2018.9.2木村主任牧師「優性の霊・優れた霊」 

      

使徒行伝の中に、使徒行伝1章8節、「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」と、有名な御言葉があります。神様の霊が私たちの中に来る、それは当然私たちを主の証人としての力として、神様は霊を注がれる訳ですけども、その霊の質は、優性、又、優れた霊であるという事を、今日皆さんに分かち合う事ができればと思っています。

 この優性、神様の霊であるものは、私たちの中に何を生産して行くのか?神様の声というものは、私たちの内側に、優性、又、優れた霊というものを生産していきます。それは内面の強さ、完成へと生み出す強さに成って行くのです。まあ皆さんも、年若い人も、若くない人も色々な悩みや、又、問題や、この世の色んな出来事によって心を痛めたり、又、病んだりする事もありますが、私たちはそういう中で、この神様の霊によって内面が強くされ、そして完成へと生み出して行く強さというものを神様からいただかなければならないと思います。内面の強さ、神様の目的を完成へと動かす能力が現れていなければいけない。もし皆さんが自分の人生の中で、具体的に神様の力強さが現されていないという風に、もし感じるような事があるならば、私たちが正しくその神様の語っている事に応答していないのかも知れません。今、私たちは神様の言葉をずっと聞いていますけれども、その神様の言葉に対して、それを私たちが正しく受け止めたなら、必ずその正しく受け止めたという結果が表れて来ると思います。救われているという事で私たちは喜びますけども、初めてイエス様を信じた時の喜びは、今もなお私たちの中で持ち続けられ、そしてそれが更に大きくなっていっているという風に皆さんは感じていらっしゃいますか?あるいは教会に来れば来る程、信仰生活が長くなればなるほど悩みが大きくなる、世の中とあまり変わらない、そういう事が決してあってはならないと思います。ですから神様が語られた時に、「私は正しく応答します!」という、信仰の姿勢が必要だと思います。神様は必ず結果を私たちにもたらして下さいますので、私たちは優性、優れた霊を持ち続けて行かなければいけません。

 優性、優れた霊でないというものを、まず最初に見たいと思います。サウル王、彼の特徴を一言で言うならば、心の中に従順さが無かったという事です。これは非常に難しい問題かも知れません。従順と言った時に、「言われた事を行っていく」という事ですけども、小さい時から正しいしつけ、従うという事を教えていれば、学んでいれば、心から、「ハイ!」と言える訳です。でも私はその部分が充分でなかったので、今子供たちに従うという事を教えて行く時に、時々やっぱり困難さを覚えてしまいます。サウルは神様から選ばれて、油注がれて王に成りました。でも心の中に従順さが無かったので、神様が望んでいる事柄を最後までする事ができなかった訳です。皆さんが何らかの立場や働きに神様から召されたとしても、心の中に従順さが無ければ、自分の得て勝手な方法で、物事を完成させてしまおうとする部分が多いと思います。でも私たちの中に、心からの神様への従順があるならば、私たちは神様が言った通りの事を、必ず完成させて行く事ができる。イエス様はそういう御方でした。「わたしは父が語ること以外は何もしない。」ですから私たちの考えの中に、神様の言われた事を必ずやり遂げて行くという信仰、又、その捉え方というものが非常に大切だと思います。サウルから見る時、優性の霊、優れた霊でないものは、横暴で、傲慢で圧制的。今色んなスポーツ界で、パワハラを受けたと言う様な事がニュースに出ています。力で押えつけようとする。時々私も、子供を正しく従わせる事ができない時に、自分の力で従わせようとする。そしてそれがちょっと度が過ぎると、「お父さん何でそんなに怒った言い方するの?」と、言われる訳です。「怒ってない!」そういう時って皆さんありますよね。ですから優れた霊を持っているという事は、そういったものによって治めようとしないという事です。傲慢で圧制的で、意見を周りに共有させてしまう。外面的な強さ、プレッシャーとかを与えてしまう、そして従わざるを得ない様な状況に追いやってしまう、これは優性や優れた霊ではありません。

