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今月の礼拝メッセージ

「創造主との出会い」

2017年08月 奈良ベタニア教会 ●山田 静雄牧師●




   初めに皆様に感謝をいたします。それは私が救急センターに入院する事となって、 生と死をさまよう状況にあった事を皆さんご存知だと思います。そして私の為に久松先生、又、 皆さんが毎日祈りの中で覚えて、祈って下さった事を本当にありがとうございます。感謝します。 私の妻は救急センターで、私が本当に生と死をさまよう、非常に重い大変な状況にある事をドクターから、 「死の覚悟をしといて下さい。」と、言われたそうです。本人の私は麻酔をかけられて意識がほとんどありませんでしたので、 家に帰ったら涙を流して、これからどうして行ったらいいのかと、心配をしていたそうなのですけど、 私はそういう事が分かりませんでした。講壇に立つ事もできないで、集中治療室で過ごす事になりましたけど、 その様な時に、この教会のBTGのコアチームの久松政一先生に来ていただいて、本当に何度も来ていただいて、 私たちの教会の御用をしていただきました。本当に感謝しています。もし私たちの教会が単立であったなら、 誰も助けてはくれなかったと思います。だからそれこそもう大変な状況に置かれていたと思いますが、 幸いにBTGのネットワークに私も入れてもらっていましたので、九州からも、四国からも、又、 岡山からも、色んな所から祈りの声を上げていただきました。そして天の神様からの素晴らしい助けが、 私の上に天から下って来た事を私は体験しました。だから本当に背後の祈りというのは、 非常に力強いものですね。本当に、当の本人は祈る事さえできない苦しい環境の中にありましたので、 その様な時に、このキリストの身体が一つであるという事と、又、その身体の一人一人がお祈りして下さったということは、 もうこの上ない、感謝以外の何ものでもありません。ですからここでこうして、講壇で立つ事ができた訳です。 本当にあの時、一歩間違ったら、もう墓の中に入っていたのですね。墓から何もしゃべれません。 安息の中にありましたけども、でもその安息はあまり喜ばしいものではありません。 今年私の知っている方が二人亡くなられたのですね。一人は女性の方、 そしてもう一人は男性の方で、私の親戚なのですけども、私と同じ66才でした。 だから先週私は前夜式に出席させてもらいましたけども、本当に健康であったその親戚が癌にかかったのです。 発見された時にはもう手の施しようが無かったということで、もうびっくりしました。 だから私たちの命はいつ無くなるかも分からないですね。そういう環境の中で生かされているのだなあと。 だから主が共におられるという、インマニュエルの神と共に生きるという事の大切さを教えられました。 初めに御言葉をお読みしたいと思います。



 エレミヤ書29章11節~14節「わたしがあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。」 主の御告げ。「それは災ではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もしあなたがたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら、 わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。」主の御告げ。非常に心強いお言葉を主は語って下さっています。 「わたしがあなたがた一人一人に立てている計画」創造主なる神様は、私たち一人一人に素晴らしい計画を立てていると語っていらっしゃるのですね。 じゃあその計画がどういうものなのか?それは災ではなくて、本当に励ましを受けます。兄弟姉妹も励ましを受けませんか? 私は受けます。「わたしはあなたに計画を持っている、その計画は決して災ではない。」悪いものではないと、 創造主は宣言していらっしゃるのですね。この意味がどんなに深いものか。それは災とか、問題とか、病とか、 通った人が理解できるものです。私たちの目では、災に見える出来事が沢山ありますね。地震もあれば、 洪水もあれば、病気もあれば、トラブルもある。色んな事がありますけれども、創造主なる神様とすれば、 災ではない。よいものだと語っていらっしゃるのですね。ですから本当に御言葉を読む時に、 このへゲモンが砕かれるのです。この世の中では悪く見えるものでも、神様にとっては、 それは災ではない。良いものだ。皆さんは毎日の生活の中で、色んな問題等があると思います。 私の様に、生きるか死ぬかという所を通られる方は少ないと思いますけども。 大きくても小さくても色んな問題とか、又、病とかあると思います。けれどもどんなものが来ても、 それは災ではないと、この朝イエス様は、あなたに語っておられるのです。


