2019.7.7 木村 由智主任牧師 「神の言葉の恵」

今日も皆さんと一緒に神様の言葉を見ていきましょう。神様の言葉の恵という事を今日皆さんと一緒に見る事ができればと思います。私たちにとって、神様の言葉というものはどういうものでしょうか。皆さんそれを考え、しっかり今日は受け止めていただきたいと思います。先ず、神様の言葉というものはどういうものかというのを、以前にもお伝えしたと思いますけども、それをもう一度皆さんと確認しながら、今日の御言葉を見ていきたいと思います。先ず一つ目は、天からの資源であるという事です。天からの資源という事は、この地上には無いものであるという事です。でも、いかがですか?私たちが生きているのはこの地上ですから、この地上にあるものから生かされているという事は当然です。でも、神様の言葉というのは、天からの資源であるという事は、全く別の領域から来る、私たちを生かすためのものであるという事の認識を、皆さんしなければならないと思います。神様がイスラエルの人たちを選びました。そして荒野を歩いて行きました。私が本当に感じる事は、選ばれたという事だけに結局固執してしまう。それは非常に愚かな事だと思うのです。神様が選んだ目的は、その人たちから御自分の御性質を表して欲しいと願っておられる訳ですから、選びという事と、そこから選ばれたという事は、天からの資源によって神様と同じ様な考え方や、思いや、行動をしていく。そのために必要なものが神様の言葉です。

 私自身15歳の時にイエス様を信じて、クリスチャンになって41年経ちました。本当に自分の信仰生活を振り返ってみて、結局、神様によって救われた、選ばれたという事しか受け取ってなかったという事がよく分かります。ですから天からの資源が来ているにも関わらず、神様の御性質に似ていく者には本当に程遠い者のままで、ずっと信仰生活を送ってきたという事が、自分自身の経験として言える事です。ですから私は人生の中で、主任牧師という立場を2回神様によってさせてもらったのですが、そうやって選ばれたという事にだけ固執していたのです。でも主任牧師になったら、一気に何か神様がされた様な能力がくる訳でも何でもないのです。私には与えられているものと、与えられていないものがはっきりしている訳です。与えられていなかったら、与えられている人の助けを得て、初めてその召しにふさわしい務めができるのです。世の中を見ていたら、何かできたら非常に評価されたり、偉そうにしたりします。でもその人にできない部分を誰かが担ってくれているから、成り立っているにしか過ぎないのです。だから皆さん、選ばれているという事は、神様からの一方的な恵であって、その選びに対して、その選びに伴う神様の御性質が伴った時に、初めて機能的な正しい働きができるという事を、皆さん覚えないといけません。ですから能力や賜物を、ある日神様が私たちから取って、「この人はだめだ、私の性質を表そうとしない。」だから他の者に与えたら、もうサムソンと同じです。頭を剃られて力が無くなったけど、力があると思ってやったら、何の力も働かないようになった。同じように、私たちも自分が神様によってこの恵をいただいて、力をいただいてそうさせて頂いているという考え方が無ければ、本当に傲慢になってくると思います。自分はできるのだ。あいつはバカだできないのだと、世の資源はそうです。自分はできる、できないという事を強調します。ですから天からの資源として神の言葉を受ける時に、あなたは神様の御性質もいただいているという事を、よく理解していただきたいのです。ただ自分が召されていると、もう本当に私は愚かでした。自分がそういう立場になったら、何でもできるという認識。しかしできないのです。できない時は、できる人の助けを借りないといけない。借りる時に一番邪魔するのがプライドなのです。自分の立ち位置が、何か脅かされるのではないか、自分の務めが否定されるのではないか、そういう風に感じてしまいます。でも神様の資源を、天からの資源を正確に受けるならば、御言葉の中に、「節々の助けによって身体が成長していく」とあるように、誰かの助けが必ず必要なのです。ですからそれを一番表すのは夫婦関係です。妻は助け手として造られた。でも私は時々、奥さんが私に何かを言おうとする時に、もう私の中に自然にスイッチが入って、戦う姿勢になるのです。「何か言われる!」という感じになるのです。また奥さんに、パッパッと言われるという事に対して非常にガードしてしまう、私がそれを抑えようとしてしまう性質が非常にあるのです。ですから何か言われて、言われている事が分からなかったら、自分の勝手な話題にいつの間にかすり替えるのです。それで話をごまかすのです。それでいつもかみ合わないという関係がずっと続いていたのですけども、ようやく少しづつ調整ができるようになってきました。ですから皆さん、いかがですか?家族という関係の中においても、「また、おやじが何か言ってくる。」「また、おふくろが何か言ってくる。」というような、構えてしまうと、そこに神様が資源を流そうと思っていらっしゃったら、それは受け取る事ができないのです。だから聖書は、「聞く耳のある者は聞きなさい」というように言われます。