ですから皆さん考えていただきたいです、人との関係や、神様への奉仕や、色んなものに於いて、自分はこれをどういう心で本当にやっているのだろうか?自分の中で本当に、神様に対する従順さの故に、私はこの状況を従う事ができているのかということです。全然横暴で圧制的ではないのに、勝手に横暴だ、圧制的だという風に感じてしまう、そういう心が弱いというか、正しく受け取る事ができない人もいるかも知れません。でも神様は決して、むりやり私たちの意思や、そういったものをぶっ潰してまでさせようという事はなさらない。私たちが心から従いたいという心を持つ、それを神様は望んでおられる訳です。人の力や個性の強さを基準とはしないという事です。それによってあの人は優れている優性の霊を持っているというものではないという事です。私たちはどうしても、自分に何か不足を感じる時に、自分以上の力を持っていたり、個性があれば、素晴らしいものだと捉える、これはこの世の考え方です。自分は駄目だ、でもあの人はすごいという風に捉えます。でもそれは決して正しいものではない、優性、優れたものではない、人間的な能力です。

 神様の言われた事を行う、これが預言的という表現です。預言的に生きなさい。そう言われたら四六時中預言していたらいいのかなあ?という風に思いますけれども、それは神様が言われた事を行うという事が預言的であるという捉え方を皆さんしていただきたいのです。神様が言われた、言われた時には何も目の前に、その言われた状況が何一つ無い。でもそれを、何も無い状況の中でそれをやり続けて行くという事は、預言的な働きなのです。ですから、もうどう見ても不可能だと思える様な状況の中でも、神様が語られたならば、それは必ず成るのだという姿勢をあなたが受け取るならば、それは預言的な力と成って、あなたに神様からの実際の業が、働きが、目に見える様な形に成って行きます。

優性、優れた霊でないものの3つ目は私はもう駄目だからと他の人に言ったり、先輩だから、あの人は信仰年月が長いからという、そういうものではない。そういう価値基準によって、優性、優れた霊というものを私たちは決めないという事です。あの人はもう私よりも何年か前に救われて、一生懸命奉仕しているから、あの人の中には優性や優れた霊があるという捉え方はしないという事です。エレミヤ、ダニエルという人は、優性、優れた霊を持っていたという事が、聖書の中に記されています。エレミヤが預言者として神様から、その神様の言葉を伝えなさいと言われた。その国々に対して伝えようとした時に、人々は彼を受け入れなかった。その理由は、彼が若くて、その人間的に見た基準によって彼を見た時に、彼はそういう人ではない、というレッテルを貼られた訳です。国々はその神様がやっている事が分からずに、エレミヤを受け入れられなかった。だから逆に私たちクリスチャンが、この世の中で、この世の価値観と違う事をやる時に、この世の人たちはそれが分からないと思います。「何でそんな事をしているのだ?教会というのは、本当に10年、20年、古い考え方で物事をやっている。」とか、そういう風に私も、若い時に教会に行っていた時に言われました。決してそういう捉え方ではないという事です。