この教会はBTGの事務局ですね。中心的な働きをしていらっしゃる先生方の下で歩んでいらっしゃいますから、 KC教会ですね。ですから全日本の教会のモデルチャーチとして、イエス様が選ばれていらっしゃるのですね。 素晴らしいと思います。ですからこれから本当に、日本中の教会が皆さんを見つめて、 イエスキリストの教会とはどの様なものなのかということを見て、教会が流れて来るという、 素晴らしいモデルチャーチですね。ですから毎週色んな教えを受けていらっしゃることと思います。  私は聖霊様に祈りながら、「どういう事を語ればいいのでしょうか?」そうしたら、 「証をしなさい」と言われました。小さな証ですけれども、その証を通して、 私の背後にいらっしゃる創造主の御手を掴んでいただいて、又、同じような苦しみ、 悩みを持っている方々がいらしゃるかと思いますけど、その人の証に用いていただければと願っております。  私はイエスキリストとの出会いを経験する前に、色んな所を通らせられましたけれど、 一つは小学校4年生の時に、視力が落ちたのですね。だから私の母は心配して、 眼科の方に連れて行ったのですね。それで眼科で治療しながら、本当はメガネをかけさせたかったのですが、 そこのドクターは、かけさせてくれなかったのですね。「治療しましょう」と。1年間やりましたけれど、 全然効果がなかったのですね。だからメガネをお願いしますと言っても、 やっぱり治療がいいからもうちょっと頑張ってみようと。そうしたら九州大学の病院はいいと聞いているから、春休みに九州大学に行って、そこで調べてもらったのです。でも、そこでも視力はのびなかったのですね。レントゲンを撮ったり、いろいろされたのですけれども、先生がレントゲンを見ながら、「うーん、これはちょっと問題がありますねえ。これは手術が必要です。手術をしなかったら、後半年ぐらいしたら失明します。」と、言われたのです。私は小学校5年生でした。本当に落ち込んでしまいました。だから子供に語る言葉というのは、本当に大切ですよ。なにげなく、「このままだと半年経ったら見えなくなる。」と、言われた時の言葉が、ぐっと心の中に入りました。だからその時私の母は、弘法大師のお寺に、毎週私を連れて行ってくれていたのですね。その時は、私は仏教信者だったので、「母ちゃん、お大師さんに行って拝んでもらおう!」って言ったのです。やっぱり信仰に満ちていたのですね。そうしたら母が、「バカたれ!拝んで治るんだったら、医者はいらん!」と、言われたのです。ええ!私は熱心にお寺に行って拝んで、あれは何だったのか?何しに行っていたのかと、信じられませんでした。その日の食事はもう何にも味がしなかった。のどを通らなかった。顔も青くなってね。そしたら私の母の兄が、「もう一回眼科へ行ったらどうだ?それでも駄目だったら手術を受けたらいい。」って、言ったのです。そこで又、テストをしてもらったら、見えたのです!1.0まできれいに字が。 「何でだろう?九州大学では、なかなか見えなかったのに。」そうしたら私の眼球が、近眼だけでなくて、乱視だったのです。ですから乱視のレンズを入れたら、パッと焦点が合って、きれいに見えるようになったのです。「どうする?これで先生はいけるって言ってらっしゃるけど。」「うん、これでいく。もうこれでいい!」その眼科で初めてメガネを作ってもらいました。皆さん、言葉の力はすごいです。太陽が沈んで暗くなったら、大丈夫かな?視力が落ちたんじゃないかなあ?と、そういう不安がありました。ですから御家庭でもね、決してマイナスの言葉を語らないようになさった方がよろしいかと思います。分からない時は、御言葉を言われましたら間違いありません。


