礼拝メッセージのページ

今月の礼拝メッセージ

「クライスト・チャーチの立ち位置と信仰姿勢」

2018年01月         ●木村 由智主任牧師●




私たちは、私たちの中心的な価値観というものをいつも確認しなければなりません。 なぜなら私たちは肉体を持っていますから、すぐにその肉が感じる所、感覚的なものによって影響を受けやすいからです。 けれども私たちはいつも霊的な存在であるということを、毎瞬間のように認識するという事は、本当に大切だと思います。 この世に押し流されたり、この世の出来事にいつも心が押し潰されそうになる。でも私たちはどの様な状態であっても、 どの様な事が起こっても、私たちの立っているポジション、そして神様に対する姿勢は絶対に変わらないという、 それは本当に大切だと思います。その事をもう一度、皆さんと今朝確認したいと思います。



 
マルコによる福音書11章13節~14節「そして、葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、 その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉のほかは何も見当らなかった。いちじくの季節でなかったからである。 そこで、イエスはその木にむかって、『今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように』と言われた。 弟子たちはこれを聞いていた。」

他の聖書の箇所では、
「枯れるように」と言われた。
というふうに言われるのですね。 当然これは、この文脈を見て分かるように、実が成る季節ではないという訳ですね。ですから当然成ってない。 でも遠くから見たら葉が茂っていて、外側から見た時に、何かあるんじゃないかなと思った。私たちの人生も外側だけを飾るという事は止めましょう。 私たちはいつも、本質で生きて行かなければなりません。あなたがどれだけ仕事ができて能力があっても、それを外に現していても、 中は本当に空っぽであるならば、それは本当に空しいです。世はいつも外側を飾って良く見せて、でも内側は全く何も無い。 そういうのは話をすればすぐに分かりますね。外側は本当に立派に見えて、でも話してみたら何もない。 自慢話、自分がどれだけ稼いだか。自分がどれだけしているかということ。神様が本当に探しておられたものは、 葉の他のものです。すなわちそこに成っている実を見たかったのですね。でもそこには、実があるように見せて、 実が無いという事は、本当に残念で仕方がなかったのです。私たちの所へ神様が来られて、私たちを見て、 外側は何も秀でたものが無く、外的なものに於いては何の魅力も無い様に見えても、私たちの内側を見られた時に、 神様は本当にそれを喜ばれる者に私たちは成りたいですね。ですから兄弟姉妹、私たちは外側を良く飾るという事を止めましょう。 あなたに何も無いという考え方を持たないで下さい。神様があなたに与えたものは、必ず何かあるのです。 それをあなたはしっかりとにぎり続けていただきたい。そしてそれを必ず実を結ばせていく者にあなたは変わっていかなければなりません。 神様はいつも私たちの本質や、心や、中心的な価値観を探られます。皆さんの中心的な価値観、本質というものはどういうものでしょうか。 このいちぢくの木の様に、外側は茂っている様に見えるけれども、本当に内側には何も無いというような人生は、本当に最悪です。 神様はそれを願っておられません。


 私たちは今、コングレスという神様の資源に繋がっていますね。そしてそのコングレスに於ける物事の見方ということを私たちは皆さんに今日お伝えしたい。 それは、「目で見るのではなく、思考で見なさい」というふうに言うのですね。それは私たちの変えられた思考で、 その全ての事を見て行かなければならない。もうニュースを見ても、あまりにもひどいニュースが多すぎて、 本当に目で見るものには、傷付いたり、痛みを覚えたり、何一つ私たちの目で見る時に、私たちを本当に満足させるものはありません。 でも私たちが変えられた思考でその物事を見る時に、私たちはどんな事があっても動かないというポジションを確立する事ができるのです。 それを得る事ができるのです。私たちはそれを持たなければなりません。なぜなら目で見て、まだこの地上で右往左往している人たちが、 その私たちの考え方の中に入って、変えられて、どんな事があってもしっかりと立つように、私たちはその恵みを流して行かなければなりません。 それが私たちの務めです。その務めをする我々が、まだ目で見て、「うーっ!」となっていたらだめでしょう。私たちの本質は、 「目に見える物によって影響を受ける者ではない」ということが我々であるということの確信を持たなければ、 我々はこの地上で立って行く事はできません。この地上は私たちをいつも倒そうとし、私たちを駄目だという定義の中に放り込んで、 私たちを一切、自信と価値の無い者に、私たちを閉じ込めようとします。でも私たちはそんな者ではありません。私たちは本当に、 神様にあって価値のある者です。それが我々です。ですから我々は神様が持っておられる思考を回復して行かなければなりません。


