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今月の礼拝メッセージ

「旅の心得、頼みは神か人間か」

2015年5月                ●山田 恵 副牧師●

 私たちは旅人です。神様の新しい声明の中で、一つの共同体として、旅を進めています。デイビー先生が以前もおっしゃいましたけど、私たちが今属しているBTGのネットワークには土台があります。この土台というのは、使徒ダビデ・カップ先生の人生の中で生まれました。カップ先生の命は、ウッドロフ先生の命の中から生まれました。そして使徒ウッドロフ先生の命は、キリストの中から生まれました。これが私たちの世界です。私たちの背景です。神様の新しい最後のステージの季節の中を、私たちはずっと旅をしているのですね。旅というのは言い換えれば、何度も言われているように、建て上げていっているということです。建て上げの旅、何を建て上げているか?私たちクライスト・チャーチの教会理念は、神の国の共同体、神の国を建て上げるという、この目的の為に3つの教会理念が設けられています。神の国の共同体を建て上げる為です。  

 最近私たちに神様の励ましとして、また警告として語られた一つのキーワードは、「強くあれ!」ということでした。何度も何度も語られました。強くあれということは、ますます私たちはこの旅を、成熟の旅を進めて、ますます己に死んで行くという意味です。自分の我を強くするのではない。自分の我はますます消えて行かなければならない。それが真の強さです。自分の考えやこだわりをばっちり持ったまま、神の御心を行っていくことはできません。一番変わらなければならないのは環境ではない、あの人この人ではない、私です。自分です。一番私たちの成長を妨げているのは、何でもない自分自身です。まだまだ私たちの中には、自分が手放せないでいるこだわりがあります。忘れられない過去があります。許せない人がいます。それが、ネックです。

 教会の土台というのは何度も聞いているように、使徒、預言者ですよね。この最初の使徒のネットワークを創ったのは誰でしょう?パウロです。パウロは最初の使徒的ネットワークを創りました。パウロは後に出て来る使徒たちが、教会の土台を据えるにあたって、そのパターンを神様から与えらえた器です。その後に出て来る使徒たちが、正確な基準で、その土台をつくるためのベースを創ったのが使徒パウロです。私たちの使徒はパウロではありません。私たちに与えられている神の現在の、この終わりの時代の語りかけを開いて下さっているのはウッドロフ師です。
 私たち自身の核の中心は心です。その心、考え方を、本当に基本的な事なのですけれども、もう一度確認をしたいと思うのですね。それは正確に建て上げていく為です。そこで今日のタイトル、「旅の心得、頼みは神か人間か」もう結論は分かっていますよね。「いやいや私は自分に信頼したり、自分を頼みとしていません。私の頼みは、もう神様に決まっています。」と、ほとんどの方は言うでしょう。でもそうではない部分が多々あるということを、認識する時間にしたいと思うのですね。

 私たちの心の中心にあるものは、自分なのか、神なのか。この私たちの中心にあるものがもし自分であるならば、その自分なりの正義というものがあります。自分が正しいと思うこと、たいてい人というものは、自分が正しいと思って、発言したり行動したりしていますよね。でもその正しさというのは、神様の目から見た本当の正しさなのかどうか。たいていそうではないことが多いです。自分が良いと思うこと、また自分のこだわり、まあ良いと思っているから、それをこだわっている訳ですよね。友達が一番最新のゲーム機を持っていたら、自分もやっぱりそれが欲しい。皆がやっているから、自分もやってもいいだろう。今一番最新のモデルの靴が欲しい。それもこだわりがあるからです。それは欲深さにつながります。
 もっと欲しい。それは物だけではない。能力もあるでしょう。誰かと比べて、そして自分に足りなかったら、それをうらやんで、ねたんで、劣等感にさいなまれたり、また同じように自分もそれを持とうとする。そこには能力主義というものもあります。何か人からひいでたものを持っている人は称賛される。素晴らしいと認められる。何も人に自慢できるようなものがなかったら、自分はつまらない人間だと思う。その考え方はどこから来ていますか?能力があることが素晴らしいという考え方が刷り込まれている訳です。
 もうこの辺りは、何度も何度も私たちは聞いてきていますよね。これらは結局、自分に頼っているということです。何かを頼みとする、頼りとする、信頼するということは、その人に力があると分かっているからです。力がない人の所に頼ったりはしません。自分には何の解決する力もないということは分かっている訳です。そして頼れる人の所に相談に行きます。相談してアドバイスをもらったり、実際的な援助を受けたり。何かに頼るということは、そういうことですよね。
 ということは、私は神様に頼っていますと言いながら、もし私たちの中にこういう考えがあるのだったら、それは自分に聞いている訳です。自分が持っている考え方を優先させている訳です。自分はこれで解決できる、自分はこれで生きていけると思っている訳です。結局自分に頼っている。自分で何とかできる。自分の考えを変える気はない。それは己を頼っていることです。「~たい。」と言うのは、誰かから声をかけてもらいたい。慰めてもらいたい。あいさつしてもらいたい。お礼を言ってもらいたい。かまってもらいたい。欲しい、欲しい、欲しいちゃんです。だからそういう思いがあったら、そうならない時に、腹が立つ。自分が思ったような反応がかえって来なかったら、その人に憎しみを抱くようになる。「これだけのことをやっているのに、ありがとうの一言も無いのか。」
 その腹立たしさはどこから来ていますか?自分は利益を受けて、あいさつしてもらって、お礼を言ってもらって当然と思っているからです。その中心は、自分です。自分が神様から示されて、何か誰かの為になした事は、それはいいじゃないですか。何でちょっと自分に注目が来ないからと言って、ふてたり、すねたり、卑屈になったり、隅っこで泣いたりするのですか?自分に頼っているからです。私たちの中心は神様であるべきです

