2020.2.2 久松 政一使徒的長老「神の霊の内におる・存在する」

私たちは神様の霊の中にいます。神様の霊の内に存在します。それがあなたであり、

私です。この事が理解出来たら、私たちは本当に幸いです。これは、「損を算出する」の、次のステップです。「出発点を再定義する」の意味です。今日はその事を語ります。

まず皆さん、聖書の中にメシヤという言葉が出てきます。メシヤという言葉をユダヤ人はよく使います。今もユダヤ人はメシヤを待っています。ユダヤ人は今も、キリスト様がメシヤである事を信じていません。ですからイスラエルでは新約聖書はご法度です。あれは恐ろしい本だ。ドイツのアウシュビッツ収容所で、どれだけのユダヤ人が殺されたか。前にも何度もこの話はしました。200人の人を密室で、毒ガスで一気に殺します。それで600万人のユダヤ人が殺されました。イスラエル旅行で、その記念館に行きました。もう本当に、見たくなかったくらいひどい所でした。2千年前にメシヤをユダヤ人は待ち望んでいたのです。このメシヤという意味は、油注がれた者という意味です。油注がれた方という意味です。そしてメシヤ=キリストです。キリストというのはユダヤ人にとって、イエスではないのです。キリストというのは、油注がれた方、すなわち神が遣わされた方という意味ですから、ユダヤ人はイエスが、神が遣わされた方とは思っていないのです。ですから、キリストというのは名前ではありません。私たちの救い主の名は、イエスです。メシヤというものをユダヤ人は、2千年前も切に待ち望んでいた。そのメシヤをユダヤ人が、どういうとらえ方をしているかというと、「油注がれた、預言者であり、祭司であり、王であり、救い主である方」それが、彼らにとってメシヤでした。その方が訪れて下さると、ものすごく熱望していたのです。

ヨハネによる福音書1章41節~42節「彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、『わたしたちはメシヤ(訳せば、キリスト)にいま出会った。』そしてシモンをイエスのもとにつれてきた。イエスは彼に目をとめて言われた、『あなたはヨハネの子シモンである。あなたをケパ(訳せば、ペテロ)と呼ぶことにする。』彼というのは、ペテロの兄弟の事です。ペテロとアンデレは兄弟だったのです。アンデレが先にイエス様に会ったので、彼は自分の兄弟、シモンに出会って言った、「わたしたちはメシヤにいま出会った。」(訳せば、キリスト)こう書かれています。ですから、メシヤ=キリストです。キリストとは油注がれた方、「待ち望んでいた方と会ったよ!」と、アンデレが言った。そしてシモンをイエス様の所に連れて来ました。するとイエス様はシモンに目をとめて言われました。「あなたをこれからケパ、すなわちペテロと呼ぶことにする。」

それでアンデレとペテロは兄弟で、イエス様の弟子になっていくのです。ですからアンデレは、イエス様に会った時、「このイエス様がキリストだ」と、「すなわち油注がれた方だ」と、「上からつかわされた方だ」と、認めたのです。その意味で、「メシヤに出会った」という言葉がここで使われています。

ヨハネによる福音書4章25節~26節「女はイエスに言った、『わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう。』イエスは女に言われた、『あなたと話をしているこのわたしが、それである。』=メシヤである。罪の女であったこの女に、イエス様は話をなさいました。サマリヤの井戸で、イエス様は待っておられました、この女に会う為に。そしてイエス様と話をしている内に、「わたしはあなたを預言者だと思います。」と、この女が言った。けれどもその話の中で女はイエスに、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。なぜならわたしも一応サマリヤ人ですけども、ユダヤ人です。その方をわたしも待ち望んでいるのです。そしてその方が来られたら、全ての事を理解するようにして下さるでしょう。」と、言った時に、イエスはその女に、「あなたと話をしているこのわたしがメシヤである。」と、言われました。すごい事ですね。このメシヤというのは、キリストの事です。キリストは名前ではありません。油注がれた御方という総称です。だから私たちは、「イエスはキリストである」と、言うのです。「イエスは神の子である。」「イエスはメシヤである。」「イエスは神から遣わされた唯一の御方。」全ての人間は罪人です。この地上で生けとし生きるものは、全部女から生まれた罪人です。けれどもイエスは聖霊によって生まれた。すなわち油注がれた御方、神が遣わされた御方。ただマリヤの胎を借りられただけです。これはものすごく大事です。あなたが信じているイエスという御方は、どなたなのかという事が分からなかったら、あなたは信頼出来ないでしょう。このイエスこそ、あなたの救い主、キリストです。

