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今月の礼拝メッセージ

「繋がり」 

2017年02月 ●山田 恵副牧師●




   私たちの心の内側に、神様が植え付けたい、埋め込みたい何かがあります。今日もそれがあります。それを私たちは聞きたい、 それをつかみたい、それを入れたい。ただ、何となく賛美して、何となくメッセージを聞いて、何となく挨拶して終わっては、 その日神様があなたの中に建て上げようとしているものが建て上げられない。意識する事は本当に大切な事です。私たちは互いに、 受けたものをシェアーしましょうということをお語りしました。それは、先週木村先生が語られた集合というこの神様の新しい季節の中で、 私たちはより変えられ続けなければならないし、犠牲をしましょうという事と繋がっています。 それを求めていく中で私たちが決して忘れてはならない事があります。それは、あなたは単体でここにいるのではないという事です。 今日お語りするのは、ひとつになり、キリストの身体の完成へ向かうための、繋がりの強調です。

 それについて語る前にちょっと、先にクイズをします。①「キリストの身体って何ですか?」答「キリストの身体とは、私たち、 教会です。」教会を、イスラエルとか、神の宮とか、聖なる住まいとか、色々な言い方で聖書は語っています。 キリストの身体については、エペソ書1章23節「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、 すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」と、書いてあります。 教会は、つまり私たちはキリストの身体。では第②問、キリストの身体って、幾つあると思いますか? 答「キリストにあって一つの身体です。」目に見える地方教会は沢山あります。でも、「キリストの身体」 と呼ばれるものは一つだけです。私たちはこの身体の代表です。では第③問、キリストの身体の頭は誰? 答「イエス・キリスト」では第④問、私たちはキリストの身体の何?答「肢体」ローマ人への手紙、コリント人への手紙、 どちらも12章に、身体について、肢体について書かれていますからまた見ておいて下さい。私たちは各部分です。一部です。 私たちは体の肢体です。各自は互いに肢体であると書いています。繋がらない肢体はありえません。 肢体が生きる道は繋がることによってのみです。それが今日のポイントです。では第⑤問、神は身体に何かをお与えになりました、 それは何でしょう?答「調和」です。神は身体に調和を御与えになりました。それはこの身体に分裂が無く、 互いにいたわり合うためであると書いています。分裂があってはならない。一つ思いにさせないものがあってはならない。 だからイエス様は祈られました、「父よ、あなたと私が一つであるように彼らも一つであるように」、調和するように、 一つの心であるように、一つの思いであるように、一つの信仰であるように。御霊は一つ、身体も一つである。そう書いていますね。 もう一つ、第⑥問、集合とはキリストの身体の?答「完成」です。完成ということは、プロセスがそこにある。ですよね? 何かが完成する。この教会堂が完成するという事はいきなりポンとこれが出現した訳ではない。基礎工事から始まって、 枠ができて、壁ができて、建て上げられていくという事が、完成という言葉の中にはありますね。完成はその最後の姿です。 これに向って建て上げられていく性質を持った者がキリストの身体です。プロセスがそこにはあるという事です。 そのために働くように置かれているのが五役者です。そのために聖徒たちを整えて、その業をさせるように仕えるのが五役者です。 使徒、預言者、牧師、教師、伝道者。

