです。それが、今神様がおっしゃっている聖書的な原則であり、私たちの中に強調点としてそれを受け止めなければならないという事です。

神様の声に耳を傾けるという事は、皆さん今立っている所から戻ってどの種に耳を傾けるのですか?今日もう一度、救いのその事を思い起しなさい。それは私たちの種の所に戻って、それがいかに大きな恵であったかという事をもう一度理解しなさいとおっしゃった訳です。そこから私の種は始まっているという考え方をしなければいけません。それ以前のあなたは、本当にどうしようもない種だったと思います。でもその種が入った時に私たちの人生は全く変わってしまいました。180度変わった訳です。ですから皆さん聖霊が導いている種は、今、神の言葉、今は視野の時代、見つめる時代なのだという事を皆さん受け止めて下さい。もしあなたが見たいと願うならば、あなたはまず聞かなくてはなりません。聞くという事は、ただ情報として入れるのではなくて、心に留めるという事です。だから、旧約時代神様は、「これをあなたの心に書き記す」と、言われた。それは神様の願いを持って欲しいという願いなのです。聞くという事はそういう事なのです。そしてそれを見なさいとおっしゃっている訳です。なぜなら見ないと行えないからです。私たちはそれを今、本当に注意深くして行かなければなりません。今は視野の時代です。視野の時です。

 霊の視野、肉の視野、その所で私たちは本当に注意していかなければなりません。肉の視野は見える所で判断し、その見える物を求めていく訳です。そこから生まれてくるものは何ですか?ねたみや比較しか生まれてきません。しかし、皆さんの中で誰かが、何かの賜物を持っていたら、肉の目で見るという事はこういう事です、「ああ、私もああいう風にしたい!」皆さんが何かをする目的は何ですか?「あの人は何か人をもてなすのがすごい上手だ。私もしたい!」いや、あなたにそれは与えられていない。与えられていないのにそれをすると、あなたはもう体ががちがちになってくる。そしていつもやらなければならない事を見失って、いつも、「ああ、あの人がしているから、あの人がしているから」という比較の中で自分を生かしていかなければならない。それこそ目に見える物を見て自分を立て上げようとしている。これは愚かな事です。神様が与えられたものをあなたはやって下さい。「私は何が与えられているか分かりません。」でも、あなたは神様を礼拝する事はできますよね。神様を証しする事はできますよね。神様のために時間をさいて働く事ぐらい何でもできるじゃないですか。なぜ目に見える所ばかり見て自分に足りないか、不足しているかのような考え方を持たなければならないですか?それこそが肉の考え方です。

 ですから私たちにその賜物が与えられているのは、体を完成させるためであって、私たちが視野を持って生きていくという事は、その目に見えない物が明らかにされて、体が完成に向かっているという事を受け止めなければならないのです。ですから、「あっ、あの人に神様はこの事をさせている。この事をされている。ハレルヤ、感謝します!私は私に与えられている事を忠実にやっていきます。」これが本当に大切な事です。でも、見えていない人にはそれができないのです。「あー、あの人がやっているから私もしないといけない。これもしないといけない。」もう片手でピアノ弾いて、片手でドラムを叩く様なものです。皆笑うけど本当なのです。こんな愚かな事をしてしまっているのです。だから、「私は私のやるべき事を忠実にやります。」という事が大切になってくるのです。