そしてキリストという言葉をちょっと見てみましょう。ギリシャ語で言いますと、クリストス(christos)それは救い主とか、主という言葉です。ですからキリストは救い主です。だから私たちの信じている御方は、救い主イエスです。イエスと名付けなさい。そのイエスという意味は、救いという意味であるという事を聖書は告げています。私たちの信じる御方は、救い主です。あなたを罪と呪いから救い出して下さった唯一の神です。そして、(chrisma)これは油、(chrio)これは油を注ぐ、又は、聖別するという意味です。この油は、実際に聖書では純粋なオリーブ油を意味しています。オリーブ油の中でも、最初に絞ったオリーブ油は純粋な油です。このオイルを頭から注ぎかけるのは、旧約聖書は、預言者と祭司と王、この3種類の人たちだけ

だった。預言者であり、王であり、又、祭司である、大祭司なる御方はどなたですか?神と人との仲介者として真中に立って、神様に私たちの罪を許してあげて下さいと祈って下さったこの仲介者、大祭司はどなたですか?イエス・キリストです。だから私たちは、この油注がれたという意味は、聖なるという事をあらわす事を私たちは覚えましょう。そしてキリストというのは、救い主、神が遣わされた方という意味が言語です。

ルカによる福音書4章18節「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、」これは、イエスがイザヤ書に書かれている御言葉を引用しているのです。すなわち旧約聖書を引用しているのです。そこで書かれている言葉の中で、「わたしを聖別し」と、書いています。「わたしに油を注ぎ」という意味です。すなわちメシヤです。それがイエスです。だからイエス御自身も、私がキリストである、油注がれた者であると、はっきりと御自分のアイデンティティーを語っておられます。その方によってあなたは救われたのです。それは最高です。本当に素晴らしい恵みをいただいています。「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、」この、「貧しい人々」の意味を間違わないで下さい。これは、お金を持っていない貧しさではありません。山上の垂訓でも語っておられる言葉は、「心の貧しい人たちは幸いである」何で幸いですか?「天国は彼らのものだからである。」だから貧しい人は天国を得る事ができる。「神の国は彼らのものだ。」ここは地上です。ここは御国ではありません。でも心が貧しい人は、御国を得る事ができます。神の国に入る事ができます。その貧しいという意味は、この地上の考え方で心が満ちている人は、豊かな人と、イエスはおっしゃっています。すなわち逆に言えば、この地上の物で心が満足しない、「ああ空しい。私の心を本当に満たしてくれるものはこの地上の中には何も無い。ソロモンが言っている、『空の空。一切は空である。』この世のものは何も私を満たしてはいない。一時的に満たすだけで、何にもつまらない。私の心は空っぽです神様。本当に神様、あなただけが私の心を満たして下さる事の出来る御方です。」と、それが貧しい人々という意味です。あなたはこの世の物で満たされていませんか?あなたは自分が会社で

ちょっと上だったからといって、その上の立場で自分は素晴らしいと思っていたら、それは愚か者です。そんなものであなたの心が満足して人を見下げたり、自分はちょっと上だと思って偉そうにしているのだったら、あなたは本当に神の国から遠い人です。何も偉くない皆さん、裸で出て来たのに。棺に入る時、皆、色んな物を入れますけど、全部無くなるのです。何が残るのですか?あなたの霊です。