 神様が「キリストの身体」と呼ぶものがあるわけです。その一人一人、私たちは、肢体です。この肉眼で一人一人は見えます。 でも今、この地球上に生きているクリスチャンと呼ばれる人たちだけがキリストの身体ではない。その中にはにせキリスト者もいる。 教会に35年通っている。熱心で聖書に詳しいです。でも、キリストの身体に属していない人がいます。沢山います。 自分の幸せを求め、教会堂にお参りのように行っている。だけど心はプライドと不満で一杯、キリストの身体に属していない人、 沢山います。けれども、どこかの国の小さな田舎の小さな町の信徒が二人の小さな地方教会、コングレスを聞いた事もないし、 神様の終わりに対する預言も計画も何も知らない、触れた事もない。資源の供給の無い中で聖さを愛する人々、 キリストの身体に属している人がいます。沢山います。いのちの書に名はあるが、まだ罪の束縛の中に置かれている多くの人々。 神が「キリストの身体」と呼ぶものがあります。イエス様はこの事をどんな風におっしゃったでしょうか。「キリストの身体」 とはおっしゃいません。だけどこういう言葉で言われました。ペテロとの話の中で、「私はこの岩の上に私の教会を建てます。」 私の教会を建てます。誰が建てますか?イエス様が言われたのです。「私の教会を私は建てる。」それが「キリストの身体」です。 それ神様呼ぶところのキリストの身体です。人間が考え、プログラムして、大きな会堂にすごい聖歌隊やプロのミュージシャン、 有名なメッセンジャーがそこで語り、人々は正しさの中にあると自負している。形が悪いというのではなくて、 そこに神の命が無いならば、私の教会を建てる、と言われた教会ではない教会です。人間的には注目を浴びるかも知れません。 あの教会はすごい教会成長している。あそこの教会のノウハウを取り入れて、うちの教会も成長しよう!でもイエス様が 「私の教会を建てる。」と、言われた、その教会の実態は何か、その構造は何か。そこに植えられた人々の心は何か、 それを明らかにされたのがウッドロフ先生です。イエス様が、「私は私の教会を建てる」と、おっしゃった時、その心は、 イエス様の思いは、目的で満ちていました。私の教会を建てると、言われたその言葉の中には建て上げていくという計画とプロセスがありました。 そしてそれは神の完全な目的に満ちていました。正確さで満ちていました。先程言いました、頭は誰ですか? イエス様。頭がそのように考えられたということは、体である私たち、一人一人も同じ考えを持ちます。 爪の働きをする人もいるでしょう。足首の働きをする人もいるでしょう。一人が全部ではない。一人は一部です。 でも、頭がそのように考えたものは全部体に流れて来ます。頭が考えたと同じ心、同じ姿勢、同じ方向性を体も当然持つべきです。 そうしないと一つの身体ではないですよね。人間の身体ぐらい完成された繋がり、しくみ、機能性というものはないですよね。 どんなにすごい超スーパーコンピューターも到底及びません。特に脳の働きというものは。脳からの指令で全ては動きますね。 だから私たちはそれぞれの所で、正確に機能していったらそれでいいのです。互いに繋がっています。それぞれの各器官は、 靭帯によって結び合わされと、聖書に書いています。節々によって、関節によって、靭帯によって結び合わされています。 みんな働きは違います。口は食べ物を咀嚼して、血となり、肉となるようにします。また、人とのコミュニケーションに使います。 いくらその働きをしたいからと言って、鼻で食べる人います?それぞれ神様が与えられた所がその分に応じて働く時に、 体は正常に働くようになりますよね。どこかが痛んだら、身体全体が痛みます。そこをかばいます。 他の所がそれを補った動きをするようになります。単なる繋がりでなく、頭の命令通りに機能する繋がりです。

 エペソ人への手紙2章4~6節「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし―あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―キリスト・イエスにあって、 共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。」ここで、「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし。」 と、あります。「共に」が聖書には沢山出てきますね。「共に生かし」「共によみがえらせ」「共に天上で座に付かせて下さった。」 この「共に」というのは、「結合」という意味です。繋がり、結び付き。先程の身体のように、一つとなるその繋がり。 それによって私たちは生きる事ができるようになりました。それによって新しい命が来ました。繋がり無くしてこなかった。 イエス様を信じ、霊が繋がりました。それによって私たちは罪許され、新しい命が来ました。永遠の視野が来ました。 神様はこの終わりの時代の旅路を通して、単体である私たちを一団にする計画を持っておられました。それは神様の心にずっと昔からあった事です。

