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今月の礼拝メッセージ

~礼拝メッセージ~

2018年04月 <キリスト伝道団福岡教会>●藤井 恵牧師●




 私は九州の福岡に生まれて、そして福岡で育ちました。生まれたのは1951年7月の18日生まれです、今はまだ66歳、 夏になると67歳になります。この教会の久松義人先生ですが、私の息子も同じ義人と言う、釣りの大好きな息子がいます。 義人先生は、ウッドロフ先生、あるいはカップ先生の通訳をなさっているのを私も何度か拝見いたしまして、 「はあー、かっこいいなあ!」と、思って見ていたのですが、実はですね、私もバイリンガルなのです。日本語と英語ではなく、 日本語と博多弁なのです。博多生まれですから、話の途中に博多弁が思わず出て来る事があると思いますが、 分からなかったら皆さん手を上げて、「どういう意味ですか?」と、聞いて下さい。すぐ日本語に訳します。まあ本当に、 バスで席を譲ってもらうぐらいの年齢なのですが、牧師歴は非常に短くて、まだまだ新米の牧師です。



私の父は、福岡の教会で牧師をしておりました。私の父の話を少しさせていただきたいと思います。父は20歳の時に、 生駒聖書学院の初代の院長であった、クート先生という先生の伝道集会に於いて初めてイエス様を知り、そしてイエス様を信じ、 そして教会に行くようになったと聞いているのです。当時私の父は、母親とお兄さんと3人で一緒に住んでいたそうなのですが、 母親、まあ私からするとお婆ちゃんなのですが、お婆ちゃんは、禅宗のお寺の娘という事で、父が教会に行くのは非常に反対をしたのです。 まあ戦前の話ですからね。もう昭和12,3年ぐらいの話です。その様な時代に、脳出血を起こして、身体が不自由になって、 ほとんど寝たような状態で生活をしていたという事を聞いております。反対をされるけれども、こそっと、 お婆ちゃんの頭の上に聖書を置いていたそうなのです。お婆ちゃんも反対した手前、こっそりと聖書を、 ちらっと読んでいたそうなのです。戦後ある時、非常に食べ物が無い厳しい時代だったそうなのですが、 「パンが食べたい。」と、父に話したそうなのです。でも忙しいし、その当時はなかなかぱっと行って、ぱっと買えないのです。 1時間ぐらい並ばないと買えない。あるいは配給とか、いろいろな制約があったそうなのですが、まあ分かっていながらも、 聞き流していたそうなのです。ところが見知らぬ方が訪ねて来られて、「このパンをお婆ちゃんにあげて下さい。」 と、持って来られた方がいらっしゃったのです。驚いていると、その後に今度は小さな子供さんを連れたお母さんがやって来て、 「先程あそこのパン屋さんで1時間並んでこのパンを買ったのですが、この家の前に来たらこの子が、 「ここの家のお婆ちゃんにこのパンをあげる!」と言い出して、「いやいや、お家に帰ってお昼ご飯を食べる!」 「いや絶対にあげる!」と、「もう聞かなくてしょうがないので、お婆ちゃんにどうぞ!」とね、パンを持ってこられたのです。 2個も見知らぬ人が届けて下さったという事で、そのパンを持ってお婆ちゃんの所へ行くと、お婆ちゃんが涙を流しながら、 「お前が信じている神様は生きておられるねえ!」そう答えたと言うのです。こっそり読んでいた聖書の中に、「求めなさい!」 という御言葉を見出した。「神様、私はパンが欲しいのですが、息子は買って来てくれません。神様お願いします!」 と、こう祈ったら、本当に知らない方が二人も来て下さったという事で、68歳で洗礼を受けたのです。 お寺の娘が本当に180度変えられて、亡くなるまで、本当にいつも聖書を読んでいたお婆ちゃんだったと聞いています。 私が生まれたのは、そのお婆ちゃんが亡くなって半年後だったので、お婆ちゃんの顔は写真でしか知らないのです。