エレミヤ書37章6節「その時、主の言葉は預言者エレミヤに臨んだ、」彼に神様の言葉が臨みました。38章6節「そこで彼らはエレミヤを捕え、監視の庭にある王子マルキヤの穴に投げ入れた。すなわち、網をもってエレミヤをつり降ろしたが、その穴には水がなく、泥だけであったので、エレミヤは泥の中に沈んだ。」この泥と言う表現を使っているのですが、実は人糞、そこにエレミヤが閉じ込められたという訳です。神様の言葉を聞いてそれを語ったら、彼はこういう扱いを受けたのです。王やその国の人たちは、エレミヤがやっている事が全く分からなかった訳です。ですから兄弟姉妹、皆さんが今、神様が語られている言葉を聞いて、それを世であなたが語った時に、世はそれを受け入れないと思います。世はそれを認めないと思います。でもそれでいいのです。私たちが大切な事は、世に調子を合わせて行くという事ではなくて、神様が言われた事を行って行くという事が、何よりも大切な事なのです。彼はその環境の中で神様の声を聞いて、そこで神様の預言を書き続けた訳です。私たちも同じ様に、もがいても、もがいても良くならない状況の中にいても、決して働きを止める事をしないという事です。神様が言われた事を、必ず現れるまで、私たちはそれをやり続けて行くという事が、私たちの中にある優性、優れた霊なのだという事です。エレミヤは神様の目的を宣言する事によって、監禁されて暴力を受け、拒絶されたのです。どうですか?私たちはそういう雰囲気を感じたら、クッと出て、そういう事を言わせなかったり、嫌な事を言われたら、すぐ揚げ足とって、こういう風に言い返そうという事は、皆さんの中で自然に出て来る事柄ではないですか?それが優れた霊や優性ではない。それがどんな状況の中にあっても、その言って来た事、やられた事に対しても、その神様から聞いた事に対する恐れや不安が、全く彼の中には無かった訳です。皆さんはいかがですか?状況が変わったりすると、もう不安や恐れの中に落ち込んで行くのではないですか?でもエレミヤは、そういう中にいても神様の声を聞き続けて、そこで預言を書き続けた。私たちも同じ様に、何も受け入れられない様な状況に於いても、あなたがしなければならない事は、神の声を聞き続けて行くという事です。聞き続けて自分の中に照らし合わせた時に自分が偽っている、間違っている、そう思うならば、それは取らなければいけません。エレミヤは憎まれても、どんなに拒絶されても、神の目的を達成させるという資質がありました。それは優性、優れた霊が彼の中にあったからです。そしてそれが彼の内面を強くした訳です。内側が強くされた訳です。でも、いきなり彼はそこまで強い者ではなかったと思うのです。神様が最初エレミヤを召した時に、彼に対してこういう風に言われたのです、エレミヤ1章7節、「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。」と、言われました。「こんな若い私が、こんな大きな国々の所へ行って、こんな事を言えば、認めてもらえないのではないですか?誰も受け入れないのではないですか?」という風に考えた訳です。皆さんも、若い人たちも同じかも知れません、「こんな僕が言ったって誰も...」こんな僕を定義してはならないです。神様はそういう風に、「若者に過ぎないと言うな!」自分をすぐに定義してしまう、そういったものに対して神様は、「あなたはそういう風な事を言うな!」と、言われる訳です。いじける人に、「あなたはいじけるな!」ものすごく調子に乗る人には、「お前は調子に乗るな!」そういう風に言われる訳です。神様はいきなりエレミヤを遣わして、「私が語るから全部言いなさい」というやり方ではなかった。まず彼を励まして、彼がそれを正しく受け入れるように、その内側の建設的構造を神様は整えられた訳です。それで8節で、「彼らを恐れてはならない。」と、いうように言われました。恐れが私たちにとって一番厄介だと思います。何かする時に批判されたり、あるいは、「そんなやり方!」と、なった時に。でもそれをやって行った時に、結果が出たらどういう風に取りますか?「ほら、ちゃんとできただろう!」そこで又、意地悪い霊が出て来る訳です。できなかったら、「やっぱり言われた通りだ。」それは全然優れた霊ではないです。私たちがその霊をもって神様の声を聞いて行くという事が、どれだけ大切なのかという事です。

ダニエル書5章12節「彼は、王がベルテシャザルという名を与えたダニエルという者ですが、このダニエルには、すぐれた霊、知識、分別があって、夢を解き、なぞを解き、難問を解くことができます。ゆえにダニエルを召しなさい。彼はその解き明かしを示すでしょう。」彼が解き明かしをする事ができたのは、優れた霊を持っていたからです。こういうのを読んだら、「ああそうだ、私もダニエルの様にやるんだ!」と言っても、まずあなたが、我々がしなければならないのは、私の内にいただいた霊は、優れた霊であるという事の信仰がなければならないです。もう一ヶ所読んで見ましょう。6章3節「ダニエルは彼のうちにあるすぐれた霊のゆえに、他のすべての総監および総督たちにまさっていたので、王は彼を立てて全国を治めさせようとした。」彼が全国を治める事ができたのは、知識や、知恵や、学歴や、家柄があったからそうさせたと書いていますか?そうではなくて、優れた霊の故に、他の全ての総監、総督たちにまさったと書いてある訳です。皆さん私たちがいただいている神様の霊は、この世の知恵があると思う人たちよりも、私たちの神様の霊は上を行っている訳です。あなたがそれを求めなかったら、私の中に優れた霊があるという信仰が無ければ、私たちは何もする事ができません。ダニエルは私たちの環境とよく似ています、バビロンの捕囚の中にいた訳です。でもその捉えられている中にいても、彼の中にあった優れた霊によって彼は正しく生き抜いて行った訳です。獅子の穴の中にも入れられました。でも何も無く彼は出て来ました。それはダニエルが神の声を聞いて、行っていたという事がそこに記されている訳です。ですから優れた霊の故に、この世の高い地位の人たちよりも知恵深くなる事ができるという事です。この世の人たちは、自分が力があると思っています。でも本当に力のある方は神様以外にない訳です。この霊以外に本当の力は無いのです。でも私たちがいただいている聖霊は、そういう霊だという事の認識が無ければ、私たちは相変わらずこの世と同じ様なやり方を持って信仰生活を送って行く結果になってしまうと思います。神様の声を聞いて行うという事は、それは力です。あなたが力を得たいと願うならば、神様の声を聞いて行うという信仰を持たなければなりません。優性の霊は私たちに、有益な環境を保障するものではありません。エレミヤもそういう穴に投げ入れられた。ダニエルもバビロンの中で拘束されていた。私は優れた霊を持っているという事によって、決して悪い環境の中に私は置かれる事はないという事はない訳です。優れた霊を持っているならば、どんな環境の中にいても、私は正しく神様の声を聞いて、正しく神様の力を現して行く事ができるという事です。だからもう仕事がどうだ、こうだとか、もうあれがどうだ、こうだと言うのが我々の愚痴や不平不満になってくる訳です。でも優れた霊を持っているならば、それを治める事ができるという風に言っている訳です。むしろそれを感謝する事ができると言っている訳です。ですから何事も私たちはその様に受け止めなければならない。