 次に、「神によって承認された人間の活動のためのデザイン、形」これは神様が、「このようにします。」と、天において決められた事を流されて来て、私たちはそれによってこの地上で生活すると、その形が出てくるのです。デザインが現れてくるのです。

「地上に対する神の好まれる事の伝達」神様が行いたい方法を伝える。私たちは自分が一回経験したら、また同じ様な事がきたら、「もう一度これはこういう風にしよう!」と、同じパターンと、同じ考え方で全部を適応しようとします。でも神様は、その都度その都度、考え方を変えられる時があります。私が一番本当に驚いたのは、サムエルが、「7日待ちなさい。」と、サウルに言いました。「7日待って来なかったから、私はこうしました。」そうしたらサムエルが、「ごめんなさい遅れて。」と、言うのかと思ったら、「あなたは何という事をしたのですか!」と言うのです。私の常識の中では、「サムエルは謝るべきだ、遅れて来たのだから。」でも神様の考え、行いは、7日目と言っていたけども、その考え方を変えられた訳です。それで8日目に来られたのです。私たちはそういう状況に会ったら、どうですか?心穏やかなままでおられますか?「えっ!神様はこう言っていたのに、何でこう変わるの?」と言うのが大体でしょう。変わっても、「あっ、そうですか。」と言って、受け入れる人というのは、なかなかいないと思います。自分の価値基準や、「何で言った通りにしないのか!」という事に非常にこだわって。神様は、そういうこだわった考え方がこの地上に属する性質ですよという事を言いたい訳です。それを取り除いて、天から来るものはいつ来て、いつどこに行くか分からないと聖書に書いています。「風は思いのままに吹く」と。だから神様が思いのままにされる事に対して同意できたら、私たちは成熟した者になれるという事です。ですからその、神様から出てきたものが、一番嫌な人からの発言であったり、嫌な状況の中から出てきたものならば、私たちの肉はすぐに反応するでしょう。「もう受け入れたくない。」なんだかんだと理由を付けて、私たち自身はそれから逃れようとしますけども、皆さん、神様の言葉に、いかに力があるかという事を、もう一度今朝一緒に考えましょう。そしてそれは、天からの資源として受け止めていきましょう。では天からの資源という事で、1箇所この御言葉を皆さんで読んでみましょう。