ここから私の話になりますけども、父が結婚して7年目に私が生まれたという事で、非常にかわいがって育てられたそうなのです。 私はのんびりな性格だったようです。又、成り行きまかせのところが非常にあったような気がします。 1つ違いの妹がいるのですけども、ぼんやりしていると、横からパッとおかずを取られても、「あら?」って言って、 気が付かないというぐらい、非常にボーっとしていたと母から聞いているのです。小学校の時は、近所の公立の小学校に行ったのですけども、 中学校と高校は、電車やバスを乗り継いで行かなければならないミッションスクールに、6年間通ったのです。今で言うお受験を、 中学校の時にしたのです。この学校に入ろうという動機なのですが、その当時その学校は、 必ず日曜日には教会に行くようにという決まりがあって、皆が教会に行くならば、月曜日は学校をお休みにしますという学校だったのです。 それを聞いたので、「お休みが一杯ある学校だったら、私頑張って受験して行く!」とね、それだけの理由でそこに通った訳なのです。 ところがなぜか、私が学校に行き始めた頃には、普通通り月曜日から土曜日まで授業があるようになってしまって、 ちょっと残念な事をしたなと思っています。今は土曜日は休みなのです。まあ本当に一番大変な時に学校に行っておりました。 ミッションスクールでしたから、朝と夕に礼拝があったのです。讃美歌と、聖書からの話を聞く事が毎日できていた訳なのですが、 真剣に聞いた記憶がほとんどありません。しかし一度だけ、涙がこぼれるぐらいに心に刺された御言葉があります。 マタイによる福音書7章3節~5節に「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。」 というこの言葉を、その言葉がまだ中学生の私にとって、非常に心に刺さったのです。私の周りの友達は、 私が牧師の娘であるという事を知っていたので、ですから当面はニコニコとして優しく取り繕っていたのですが、 内面は本当に、色んな醜い思いや、あるいは嫉みや、又、人を悪く思う心、まあそういうものが一杯あると分かっているのだけど、 何かすましてニコニコと友達と接していた。それが、この御言葉は、私が良い子ぶっているのを言い当てられたという思いがあって、 50年以上経つのに、私の心の中にしっかりと残されているのです。この梁というのは、もちろんその醜さというのもありますけども、 よく久松先生がおっしゃっている、この世の中の価値観ですよね。又本当に、この世の中のものに自分を当てはめて、 すごく上から目線で物事を図っていこうという、そのような思いも自分の中にしっかりあった。そういうものを取り除かないと、 ちゃんと見えないという事を、まだ中学生だったのに、その事が本当に心に刺さったのです。でもその様な事を経験しながらも、 楽しく中高生活を送っていたのですが、卒業間際になると、進路を決めないといけない。就職するか、大学に行くか、 専門学校に行くかと、色んな事を決める時期がやって来ました。「どうしようかなあ?」と、話しておりましたら、 父がたった一言、「聖書学院で、もうちょっと聖書の勉強をしたらどうだろうかねえ?」と、たったその一言だったのですが、 素直な私だったのですね、すぐ反応して、「そうだね!」と、又、成り行きまかせです。私はそのまま進路を決定してしまった訳なのです。 木村先生は聖書学院で私の後輩になりますが、生駒に行く日が近くなって来たら、のんびり、ぼんやりしている私でも、 やっぱり不安になってきたのです。というのは、九州を出た事がない。又、親元も離れた事がない。 結婚なさるお嫁さんが結婚式を控えて、何かこう気持ちがすごく落ち込むというような話を聞く事があるのですが、 マリッジブルーではなくて、献身ブルーとでも言うのでしょうかねえ。当時私の中には献身というフレーズは無かったのですけども、 ただ聖書のお勉強という、そういう形で行こうと思っていたのですが、やはり非常に不安になっていました。今考えると、 非常にこれは、本当に失礼な話なのです。真剣に祈って、神様からの召しを受けて、献身されている方々に対しては、 こんなちゃらんぽらんな私ですから、お父さんとお母さんの元を離れたくないというぐらいの気持ちで躊躇していた訳です。 けれどもその様な不安を覚えている時に、ある晩、本当に心の中に、すーっと神様の御声が聞こえたとしか思えないのですが、 「あなたの神、主が共におられる故、恐れてはならない、おののいてはならない」と。後になって、 これがヨシュア記にあったのだと知ったのですが、その言葉が、本当に心の中に響いて来た時に、もう本当にお気楽な私ですから、 この御言葉通り、「そうか、神様が共にいらっしゃるなら大丈夫なんだ!」と出発して行きました。