この肉体は、皆いつか脱ぐ時が来るのです。この地上は永遠ではない。「心が貧しい人は幸いである。天国が彼らのものだ。」と、イエスは明確に語っていらっしゃる。何も無い、赤ちゃんで生まれたのに、世の中で年を取れば取るほど、自分に色んな物を

ひっ付けて、そして自分が何か素晴らしい者でもあるかのように、色んな能力を付けたり、知識を付けたり、そんなものは心が満たされるものではないのに、この地上の人はそれで満足しています。心が世の中のもので一杯です。お金命、地位や名誉命。良い大学に入る事命。そんなものは皆滅びます。それは地上の出来事です。イエスがおっ

しゃっているのは、「心の貧しい人たちは幸いである。天国は彼らのものです。」だから、神の国に入れる民の特徴は、この世の中で満足しない人たち。心が空っぽの人達です。この教会にはそういう人が多いですね。あなたの能力や、知識の素晴らしさや、名誉があるか無いかで見ていません。私が見ているのは、あなたの心が貧しいかどうかです。本当に、「この世のものなんて何にも無いなあ、そんなものはいつか消えていくものだなあ。どんなに今、素晴らしいと思っているものでも、あっという間に消えていくなあ。そんなものに価値を見出していく、それは空しいなあ。神様、私の心を満たして下さい。」と、思う人。私は思うのです、この教会の大体の人達、6~7割は、心の貧しい人たちが多いと思います。2~3割は、まだちょっと世の中のものが入っている。それでもイエス様を信じました。神の国に行けると信じています。でもそれは私が決定する事ではない。イエス様がおっしゃっているのです。「心の貧しい人たちは幸いです。天国は彼らのものです。」と、おっしゃっている。だからあなたの心が貧しいなら、あなたは天国を得る事が出来ます。この地上だけで人生終わりません。永遠という素晴らしい領域を、あなたは勝ち取る事が出来ます。だからここで言われているのは、「貧しい人々に福音、良い知らせを伝える為に、私は油注がれて上から来たのだ。」と、おっしゃっています。それがこの意味です。

メシヤ・キリスト・聖霊、皆、同じです。聖霊というのは、原語でプニューマpneumaと、言います。プニューマというのは、息、又は風です。神様は最初に人を造られた時、息を吹き入れられた。その息という言葉は、プニューマです。それによって、人は生きた者となったと聖書に書いてある。だから私たちの内に神の霊が宿る時、人は生きた者となっているのです。エペソ人への手紙の中には、「あなた方は皆、今まで死んでいた者であった。」と、書いてあります。それはイエスを信じていない、一般のこの日本人の全ての人。又、全ての国々の人、イエスを信じない人たちは、皆、死んでいるのです。それが聖書の意味です。何が死んでいるのですか?神との交わりである聖霊、神の霊がその人の中に無いから、神様を意識出来ない。聖霊が、すなわち神の霊がその人の内に宿っていない。それを罪人と言うのです。だから神様の目から見たら、キリスト者と世の中の人とは、全く区別されているのです。神様は明確です。だから聖書を私たちに下さったのです。だから皆さん、本当にキリスト者であるという事は、どんなに尊い事であり、価値ある事かを皆さんは今日、本当に知らなければならない。プニューマ、それは聖霊です。神の霊です。だからもう一度言います。メシヤ・キリスト・聖霊、皆同じです。