ヤコブの手紙1章21節「ですから、自分の生活を総点検して、どんな悪をもすっかり取り除き、神の言葉を、すなおに受け入れなさい。神の言葉には、わたしたちの心をとらえ、たましいを救う力があるからです。」神様の言葉は、私たちの心を捉えると書いてあるのです。なぜですか?この地上の原則に縛られないためです。この地上の価値基準に縛られないためです。あなたの家柄の躾や、あなたの価値基準に心を捉えられる事なく、神様の言葉の原則によって、私たちの心が捉えられていかなければならないという事を言っています。天から来る資源は、私たちの心を捉えます。神様の言葉はあなたの心を捉えます。そして言葉の通りの人に私たちを変えようと働いて下さいます。しかし、私たちがそこで本当に格闘し、自分の考えや、思いや、そういったものに従うならば、私たちはこの資源を無駄にしてしまうという事になってしまうのです。皆さん、あなたの心を捉える事ができるのは、神の言葉だけです。この地上のどんな楽しい事も、どんなに美しいものも、一時的です。でもこの神様の、天から来る資源はあなたの心を捉えます。そしてあなたが神様の願っているように行う事ができるように、私たちの心をいつも守り、導き正してくれるものです。だから神の言葉を、天からの資源として受け止めなければなりません。「たましいを救う力があるからです。」魂というのは心の領域ですが、心を捉えて、私たちの心を救う、この地上の事において思い煩ったり、悩まされたりする事のないように、いつも私たちの心を変えて下さるという事です。この地上には、どうでしょうか?色んな私たちの感情や気分を害するもの、また、私たちの共同体の中にも、関係においてそういったものがあるならば、私たちはもう一度、天からの資源の恵を深く考えて、それを受け止めなければならないと思います。これが私たちの心を捉えるのです。目に見える様々なものや、聞くものによって心が決して壊される事なく、心を守る事ができるのが、この神の言葉です。天からの資源として神の言葉がくる時に、正確にこの地上で、世のものに惑わされる事なく、私たちは神様を完成させていく事ができる。神様が願っている、神様が考えているものを完成させていく事ができるようになります。皆さんの心を何が捉えていますか?多分私たちは、自分の考えが一番私たちの心を捉えているでしょう。だから自分の考えと違う事を言われると、心が傷付くとか、心がしなえるとか、嫌な気持ちをするというのはそういう事です。でもこの地上では、それを超える事はできません。傷付いた心を、この地上の一時的なものによって発散したいと思う時があります、それは決して悪いものではありませんが、度が過ぎたらいけません。でもこの天から来る資源は、私たちの心をしっかりと、神様の側に留まるように捉えて下さいます。どんな事があっても、神様のこの言葉にしっかり繋がっていて下さい。

「神によって承認された、人間の活動のためのデザイン、形」というところで、この御言葉を皆さんで読んでみましょう。ペテロの第Ⅰの手紙1章22節「キリストを信じたあなたがたは、たましいをきよめられ、誰をも真実に愛することができるのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」神様が望んでおられる私たちの活動は、魂、心を清められて、互いに心から熱く愛し合うという事です。愛し合わない理由は簡単です。自分の思う通りにならないからです。自分の願う通りに、この人が動かないからです。夫婦の関係の中でも、結局力によってねじ伏せようとするのです。「君はこうあるべきだ!」「その考え方はおかしい!」「ぼくはこう思うからこうするべきだ!」そんな価値基準は通じません。それが神の言葉からきているのなら、私たちはそうしなければなりません。でもおかしいと思ったら、膝をつき合わして、お互いに話をして考えるという事ができなければならないです。もしそれができない関係であるならば、私たちはこの地上の活動を神様によって承認されたにも関わらず、この地上の活動を、自分たちの思いと考えによってでしか動かす事ができないようになってきます。それは一時的には非常に良く見えます。でも本質的には何の実も結ばない、本当に価値のない、形のない、意味のないものに変わっていきます。神様が承認されたのは、私たちのたましいが清められたから、真実に互いを愛する事ができるのです。嫌な人、沢山いますよね。今朝私がコンビニに行ったら、止めたらいけない場所に、車をどうしようもないぐらいの止め方をして、ダッと降りて来て、私の顔をじっと見て、「何だお前!」みたいな顔をして行くのです。結構年配の人だったのですけども、もう本当に、「嫌だなあ!」と、思うのですけども、「この人は神様の事を知らないから、そうする事しかできないのだなあ」と、受け止めたら、私の中の肉の憤りは失せてしまうのです。でもあまりにも自己義が強すぎると、神様によって承認されたものも、この地上で行えなくなってくるのです。あなたがどれだけ正しいと思う価値基準を持っていたとしても、神様によって承認されたものをやっていくために、私たちは自分の価値基準に死に続けていかなければ、愛し合うという事は不可能です。なぜならこの地上にある愛は、見た目の美しさ、そして心の領域において、考え方に一致できるかどうか、そういった事ばかりです。だから、おためしとか、そういう言葉があるのです。そのようなものは、あってはならないのです。本当に結婚できるかどうか分からないので、とりあえず同棲してみて、合えば結婚しましょうとか、そんな事があってはならないのです。私たちの関係の中では、いつも、本当に自分の価値基準を捨てて、心から愛するという決断をしていかなければならない。この人はどう見てもバカだと思えるような人であっても、私たちの中の、その価値基準を捨てなければなりません。世の中だったらそれでいいのです。そうやってうまく生きているのです。でも私たちは神の国の中にいて、神の国の価値基準をもって生きているのです。その事のゆえに、神様を今日礼拝したのです。神様が承認された私たちの活動は、互いに愛し合う。これが本来の私たちの姿なのだという事を見せている訳です。無条件であなたが愛されたように、無条件で愛しなさいと言っているのです。「君がこうしたら愛してあげる。」「こうしなかったら愛さない。」そんなものは愛でも何でもないです。好みです。そんな好みが結局関係を破壊していくのです。その好みを捨てなさい、その価値基準を捨てなさいと言っているのです。それが神様が承認されたものだということです。なぜなら神様は、御自分の子を遣わすという、その形をとってこの地上を贖うという事、すなわち命をもって人間の活動が、本来の姿に戻るようにされたのです。私たちの今の価値基準は、この命によって新たにされたという考え方がなければなりません。神様が命をかけて下さったのです。そんな難しいあなたのために。ひねくれたあなたのために。屁理屈言うあなたのために。神様は黙って死んで下さったのです。でもあなたが人を愛する時には、黙って愛せないのです。「こうしろ、こうしたらいい、こうすべきだ、君はおかしい、こうあるべきだ!」と、おかしいでしょう。あなたはどれだけ神様に無条件で愛されたか、本当によく考えて下さい。人の事をとやかく言えるような立場ではないです。許すしかないです。受け入れるしかないです。これが神様が承認された事です。私たちはそれをしていかなければなりません。