そして優性、優れた霊は、自分の意思や好みを強要する事ではない。皆さんの周りにもいるかも知れない、何とも言えない話し辛い、独特の考え方と、独特の意見を持っている人っているでしょう。めちゃめちゃ辛口で、何かもう人を下げる様な言い方しかできない。もう何か自分は全部分かっているみたいな言い方する人いるでしょう。もう独特な言い方する人。でもそれは優性の霊ではありません。その人自身の価値観です。そんなものに私たちは振り回されてはいけません。ですから優性の霊は、自分の意思や好みを強要する事ではない。「だから俺はこう思うから、こうしたらいいんだ!」という言い方するでしょ。でもそれは優性や、優れた霊ではありません。そういったものに、決して私たちは惑わされてはいけません。

私たちの敵は、地上で神様が成される事に対して、正しい預言的理解に抵抗している訳です。神様が成されようとする事が、この地で、その事が起こったら困る訳です。ですから私たちは、私たち自身の肉の性質、そういったものが変わらないという事は、神の預言的理解に抵抗しているのだという事です。私たちは神様の預言的な理解、力というものに決して抵抗してはいけません。それはできない、そんなの無理だという考え方を絶対に持たない。神が言われた事は必ず成るという事です。神があなたにそれを言われたなら、あなたを通して必ず成したいと願っておられる訳です。

 モーセという方を皆さん御存知だと思いますけど、40歳まで彼の生き方は、力を頼りにして生きていた訳です。自分には力があると思っていたのです。でも40歳から荒野を通って、80歳の時にようやく彼は優性の霊を持ったという風に言われています。40年間苦しんだ訳です。私も15歳の時に洗礼を受けて40年です。まだまださっぱりの所もありますけど、私の中には優性、優れた霊があるという風に信じています。ですから皆さんも是非その様に正しく捉えて下さい。モーセと神様はやり取りしました。彼は神様に、「私は口下手です」と言った時、「アロンがいるじゃないか!」と、神様が言われました。そしてモーセとアロンが一つになって、そのエジプトという大国に逆らったのです。そして当然不可能だという事を彼らはやってのけたのです。それをやってのけたのは、彼らの技術や能力や知識ではなくて、優性の霊が彼の中に働いたからです。私たちの中に神様の優性、優れた霊が働くならば、私たちにとって不可能だと思える事も、必ず成るという事です。だから皆さんあきらめないで下さい。ウッドロフ先生も神様から、「ワールドブレークスルーネットワークを始めなさい」と言われた時に、その時点では何にも存在していなかったけれども、神様が言われたという事を聞いて、彼はそれを宣言し始めました。そうした時に、今日のコングレスが生まれて来た訳です。優性の霊によって、それが成されたという事です。もし皆さんが自分の人生の中で、神様の栄光を本当に表したいと願うなら、私の中にある優性の霊が今まで以上に活性化されて働くように、「私はどの様な状況が来ても、決して驚いたり、怪しんだり、不信感に陥る事はありません!」という事を言わなければいけません。目の前の事が変われば、すぐに心が変わってしまう様であってはならないという事です。