ヨハネによる福音書14章1節~3節「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから、そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」イエス様は十字架に架かる何日か前に、弟子たちにこの言葉を語られました。「あなたがたは、心を騒がせるな。わたしが十字架に架かって死んで、天に昇って行く事は、あなたがたの益になるのだ。いいですか、わたしが上に昇って行くのは、あなたがたの家を用意しに行くのだから、だから家の用意が出来たら、もう一度あなたがたを迎えよう。」これが再臨です。イエスはもうすぐ来ます。あなたを迎えに。心が貧しいから。この地上で満足できない人たちだから。その人たちだけが、神の国に行く事が出来ます。ヨハネによる福音書14章18節「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」本当のあなたの両親はこの方です。あなたの肉の両親ではない。肉の両親ではないから、たとえこの教会の中に、自分の親が分からなかったとしても、そんなに問題ではない。あなたが、あなたをつくられた神を見出したなら、あなたは孤児ではない。「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。父であるわたしは、子であるあなたを迎えに来る。」こうおっしゃっています。これはイエスの約束です。14章26節「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」だからイエス・キリストが天に昇って行く事は、あなた方にとって利益なのだ。なぜなら肉体を持っていたら、アメリカに、もしイエスがいたら、日本にはイエスはいない。飛行機に乗らなければ、戻って来られない。けれども霊として戻って来られるならば、私たち全ての人が聖霊を私たちの内に宿す事によって、どの国にいても、キリストは私の内におられる事になるからです。だからイエスはおっしゃいました。「聖霊をつかわすから、待っておきなさい。」14章28節「わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る。と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。」16章7節「しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。」これが、イエスを信じて聖霊をいただいた私たちにとって、神の霊が私たちの内におられるという意味です。あなたは今、キリストという聖霊、メシヤなる方、救い主なる方をあなたの内に宿しているのです。これがクリスチャンです。

ここからが、今からのメッセージです。今までは序論です。「出発点を再定義する。」今から皆さん、この学びを徹底的に学んで行くのです。すなわち二つ目の段階です。損を算出する努力をして下さい。「この世のものは全て価値無し。」と、断定出来るキリスト者になって下さい。まだまだあなたはこの世のものに価値があると思っていますから、心の貧しさの中に少し肉の豊かさがあります。それを取って下さい。それを続けながら、2段階目のランクに入りましょう。「出発点を再定義する」とは、「キリストの内に自分を見出す」事です。キリスト様が、救い主なる方が、メシヤなる方が、聖霊なる方が、上からつかわされた方が、あなたの内におられる。そして、しかも、あなたはどこにいるのですか?その、キリスト様という、あなたの中におられる方の、その中にあなたは組み込まれているのです。キリストの霊の中に私たちの霊も存在しているのです。だから、御国に行く事が出来るのです。「キリストの内に自分を見出す」これが2番目のランクです。創世記1章27節「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」2章7節「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」人間が生きた者となったというのは、キリスト、神様の霊が私たちの内に宿る時、それは人となるのです。ですからクリスチャンでない人は、人ではないのです。罪人と聖書は呼ばれているのです。5章1節~2節「アダムの系図は次のとおりである。神が人を創造された時、神にかたどって造り、彼らを男と女とに創造された。彼らが創造された時、神は彼らを祝福して、その名をアダムとなづけられた。」この真理、前に何度も言いました。男と女とに創造されたのに、その名を、単数の「アダム」と付いているのです。単数なのです。という事は、アダムの中にエバはいたという事です。キリストの内に私が存在するという意味です。キリストの内にあなたはいるのです。複数でありながら、単数の名前を付けられた。だからアダムは神をあらわします。エバは教会をあらわすし、個人をあらわします。エペソ人への手紙5章では、結婚という事に関して、男と女について、聖書は、はっきりと書いています。それは男が神で、女が教会だと。だから結婚というのは、神と一つであるという意味で、この二人は離す事が出来ない。離婚は本当に最悪の事であるという事を言っています。という事は、神様の中にエバはいるという事です。アダムの中にあなたがいる。それが聖書の教えです。