 神様に頼るというのは、イエス様はおっしゃいましたよね、「乾いている者は、誰でも私の所に来て飲みなさい。そうするならばただであげよう。」ただで、尽きることのない水とパンがもらえます。この方が源だからです。
 そして新約聖書の中でこう言われていますよね、「私たちはキリストの体です。このキリストの体は、全てのものを全てのものの内に満たしている方が、満ち満ちているものに他ならない。」キリストの体は私たちです。私たちは、キリスト様の性質、キリスト様の恵み、キリスト様の考え方が満ち満ちているのがキリストの体です。私たちです。99.99%ではない、100%満ちているのが私たちです。ということは、私たちの中にある、生まれながら持ってきた欠乏感というものは、この御方を中心にして生きる時に、全部満たされるということです。虚しさがあるなら、もう虚しくない、満たされます。
 何かやり遂げたいという達成感というものを人間は欲しいですよね。だから一生懸命仕事に打ち込んでみたりする。友達と何とかいい関係をつくろうとする。でも人に求めても、仕事に求めても、結婚に求めても、100%というのはありえないです。けれどももし私たちが、この不条理で、不完全な世の中で、神様を頼みとするなら、この御方が私たちを満たして下さいます。皆満たされたいですよね。自分の存在そのものを満たしたい。自分の人生を満たしたい。自分の心が満たされないから皆虚しい。虚しいからちょっと誰かをいじめてみたり、ねたんだり、ひがんだり、文句言ったり、何かのせいにしていつも生きたり、何かに打ち込んだり、ごまかしたり。
 神様は又、全知です。私たちは自分自身の何を知っていますか?隣の人の何をあなたは知っていますか?何も知らない。この世の中に起こる出来事を全部知っていますか?隣に座っている人の髪の毛の数を知っていますか?本人も知らない。その人がどこでどう生まれて、どういう親の下で育ち、どういう環境で大きくなり、その過程で、どんな思いをし、どんな涙を流し、どんな笑顔だったか、誰も知らない。神様は全部知っておられるじゃないですか。この方に信頼する時、この方に頼る時、私たちは全ての物事に対する見方、受け止め方が変わってくるはずです。そこで一つ今日は、テーマをピックアップしました。