次に霊の目が開かれ回復することについて、地上に造られた最初の人間は、罪を犯していませんでした。彼らの目は、 霊の目しか開かれていませんでした。だから裸でいても恥ずかしくなかった。でも罪を犯した時に、肉の目が開かれた事によって、 恥というものが来ました。そして自分は足りない。自分は駄目だ。そういう価値観が我々の中に入って来ました。又、逆に、 俺はできるという自惚れと、どうしようもないプライドも、私たちの中に入って来ました。 でも私たちはイエスキリストという方を通して、その罪が完全に取り除かれて、私たちはその思考が正しく回復した訳ですね。 私たちが働く動機は何ですか?この様な見方で私たちは働くという事です。それは比較が無い。おとしめる事もない。 必要以上に高める事もない。本当に大切な大切な価値観です。それがキリストの方法だと言うのです。 私たちの動機はどんな動機ですか?いちぢくの葉の様に、イエス様が見られた時に葉が茂っていた。何かありそうだ。 「私はできている。やっている。私は立派だ。」そう見せる必要はないということです。そんなものには何の価値もないというふうに聖書は言っているのです。 なのにそんなものに目を止めて、あこがれて、「ああ、こうなりたい。ああなりたい。」いいえ、そんなものは捨てなければなりません。 それはあなたに何の価値ももたらすことはありません。 
私たちの教会でイベントをする度に、多くの人が来て下さいますね。でも私たちはそれで、「ああ良い働きをした。」 というふうに皆さんが留まっているなら、それは大きな誤りだと思います。来られた人たちが、 私たちと同じ思考と価値観で物事を見て行くように、私たちはその人たちをこの世から、本当に引っ張らなければなりません。 この世は本当に力強く、そういう人たちを捕らえて、「ああ、神様なんて信じても何も無い。見てみろ、災害が起こるじゃないか。 不幸があるじゃないか。痛みがあるじゃないか。色んな事があるじゃないか。何も変わらない。」 いいえ、私たちが神様を信じるなら、どんなに厳しい状況と、痛い思いをしたとしても、私たちの内側は、 いつも喜びで満たされています。それは神を礼拝しているからです。そこに私たちは、しっかりとした立ち位置を確立しなければなりません。 これがキリストの方法です。だから私たちは神様の事を伝えるのです。あなたはその立ち位置で本当に大丈夫ですか? 誰一人大丈夫な人はいない。それを認めると、自分が弱い、価値の無い者になってしまうから、「いや、大丈夫です!」 それをずっと言い続けなければならない。自分が生きている間、それをすればいいというふうに考えているかも知れない。 でも私たちは、今生きているこの時間だけではなく、私たちには永遠という時間があるのです。火と硫黄とうじがつきない中に、 あなは生きたいですか?これを聞いても、今が良ければ、そんな話はもうおとぎ話だ。でもそれは、リアルな話なのです。 現実な話なのです。


  エレミヤ1章11節~12節
「主の言葉がまたわたしに臨んで言う、『エレミヤよ、あなたは何を見るか。』わたしは答えた、 『あめんどうの枝を見ます。』主はわたしに言われた、あなたの見たとおりだ。 わたしは自分の言葉を行おうとして見張っているのだ。」