列王紀下6章15節~18節、これは私たちが最近ずっと神様から導かれている御言葉の箇所です。「神の人の召使が朝早く起きて出て見ると、軍勢が馬と戦車をもって町を囲んでいたので、その若者はエリシャに言った、『ああ、わが主よ、わたしたちはどうしましょうか。』エリシャは言った、『恐れることはない。われわれと共にいる者は彼らと共にいる者よりも多いのだから。』そしてエリシャが祈って『主よ、どうぞ、彼の目を開いて見させてください』と言うと、主はその若者の目を開かれたので、彼が見ると、火の馬と火の戦車が山に満ちてエリシャのまわりにあった。スリヤびとがエリシャの所に下ってきた時、エリシャは主に祈って言った、『どうぞ、この人々の目をくらましてください。』するとエリシャの言葉のとおりに彼らの目をくらまされた。」ここに、聞いた事を行う時に起こる神様の働きが書いてある訳です。エリシャは聞いていました。そしてそれを見ました。そして最後に主に祈って言った。行った訳です。そうしたらその通りになったという訳です。それで神の人の召使はその現実を見て驚いたのです。でもエリシャは、その若者の目を開いて下さいと言いました。私たちは霊の目が開かれなければいけません。それは聞く所から始まります。皆さんは何を聞いていらっしゃいますか?もしあなたが正しく聞くならば、正しく見る事ができ、正しく行う事ができるというその構造を神様は私たちの中に今、建て上げたいと願っておられる訳です。なぜなら私たちが今やっている集合・収穫・最終化のこの領域は、成就の領域と言われています。神様の御心が成就して行く領域の中に入って行くための、その最初の始まりである集合、その時に私たちは聖域として、私たち自身が聞いて見て行って行かなければいけません。それを相変わらず肉の目で見て、人と比較して、自分は足りない駄目だ、ああしないといけないと言って肉の努力でなお自分を高めようとするならば、それは愚かです。ある程度ができる、できない。皆さん、私はいつも本当に思うのですけども、ソングリーダーとして立つ時に、「私は神様、私は歌がへたです。」でも神様の前に、神様が導きをする時には、神様がそれを正しくして下さる。私はそれを神様から、「こうすべきだ」という事を聞いて、やるという事です。皆さんが神様から聞かされている事を、信仰を持って受け止めてやるならば、必ずあなたの行いは明らかになってくるでしょう。今、私たちはそれをしていかないといけない時期に来ているという事です。

ここで皆さんに最後にお勧めしたいのは、巨大な言い知れぬ恐怖や圧迫の中で向かって来るこの地上の事柄の力を必ずこの領域は打ち砕く事ができるという事です。地上に偉大な力が来ます。それらは恐怖や圧迫をしながら向かって動いて来るのを私たちは感じます。しかしその力を破壊して行く事ができるというのが、このエリシャがとった態度なのです。それは聞いた所から始まりました。聞く、そして見る、行う。それを私たちは徹底して兄弟姉妹、やって下さい。不可能な事という境界線を押し退ける事ができる。どう見ても無理でした。彼らは二人でした。スリヤの軍勢が囲っていました。でもエリシャはそこで神の声を聞いていたので、彼には見えていたのです。それよりも偉大な方が彼らの周りを囲っている。ただ私は主に祈ってひとこと言うだけです。「彼らの目をくらまして下さい。」その間彼らは堂々とそこを抜けて行く。で、彼らは敵陣に連れて行かれて目が開けられたら敵陣だ、でも彼らは殺されずに敵陣から帰った。私たちの中で、不可能だというその領域の境界線を押し退けなさいと神様はおっしゃっている訳です。制限されているという境界線を押し退けなさい。その制限とは何ですか?あなたの考え方です。あなたの心の狭さです。あなたの捉え方です。その境界線、制限されている枠を広げなさい。それを押し退けなさい。私たちが行く事のできなかった場所の境界線を押し退けなさい。それは言い換えるならば、個人的に超えれない領域の境界線を、今あなたは聞くならば押し退ける事ができるという風に神様はおっしゃっておられる訳です。ですから私たちは賢くなければなりません。神様の言葉をしっかり皆さん聞いて下さい。それはただ聖書だけではなく、今このようにして語られている言葉でもあり、また、長老がイスラエルに行ってこうでしたと言う言葉もそうです。また、あなたのコイノニアリーダーが、こうですという時にもそうです。また、夫婦の関係の中で、夫が言う事、妻が言う事、子供が言う事を通しても神様が働かれている時があります。でもあなたが耳を傾けずに自分のやりたい事をやっているならば、あなたは聞く事も、見る事も、行う事もできない者に、自分で自分を作ってしまいます。そこから解放されて下さい。正しく聞いて下さい。そして正しく見て下さい。そして正しく行う事ができるように兄弟姉妹、私たちは導かれています。私たちは聞く、見る、行う。この構造が私たちの内側に必要です。これを今、私は建てなければならないという事を皆さん受け止めて下さい。この構造が内側にあれば最初に読んだマタイによる福音書の7章21節23節の様な事にはなりません。あれは全部神様がして欲しい事でした。癒しや預言や、でも神様はその人たちを知らないと言われました。なぜですか?正しく行っていなかったからです。私たちは正しく行う事ができます。ですから肉の目であなたはいつも翻弄されてはいけません。肉の目でいつも右往左往してはいけません。上がったり下がったりしてはいけません。霊の目でしっかりと物事を見極めて下さい。自分に与えられていない物を見てなげいたり、また、努力するような愚かな事は止めましょう。本当に神様があなたにお与えになっているものを大切にして下さい。それを私たちはして行かなければなりません。

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