 「悲しみ。」ということに、ちょっと注目したいのですね。悲しみには種類があるのです。パウロの言葉から見たいと思います。「兄弟たちよ、眠っている人々については無知でいてもらいたくはない。望みを持たない外の人々のように、あなた方が悲しむことのないためである。」眠っているというのは、この体が亡くなった、死んだ人のことです。ちょっと仮眠しているのではない、もう完全に亡くなった人のことです。テサロニケの兄弟姉妹たち、既に召された、亡くなった人々については、無知でいて欲しくないのだ。なぜならその人たちが死後どうなったか、それについてもし神様を知らなかったら、つながっていなければ、望みを持たない外の人々、望みが無い、死んだら終わりというのがこの世の中の考え方です。私もずっと思っていました。イエス様を知るまでは、死んだら終わり、死んだら無になる。死んだら全てが消える。意識も感覚も、自分が存在していたことも、全く何もない、無の世界と思っていました。となると、望みはそこにはありません。望みを持たない外の人々のように、あなた方が悲しむことのない為です。誰かが亡くなった、その時に流す涙、悲しみは、望みが無い悲しみです。
 もう一つ、コリント人への第Ⅱの手紙「神の御心にそうた悲しみは、悔いのない救いを得させる悔い改めに導き、この世の悲しみは、死を来たらせる。」悲しみはあります。誰でもあります。でもその時、ちょっと考えてみて下さい。その悲しみは、どういう悲しみか。ここにもう一つの悲しみが出てきます。神様の御心にそうた悲しみというのは、神様を中心とした人が持つ悲しみ、それは神様が全ての事を統治され、許可され、今なさっているということを信じている、そこに信頼を置いている人の悲しみです。その悲しみというものは、何に至るか、その悲しみの結果は何かというと、悔い改めです。悔い改めは、泣いて終わりではなく、考え方、思いを変えるということでした。悔い改める。ギリシャ語で、メタノイア。私たちは聞きました。思いを変える。方向転換する。というのが悔い改め。悔いで終わる人が多いです。ただ泣いて、それは、望みの無い悲しみです。

 でも、神様を中心としている人の悲しみは、望みがあるからその結果は、悔い改めに導きます。自分がどうするべきなのか。自分の何が変わらなければならないのか。そしてその悲しみの対象が違うのですね。罪に対して、罪を憎み、それに対して嘆いているのか、あるいは、それにとらわれた自分自身を悲しんでいるのか、それが大きな違いです。この世の悲しみは今言った、ただ自分がそのことにとらわれた、時間も取られ、自分が傷付き、自分が痛い目に会って、何で私がこんな思いをしなければいけないのだ、という悔しさであったり、劣等感、それにとらわれた情けなさ。自分が損した悲しみ。自分が被害を被った。自分が傷を受けた。自分のプライドが傷付けられた、それに対する悲しみ。その出来事そのものにとらわれている。それがこの世の悲しみです。ここの中心に、神様はいません。この中心は自分です。それは何をもたらすか、何も生み出しません。でも、神様の御心に沿った悲しみは、全ての源である方から、慰めが来ます。力と希望が来ます。どうして?神様は全知だから。全部知っているから。

 イエス様は悲しまれましたか?イエス様は悲しまれました。イザヤ書を見てみたいと思います。「彼はあなどられて、人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔を覆って、忌み嫌われる者のように、彼は侮られた。我々も彼を尊ばなかった。」これはメシア預言です。イエス様が今から2千年前に、クリスマスにお生まれなさる更にその7百年ぐらい前にいた、イザヤという人物が預言したイエス様の預言です。イエス様は人に捨てられました。バカにされ、ののしられ、無視され、人に捨てられ、悲しみの人だった。

 そのイエス様は、山上の垂訓でおっしゃいましたよね、「悲しむ者は幸いである、彼らは慰められるであろう。」神から来る慰めを受けるから、その悲しみは、神様を中心とする、神様を頼る、信頼する人の悲しみは、幸いですと言われた。イエス様御自身は、悲しみの人だったのです。私たちの知る限りの、体験する限りの、全部の悲しみを知っていました。なぜなら、全人類の罪を負われたからです。イエス様は嫌われました。イエス様は集団に無視されたのです。パウロの悲しみを見る前に、イエス様はもう一つ、イエス様が最大に悲しまれたのはいつだったか。それは十字架に架かられる前、エルサレムのオリーブ山という所に、ゲッセマネの園という所があります。それはオリーブの油を搾る場所だったのですね。だからゲッセマネというのは、油絞りという意味です。そこでイエス様御自身が絞られました。血の汗をしたたらせながら、私は悲しみのあまり死ぬほどであるとおっしゃった。目の前に杯がありました。目に見えない杯が。全人類の罪、神から離れて、自己中心に生きる、その私たちの自我のため。それをイエス様は全部飲まなければならなかった。それはもう耐えがたいものでした。一滴も飲む必要のない方が、全部の私たちの醜さ、汚さ、自己中心、自分の考え、自分の正義、それで生きている私たちの、その汚い罪の為に、イエス様はそれを、「もしできるなら、これを取り除いて下さい」と、そう言わずにはおれなかったのです。でも、イエス様の心は定まりました。この為に生まれたのですから。この為に人間の姿を取ったのですから。心を定めました。