ここで神様が私たちに言っておられるのは、神様が見て欲しい通りにエレミヤは見たということです。 神様が望んでおられるのは、 神様が見る様に私たちも見て欲しいという事を言っておられるのです。 そして私たちがしてはいけない事は、人の賞賛を求めないという事です。 神様がさせて下さったという感謝がなければ、私たちは本当に心を低くする事はできません。 私たちが神様の思いで見るということは、 外的な評価を一切気にしないということです。なぜならそれによって人々は定義づけ、この世が定義づけて来たとしても、 私は神様の前に、自分が正しいと思う事をやりました。それで充分なのです。それがないから、もう何かしないといけない。 こうした方がいい。ああした方がいいと言って、もう色んな枝や、葉を付ける。 それで、豊かに見せようとする。あなたの人生は、 もう豊かなのですよ。神様を信じていたら、豊かなのです。なのに何か不足しているかのような生き方はしてはいけないです。 あなたは充分です。満たされています。
 霊の目が開かれた人の姿勢は
ルカによる福音書17章9節~10節「僕が命じられたことをしたからといって、 主人は彼に感謝するだろうか。同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、 『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい。」
この通りなのです。私たちはすべき事をしたにすぎないのですね。 誇る必要というのは何にもないのです。「私は自分がやるべき事をやった。」それだけでいいのですよ。 「でも」が出て来た時に、あなたの人間的な感覚や、感じが、外側から良く見られたいというものが出て来るのです。 だから良く言わなくていいのです。そのまま普通に言ったらいいのです。「誘ったけど、来ませんでした。感謝します。」 「ええー!」って言われても、それで充分なのです。ですから私たちは、神様の為に働く、 その時に絶対に人からの賞賛は求めないという姿勢を、いつも持たなければなりません。これは仕事をしていても同じです。 あなたが仕事をして、成果を上げたとして、あなたの中に誇りたいという気持ちが出て来ても、それをあなたが感じたら、 「私はそれを捨てます。私はそれを憎みます」。ウッドロフ先生はそれを、「呪いなさい」と言われました。 それぐらい否定しなければ、それを私たちの心の中で生かすならば、それは私たちの中で罪になって、 実際的な行動にまで私たちを至らしてしまうからです。そして私たちはバランスを保たなければならないのです。 上がったり下がったりする事のないように。それは私たちが今、グローバルという言葉をコングレスの中でよく使います。 グローバルで機能していても、個人の立ち位置では絶対に機能しないというふうに言うのですね。そのグローバルというのは、 一つの神を信じる一つの民、それは何を象徴しているか?それはいつも神様と心が一つであるという事を象徴しているのです。 私たちが神様と心を合わしていなければ、あなたは自分の思いで、どんどんどんどん進んで行くのです。 そして自分がそう進んでいるという事にも気付かないのです。外側だけの働きを求める人の性質は、 自分が納得しないと働かないのです。でも神様はあなたに変わって欲しいから、「これして下さい」。 したくないような事を「して下さい」と言う。「はい」と言いたくないような事を言って来られるのです。 その時に私たちは、「はい」。その時に私たちは神様の思考によって、物事を見る事ができるのです。 私たちの変えられた内側からの行動が、大切だということを教えておられるのです。ですから私たちはそういう考え方、 そのような見方をしていきましょう。あなたの肉の目で見て、右往左往したり、悲しんだり、上がったり、もう本当に失望したり、 又、希望を持ったり。そんな事をしないで下さい。どんな事が起こっても、私たちの思考で物事を見た時に、 私たちは常に安定しているということを、あなた自身が宣言しなければなりません。私が横に行って、「大丈夫よ!」って、 言う訳にはいかないのです。あなた自身がいつも、「私は大丈夫、神様を信じて大丈夫なんだ!」 という事を言わなければなりません。


 霊の目が開かれた人が誇るものは
ガラテヤ人への手紙6章4節~10節「ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい。 そうすれば、自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるであろう。人はそれぞれ、 自分自身の重荷を負うべきである。御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。 まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。 すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。 わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。 だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。」
あなたが誇るのは、 神様だけです。それ以外誇るものはありません。あなたが自分がやっている事を、自分自身に誇れたとしても、 他の人には誇れないと、はっきりと神様はそう言っています。それを誇るのは、本当に愚かな事なのです。 「私たちの誇るべき御方は、神様あなただけです」と言いましょう。
そして10節に、「とくに信仰の仲間に対して」
この私たちの、霊的な繋がりですね。これは本当に大切だと思います。この共同体を人々が見て、 「なんだ、あのギスギスした関係は!」と言われたら、神様の魅力はそこに何も感じない。でも私たちが本当に、 互いが低くなって、心を砕いて、互いの事を気にかけて、祈って、励まして、助けて、強めている所に必ず人は来ると信じます。 私たちの関係は本当に大切です。皆さん、私たちは互いに愛し合いましょう。本当にいつも、犠牲をするという心を忘れないで下さい。 誰かの為に、「神様、私は何をしたらいいですか?」と、聞いて下さい。神様が、こうして下さいと言ったら、喜んでして下さい。 感じても、動かなければいけません。それは人にしたのではなく、神様にしたのです。 皆さんは自分が賞賛を受けたいという思いに死に切って下さい。その考えを捨てて下さい。それが出て来た時に、 その考えを憎んで下さい。それを否定して下さい。それを呪って下さい。それぐらいしなければ、私たちの肉はいつも私たちに戦いをします。 そして何とか自分が良く見られたい。いいえ、神様は私たちに言われます。
「あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」
あなたの為にイエスキリストを遣わされたのです。それ程までに私たちは価値ありだと言われているのです。その思考が皆さん、 あなたの中にありますか?その思考であなたは仕事に行き、家庭に行き、そして地域に行き、教会に来ていますか? その思考が私たちの中心的価値観でなければなりません。まだ世の物を追い求めているなら、捨てて下さい。 神様のその考えを追跡して下さい。それを何とかして得たいという、その飢え渇きを持って下さい。