 優性の霊というのは、神様の声を聞く事により生産されて行くという風に言われます。ですから優性の霊を常に持ち続け、保ち続けたいならば、皆さんは神の声を聞き続ける事が大切です。それによって、それが生産されて来るという風に言われています。1つ目は、「押し潰される事のない信仰」です。優性の霊を持っていれば、押し潰される事のない信仰が、あなたの中に生まれて来ます、確立されて行きます。命や死や、豊かでない時も、どんな環境の中にあっても、決して神様に対する信仰は押し潰される事はないという事です。2つ目は、「周り全てが闇と偽りの中にあっても、真実と光の内を歩む」という、その信仰姿勢がある訳です。ヨブとノアの様です。どんなに自分の周りが闇と偽りであったとしても、その闇と偽りを嘆く事をせずに、「真実と光の中を私は歩んで行きます!」というそれが私たちの中で生み出されるのは、優性の霊です。3つ目に、「相反する状況や不可能の中での神への従順」という事です。相反する状況が起こって来た、又、不可能が自分の前にやって来た、その時でも、「神様に対する従順は決して捨てない!」という事を、私たちは持つ事ができる、それが優性の霊です。優れた霊です。だから彼らはその困難の中で、大きい国をひっくり返し、又、捕らわれている中で、自由の無い中で、それを開放する事ができた訳です。巨人が前にいる、自分の目で見て不可能と判断する。自分の目で絶対に考えないという事をして行かなければいけません。目で見たものをすぐに言うでしょ、「あー、だめだー!」とか、「あー汚い!」とか。でも私たちはそういうものによって神様への従順が軽んじられる事のないようにしなければなりません。あなたがどの様な状況の中でも、神様への従順を貫く事ができるのは、あなたの中にある優性、優れた霊です。

 4つ目、「高められた水準で歩む神とのパートナーシップ。」あなたの水準、価値観は非常に高い所まで上げられている訳です。以前は何も見えなかった。でも今は終わりを見る事ができるまで、私たちは高く上げられている訳です。我々が今ずっと学んでいるのは、神様の言葉を通して神様の本質を学んでいる訳です。その本質を私たちの中に立て上げるならば、私たちは非常に高い位置、ダニエルが総監や総督たちに勝って彼らの上に立てられたのは、高められた水準で神様とパートナーとして歩んでいたからでしょ。それは彼の中にあった優れた霊の故だったでしょ。だからもう本当に、自分はこんな大学出ているとか、もうこんな高校出ているとか、そういう価値観を皆さんが持っているならば、それによって自分を高めようとしているという事です。そんな風に思っていないとよく言うのですよ。思っていなくても無意識で出るという事は、それがもうあなたの中で動かないように、きっちりと出来上がっている訳でしょう。それを崩して私たちは高められた水準で歩む、神様とのパートナーシップを構築して行かなければならない訳です。イエス様が、父なる神様の全てを行った様に、私たちの基準は、神様が言われた事は全部行う事ができるという基準だという事です。5つ目は、「地球全体が不安定になっている中での確信と自信。」私たちの地球全体が不安定になっている中で、皆さんは確信と自信を持つ事ができますか?たとえ地は変わり、山は動き、どの様になったとしても、私の神様への確信と自信は、決して失われる事はないというのが優性、優れた霊です。だから皆さん、それを持ち続けて下さい、それを求めて下さい。6つ目「私たちの周りの全てが襲われている時にも、神の国の基準を保つ能力。」それが優性の霊、優れた霊です。あなたの周りの物が、何もかもが襲われて、もう何も無いようになって行くように感じた時にも、あなたは神の基準を保って行く事ができる。その能力によって行く事ができる。それが優性の霊です。我々の肉の思いや、個性、人間的な先輩、後輩というような事ではないのです。ですから聖書は、「後の者が先になり、先の者が後になる」という風にも言います。ですから決して私たちは、この共同体の価値基準の中に、人間的な価値基準を絶対に持ち込んではいけない。人生に於ける先輩後輩という事に於いて、私たちは尊敬する事があったとしても、そういうものではないという事です。私は何もできない。でも聖書はこう言うでしょ「私にある物をあげよう。イエスの名によって立って歩け!」と、言ったペテロは、自分にある物を知っていた訳です。これが優性の霊です。だから皆さん、誰かと比較したり、足りている、足りていない、できる賜物がある、無い、その様なものは神様が定めた事です。神様が与えたものです。「私はあまり賢くありません。」と、言っていたらいいのです。「でも、神様に対する確信と自信は失われる事はありません。私はいつも正しく、神様の前に立つ事ができます!」と。「あなた先輩だからどうぞ!」そんな事は絶対にあってはなりません。もし私たちが先輩と呼ばれるならば、本当に低く、低く、キリストの様に生きているという模範を見せて行かなければいけません。