 「私は悲しみのあまり死ぬほどである。この杯をもしできるならば取り除いて下さい。でも私の思いではなく、神よ、あなたの心のままになさって下さい。あなたの心を私はこれから飲みます。」と言って、捕えに来た者たちに捕えられて、むちゃくちゃな裁判に引きずりまわされて、金曜日に十字架に架かられるのですね。イエス様は悲しみの人でした。私たちの悲しみは何ですか?ちょっと自分が何か嫌な目に遭った、ちょっと自分の家庭にごちゃごちゃした問題がある、それで自分はもう悲劇の中心かのように、自分が被害者かのように悲しむ。そして人を裁く。私たちの悲しみは、己に害を被った悲しみ、それが多いのではないでしょうか。誰かの為に涙を流して、誰かの痛みの為に共感して、誰かがつらい目に遭っているからと言って、自分も心が粉々になるように、私たちは誰かの為に痛み、悲しみを覚えることが、どれぐらいあるでしょうか。大抵は、俺が、私が、僕が。私たちの悲しみは、もっと質が変わらなければならない。もう一人パウロを見たいと思います。

 コリントの教会は、パウロが生み出した教会です。このコリントの教会に対して手紙を書いた時に、パウロは別の所にいました。このコリントの教会を去って、エペソという所にいました。パウロがこのコリントの教会を去った後に、アポロという人が来て、アポロ先生が教えをしたりしていました。そこで、「アポロ先生が私は好き。」とか言って、アポロ派が出てくる訳です。「私はやっぱりパウロ先生がよかった。」このコリントの教会の人たちは、非常に幼い信徒ばかりだったのです。
 ここはギリシャの影響を受けていますから、色々な哲学、博識の人がいる。そういった知識や能力が素晴らしいと言うような考え方のクリスチャンたちは、使徒の教えの中にそれをもうごちゃごちゃにして、「知識がある者が真に救われているのだ!」まあ色んなことを言い出している訳です。色んな分派ができるし、そして偶像礼拝の中心地でしたから、○○女神とか、そういったものにお供えをしたり、クリスチャンになっても、色々な風習とか文化がバッチリ入っていました。だからその偶像の供え物の問題とか、それから不品行の問題も一杯ありました。
 だからもう分裂はある、分派はある、そしてユダヤ人の中にはこのパウロが、「割礼を受けなくても、ただ信じるだけで救われる。」と言った考え方に反感を抱いている人たちとか、まあ一杯色んな考え方の人たちがいたので、色んな激しい迫害がありました。反対運動が起こるし、暴力はあるし、陰謀は渦巻いているし、ねたみはあるし、もうパウロは、悪意の中にさらされていたのです。そんな中で、ユダヤ人から39回のムチを5回も受けたのです。そして、ローマ人からもムチを打たれました。そして石で殺されそうになった。石打ちの刑というものがありましたよね。だから法の下でもパウロは、死刑宣告をもう受けていたような状態だった訳です。そして福音を伝えながら旅をする中では、船が難破するは、盗賊に会って身ぐるみはがされるは、裸のまま寒さに凍えるは、食べる物が無くて飢え死にしそうになるは、そんな中でパウロは、このコリントで生み出した人たちのことを本当に愛していたのです。
 でも彼らは本当に幼い、全然成長していない。だからパウロは必死に手紙を書きました。「コリントの人たちよ、偶像の問題はこうしましょう。不品行の問題はこうしましょう。」コリントの人たちに、第1の手紙を書いた後に、パウロは、その反応があまり良くなかったから、非常に心に痛みと悲しみを覚えていました。この、親としての愛が伝わらない悲しみ。

 そこでこれを読んでみて下さい。「私はこんな心配をしている。私が行ってみると、もしかしたらあなたがたが、私の願っているような者ではなく、私もあなたがたの願っているような者でないことになりはしまいか。もしかしたら、争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、ざんげん、高慢、騒乱などがありはしまいか。」もうこういうものが、実際、本当にあった訳です。ざんげんというのは、人を陥れようとして、悪く言ったり、嘘言ったり、もうこんな中にいたら、耐えられますか?誰か自分に対する悪口を、一個聞いただけで、誰か一人から無視されただけで、私たちはすぐ、落ち込んだり、悲しんだり、もう悩み一杯になるんじゃないですか?耐えられないです。私には日々迫って来る諸教会の心配事がある、問題がある、重圧がある、更にこの様なものもある。