 「地上に対する神の好まれる事の伝達」神が行いたい方法を御言葉から見てみましょう。ペテロの第Ⅰの手紙2章25節「あなたがたは、神からはなれて迷子の羊のようにさ迷っていましたが、今は、どんな敵の攻撃からもたましいを安全に守って下さる羊飼いであるかたのもとに、帰ったのです。」安全な場所です。本来私たちがいるべき場所に帰ったという事は、そこによって何が与えられたのですか?私たちのアイデンティティーが与えられたのです。長老が、「私たちのアイデンティティー」の、メッセージをして下さったのを、皆さん覚えていらっしゃいますか?私たちは霊によって誕生したという事。この地上の肉の誕生もしたけども、霊によって誕生したという事。もしこの地上での誕生が無かったら、霊の誕生はできないです。だから私たちは霊によって誕生した、その場所に戻ったのです。ここが私たちにとって本当に大切な場所です。そこに私たちが回復したという事を通して、私たちは神様の願い、考えを伝達する事ができるのです。皆さんは神様の所に帰りました。でももう一度考えていただきたいのは、その帰った、救われた、恵という領域にだけ到達して、そこから神様に似る者とされていくプロセスの中に入ったという事も、今日もう一度深く受け止めて、認識していただきたいです。救いの中に招き入れられた、その招き入れられたのは、神様の御性質に似るためです。そこに行くという事は、私たちがその性質に変わったという事です。あなたはその性質に変わった。でも、その真理は私たちは理解できていたけれども、その真理を正確に行う事ができていなかったのが、今までの私たちの姿でした。それが使徒的な恵によって、その真理が正確に行えるようになってきたのです。それを皆さん、やっていきましょう。私たちはそこに帰ったのです。「どんな敵の攻撃からも私たちを守って下さる羊飼いのもとに帰りました」と、言っているのです。だからあなたに襲ってくる不満とか、不信感とか、様々な事柄は、私にはなんら影響を与える事はなく、神様の好まれる事を私は伝達する事ができるという事なのです。伝達できない理由は、私たちが攻撃を受けて、撃沈しているからです。