それが私の小学時代でしたけれども、6年生の時、生物のクラブに入ったのですが、その担当の先生が、 にこにこして百科事典を持って来て、「すごい事を発見したよ!君たちが見ている太陽は、 後50億年したら消滅するそうだよ!」そしたら皆が、ちょっと暗くなりましてね。 「でも心配しなくてもいい、君たちの方が先に亡くなるから。」と言われ、「ああ、よかったー!」 でも、その後です。「死んだらどうなるの?」考え始めたのです。小学校6年生の時に考えなくてもいいのにねえ、 もう70才か80才になった時に考える事を。その時ちょうど人間の人体を学んでいたのですね。 「この頭の働きで自分が分かるのだから、この頭が無くなったら自分は無くなってしまう。」 そう考えたら、「今こう考えている自分は、いったい何者なのか?」と、自分で自分に問いかけても、 答えが出なかった。そしてもうしばらくしたら、この世から自分が去って行くという、 今までの人生も全部無くなってしまう。その時の恐怖感というものは、もう底なし沼に落ちて行く様な、 ものすごい恐れですよ。小学校6年生の時。「あーしまったー!知ったらいけない事を知ってしまった! 何でこんな事を知ったのだろう!?」それから人生は真っ暗になったのですね。死んだら終わり。 にこにこ笑っていても、いつか死ぬ。おいしいものを食べていても、いつか死ぬ。私はたえられなかったですね。  それから私は奈良のシャープの会社に就職したのです。その時、同僚のお母さんが、癌にかかって危篤状態になったから、 長崎に帰ったのです。そして帰って来て、「どうだった?」って聞いたら、「もう亡くなった」と。 だからいつ亡くなるか分からないですね。その友達のお母さんの死を通して私は、 「このままじゃいけない。死の問題を解決しないといけない。今までふたをして考えなかったけど、 この死を考えなくてはいけない。何とか解決しなければ結婚もできないし、 人生も本当に幸せに生きる事はできない。だから死の問題を解決しなければいけない。」 ということで、19歳ぐらいになった時に、1つの決心をしたのです。死の答えのある学問はないかということで、 大阪に行って、数万かかって、全部その本を買って来たのです。 天文学、真理学、数学、哲学、文学、あらゆる学問を持って来て、バーッと並べて、 そして研究し始めたのです。会社から帰ったら、もう3時間、4時間。1時限目と、 自分で時間を決めて。1時間目、天文学、2時間目、精神分析学、3時間目、文学というふうに。 1週間ちゃんとプログラムを組んだのです。そして土曜日、日曜日もどこにも遊びに行かないで、 とにかく研究するというね。調べるというね。それだけに本当に必至だったのです。 いつ死ぬか分からない。死んでからはもう手遅れだ。それで1週間ずっと。 皆はボーリングへ行ったり、映画へ行ったり、誘われても、「ちょっと用事しているから」 と。皆は笑っているのに、とにかく勉強でね。良く頑張ったなあと思います、自分でも。 それで1年間一生懸命調べた結果、無かったのです答えが。もう、空気を掴む様な形でね。 益々心が空虚になってね。その様な時に、文学の中に、トルストイというクリスチャンに出会ったのですね。 それとか、物理学者のパスカルとか、彼らの書いている本の中に、御言葉が出てきたのですね。 もう一人、アインシュタインという理論物理学者ですね。私が高校時代尊敬していたのですけども、 彼がユダヤ人で、神を信じているという事を書いていたので、「あの相対性理論を発見した人が神様を信じている、 へー!」だから私も刺激を受けたのですね。他の学問は死後の世界を説明していないけれど、 クリスチャンだけには死後の世界に希望があるという事が分かったのです。でも私はクリスチャンになろうとは思わなかったのですね。 何かこう、修道院に入って、世を捨てて生活するなんて、とてもじゃない、私にはついて行けない。 でも彼らの考え方は学ばないといけない。それで、聖書を買いに行ったのですね。 で、聖書を読み始めました。頭では理解できない。でも、創造主なる神様は、 そういう方法で私に聖書との出会いを与えて下さったのです。私のこの部屋の中の書物の中で、 死を解決する問題の第一人者は聖書であった訳ですね。でもその時は分からなかったです。


私がある日、JR奈良駅の所をずっと行っていたら、二人の方が、ドシャ降りの雨の中で、 ビラを配っていたのです。「どうぞお読み下さい。」そうしたら貰った人が、ポッと捨てるのです。 それを見た時に私は思ったのです。「あかん、捨てたらあかん!」と。ドシャ降りの雨の中、 傘もささないで熱心に配っている、この人の誠意を軽んじたらいけない。私が貰おう! と、ポケットの中に入れて。よかったのですねえ、それが。後でお昼にたこ焼きを食べながら、 「何だったのかなあ?」って開いたら、聖書映画の案内でした。私の目が留まりました。 「聖書、聖書の映画会か!じゃあ、見るだけで何か分かるに違いない。」その下に、 入場無料と書いてあったので、「無料だったらいいなあ!」って、行った所に、 ビラを配っていた人が、「いらっしゃいませー!」って、ここは間違いないと思って入って行って、 そこで見たのが、イエス様の映画だったのですね。奇跡的な癒しがなされた物語でした。 そこで勧められましたけれど、その時は決心しないで帰りました。でも、その会館にいた人たちは、 生き生きしていたのです。私に語りかけてくれた女性の人の目は、輝いていたのです。ですから今、 神を信じている人がいたのだなと。その頃は、私は無神論でしたから、何でも科学で解決できると、 傲慢でした。でも、本当に今、神を信じている人がいる。その人を見た時に、目が輝いていたのです。 皆さんはKC教会、モデルチャーチです。皆、皆さんを見ていますよ。輝いていますか? その皆様の輝きを心に受けるのです。私も最初にクリスチャンを見た時に、感動しました。 「輝いている!この人の輝きは何なのかなあ?」素晴らしいですね、教会は。 それから帰って私は、いただいた聖書を2~3回ずっと見ました。その時聖霊様が働かれたのですね。 「あっ、このイエス様は間違いない!」と。誰も説明してくれなかったのですけども、 ただ聖書を読んだのに。「あっ、このイエス様は間違いない。正しい方だ!」と。 ずっと福音書を読んでいたら、どこも間違いないのに十字架に架かられた。 「この方は正しい方だ。もうこの方を信じて、この方に生涯ついて行こう!」と、 私は決心しました。伝道集会ではなかったけど、聖書を読んで決心して、そして行ったのです。 そうしたらそこで、皆様が聞かれたように、十字架の福音を知る事ができました。 このイエスキリストが来られた目的を聞きました。そしてこの聖書に何が書いてあるのか、 調べていたのですけども、「この聖書は、私について書いてある。」と、 「イエスキリストについて書いてある。このイエスキリストを信じる事によって、 永遠の地獄から救われて、永遠の天国に入れますよ。どうですか?」ということで、 私は決心をしたのですね。