 私がイエス様を信じたのは20歳の時なのですが、そのしばらくは自分のビジョンというものがありました。 私は教会を探して行って、信じて、神様の働きをしたいという思いがあって、自分でそういう道を探して、そこに行こうとしました。 それは私個人の夢、やりたい事でした。繋がりというものは何も分かりませんでした。ありませんでした。教えもありませんでした。 自分で、一人で信じて、一人で道を決めて、一人でその道に行こうとしました。でも神様はそれをストップされました。 身体という真理はもちろん開かれていない教会でしたから、何の繋がりも無く、信徒は皆一人一人ばらばらの思いを持っていたと思います。 自分なりの自分の人生のプラン。仕事や家族におけるビジョンや神への従い方。神様は、ある人々に、神にある夢、 ビジョンは持つように思いを与えて下さるけれども、それは自己実現のためではなくて、神が形成されている一つの集団、 共同体、コミュニティー、ネットワーク、その中にあってのものでなければならないのです。ひろ子先生はご自分の郷里、 愛媛で教会を建てたいという思いをずっと持っておられました。それは先生個人のビジョンなのか、それとも神の計画の中でのものなのか、 それを迷われていた事も少なからずあったと思います。でも、先生が身体の真理の悟り、困難の中で、 みこころを行いたいという神への愛と魂への情熱を捧げる中で聖霊様が進めていかれた。その実現が今に至っているわけですよね。 単に自分の願いでやりたいからやっているのではない。もちろん良い思いは神様からきます。そして、 個人的に何か夢やビジョンを具体的に持っている兄弟姉妹もおられると思います。じゃあ本当にそれに向って行っていいのかなあ? それは自分の肉から出た願いかなあ?それとも神様がそのようにせよと言われている事なのかなあ?と、迷う事はないですか? だから今日言いたいのは繋がりなのです。私たちは身体です。私の昔の考えは、一個のみかんだった。だけど、 身体という真理が分かったら、私は一個のみかんじゃなくて、このみかんの房の中の一粒だという真理が分かる。 これはキリストの身体、キリストの身体の中には沢山の肢体があって、全部繋がっています。ここから粒がぽろっと外れたら、 この粒は何の供給も受けない。それが分かったら、私はこの身体の完成、身体の目的の中で一粒の粒としてのビジョンを完成させよう。 もしそれが神のみこころで無かったら、大丈夫です。その道はふさがれます。それを強引に行こうとしても行かないように神様がなさいます。 あるいは打たれます。それが、神様がよしとされたものなら、推し進められて行きます。信仰によって歩むならばです。そこに愛があるならば、 自己の死があるならば。キリストの身体の完成は使徒の叫びです。パウロの書簡を読んだら、ほとばしるような、 身体に対する愛の叫びで満ちています。だからウッドロフ先生は合流の平原の直前にキリストの身体に対する愛を定義するということを語られました。 そしてあの神とのやり取りの中で、「私たちの通って来たプロセス、なした事全ては、キリストの身体が成したものとどうぞ神様見なして下さい。」 そう祈られたのです。「キリストの身体」、このキリストの身体を私たちは愛するのです。その時あなたは自分自身を愛している事になります。 主が再臨されるまで私たちは「キリストの身体の代表である」という意識「その身体と共に、また内にいて一体なのだ」 という意識で支配されるのです。イエス様の内を歩みたいならば、イエス様のようになる事を求めるならば、 身体を愛するのは当りまえです。主を愛する、主を信じます、主に従いますと言いながら、キリストの身体を愛さないことはありえない。 一つだからです。身体の中の私たちは一部なのですから互いに愛し合うという事によって、この身体は完成していきます。

 エペソ人への手紙4章14~17「こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、 人人の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、愛にあって真理を語り、 あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、 しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は、分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。 そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。」 15節を見たら、「愛によってあなたたちは真理を語って、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する。」 これはキリストの身体の完成の一つの側面です。頭なるキリスト様の基準、その御性質その完全性に達する。これだけ聞いたら、 「そんな事は到底無理ですよー!」と、肉の思い、感覚は感じるでしょう。キリスト様の完全性に達するという事は程遠いように。 できるのです。どうやって?16節に書いています。「キリスト様を基として、全身はすべての節々の助けによって、」 ここに個人主義はありません。ここに房から離れた一粒はありません。「助けにより、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、 それぞれの部分はその分に応じて召された領域に、働きに、召しに応じて働き、」それでいいのです。足は足の働きで。 互いに徳を高め合って、愛の内に育てられていきます。愛の内に育てられ、身体を成長させ、そのように完成に至るのです。 という意味です。キリストを愛する愛です。これは感情じゃない。私たちがイメージする、感情的に、あの人は愛せる、 あの人は愛せないという感情とは全く関係はない。愛するというのは霊的な機能です。