ヨハネによる福音書14章23節「イエスは彼に答えて言われた、もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。」神様が人を造られた目的は、ファミリーです。神という家族の中で、私たちは神と共に住む。キリストの内に住む。それが神様の御心です。ですから、家庭というものが、どんなに教会にとって大事かという事が分かります。神の御心は離婚ではありません、結婚です。そして結婚の中で、本当に夫婦が愛し合うという事を、心から実行する事です。それは身勝手な男、女であってはならないのです。男は、女の為に犠牲するのが結婚です。それを己の為の考えだけに生きるような夫は、本当に最悪です。その一つ一つの個人的な裁きは、キリストの裁きの座であなたはしなければならない。神の国に行くけれども、あなたはキリストの前に、「なぜあなたは妻に対してそう言ったのか?」徹底的に、あなたと妻とが生活した年月に於いて、神様は裁きます。覚悟しておいて下さい。今、悔い改めるなら、それは変わります。でも、しないなら、それは残ります。だから、裁かれます。神の国に於ける裁きです。地獄の裁きではありません。でも、裁かれます。一緒に住むためです。26節「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」27節「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。28節『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。私が今日、皆さんに言いたかったのは、キリストの内にあなたはいるという事です。キリストと一つです。という事は、神様が初めに天と地を創造される以前から、聖書は、「天地の造られる前から、あなたがたを選び」、エペソ人への手紙には書いてある訳ですから、何も創造されなかった時に、あなたは神様の霊の内にいたのです。そして、時という中で、神様はあなたを日本のある場所に落として、生まれさせました。でもその時は肉の誕生です。けれどもあなたがイエス・キリストを信じる時が来る事を、神はもう選んでおられましたから、あなたはイエスを信じる事が出来たのです。その時あなたは、最初の神様が、何もお創りにならなかった時、神様だけがおられた時、あなたは神様の霊の中にいたのです。だからあなたがもう一度肉を脱ぐ時、また神の霊の内に行くだけの話です。何も恐れない。何も問題ない。あなたは本当に永遠というものの中に存在する者になるのです。何と素晴らしい神様の御計画でしょう。

ヨハネの黙示録13章8節「地に住む者で、ほふられた子羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう。」世が造られる前から、既にあなたの霊は、神様の中に存在していたのです。神様の選びです。あなたを選んだのです。どうして?心が貧しかったからです。教会には一杯人が来ます。でも全部クリスチャンではない。心が貧しくない者は、教会から消えて行きます。でも悔い改めて、自分は本当にこの世のものでは満たされないと、その人がそこで決心して神の元に来るなら、その信仰によって、あなたは天と地が造られる前から、あなたの名前も選ばれる事に決定されるのです。何という尊い事でしょうか。その事を覚える時、あなたはいいかげんにキリスト者として生きたらだめです。どうぞ、あなたはあなたの名前を世の初めから記されているのです。これが我々の思いを遥かに超えた、全ての創造者の御言葉です。信仰によって、キリストの内に私は存在するのだという事を覚えましょう。それは永遠です。壮大な話です。でもそれがあなたの内におられる霊なるキリストです。キリストがあなたの内におられるのです。それがキリスト者です。だから私たちは、人々の為に生きていきたいと思う霊に変えられていきます。この地上の物を、自分だけの為に蓄えたいというような思いは、全部消えていきます。それは一時的な物だからです。永遠という領域から私たちを見る時、キリストの内に私の霊が存在するという時、私たちは人を愛する事が、私たちの幸いとなるのです。その様な民と私たちは今、されている事を感謝しましょう。聖書の御言葉です。イエス様の御心です。イエス様は肉体を切られただけです。聖書に書いてあります、「はじめに言葉があった」言葉なる神。その言葉に着物を着せられたと聖書は書いてあります。それがテント、これは肉体です。私たちの内にある霊が私たちの本質であって、この肉体は必ず無くなるのです。いつか脱ぐ時があるのです。そしてあなたの本質である霊が、キリストの内にあなたが存在しているなら、あなたは永遠の御国に行けます。「心の貧しい人たちは幸いです。天国は彼らのものです。」さあ私たちは、この地上で正しく行いをしていきましょう。愚か者にならないように気を付けましょう。

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