 エレミヤ書29章12節「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。 もしあなたがたが心をつくしてわたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう。わたしはあなたがたに見つけられる。」 私は自分で気が付かずに、一生懸命求めていたのはイエスキリスト御自身であるということが後で分かったのですね。 素晴らしいです。聖書との出会いも素晴らしかったし、その聖書を通して、イエスキリストとの出会いはもっと素晴らしかったです。 その講壇に掲げてあったのは、ヨハネの福音書14章6節の所に、「わたしが道であり、真理であり、命である。 誰でもわたしを通してでなければ、父のみもとに来ることはありません。」その御言葉が、 私に語りかけて下さっているように見えたのです。「わたしが道である。」それはイエスキリストの言葉と聞きましたけれど、 「わたしが道である。わたしが真理であり、わたしが命である。」答は全部、イエスキリストの中にあるということを、 御言葉に触れて、それが私の心を捉えたのでしょうね。この教会の前に書いてありますね。「わたしは道であり、 真理であり、命である。」と、あの御言葉で捉えられました。だからあの看板は生きていますよ。あの看板を見て、 沢山の人が救われて来ると信じますよ。聖書を通して、聖書の中に書いてあるイエスキリストを見出す事ができた。 更に、イエスキリストを通して、至聖所に入る事ができるのです。私は外庭から聖所に入り、今度は至聖所に今入っています。 皆さんは至聖所に入っている訳ですね。命の領域の中に。「ここでは不可能でも、あちらでは可能である。」 ですから可能の世界。それは至聖所の世界であると私は捉えています。私を捉えたのは死です。 でも今度は私が死を捉えたいです。死は命に移されました。そういうことで、私は今年、1月に、 死の危険の中に置かれました。ドバイには行かれませんでしたけれど、その前に私はドバイに行きました。 私の娘の結婚式が、アフリカのタンザニアでありましたので、ドバイを中継して行ったのですね。 ですからドバイがどんな所かは知っています。でもドバイのセミナーには行けませんでした。 ですからその入院を通して、私はキリストの身体の一致した力を本当に経験しました。だからカップ先生を通して、 BTGの兄弟姉妹の背後の祈りをひしひしと感じました。又、ウッドロフ先生と、世界のコングレスの方々の祈りも、 ひしひしと感じました。又、私が入院した事によって、私の娘がタンザニアから戻って来てくれたのですね。 結婚式に行って会いましたけども、ちょっとしか会えませんでしたからね。帰って来て数か月滞在する事ができました。 ですから私とすれば、死か命の領域の中で非常に苦しかったけれども、それで娘との交わりが持てたのです。 不思議な方法で、私は皆様の祈りの力を経験する事ができました。本当に私は小さな牧師です。BTGの中でもね、 もう本当に小さな牧師です。でも創造主なる神様は、その様に小さくても、兄弟姉妹の祈りを通して、 命を支えて下さったと、深く感謝しております。これからきっと素晴らしい働きが日本で起こると思いますよ。 本当にそう思います。イエスキリストとの出会いは、最高の出会いでありました。今は命の時代に入っていると私は確信しています。 私たちの目に見える状況では、本当に大変な事が起こっておりますけれども、神様の国では、 素晴らしい計画が着々と進められている事を、ウッドロフ先生を通して私は知っています。 皆様こそ、もっと知っていらっしゃると思いますね。


 エレミヤ書29章11節「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。」主の御告げ。 「それは災ではなくて、平安を与える計画で、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」 私はこの御言葉を確信しています。どんな問題が来ても、どんな災が来ても、どんな病が来たとしても、 創造主なる神様の御心は、悪いものは一切無い。良い事しか考えておられない御方であるということですね。 ですから将来と希望は私たちの所にあります。