 昨日中学2年生の男の子が友達を刺したという事件を、皆さん見ましたか?二人は仲が良かった、卓球部だったというのです。なぜか知らないけども、あそこまで一気にいってしまった。何が急に起こるか分からない。だから私たちはいつも、私たちを守っていただく方の所に、私たちは留まらなければならないのです。あなたの力では守れないです。あなたの一時的な感情を抑える事ができるのは、神様にあなたが繋がっているからです。あなたが神様の言葉に繋がって、神様からの資源をいただいているから、あなたは神様の好まれる事を行う事ができるのです。できても、すべき事をしたにしか過ぎないという考え方を持っていないといけません。愚かな人はすぐに、「できた!」でもそれは当然すべき事なのです。当然すべき事をして、誇るのは本当に愚かな事です。最後に、この御言葉を皆さんでお読みして終わりましょう。

「神の言葉は生きていて力があります。それは鋭い刃のように切れ味がよく、心の奥深くにひそんでいる思いや欲望にまでメスを入れ、私たちの赤裸々な姿をさらけ出します。」いいですか、神様の言葉は生きていると書いてあるのです。生きていて力があります。それは鋭い刃のように切れ味がよくて、心の奥深くにひそんでいる思いや、欲望にまでメスを入れてくれると言っているのです。やらしい事を考えていたら、やらしい所にまでメスを入れて、それを取ってくれると言っているのです。赤裸々な姿、神様の言葉が来たら、私たちは丸裸にされてしまうのです。あなたがどんなにかっこいいもので装っていたとしても、神の言葉が来たら力があるから、その偽った覆いは全部取り除かれてしまうと言っているのです。そして丸裸にされてしまうと言っているのです。裸になって初めて自分が何も無いという事に気付かないといけないのです。皆さん本当に、この自分が今これをできているのは、神様の力によってできているのだという事がわきまえれたら、一番幸せなのです。私たちは自分がそうだと思えたら、何を言われても、本当にその通りだと思えるでしょう。でもカチンとくるのは、私たちのプライドがあるからです。その奥深くにある、潜んでいる思いに神様はメスを入れて、取って、私たちを裸にして、この力を与えたのは私ですよという事をおっしゃっているのです。なのに私たちは怒ったり、憤ったりするというのは、御性質をいただいていない。天からの資源としていただいていないという事です。兄弟姉妹、今朝もう一度私たちは、神様の言葉のその素晴らしい恵を受け止めましょう。それはどれだけ私たちの人生の中に価値のあるものであるか、という捉え方をしなければなりません。私たちの心を捉えて下さいます。どんな思い煩いや、どんな問題や、どんな試練が来ても、私たちがそれらのものに心を揺さぶられて、自分自身を見失う事のないように、神様はあなたの心を捉えて下さっています。そして神様が私たちに、この地上での私たちの形は、あなたが無条件で愛されたように、あなたも無条件で愛するという事です。無条件で愛するのです。そして神様が私たちを御自分のもとに帰された。御自分の望む通りの事をしたい時に私たちが回復すべき場所は、私たちのアイデンティティーを知る場所です。今皆さんができているのは、神様がさせて下さっている事、それを誇ってはいけません。感謝して下さい。それが無くなっても感謝して下さい。「主は与え、主は取られる、主の御名は誉むべきかな。」これは今、これが必要だから与えている。必要でなくなったら取る。ただそれだけなのです。それが分かったら、本当に私たちは生き方が楽になると思います。皆さん、自分自身のくだらない価値観を捨てて、神様の言葉の前に自分自身をさらけ出して、丸裸になって、「神様、私には何もございません。あなたがいらっしゃらなければ、私は何もする事ができません。」そういう風に皆さん言って下さい。そして外側のもので自分を覆う事を止めましょう。かっこ付ける事を止めましょう。それがあっても無くても、あなたは神様に愛されているという事は変わりません。そうしたら無駄なものは捨てましょう。そして本当に必要なものをしっかり受け止めて下さい。なぜなら神様はあなたを愛しているからです。命をかけてあなたの事を愛しているからです。その愛の中であなたは正確に事を行い、正確にあなた自身を建て上げていって下さい。それが神様の願いです。

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