 ウッドロフ先生が言われましたよね。「それは私たちの心の土台です。また、この愛は私たちの立ち位置の事です。」 啓示の立ち位置がここで言う愛です。これはイエス様の心です。私の教会を建てると言われた。主の心、主の思いです。 傷付きたくない。裏切られたくない、いやな思いをしたくない。という自己保身の自己愛、これは本当にしんどい人生です。 絶えず不満が出ます。こうしてくれなかった、ああしてくれなかった。そうではなく、キリストの身体を愛する時に、 あなたは自分自身を愛している、この愛は、私たちの心を満たします。神様は語られました。私たちに犠牲をするように、 私たちがどんな者か、神様は教えて下さいました。私たちの肉がどういうものなのかも明らかにして下さいました。 私たちがどの様な者になるべきなのか、どのように生きるべきなのか、どのように学校生活をするべきなのか、 どのように会社で働くのか、どの様な親になるべきか、兄弟姉妹とどのように関係を持つべきなのか、神様は語って下さいました。 ウッドロフ先生が語られた、「人は神を聞く事ができる。」神を聞く事ができる真理へ、私たちは導かれて来ました。 そして私たちは単一の者から、力強い一団へ、忠実な一団へ、そのネットワークへ神は導かれて来ました。 神様はウッドロフ先生に語られましたね。私に一つのネットワークを建てなさい。あなた方自身を共に捧げ、 そして周りの構造を砕きなさい。あなたを一つの家とします。あなたを一つの場所に連れて行きます。 そしてそこで私は私自身を現します。そしてこう祈りなさい。キリストの身体を覚えなさい。彼らのために私が死んだ、 その人々を覚えなさい。キリストの身体を覚えなさい。本当に私はこの言葉を聞く度に感動します。そしてその叫びは、 まずウッドロフ先生の心の中に埋め込まれました。そして同じように私たちの心にも、それが埋め込まれています。 何を愛するのですか?キリストの身体です。キリストの身体って何?「私の教会」と言われた、それです。 キリストの身体を構成している数の面で言うなら、キリスト教というその宗教システムの中で捕らわれているけれども、 神様に認められ、支えられ、聖霊様によって監督されている正しい人たちがいる、その人たちと私たち、そしてもう一つは、 バビロンのシステム、構造の中で暗闇に閉じ込められているけれども命の書に名が記されている解放されるべき人々、 これらがキリストの身体です。過去、現在、未来、全ての中で。人は繋がりの中で生きています。父なる神、子なるキリスト、 聖霊なる神、この完全な繋がり、これが神様を現しています。私たちはこの地上で、天と地の繋がりの中で生きています。 地上に生きてはいるけれども、中身は霊です。これは永遠です。人と人の繋がりは、面倒くさいです。時にもめ、争い、また、 葛藤し、苦悩し、戦い、「ああもう人と関わるのはしんどいわー!」って。何度も思われたでしょう。でもその繋がりの中で私たちは、 慰めを受け、励ましも受け、互いに助け合い、カバーし合い、ケアーし合い。また、喜びも感じ、楽しみも感じ、感動も、 生まれてないですか?いやいや、もうそんなもの面倒くさい。もう一人で生きていくって言って、どっか山の奥へ行って、 草をちぎって、イノシシ殺して食べて、滝に打たれて。「一人でも生きていける!」って言って。「これが喜びだー!」と。 まあその人にとってはそれが喜びかも知れないけれども、繋がりの中で生まれる真の喜びを経験する事はできない。 苦しみの中で信仰から生まれて来る喜びを、その人は経験する事はできない。単に自分が満足するだけ。 皆社会の色々な仕組みの中に係わっている人々の繋がりの中でも生かされているじゃないですか。その中でお給料をもらって、 その中でごはんを作って、当たり前のように人参を買って来て切っているけれども、人参がそこに存在するまでにどれ程の人が係わっているか。 まあそのような社会の繋がりは当然ですけど、私たちの心の繋がりが重要です。神と繋がり、 そしてキリストの身体に属する一人一人と密接に繋がって、その一致の中で建て上げられていくものです。 私たちは一団とされました。私たちは身体です。繋がっているなら身体を愛するなら、挨拶もするのは当然です。 木村先生がおっしゃったように、犠牲をし合いましょう。当然です。簡単なようで簡単ではない。 正しい挨拶も犠牲じゃないですか。挨拶しやすい人はしやすいけれども、しづらい人もいるかも知れないけれども、 誰かから挨拶されて、めちゃめちゃ気分悪くなったっていう人いますか?誰かから挨拶されて、声かけてもらって嬉しかった人、 一杯いますよね。その人は犠牲をして下さっています。当りまえの様だけれども。無関心はいけません。 皆さん繋がりを意識しなければ、身体の完成には程遠いです。大丈夫ですか?繋がり。繋がり意識していました? 自分はキリストの身体の肢体だと。意識していました?何か一人で信仰生活をしていませんでした? いつも挨拶されるばっかりじゃなかったですか?これからは自分から、誰よりも早く、一秒でも早くやって下さい。 それぐらいの意識、形の事を言っているのではないのです。心の繋がりです。真の繋がりはキリストの身体を建て上げるから。 そして神様のこれは命令だから。神様の命令でない事は、何もしてはいけない。神様がおっしゃっている以外は、 するべきではない。神様が要求されている事は皆、するべきです。神様がおっしゃっている事は私たちの人生の全てです。