第Ⅱテモテ1章7節~14節「というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力にささえられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基づき、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜っていた恵み、そして今や、わたしたちの救い主、キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである。わたしは、この福音のために立てられて、その宣教者、使徒、教師になった。そのためにまた、わたしはこのような苦しみを受けているが、それを恥としない。なぜなら、わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしに委ねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである。あなたは、キリスト・イエスに対する信仰と愛とをもって、わたしから聞いた健全な言葉を模範にしなさい。そして、あなたに委ねられている尊いものを、私たちの内に宿っている聖霊によって守りなさい。」私たちの内にある霊は、優性、優れた霊です。それによって私たちは、神様から委ねられたものを守って行かなければなりません。今朝も学びをしていた時に、私たちの礼拝は、具体的に手を叩く、踊る、そういう風に聖書に書いてあると学びました。それは真理によって礼拝をしているのです。ところが、外国の非常に有名な教会、彼らは踊ったり飛び跳ねたりしている。でもそれは一時的な感情をかき立てて、神様に礼拝をしているという風に思っている。でも私たちの礼拝は、真理に基いて礼拝をしているという事が違うのです。だから兄弟姉妹、何事に於いても私たちは、この御言葉の真理に基いて自分は生かされているという事を正しく理解して下さい。今日皆さんに神様が与えられている物は、優性の霊、優れた霊を与えておられます。ですからこの世の価値観や、自分のその価値観に頼らないで、神様の言われた事を、あなた自身の中に立て上げて行って下さい。そうする事によって、あなたは自分の中に働く、この優性、優れた霊をもって、神の栄光を現して行く事ができると信じます。

10回の閲覧

最新記事

すべて表示

2020.10.4 久松 政一 使徒的長老 成熟の行いⅢ 彼の死と等しくなる 「十字架の枠の中に流し込まれる」

今日私たちが見たいのは、成熟の行いの三番、「彼の死と等しくなる。」これを今日は全て語りたいと思います。サモーフォスという言葉が語られています。それは十字架の枠の中に流し込まれるという意味合いが含まれています。私たちは十字架の枠の中に流し込まれなければならない。この「彼の死と等しくなる」の三番目は、5つに分かれているという事を、私たちはこれを通して学んできたと思いますが、それを今日はもう一度皆さんと

2020.9.6 木村 由智 主任牧師「変革の必須性の恵みを思い起こす」

今日もう一度皆さんと共に神様の御言葉を少し見て、私たちは励ましと恵みをいただきたいと思います。皆さんこの変革の必須性を終えられて、どの様に皆さんが受けとめておられますか?もう一度私たちはこの事を皆さんと共に見ていきたいと思います。恵みの本質という事がまず最初に語られましたけれども、その中でパウロの中にあるパターンを通して、私たちが成熟していくというパターンとして、これらのものを捉えていかないといけ

2020.8.2 久松 政一使徒的長老「変革の必須性」

おはようございます。倉敷のYouTubeで見ていらっしゃる兄弟姉妹、また岡山で見ておられる兄弟姉妹、また愛媛で見ておられる兄弟姉妹、そして奈良で見ておられる兄弟姉妹、私たちはキリストにある仲間です。私たちは主にあって一つでございます。御言葉をお読みします。ハバクク書3章17節~19節「いちじくの木は花咲かず、ぶどうの木は実らず、オリブの木の産はむなしくなり、田畑は食物を生ぜず、おりには羊が絶え、牛

​当教会は神の言葉である聖書を信仰の基準とする正統的プロテスタントの教会です。

統一教会、ものみの搭(エホバの証人)、新天地イエス教会、その他の新興宗教とは一切関係ありません。

© 2018 by CHRIST CHURCH  宗教法人:倉敷主イエスキリスト教会