もちろん私は教会学校卒業生ぐらいの状態で、いきなり沢山の先輩や同級生や後輩がいらっしゃる聖書学院へ、 ポーンと放り込まれた訳なのです。もう既に教会に於いて、しっかり訓練された先輩方や、 あるいは本当に堂々とメッセージができられる状態になって聖書学院においでになった方々も沢山いらっしゃった中に、 教会学校卒業生がいきなりまいりました。場違いな人がいるものだなあと驚かれた方もいらっしゃったのではないかなあと思いながら、 その生駒聖書学院に私が行った時に、あのカップ先生が院長先生としていらっしゃったのです。又、御家族もいらっしゃって、 小学生のデイビー先生が、自転車に乗って、私は旧姓井出と言うのですが、自転車で、チャリーンと来ながら、「イデ姉妹―!」 とですね、よく声をかけて下さっていたのを思い出すのです。今、もうあの様に素晴らしく神様に用いられておられるデイビー先生を見まして、 神様のなさる事は、どんなに素晴らしい事かと思わされています。又、聖書学院に入学した、初めての聖日の朝、初めて、 「あなたはこの教会に行きなさい」と、言われた教会が、あの石切にあった、久松先生の母教会です。 岡田先生という女性の牧師先生がいらっしゃった所に、初めて行きました。でもその時にでも、 聖書学院の神学生だからという風な目で見られ、「さあ前に出てお証しして下さい。」と言われ、いきなり何を話していいやら、 もう何を言ったか、いまだに思い出せないくらい、あがりまくっていたのです。その様な中にあって、その聖書学院の間、 神様が最初に送り出して下さった、あの約束、「私があなたと共にいる。」と、そう約束されたその御言葉通りに、 何か困った時には本当に助けられたという経験をさせていただいて、神様が身近にいらっしゃるという事を本当に感じさせていただけるその学院生活だったのです。 卒業間際に、学院の中での礼拝があって、短いお話しをしなければならない時に、私はそこで、詩篇73篇21~23節の御言葉を証ししました。 「わたしは愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった。けれどもわたしは常にあなたと共にあり、 あなたはわたしの右の手を保たれる。」という、この御言葉です。まあ本当に愚かで、悟りの無い、 もう本当に手におえない獣の様な、本当にちゃらんぽらんな私と共にいて下さった。そしてしっかりと右の手を握って、 保って支えて下さった。それを本当に心の底から実感できる聖書学院の時代だったのです。


卒業いたしまして、そして福岡に戻ってまいりました。けれども教会には、私よりも年齢が上で、又、 信仰的にも先輩の方々が沢山いらっしゃって、私の居場ところが見出せない、という状況だったのです。 これは私の方に問題があるのであって、先輩方のせいでは決してない訳なのですが、だんだん教会の御奉仕からも遠ざかって行くようになって、 やがてその内に結婚し、そしてただ礼拝に集うというだけの生活が長く続いていたのです。子供を3人、自転車の前と後ろに乗せて、 「さあ行くよ!」って、教会には毎週通ってはいたのですけども、何か特別な働きをするとか、奉仕をするという事が無いまま、 日が流れて行った訳なのです。それでも本当に憐れみ深い神様です!日常の普通の生活の中で、色んな事を通して、 私を教えて下さり、又、学ばせて下さり、あるいは時には厳しい御言葉をもって、私を本当に削って下さり、 更に愛を注いで下さったという事を、本当に経験してまいりました。


2009年の1月23日に、牧師をしておりました私の父が主の元に召されて逝きました。で、福岡教会、 この後どうしようかという事で、会員の皆様が集まられて、話し合いが持たれたのですが、そこでも又、成り行きで、 私が牧会をせざる得なくなってしまったのです。聖書の中にあるヨナの様に、神様が、「行きなさい!」と、言われても、 「いやいやもうニネべの町に行きたくない!」と言うように、私も本当に逃げ出したかった訳なのですが、 まあそういう訳にも行かず、「仕方がない。」と、言うような思いを持って、御用をさせていただいていました。 そしてその数年の間に、同じ教団の牧師先生方が次々に天の御国にお帰りになったのです。又、教会の会員の方々も、 もう本当に、こんなにもと言うぐらいに、続けて主の元にお帰りになったのです。まあ本当に淋しくなり、又、 心細くなったのです。もう相談する先輩のクリスチャンの方も、天国にお帰りになった。 又、教団の牧師先生方も天の御国にお帰りになった。成り行きで成ったにもかかわらず、どうしたらいいのだろうか? と、思っていた。その様な時に、思いかけず、コングレスの従事セミナーのご案内をいただいたのです。 聖書学院を卒業して40数年、どこにも行く事もなく、福岡の地で、子育てと主婦業と親の介護と、あたふたとしていた私に、 一歩足を踏み出す為の道を、そこで示して下さったのです。本当に思いがけない出来事でした。従事セミナーで、 ウッドロフ先生が、本当に熱く語って下さり、又、義人先生も本当に私に分かるように、日本語でお話しして下さったのですが、 良くは分からなかったのです。分からないのですが、分からないなら、聞くしかないのです。「分からないからもう止めとこう。」 ではないのです。「分からないから、じゃあもっと聞かないと!」という気持ちにさせて下さった。それは神様が示して下さった事だと、 本当に心からそう思っています。そして神様が示される道に従って行かなければならないと、人間的な繋がりが無かったから、 淋しかったというのが最初のとっかかりでしたけれども、そうではないのです。神様が、本当に私たちが知らなければならない事、 私たちが気付かなければならない事、その事をウッドロフ先生を通して、又、カップ先生を通して、私たちに示して下さった。 又、愛する久松先生を通して私たちに語って下さっているという事を、本当にこのわずか数年の間に神様は示して下さっております。 2月のこの教会の月報を、この前送って下さったのですが、その中に木村先生のメッセージが載せられていたのを拝見いたしまして。 「あなたのやるべき事をやりなさい、後は神様が働いて下さるのだから。」という事が書いてあるのを覚えていますね。 本当にやるべき事をやる。まあですね、なかなかこうやりたいと思っても、一歩踏み出せない事もある。又、 イエス様の御証をするというのは、ついつい躊躇してしまうという、引っ込み思案の所もあって、 「こんな事言っていいのだろうか、今、いいのかなあ?」と、思えるような時もあります。でも神様は、 色んな所に証ができるチャンスを与えて下さっているのです。