  Ⅰコリント人への手紙9章16節~18節
「わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇りにはならない。なぜなら、わたしは、 そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。進んでそれをすれば、 報酬を受けるであろう。しかし、進んでしないとしても、それは、わたしにゆだねられた務なのである。それでは、 その報酬はなんであるか。福音を宣べ伝えるのにそれを無代価で提供し、わたしが宣教者として持つ権利を利用しないことである。」

皆さん、福音は宣べ伝えて当然、誇りにならない。パウロははっきりと、それをしなかったら災いだと言うのです。 進んですれば報酬を受ける。でも彼はその報酬を、その権利を利用しない。主張しない。そして、 「良い知らせを宣べ伝える事から来る特別の喜び」というふうに、パウロはこの報酬の事について言うのです。 本当に神様の事を伝える事ができた。神の国の素晴らしさを言う事ができたという喜びが、彼の中にはあったということなのです。 私たちの中の喜びは、それでなければなりません。皆さんは本当に神様を求めていますか?飢え乾いていますか? 私たちは本当に思います。この教えの中に入る事ができたのは、どれだけ幸いな事か。  霊の目が開かれた人は正しく立ち続けます、
Ⅱコリント人への手紙6章1~2節、11~13節
「わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。神はこう言われる、 『わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救いの日にあなたを助けた。』見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。 コリントの人々よ。あなたがたに向かってわたしたちの口は開かれており、わたしたちの心は広くなっている。あなたがたは、 わたしたちに心をせばめられていたのではなく、自分で心をせばめていたのだ。わたしは 子供たちに対するように言うが、 どうかあなたがたの方でも心を広くして、わたしに応じてほしい。」

兄弟姉妹、私たちの立ち位置が正しければ問題や出来事があなたを変えるのではなくて、 あなた自身があなたを変えてしまうということです。パウロは、「自分で自分の心を狭めるな」と言ったのです。 そのようにしましょう皆さん。あなたの身に起こる事があなたの心を狭めているのではなくて、それを見て、 聞いて、あなたが駄目だと思ったら、その様になってしまうということです。これを皆さんしないようにしましょう。 だから私たちはいつも思考で正しく見る為に、損を算出しなければならない。そして今日礼拝で言われた言葉は、 神がその言葉を見なさいと言われているのです。あなたはそうだと言われているものを、あなたは取らなければならないのです。 「はい、神様あなたの今言われた言葉を私は取ります。それを見ます」とあなたが言ったら、あなたはそうなれるのです。 そこであなたが「ああ、私は無理だ。まだ弱い。だめだ。」それはあなた自身です。 兄弟姉妹、自分で自分の心を狭めるのを止めましょう。人があなたに不快感をもたらしたのではなくて、 あなたが自分で不快感だと定義し、それを抱え込んでしまったのです。それを開放して下さい。それを自分の中から完全に取り除いて下さい。 だから考えて下さい。私はまだ何か損を算出しなければならないものがあるのか?「あの人がこう言った言葉に自分を定義してしまった。 これを取ります。それを捨てます。私は自由です。私は解放されています。私は癒されています。私は許されています。」 と、あなたが言わない限り、神の力はあなたに働きません。あなたが言うなら、神の力はあなたの中に働きます。 それが私たちの立ち位置です。それがこの教会の考え方、立ち位置、ポジションです。皆さんそこに私たちは立ちましょう。 それが私たちを正しく導いて行くのです。それを皆さんこの時期、特に私たちはクリスマス、 神様の御降誕を御祝いするという事を、皆さん伝えて行って下さい。「あなたに解決できない事を、 神様は解決して下さいます。」これで充分です。「だからあなたはどんな問題が来ても、心を狭めないで下さい。 その時には私に言って下さい。一緒に祈りましょう。一緒に御言葉を読みましょう。そして神様を礼拝しましょう。」 これが私たちの立ち位置です。これが私たちの人生です。そしてそれが私たちこの共同体の本当に大切な価値観です。 これによって私たちはここまで来たのです。これからはもっと神様が勢いを増して私たちを成長させて下さる事を信じます。 皆さんその信仰がありますか?その言葉を受け取って下さい。神が我々の共同体を必ず祝福して下さる。そして人々が、 「ここに神がいる!」という事を現して下さるという信仰に立って下さい。そして働いて下さい。そして動いて下さい。 これが私たちです。