 もう一つ、「私は大きな患難と、心のうれいの中から、多くの涙をもって、あなたがたに書き送った。それはあなた方を悲しませる為ではなく、あなた方に対してあふれるばかりに抱いている私の愛を知ってもらう為であった。」心を知って欲しいと言ったのです。使徒の教え、その心を知って欲しい。パウロは自分の心を差し出すことによって、賢い建築家として、土台を据える為です。キリストの体を完成に至らせる為に、建て上げる為に、私は語ってきたと言っています。だからパウロは言いましたよね、「私にならう者になってください。」私の心を分かる者に成って下さい。ただ形だけ真似をせよと言うのではない。ただ見た目だけ品行方正にせよと言っているのではない。その心です。パウロは同じユダヤ人たち、同胞に対して、「主を迫害する者に対して、私に大きな悲しみがある。心に耐えざる痛みがある。我が同胞の為になら、この命が神から見捨てられてもいい。」とまで言った。どれだけ人々の為に、彼はいつも悲しみを負っていたか。その悲しみの中心は、人々への愛から来る悲しみです。自分が何かにとらわれた事に対する悲しみじゃない。自分はいいのです。もう自分はいいのです、傷付けられようと、殺されようと。それがキリスト者じゃないですか?自分が殺されてもいいと言うのは、自分のプライドを殺されてもいいということです。プライドは殺されてもいいのでなくて、プライドは殺されなければならないですよね。自分自身に、もし頼っていたら、これからのがれられないです。私たちはずーっと、この様な悲しみを持って生きて行きますか?それとも、信頼すべき方に信頼して、慰めと力を受けて、強く人々の為に生きて行きますか?その様に私たちが成長するように、使徒が置かれました。私たちの中心は、どっちでしょうか?

 箴言28章26節「自分の心を頼む者は愚かである、知恵をもって歩む者は救いを得る。」箴言3章5節「心を尽くして主により頼め、自分の悟りにたよるな。」自分の心を頼む者は愚かです。愚かということは、幼子ということです。幼子は純粋で、単純で、本当に素直ですね。その素直さ純粋性は、神様の国のものです。でも単なる幼稚というのは、私たちの中から取り除かれなければならない。私たちは愚かなままの者であってはならないのです。そうだったら、成熟した大人に成らなかったら、神様が今この時代に、私たちに、「せよ。」と、言われている事を全うすることはできないからです。知恵を持って歩む者というのは、知恵というのは神様ですよね。神様の価値観、神様の考え、使徒から流れて来る、私たちが持つべき心の態度、姿勢、それを持って歩む者は、それを持って旅する者は、旅の心得は、知恵を持って歩む者、その人は救いを得る。さっき悲しみの時に言いました。悔い改めに至る悲しみ、それは悪からの解放、命をもたらします。その悲しみは、神様に信頼する所から来る悲しみです。

 ダビデは詩篇で言っています。「わたしは心を尽くして主により頼む。わが慰めは主から来る。心を尽くして主により頼め、主に信頼せよ。」もう何度も何度も言っています。ダビデは自分の愚かさの中で、主に信頼しました。主により頼む者は幸いである。自分により頼む者は愚か者だと神様は言います。自分の悟りに頼るな=自分に信頼するなということです。自分に信頼するのは幼子の特徴です。私たちは今、つながりを持って進んで行っています。同じ背景の中、同じ目的の中、清い目的の中、神様の主権の中を歩んでいます。私たちの中心は自分であってはならない。私たちの中心は神様です。神様の考え方です。なぜパウロの事を言ったか。それはパウロが土台のパターンを築いた器だからです。
 私たちの教会理念をもう一回思い出して下さい。私たちは聞いて行う教会でしたよね。私たち使徒を持つ教会は、神様から聞いた事を実際に行う教会。その行わせるのは、使徒の恵みです。皆、正しく生きる為にはどうしたらいいか分かっているのです。分かっているけどできない、自分があるから。自分に頼っているから。正しい心が必要です私たちは。あなたの正義は要らない。自分に死んだ模範はイエス様ですよね。それが成熟した大人の考え方です。
 私たちの霊性が幼いままでは良くない。だからパウロはコリントの人たちに、あなたたちはまだ固いお肉は食べられないから、お乳しかあげれないと言っています。幼いということは、中心は自分です。自分の考え。先生はこういう風に言われるけど、でも私だってこれやって、あれやって。どんなに素晴らしい働きでも、それだけやっていればいいというのではない。それをやっている、その人の心の構造が正しいかどうか。それを正しい構造にする為に使徒が送られています。このパターンに私たちはならわなければなりません。その中心は心です。私たちの中心は神様です。これが旅の心得です。




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