今度は私の母の話を少ししますが、ちょうど1年前、3月に、来週101歳になるという前の週に、天に召されて逝ったのですが、 12年間脳梗塞で、なかなかの介護をしていた訳なのですが、亡くなる前の年の12月に入院をしていたのですが、素人の私たちにも、 もう駄目かも知れないなと思うぐらい、ご飯も食べれない、水分も取れないという状況だったのです。お医者さんも、 「もう年は越せないでしょう」と、おっしゃっておられたのですが、それまで母は、毎年クリスマスは教会で過ごす。 例え入院していても、施設にいても、どこにいても車椅子に乗せて、私は教会に連れて来て、クリスマスを共に御祝いをしていたのです。 主治医の先生に、「こんな状態は分かっていますが、何とかクリスマス礼拝に連れて行きたいのですが」と、お話しをしましたら、 「本当は何があってもおかしくないぐらい厳しいのですよ、でもお母さんにとっては最期の願いでしょうから」 と、寝たままストレッチャーで運ぶ準備を整えて下さって、礼拝に会堂まで運ぶ事ができて、そして共にイエス様の御降誕を御祝いしたのです。 それまで本当にお水も難しいぐらいの状況だったのですが、病院に夕方戻りましたら、急にご飯を食べだしたのです。 その状況を見ておられた看護師さん、介護士さんが、本当に何も受け付けない状況の母が、教会から帰って来た途端に、 「ご飯食べる!」と、言い出して食べ始めたという事で、非常にびっくりされて、「井出さんが教会に行ったから、 神様から力をいただかれたのだねえ!」と、病院中の噂になったのです。12月から、もう年内持たないと言われていたのに、 3月までもって、点滴とか何も無しで、食べるだけで、神様は命を延ばして下さったのです。言葉すら発する事ができない、 もちろん起き上がる事もできないその様な100歳の母が、イエス様の御証をする機会を与えられているのです。だから皆さん方、 特に若い方、「いや、僕、なかなか恥ずかしいからできない」ではない。100歳の、それもお話しすらできないお婆ちゃんにさえ、 イエス様の御証しをする事ができるのです。その機会を備えて下さる、そして伝えられた人が信じる事ができるように神様が働いて下さるのです。 本当に話し出したら切りがないのですけれども、沢山の神様の御愛、神様の恵みを、本当に数え切れないほど、私の内に、又、 私の家族の中に神様は注いで下さっている。そして同じ様に、皆様方、御一人御一人の内にも神様は注がれているのです。 今回この倉敷に来る為に、木村先生が時間を書いたメモを下さっていたのですが、そのメモの下に、コロサイ人への手紙2章7節 「いつも感謝にあふれているように」という御言葉が書いてあったのです。感謝するだけでないのです。 感謝に溢れるように神様は私たち一人一人を守って下さる、私たち一人一人を助けて下さる。本当に私は成り行きまかせ、 自分で道を開いて来た訳ではありません。けれども神様が導いて下さる。神様は助けて下さる。神様は守って下さる。 ですから私の今までも、感謝に溢れています。そしてこれからも感謝に溢れる毎日を神様は送らせて下さいます。 そしてそれは皆様方御一人御一人も同じです。感謝に溢れる毎日を与えて下さる、本当に私たちの救い主なるイエス様を、 心から賛美したいと思います。本当に感謝いたします。